山際の古い一軒家。

築五十年、家賃三万円。
「長続きしない物件です」と不動産屋は言った。

前の住人が遺したノートには、
一行だけ書かれていた。

──「一年で、全てが変わった」

夜の九時を過ぎると、
家の中に、白いワンピースの女が現れる。

「一年だけ、ここにいて。それで終わるから」

これは、
終わるはずだった一年の話。

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第1話

家は、駅から車で三十分の山際にあった。

 

築五十年の二階建て、敷地百坪、家賃三万円。不動産屋は申し訳なさそうに、長続きしない物件です、と言った。住んだ人間が、と続きそうになって、止めた。俺は気にしないと答えた。前職を辞めて、地方で生き直すつもりだった。深く関わる相手がいないことが、むしろ条件に近かった。

 

引き継ぎ書類の束に、ノートが一冊混じっていた。前の住人が遺したものらしい。最初のページに、一行だけ書かれていた。

 

「一年で、全てが変わった」

 

それ以降のページは白紙だった。ノートを書類の山の上に置いて、俺は部屋に荷物を運んだ。

 

夜の九時を過ぎた頃、廊下に人が立っていた。

 

白いワンピース、長い髪、年齢は判別できない。視線がまっすぐこちらを向いていた。声をかけたが、返事はなかった。呼吸の音もしなかった。

 

俺は、その場から動かないことにした。動けなかった、の方が近い。冷蔵庫のモーター音だけが、家全体に響いていた。

 

時計の針が日付を越えた頃、彼女は消えた。気がつくと廊下には誰もいなかった。家の中の温度が、外気よりも低くなっていた。

 

二日目も、三日目も、彼女は同じ時間に現れた。

 

廊下、リビングの隅、寝室の入口。位置は変わったが、二十一時ちょうどに現れて、夜が明ける前に消える。声をかけても応えない。触れようとすると、空気だけが冷たかった。

 

四日目の夜、俺は彼女の前に座った。逃げる気力もなかった。

 

「あんたは、何だ」

 

返事はないと思っていた。

 

「一年だけ、ここにいて」

 

声が、聞こえた。

 

「それで、終わるから」

 

それだけだった。彼女は俺を見ていた。視線の意味は読めなかった。ただ、害意はないように思えた。

 

俺はうなずいた。理由は、自分でもよく分からなかった。

 

ノートの一行が頭に浮かんだ。一年で、全てが変わった。前の住人も、同じ言葉を聞いたのかもしれない。

 

どうせ消える存在なら、と俺は思った。最後まで見送るくらいは、できる。深く関わらないと決めて生きてきた俺が、なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。

 

春になった。

 

彼女は相変わらず夜にしか現れなかった。家から外には出られないらしかった。庭に出ようとすると、玄関の框で止まった。それ以上は進めない。理由は訊かなかった。

 

ある夜、彼女が台所に立っていた。包丁を握る手が、白かった。冷えていた。それでも野菜の切り方は正確だった。出汁の匂いだけが強い、少し薄味の味噌汁が、椀に注がれた。湯気だけが、彼女の輪郭の縁で揺れていた。

 

俺は二人分の食事を、当たり前のように受け取った。

 

夏が来た。

 

エアコンの効いた部屋で、彼女がテレビを見ていた。バラエティ番組を、不思議そうな顔で眺めていた。芸能人が転んだ場面で、彼女が小さく笑った。声は出ていなかった。それでも、笑った。

 

「お前、笑えるんだな」

 

俺が言うと、彼女は少し拗ねた顔をした。

 

秋が来た。

 

夕方、買い物から帰ってくると、家の灯りがついていた。誰もつけていないはずの灯りだった。玄関を開けると、廊下の奥に彼女が立っていた。二十一時にはまだ早かった。

 

「どうした」

 

「早かっただけ」

 

そう言って、彼女は台所に消えた。

 

俺は靴を脱ぎながら、おかしいことに気づいた。早かった、と彼女は言った。それは、約束の時間の前に出てきた、という意味だった。縛りが、緩んでいる。

 

二人分の食事を作るのが、当たり前になっていた。深く関わらないと決めていた俺が、二人分の食材を買い、二人分の皿を並べていた。気づいたときには、もう習慣になっていた。

 

この時間が、終わる。

 

そう思った瞬間、息が詰まった。深く関わらないと決めて生きてきた人生で、初めての感覚だった。

 

冬が来た。

 

雪の降る夜、彼女がストーブの前に座っていた。火が、彼女の頬を照らしていた。気のせいかもしれなかった。彼女の輪郭が、最初に会った頃より、わずかに濃く見えた。

 

「お前、最近」

 

言いかけて、止めた。

 

「なに」

 

「いや、何でもない」

 

彼女は俺の顔を見ていた。何を訊こうとしたか、分かっているような顔だった。

 

十二月の終わり、俺はノートを開いた。前住人の遺したノートだった。最初のページの「一年で、全てが変わった」の下に、何かを書こうとして、止めた。何を書いていいか、分からなかった。

 

大晦日の夜、彼女は早めに眠った。ストーブのそばで、丸くなって、目を閉じた。俺は布団を持ってきて、彼女に掛けた。指先が、彼女の頬に触れた。

 

冷たさが、いつもより薄い気がした。

 

気のせいだ、と俺は思うことにした。明日の朝、彼女はもういない。それが一年の終わりだ。覚悟は、できていた。

 

俺は彼女の隣に布団を敷いて、横になった。眠れないと思っていた。

 

朝、目が覚めた。

 

カーテンの隙間から、光が差し込んでいた。元日の朝の光だった。

 

隣に、彼女がいた。

 

布団の中で、規則正しく呼吸をしていた。胸が、上下していた。

 

しばらく、見ていた。

 

光が、彼女の頬に当たっていた。二十一時の縛りを越えていた。家から出られない縛りを越えて、朝の光の中にいた。

 

俺は、手を伸ばした。

 

彼女の頬に、指先が触れた。

 

触れると、温かい。

 

指は、ちょうどよく収まっていた。

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

最初は「終わる話」として始まり、
最後には「続いていく話」になる構造を意識して書きました。

夜にしか現れない存在と、
生活を共有していく静かな時間を書きたかった作品です。

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