第12話
辞令は、朝の点呼のあとに配られた。
一枚の薄い紙だった。受け取る前から、嫌な紙だという気がしていた。墨の匂いがまだ新しい。
隊の名を見た。
四番隊ではなかった。
五番隊。
(……どうして)
教場のざわめきが、急に遠くなった。
声には出さない。出せるはずがない。周りにはまだ同期が残っている。隣の男は誰かに肩を叩かれて笑っていた。望みどおりの隊だったらしい。その向こうでは、女の子が辞令を胸に抱いて目を潤ませている。誰も僕の手元なんて見ていない。それでも僕は、平凡な新人の手つきで紙を畳んだ。落胆も困惑も、顔に出る手前で押し込めた。
四番隊志望。配属希望の紙にもそう書き続けてきたし、面談でも告げ続けてきた。戦わずに済む隊。斬らずに済む隊。誰の目にも留まらず、静かに傷を治して生きられる場所。回道を磨いたのも、縛道を浅く留めたのも、ぜんぶそのためだ。優秀すぎず、無能すぎず。四番隊が欲しがる新人の輪郭に、六年かけて自分を削って合わせてきた。
それが、覆った。
五番隊。隊長は
二度の生を生きてきた中で、いちばん近づきたくない男の名が、そこにあった。
紙を握る指に力が入りかけて、緩めた。皺をつけてはいけない。動揺の跡を、紙の上にも残してはいけない。何でもない顔で辞令を
「五番隊です」
笑って答えた。
「へえ、いいとこじゃん」
彼はそれだけ言って離れていった。いいところ。たぶん、皆そう思う。穏やかで秀才の多い名門隊。誰も、そこに刃が潜んでいるとは思わない。
僕だけが、知っていた。
寮の部屋に戻って、荷物をまとめた。
六年分といっても、行李ひとつに収まる程度だ。着替え。筆。書き溜めた帳面。畳の上に並べて、風呂敷に包んで——
『主様』
胸の奥で声がした。澄んだ女の声。腰の刀の中から僕にだけ届く、琥珀姫の
『手が止まっておりますわ』
(……うん。わかってる)
彼女にだけは、取り繕わずに話せる。
(四番隊に行けると思ってたんだ。回道も縛道もそっちへ寄せて磨いてきたし、教官の評価だって四番隊向きで固まってたはずなのに)
『ええ』
短い相槌のあとで、琥珀姫は続けた。
『六年かけて固まった評価が、最後の最後で覆る。……妙でございますわ』
たしかに、妙だ。けれどそこから先へ考えを進める糸口が、僕にはない。新人の配属なんて上の判断ひとつで決まるもので、その理由は外からは見えない。
わかっていることは、ひとつだけ。
五番隊には、藍染惣右介がいる。
表向きは温厚で誠実な、誰からも好かれる副隊長。けれどこの男がやがて何をするか、要所だけは骨のように前世の記憶に残っている。
(……その男の隊に、これから僕は入る)
返事は、半拍遅れて届いた。
『わたくしがついております』
いつもの言葉だった。終わりのひと節だけが、硬かった。
気配は静かに引いて、僕は風呂敷の結び目をいつもより固く締めた。
部屋を出て、瀞霊廷の北へ足を向けた。
五番隊舎へ。
五番隊舎は、明るかった。
廊下に陽が差して、磨かれた板張りが光を返している。すれ違う隊士たちに殺気はない。書類を抱えた者。鉢植えに水をやる者。笑い声さえ聞こえる。穏やかな隊だ。表向きは。
僕は息を整えた。六年かけて体に馴染ませた擬装は、もう意識しなくても効いている。薄い琥珀の膜が、漏れる霊圧を「中の下」に絞ってくれる。新人らしい、少しだけ真面目に見える量に。呼吸と同じだ。
それでも今日は念を入れて、中の下のまま、膜の織りをひと目ぶんだけ詰め直した。
この隊には、あの男がいる。
廊下を進むほど鼓動が大きくなった。これから僕は、いちばん恐れている男を直属の上官にして生きていくことになる。四番隊という退路は塞がれた。それも、何日かの辛抱ではない。あの事件まで、あと三年。それまでずっとだ。
隊長室の前で、僕は深く頭を下げた。
「失礼します。本日付で五番隊に配属されました、遺玉院詩織と申します。よろしくお願いいたします」
「おう、入れや。そない肩肘張らんでええで」
拍子抜けするほど軽い声が返ってきた。
平子真子は、机の上にあぐらをかいていた。
(隊長が。机の上に)
書類の山の真ん中で、
「えっと……あの」
「ええて。固まらんと座れや」
長い金髪を揺らして、平子隊長はにっと笑った。
笑っている口元。笑っていない目。
その温度差から目を逸らして、僕は勧められた座布団の端へ浅く腰を下ろした。
「お前、遺玉院言うたな。四番隊志望やったんやろ?」
「は……はい」
「なんでうちに来たんやと思う?」
(来たくて来たわけじゃないです、なんて言えるわけがない)
問いの形はしていた。けれど答えを求める響きではなかった。試されている。平子隊長の中で答えはとうに出ていて、そのうえで僕がどう転ぶかを見ている。僕は喉が鳴らないよう、唾を飲むのさえ後回しにした。
「わ……わかりません。配属は、上の方々がお決めになることですから」
「ふうん」
平子隊長は僕をしばらく見た。値踏みではなく、流れる水を眺めるみたいに。退屈そうでいて、その実、川底まで見透かすような目で。それから煎餅をもう一口かじった。ぱりっ、と乾いた音がいやに大きく響いた。
「ま、ええわ。上司は素直に信じとけ。それが新人の務めや。……俺が言うんもなんやけどな」
そう言って、ふっと笑った。肩の力の抜けた、人懐こい笑みに戻っていた。
「うちの副隊長な。優しそうな男やろ。藍染惣右介。お前もよう知っとる顔やと思うで」
よう知っとる顔。まさか、前世からあの男を知っていることまで——いや、それはない。さすがに見抜けるはずがない。けれどそれなら、いまの含みは何だったのか。
(いまのは……試しか? いや、考えすぎか)
確かめる術はない。下手に探れば、こちらが探られる。
危ない人だ。たぶん、この瀞霊廷でも指折りの観察眼。けれどその鋭さは、僕にではなく藍染に向いている。鎌をかけられてなお、あの目は絞りの内側まで踏み込んでこなかった。
(乗るな。気づかないふりだ。この人が誰を疑っていようと、僕はそこに寄ってはいけない。藍染の敵だと思われたら——終わる。あの男に勝てるかもしれない人なら、何人か思い浮かぶ。でもその誰も、いまはあの男を疑ってすらいないんだから)
僕は静かに目を伏せた。
「……お世話になります」
それだけ言って、頭を下げた。何も知らない新人の顔で。言葉の含みには、最後まで気づかないふりを通した。
平子隊長は何も言わなかった。ただもう一度だけ、ふっと笑う気配がした。残念そうな、それでいて面白がるような。
「ほな行けや。副隊長が外で待っとるはずや」
頭を下げて、隊長室を出た。背中に視線を感じた。あの澄んだ目が、まだこちらを向いている。
廊下は静かだった。
自分の足音だけが大きく聞こえる。帯の上から鞘に触れて、絞りを確かめた。中の下。漏れなし。
(落ち着け。落ち着け、僕)
角を曲がった。
その男は、廊下で待っていた。
「君が、遺玉院詩織くんだね」
やわらかい声だった。
藍染惣右介。眼鏡の奥の目を穏やかに細めている。誠実そうな、誰もが安心してしまう笑み。霊圧は副隊長相応に抑えられていて、刃の気配ひとつ感じさせない。視線は確かにこちらへ向いている。なのに、そこにこもる温度が読めない。笑えば目に温度が宿る。怒れば熱が滲む。普通はそうだ。この男には、それがなかった。
それがいちばん、怖かった。
「は、はい。本日付で配属になりました。ご指導よろしくお願いいたします」
僕は深く頭を下げた。下げているあいだにも手のひらに汗がにじむ。机もない廊下では、拳ひとつ隠す場所がない。だから声を平らに保つことだけに集中した。震えるな。揺れるな。ただの新人でいろ。
「うん。よろしく」
衣擦れの音がして、一歩ぶん、距離が縮んだ。下がるわけにはいかなかった。
「君のことは、ずっと前から、聞いていたよ」
呼吸が止まった。
そろそろと顔を上げる。ずっと前から。聞いていた。何百人もいる新人の、目立たないはずの一人を。
「回道の腕が新人離れしていると評判だ。戦いを好まず、人を助けることに長けている。そういう子がうちに来てくれて嬉しいよ」
笑顔のまま、言葉が続いた。やわらかくて、あたたかくて、聞くほどに逃げ道が一本ずつ消えていく。戦いを好まず。それは僕が六年かけて作り上げた看板だ。その看板をいま、この男は僕の目の前で読み上げている。
「霊術院では、日の出前から鍛錬を欠かさなかったそうだね。真面目な子だ」
日の出前。
あの時刻、僕のほかに人影はなかった。教官の目もない。評価の書類にも載らない。なのにこの男は、誰かから聞いたという顔で、さらりとそれを口にした。
(——見られていた)
卒業試験の終わった夕暮れ、瀞霊廷の中央から届いた春の日向のような気配。覆った辞令。琥珀姫の「妙でございますわ」。ばらばらだった欠片が、「ずっと前から」のひと言で一本に繋がった。
偶然じゃない。最初から、この男だ。
なぜ、と問いたかった。なぜ僕なのか。けれど問えるはずがない。問えば、僕が配属の裏に気づいていると知られる。気づかない新人でいなければならない。運よく名門に拾われて、喜んでいる新人で。
『主様。お顔を』
胸の奥で琥珀姫の声がした。短い声だった。それで僕は、踏みとどまった。
「あ……ありがとうございます」
それだけしか返せなかった。
藍染は満足そうに頷いて、去っていった。穏やかな足音が遠ざかっていく。その背に深く頭を下げて、止めていた息を少しずつ吐いた。汗がひと筋、こめかみを伝って落ちた。
顔を上げると、廊下の陽はさっきと同じ明るさで差していた。
何も変わっていない。書類を抱えた隊士が一人、すれ違いざまに新顔の僕へ軽く会釈して、通り過ぎていく。僕も会釈を返した。ごく普通の、新しい職場の昼下がりだった。
ただ僕だけが知っている。この笑みの下で、やがて何が起きるのかを。崩玉。虚化。裏切り。この明るい廊下を歩く人たちのうち、何人があの男に呑まれていくのかを。そしてそのかたわらで、僕がこれから息を殺して生きていくことを。
(平穏に暮らしたかっただけなのに)
誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、隅のほうで目立たずに。たったそれだけのことが、こんなにも遠い。
胸の奥で、琥珀姫が静かに寄り添ってくれていた。何も言わずに、ただそこにいてくれた。彼女の気配がなかったら、僕はこの廊下に立っていられなかったと思う。
絞りを確かめる。中の下。漏れなし。膜の織り目は、乱れひとつなく僕を覆っている。あの男の前でも、漏れはなかったはずだ。
完璧な、はずだった。
なのに、あの男は言った。ずっと前から、と。
僕は息をひとつ整えて、隊舎の奥へ歩き出した。
平穏は、まだ、遠い。