『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第30話

第三十話 灯の在処(ありか)

 

 

夜明けの鐘が鳴り終わらぬうちに、私は廊下を離れた。

 

立ち尽くすのは終いだ。体が先にそう決めて動き、頭は遅れてついてきた。

 

隠密機動の詰所には夜通しの報せが積み上がっていた。頂は不在。裁く者がいない。序列のままに残務は私へ流れてくる。九番隊消失の検分の続きに、哨戒の割り直し、夜のうちに空いた見張りの穴。私は文机の前に座り、一枚ずつ目を通しては判を押した。手は常と変わらず動き、声も常と変わらず出た。詰所の若い衆は誰も昨夜のことを口にしない。目だけが私の指図を待っている。

 

綴りの一冊は殉職者の名簿だった。墨のまだ新しい名の並ぶのを、私は数えずに繰った。数えれば手が止まる。止まれば、夜明けの廊下に戻ってしまう。

 

「読み上げは要らぬ。置いて行け」

 

伝令が下がる。次の一枚。

 

浦原喜助の名があった。

 

判を握る指に力が入って、紙の端が浅く波打った。地下で何が作られ、何が招かれたのか、検分はまだ核心に届いておらぬ。だが夜一様が誰を選んで連れて行かれたかなら知っている。あの男だ。あの男さえいなければ——そこで、行き止まる。喜助は夜一様が選ばれた男だ。ご自分の手で選び、抱えて、堕ちて行かれた。あの男を憎めば、あの方の選択ごと憎むことになる。

 

私は判を押した。処遇は中央の沙汰待ちとして、箱へ移す。窓の外では瀞霊廷が白み切っていく。昨夜のことなど何もなかったような、いつもどおりの朝の顔で。

 

次は網だ。事件で探知の網は結び目をいくつも失っている。瀞霊廷の霊圧の地図を、東から順に編み直す。一番隊の界隈。四番隊に残る救護の火。五番隊の——

 

網が勝手に、一つの霊圧を拾った。

 

中の下。不自然なほど均された、薄い膜。遺玉院詩織。五番隊の隊舎の隅から動いていない。枯れかけの残り火のような細さで、それでも消えずに、そこにある。

 

監視対象の所在確認。それだけだ。

 

そう振り分けた刹那、覚えのある手順だと気づいた。朝いちばん、誰に命じられるでもなく、まず一つの気配の在処を確かめる。夜一様は今日どちらにおられるか。修練場か。屋根の上か。十の歳から毎朝そうやって確かめて、それから私の一日は始まっていた。

 

指が止まった。

 

どれほどそうしていたか。文机の上で、墨が乾きかけていた。網の目には薄い膜の霊圧が一つ、かかったままだった。昨夜、私を庇って吹き飛んだ男。皆が去った夜に、逃げる足を持ちながら残った男。

 

手を引こうとした。引く前に、指はその霊圧の周りの結び目を二重に編み直していた。監視の要領のとおりに。どの結び目よりも丁寧に。

 

強うなったのう。

 

胸の底でまだあの声が鳴っている。応える道は一つしか残されておらぬ。二番隊の頂が空き、隠密機動には頂が要る。私が立つ。今日のうちに一番隊へ上申を出す。書式なら知っている。夜一様の名で書かれた古い上申を、私は幾度も清書してきたのだから。あの方の育てた刃が、あの方の置いて行かれた地を守る。残った者を守るのも務め。残った者を見張るのも、務めだ。

 

——あの男も、瀞霊廷に残った。

 

廊下を部下の足音が近づいてくる。

 

「入れ。次だ」

 

私は次の一枚を引き寄せた。

 

◆ ◆ ◆

 

現世の朝って、へんなにおいがするんだね。

 

鉄と、ほこりと、あと名前を知らないにおい。ゆうべ遅く、みんなでこの倉庫に転がりこんだ。板の隙間から白い光が入ってきてる。平子隊長も、リサも、みんなまだ寝てる。拳西も壁にもたれて口をあけて寝てる。そりゃそうだよね。みんなゆうべ、一回死にかけたんだもん。

 

あたしだけ、起きてる。

 

ほっぺにね、白いのが残ってるの。仮面の欠片。つるつるして、ひんやりして、指でなでると、こつって鳴る。爪で叩くと、こつ、こつ。骨みたいな音。ふしぎだね。これ、いまのあたしの音なんだ。

 

からだが虚になったって、あたしはあたしだもん。

 

こつ、こつ。

 

ほんとはね、あたし、消えるはずだったんだ。なかみから黒くぐずぐず崩れて、久南白がどんどん薄くなって。喰われるって、痛いとかこわいとかじゃないんだよ。ただ「あたし」が減ってくの。名前も、緑の髪も、拳西にこき使われた日々も、ぜんぶ持っていかれそうだった。いちばんやだったのはね、シオちゃんのこと考えられなくなることだった。考えるそばから、その考えごと喰われてくの。

 

でも、そこにシオちゃんがいたんだ。

 

あったかい琥珀いろの光が、崩れるあたしを何回も何回もつかまえてくれた。崩れたら戻して、崩れたら戻して。声が聞こえる前からわかってたよ。あ、これシオちゃんだ、って。あたしのカンは、あたしを困らせる奴と困らせない奴をぜったい間違えないの。

 

ねえ。あたし、あのとき言ったんだよ。

 

これ、あたしとシオちゃんだけの秘密ね、って。

 

シオちゃん、なんにも言わなかった。こまってたのかもね。でも、いやだとも言わなかった。だから決まり。秘密ってさ、持ってるふたりを結ぶ紐なんだよ。ほどけないやつ。シオちゃんの本当を知ってるのは、世界であたしだけ。シオちゃんがどこへ行っても、紐のはしっこはあたしの手の中にあるの。ぎゅってすれば、とどくの。ほら、いまも。

 

みんな同じように喰われたのにさ。あたしだけ「あたし」のまんまなんだよ。平子隊長もリサも、たすかったけど、どこか変わっちゃった気がする。あたしにはわかるの。あたしだけそのまんま。それってさ、シオちゃんがあたしだけを選んで助けてくれたってことじゃん。

 

あ、リサが寝がえりした。……ん、だいじょぶ。寝てる。

 

ゴーグル、まだ首にかかってるよ。前にいっかい、シオちゃんに掛けてあげたやつ。シオちゃん、目をまんまるくしてさ、すぐ返そうとするんだもん。にあってたのに。今度会ったら、また掛けてあげるんだ。約束はしてないけど、あたしが決めたから、これも決まりね。

 

あたしを救ってくれたのは、シオちゃんだけ。

 

だからあたし、シオちゃんのものなんだよね。命を残してもらったんだもん。残してくれた人のものになるの。すっごく当たり前のことでしょ。ね?

 

これから会えなくなるんだって。あたしたち追われる側だから、瀞霊廷には帰れない。じゃあどのくらい会えないのって拳西に聞いたら、わかんねえよ、って。だれも知らないの。だれも決めてくれないの。

 

じゃあ、あたしが決める。

 

百年。

 

きりがいいから、百年。あたしは百年って決めた。決めたから、百年たったら会えるの。

 

ふつうは泣くとこかなあ。百年だよ? でもあたし、ぜんぜん平気。だって消えるはずだったあたしが、ここにいるんだもん。シオちゃんがくれた時間だもん。会えないあいだはぜんぶシオちゃんのことを考えて埋めるの。今日なにしてるかなー。ごはんちゃんと食べてるかなー。って。ずーっと。

 

この好きはね、氷の箱にしまっとくの。氷の箱にしまっといた好きは、とけないんだよ。百年後にぱかって開けたら、そのまんま。ううん、ぎゅーって濃くなってるくらい。

 

だからおわかれじゃないよ。ちょっと預けとくだけ。またね、って言ったもん。ぜったいまたね、って。

 

こつ、こつ。

 

「……うるせぇ……白、寝ろ……」

 

拳西が目もあけないで言った。

 

「はーい」

 

あたしはいつもの返事をして、膝をかかえて目をつぶった。

 

ほっぺの欠片を、さいごにひとつだけ。

 

こつ。

 

◆ ◆ ◆

 

夜のなごりの中で、主様は壁にもたれて眠っておられます。

 

霊圧を使い果たし、芯まで枯れたお身体。浅い眠りに沈むその傍らに、わたくしは霊体のまま控えております。誰の目にも映らないわたくしが、ただお一人の傍に。

 

多くを救えず、お一人だけを守り抜かれた夜でございました。主様はきっと、それを痛みとして抱えられます。救えなかった数の重みの底へ、救えたお一人の灯まで沈めておしまいになる。お優しい御方。だからこそ、お守りするのでございます。世界の何からも。誰からも。

 

わたくしは主様の頬へそっと指を伸ばしました。霊体の指は触れられません。それでも届かせたくて伸ばすのです。指先が、頬まであと五分(ごぶ)の空を撫でます。浅打を授かった朝から、いつも同じ五分。幾年伸ばしても、縮まらない五分でございます。眠りの中の主様は、それすらご存じありません。

 

このごろ、主様に想いを寄せる女人が増えてまいりました。

 

あの蜂のお嬢さん。冷たい敵意の底で、いつからか主様を目で追うておられる御方。主様の歩法を正すご自身の手の温みには、まだお気づきでないご様子。一度だけ、覚えておりますの。修練場の門の外、あの御方が主様のほうへ一歩踏み出されたとき、わたくしはベールの裾を一寸(いっすん)だけ翻しました。それだけでございます。門の内の空気が薄氷を張ったように冷えて、あの御方は理由もお分かりにならないまま、足を止められました。翻した裾は、ひと呼吸のうちに直しました。襞の一つまで、もとのとおりに。

 

あの夜のあの御方の目は、まだ敵意の色をしておりました。今はもう、違う色が混じっております。……ええ、存じておりますとも。主様を目で追われた数なら、ご本人よりわたくしのほうが正しゅう覚えております。

 

それから、あの緑の髪の御方。

 

肩を抱く。頭を撫でる。ゴーグルまで掛けておやりになる。肩が九度、頭が十四度、ゴーグルが一度。数えようと思うたことはございません。指が、勝手に。主様に触れてよいのはわたくしだけですのに。触れられないわたくしだけ、ですのに。

 

昨夜、あの御方の魂が虚に喰われゆく只中へ、わたくしは主様のお力をお運びいたしました。装いは闇の色に改めて。魂の内へ忍ぶ夜でございましたから。『あなたはあなたのまま』——主様がそう仰せになったとおりに、崩れる魂魄を幾度も保存し、一つに縫い留めて、あの御方をあの御方のまま現世へ送り出しました。主様のご意思でございます。

 

ええ。確かに、お救いいたしました。

 

ただ。

 

完全には、お救いいたしませんでした。

 

核を守り終える、最後のひと結びのことでございます。わたくしは祈っておりました。あの御方が、遠い現世でもあの御方のままでありますように——祈りながら、指は琥珀の糸を一筋、核の綾の内へ滑らせておりました。結び目は魂の襞のかげに三重、端はわたくしの小指に。あの御方ご自身にも、生涯届かない深さでございます。どうか、あの御方のままで。いつまでも、あのままで。

 

その糸は今も、指の先にございます。

 

……ほら。今。遠い現世で、あの御方がお笑いになりました。爪弾かれた弦のような震えが、ひと筋、糸を伝って参ります。よい朝を迎えておいでなのでしょう。遠くで、お健やかに。糸の届く先で。

 

わたくしは微笑みました。

 

あの御方はもうわたくしの織った糸の上におられます。

 

切っても切れぬ縁になりましたわね、と昨夜、主様に申し上げました。主様は、助けられてよかった、と頷かれました。ええ。よろしゅうございました。ほどき方を知るのは、織ったわたくしひとりでございますもの。

 

主様はご存じありません。それでよろしいのです。お救いになった夜のことは、どうか温かな記憶のままで。冷たいものは、みなわたくしが持っておりますから。

 

と。

 

そこで気づきました。わたくしの口の端が、冷たく吊り上がっております。

 

いけません。

 

目を閉じて、息を一つ。口の端をゆるめ、喉に温度を戻して。それから誰にも聞こえない小ささで、一度だけ、朝の声を練習いたしました。

 

「お目覚めでございますか」

 

……ええ。いつもの声でございます。二度目は要りませんでした。

 

昨夜わたくしは主様に申し上げました。お一人を守り抜かれました、どうかその一灯を消えた数で打ち消されませんよう、と。声にしたのはそこまで。続きは今も、胸の内にございます。

 

——灯の番は、火を知る者の務めでございますから。油を注ぐのも、芯を整えるのも。寄ってくる羽虫を、そっと払うのも。

 

それが、わたくしの、何よりの幸せでございます。

 

夜が白んでまいりました。

 

主様の寝息は穏やかでございます。わたくしは口の端をもう一度だけ指でなぞって、微笑みの形に整え直しました。誰の目にも映らずとも、主様へお向けするお顔でございますもの。

 

平穏は、まだ、遠い。

 

第三十話 了

 




ストックが尽きてしまった....

白さんは熟成期間に入りました
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