『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第32話

第三十二話 穏やかな冠

 

 

事件から数ヶ月が過ぎた。

 

瀞霊廷はすっかりもとの顔を取り戻していた。灰は片付けられ、炉の跡も消えた。九番隊は新しい隊士で穴を埋め始めている。殉職した者の墓には線香が絶えない。仮面を負って追われた八人のことは、誰も口にしない。表向きは、すべて凪いでいた。

 

そして、辞令が下りた。

 

五番隊隊長 藍染惣右介。

 

平子隊長の空席に、あの柔和な笑みの人が正式に座った。前世の記憶で知っていた通りに。何ひとつ違わずに。歴史はまた一段だけ、僕の知る形へ進んだ。

 

掲示の前には朝から人が集まっていた。良い方が立った。これで五番隊も安心だ。口々に交わされる声は、どれも明るかった。

 

僕はその人垣の後ろから、辞令を読んだ。真新しい墨の一行を。何度も読み返したりはしなかった。一度で十分だった。胸の底が冷えるのに、二度はいらなかった。

 

(……来た)

 

直属の元凶が、副隊長から隊長になった。

 

平子隊長は、飄々とした関西弁で藍染副隊長を疑っていた人だった。僕の擬装には気づかないまま、ずっとあの人だけを見ていた人だった。その視線がもうない。あの人を疑う目は、五番隊のどこにも残っていない。隊そのものが、あの人のものになった。

 

僕は普通の速度で掲示の前を離れた。何でもない顔で、歩幅まで揃えて。掲示を読み込んで立ち尽くす新人の姿を、誰にも覚えられたくなかった。——動けなくなったのは、自室の戸を閉めたあとだった。

 

◆ ◆ ◆

 

就任の朝礼があった。

 

隊士たちが庭に並ぶ。僕も後ろのほうで頭を垂れていた。新しい隊長羽織が、藍染隊長の肩にかかっていた。白い羽織。五番隊の証。隊長の冠のようなものだ。

 

それが、あの人の肩にあまりにも自然に収まっていた。(あつら)えたように。最初からそこにあるべきだったように。物柔らかで清潔で、誰が見ても隊長に相応しい姿だった。神になろうとしている人が、隊長という穏やかな冠をかぶった。誰にも気取られず、むしろ祝福されて。

 

「平子前隊長が遺してくれたものを、僕は大切にしたい」

 

藍染隊長は静かに言った。

 

「みんなでこの隊を守っていこう。難しいことは何もないよ。いつも通りに。今まで通りに。それでいい」

 

隊士たちの顔がほどけた。優しい隊長だ。頼れる隊長だ。みんなが、息を吐いて安心した。

 

僕だけが、安心できなかった。

 

僕はその穏やかさの底を知っている。隊を守ろうと言うその同じ口が、いずれこの世界そのものを作り変えると言い出すことを、知っている。知っているのに、何も言えない。知っているからこそ、何も言えない。頭を垂れて、ほかの誰とも同じ顔で、新しい隊長を迎えるだけだ。

 

朝礼が終わり、列が崩れた。足音がひとつ、まっすぐこちらへ来た。

 

(え、なんで、こっちに)

 

「これからよろしく。遺玉院くん」

 

藍染隊長が、僕の前で足を止めていた。

 

僕は深く頭を下げた。下げてから、まだ返事をしていないことに気づいた。

 

(間が。間が、長すぎたか)

 

「……はい。よろしくお願いします。藍染隊長」

 

藍染隊長。その四文字を口にした自分の声が、やけに遠くで聞こえた。最も避けたかった人を、これから毎日「隊長」と呼ぶ。仕える。報告する。直属の部下として。逃げ場のない距離で。

 

頭を下げた視界の端に、藍染隊長の沓の先が見えていた。

 

こちらを向いたまま、動かない。一呼吸。二呼吸。僕は下げた頭の角度を保った。襟の内側を汗がひと筋伝う。ほかに数えるものがなくて、僕は自分の呼吸だけを数えていた。

 

「うん」

 

やわらかい声が落ちてきた。沓の先が向きを変え、衣擦れの音が遠ざかっていく。

 

それだけだった。それだけのことだった。それだけのことが、これから百年続く。

 

◆ ◆ ◆

 

そのころ、瀞霊廷にはもうひとつの空席があった。

 

隠密機動と二番隊だ。夜一さんが現世へ消えて、長の席が空いたままになっていた。総司令官の不在は瀞霊廷の根を揺るがす。早く埋めねばならない。誰もがそう言っていた。次の二番隊隊長は、あの若い隠密機動の俊英になるらしい。夜一様の一番弟子。冷たくて厳しいが、腕は隠密機動随一だと。噂は三日で瀞霊廷を一周した。

 

砕蜂さんだ。

 

その数日後、渡り廊下の向こうから当人が歩いてきた。隠密機動の装束のまま、書役をふたり従えて、二番隊舎の方角へ。歩みは速く、目は前だけを見ていた。僕は廊下の端に寄って頭を下げた。

 

足音が前を過ぎる、その半拍。目がこちらへ動いて、止まって、外れた。

 

会釈は、なかった。言葉も。足音はそのまま遠ざかった。

 

(……まだ、怒ってるのかな)

 

事件のあと、大丈夫ですかと訊いて「黙れ」と言われた。あれ以来、口をきいていない。余計なことを言った自覚はある。だから怒られても仕方ない。仕方ないけれど。

 

慕っていた人を失ったばかりの背中が、その人の遺した席へ押し上げられていく。望んだわけでもないだろうに。追って現世へ行くことも許されず、この地に残されて、頂の重みだけを背負わされて。

 

(……大変だな)

 

心配しても何ができるわけでもない。僕はあの人を案じる立場ですらない。それでも、置いていかれた者の背中から、どうして目が離せないんだろう。

 

◆ ◆ ◆

 

藍染隊長の直属になって、僕の日々は静かに変わった。

 

副隊長のころは、間に平子隊長という一段があった。その一段が僕の薄い盾だった。今はもうない。回道の任務も詰所の割り振りも日々の報告も、最後はあの人の机に届いて、あの人の目を一度は通る。僕の書いた一行を、あの穏やかな目が読む。

 

(毎日だ。これが、毎日になる)

 

僕は絞りをいっそう深くした。廊下ですれ違う時。報告で隊長室の前に立つ時。朝礼で頭を垂れる時。そのたびに中の下の膜を確かめた。漏れていないか。乱れていないか。息をするように、一日に何度も。

 

あの人は優しかった。「回道の腕が上がったね。無理はしないように」と声をかけてくれる。「今日はもう休むといい」と気遣ってくれる。誰が見ても、部下思いの物腰の柔らかい隊長だった。

 

(いい人だ。怖いくらいに、いい人だ)

 

その優しさのひとつひとつが、僕には観察に思えた。撫でてくれる手のひらが、同時に僕の脈を数えている——そんな気がした。あの人は僕を問い詰めない。脅さない。試すような言葉もかけてこない。ただ物柔らかに、いつも通りに、隊長として僕に接する。

 

恐ろしいのは、何も起こらないことだった。

 

就任からひと月が過ぎたころ、隊長室に呼ばれた。

 

◆ ◆ ◆

 

事件の記録の、追加の確認だという。隊長が代わったので照合がいる。僕は救護要員として後始末に関わったから、その分の記録を問われるのだと。

 

「座っていい。すぐ終わるよ」

 

藍染隊長は机の向こうで書類をめくっていた。窓から午後の光が差している。穏やかな部屋だった。穏やかすぎる部屋だった。

 

僕は絞りを限界まで強めた。中の下の膜を、一枚も乱さないように。何も知らない。何も見ていない。何も隠していない。ただの真面目で気の弱い、治癒寄りの新人。それだけの自分を、皮膚のすぐ下まで着込む。

 

「君はよく働いてくれたそうだね」

 

「……いえ。僕にできることは、わずかでした」

 

「謙遜しなくていい。あの混乱の中で最後まで詰所に残っていたと聞いている。立派なことだよ」

 

「ありがとうございます」

 

「救護の記録は、君が書いたもので全部かな」

 

「……はい。詰所で手当てした分は、すべて」

 

「うん。丁寧な字だね」

 

藍染隊長は書類から目を上げない。頁をめくる音だけが続く。僕は膝の上で手を重ねていた。

 

(早く。早く終わってくれ)

 

藍染隊長の指が、一枚の記録の上で止まった。

 

「九番隊の、久南白くんのことだけれどね」

 

心臓が一度だけ、大きく鳴った。

 

「彼女の崩れ方は少し変わっていたらしい」

 

藍染隊長は記録を眺めたまま続けた。声は凪いだままだった。世間話でもするような調子で。

 

「ほかの七人とは違ったそうだ。喰われきる寸前で、何かが繰り返し繋ぎ止めていたように見えた。まるで内側から守られていたかのように。崩れては戻り、崩れては戻り。誰かがそこにいたみたいにね。不思議なことだと思わないかい」

 

僕は息を止めなかった。止めれば気づかれる。だから僕はゆっくり息を吐いた。困った新人の顔のまま。

 

「……そう、なんですか。僕には難しいことはわかりません。手当てで精一杯で」

 

「うん。難しいね。僕にもわからないんだ」

 

藍染隊長が顔を上げた。

 

初めて目が合った。眼鏡の奥の、穏やかで底の見えない目。その目が僕の顔を見た。僕の手元を。僕の呼吸の速さを。

 

「人は」

 

藍染隊長は微笑んだ。

 

「隠せたと思った瞬間に最も無防備になるものだよ。誰のことでもない。ただの一般論だけれどね」

 

僕は頭を下げた。下げることしかできなかった。下げた顔の下で、奥歯を噛んでいた。

 

「……勉強になります」

 

「ふふ。君は随分慎重な人だね」

 

藍染隊長はそれ以上何も言わなかった。記録を閉じて脇へ置いた。用件はそれで終わった。僕は一礼して隊長室を出た。

 

廊下に出て、扉が閉まってから、詰めていたものを少しだけ緩めた。背中が汗で冷たかった。膝が小さく笑っていた。

 

何も言われていない。何も指摘されていない。確証など、何ひとつ示されなかった。それが一番恐ろしかった。確かめようもない。確かめようとすれば、こちらが知っていると教えることになる。だから僕にできるのは、何も知らない顔を続けることだけだ。鎌をかけられても気づかない、鈍い新人として。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、僕は内界に降りた。

 

灯篭の灯が、水際に低く並んでいた。琥珀姫は波打ち際に立って、遠くを見ていた。ベールの裾が、風もないのに揺れていた。隊長室にいたあいだ、彼女は一言も口を挟まなかった。それがずっと気にかかっていた。

 

「琥珀姫。……今日の、藍染隊長のこと。聞いてたよね」

 

返事は、すぐには来なかった。

 

波がひとつ寄せて、引いた。もうひとつ。数えられるほどの間だった。琥珀姫がゆっくりとこちらを向いた。目は僕に据えられたまま、瞬きをしない。胸の前で重ねた指先が、一度だけ強く組み合わさって、ほどけた。

 

「……ええ」

 

いつもの「ございます」が、続かなかった。波の音だけが残った。

 

「今日のあれは、その。たぶん僕、疑われて——」

 

「獣の匂いが、近うございます」

 

食い気味に、声が重なった。

 

「……獣?」

 

その言葉を琥珀姫の口から聞くのは、初めてだった。その夜の声は、いつもより一段低かった。冬の海のように。

 

「あの方は、主様と同じ匂いがいたします。世のすべてを手のひらに収めたいと願う匂い。けれど、あの方のそれは主様のものとは違います。主様は怖がっておられる。あの方は、楽しんでおられる」

 

灰の朝に自分で踏んだ場所を、彼女の声でなぞり直される。足の裏が冷えた。

 

「……うん」

 

「お近くは、お避けを」

 

僕は答えに詰まった。詰まっている間、琥珀姫は瞬きもせずに待っていた。急かさない。目も逸らさない。「お避けを」の語尾は、どこにも上がらないまま波の音の下に沈んだ。

 

避けられるものなら、避けたい。けれど、もう僕はあの人の直属の部下だ。同じ隊で、毎日顔を合わせる。

 

「……ごめん。たぶん、無理なんだ。僕はもう、あの人の隊にいる」

 

「ええ。存じております」

 

琥珀姫は目を伏せた。

 

「存じておりますとも。だからこそ、申し上げたかったのです」

 

それから、独り言のように続けた。

 

「わたくしは、あの目が好きではございません」

 

波がひとつ、満ちて引いた。

 

「主様を、ご覧になる目が」

 

主を案じてくれている。その声を、僕はそう聞いた。

 

「ありがとう、琥珀姫」

 

◆ ◆ ◆

 

部屋に戻ると、窓の外で夜の鐘が鳴った。

 

掲示の墨は、もう乾いただろう。五番隊隊長 藍染惣右介。あの一行の下で、僕はこれから百年勤める。明日も朝礼で頭を垂れ、報告を書き、あの目の前を通る。逃げてきたはずだった。隠れてきたはずだった。なのに気づけば、最も逃げたい人の直属に、自分の足で歩いてきて収まっていた。

 

僕は灯りを落とした。

 

落としても、あの穏やかな目が、まだ闇のどこかで開いている気がした。気のせいだと自分に言い聞かせた。気のせいだと、何度も。

 

◆ ◆ ◆

 

同じ夜。内界の波打ち際に、琥珀姫はまだ立っていた。

 

「——人は、隠せたと思った瞬間に、最も無防備になるものだよ」

 

誰に聞かせるでもなく、昼間の声をなぞっていた。同じ高さで。同じ間で。二度、三度。

 

灯篭の火は、揺れなかった。

 

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