Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第二章:高嶺の華の登校、そして奈落に踊る法輪】

【記録:2003年4月某日 07時30分 / 場所:冬木市・新都の高層マンションの一室】

 

 

 極東の春の朝は、ロンドンのそれとは異なり、驚くほど透き通った青空を連れてくる。

 

 窓から差し込む柔らかな光が、整然としたリビングを白く満たしていた。

 

 間桐桜は、全身が映る大きな鏡の前に立ち、今日から身に纏うことになる穂群原学園の制服を静かに整えている。落ち着きのある上品なデザイン。その仕立ての良い生地は、彼女のしなやかで均整の取れた肢体に、誂えたかのように完璧にフィットしていた。

 

 鏡の中の自分を見つめる彼女の瞳には、かつて間桐の地獄で全てを諦めていた少女の面影など、微塵も残っていない。

 

 流れるような紫の髪は、ルヴィアから贈られた最高級のヘアブラシで丁寧に梳かされ、一筋の乱れもなく肩に流れている。背筋をすっと伸ばしたその立ち姿、指先一つの置き方に至るまで、時計塔の最高峰たるエーデルフェルト家で叩き込まれた貴族的な「気品」と「余裕」が自然に滲み出ていた。

 

「……よし。おかしなところは、ないわね」

 

 

 小さく声を出し、桜は鏡の中の自分に向けて、ふわりと完璧な微笑みを作ってみせた。

 

 誰に対しても自然に愛想が良く、物腰柔らかで、接しやすい。それが彼女の『表層』に構築された完璧な少女の顔だ。

 

 しかし同時に、彼女の胸の奥には、エルメロイ教室で培った魔術師としての『冷徹な合理性』が、静かな灯火のように揺らぐことなく鎮座している。どのような環境に置かれようとも、自身の目的を見失わず、感情の暴走に身を委ねることはない。

 

 

 カバンを手に取り、玄関へ向かう。

 

 ドアを開ける直前、彼女は一度だけ自身の足元――朝の光によってフローリングに濃く落とされた影に、愛おしげな視線を向けた。

 

「行ってきます。退屈な場所かもしれないけれど……少しだけ、付き合ってくださいね」

 

 

 答えはない。ただ、彼女が動くと同時に、影もまた何一つ違わぬ確実な追従をもって、彼女の足元に寄り添った。その薄皮一枚隔てた虚数空間の底には、世界の理すらも喰い破る無敵の神将が、彼女のためだけに牙を研いで眠っている。

 

 その絶対的な事実は、桜の心に、この世の何物にも脅かされない圧倒的な自己肯定感と「格」を与えていた。

 

 ドアが閉まり、静かな鍵の音が響く。

 

 間桐桜の、新しい日常が幕を開けた。

 

     

 

 

 

 

【記録:2003年4月某日 08時15分 / 場所:冬木市・深山町 穂群原学園正門前】

 

 新都から冬木大橋を渡り、坂道を登った先にある深山町。

 

 そこにある穂群原学園の正門前は、新しい生活への期待と不安を胸に抱いた新入生や、それを出迎える在校生たちの喧騒で、お祭りのような賑わいを見せていた。

 

 桜並木から舞い散るピンクの花びらがアスファルトを彩り、春の暖かな風が若者たちの制服を揺らしている。

 

 その誰もが「普通」の人間であり、魔術や世界の裏側などとは無縁の、眩しいほどの日常を生きる住人たち。

 

 

 そんな喧騒の渦中に、間桐桜が歩みを入れた瞬間。

 

 まるでそこだけ、空気の密度が一段階跳ね上がったかのような、奇妙な「静寂」が局所的に発生した。

 

「……おい、見ろよ。あの子……」

 

「新入生、だよな? 嘘だろ、めちゃくちゃ綺麗じゃないか……?」

 

 

 すれ違う生徒たちが、一斉に足を止め、あるいは歩きながら何度も首を巡らせて彼女の姿を追う。

 

 それは、単に「容姿が整っている」というレベルの驚きではなかった。

 

 彼女が歩く一歩一歩、風に揺れる紫の髪、周囲の喧騒を一切気に留めない穏やかな横顔。そのすべてから、並の人間では近づくことすら躊躇われるほどの、圧倒的な「格の違い」――気高き気品が、オーラのように放たれていたのだ。

 

 周囲の目を恐れて俯き、怯えるような卑屈さはどこにもない。

 

 かと言って、周囲を見下すような傲慢さとも違う。

 

 ただ、そこに咲く一輪の高貴な花のように、純然たる余裕をもって、彼女はそこに存在していた。

 

 

「あ、あの! おはようございます! 新入生の方ですか!?」

 

 

 校門前でパンフレットを配っていた在校生の男子生徒が、顔を真っ赤にしながら、緊張で声を裏返して桜に話しかけた。

 

 突然のことに驚くか、あるいは恥ずかしそうに俯く場面だろうか。

 

 だが、エーデルフェルトの精神を学んだ桜は、全く動じることなく、その男子生徒に向けて、すっと視線を合わせた。

 

「はい、おはようございます。今日からお世話になります、間桐桜と申します。ご丁寧にありがとうございます」

 

 

 凛とした、しかし鈴を転がすような心地よい声。

 

 そして、完璧な角度で添えられた、柔らかく品のある微笑み。

 

「あ……は、はい! が、頑張ってください!」

 

 

 男子生徒は、まるで本物の貴族の令嬢に謁見したかのように完全に圧倒され、直立不動のまま何度も頭を下げた。

 

 桜はそんな彼の様子に、心の中でルヴィアの豪快な高笑いを思い出しながら、もう一度だけ軽く会釈をして、正門を潜り抜けていった。

 

「……信じられない。何あの子、まるでお嬢様みたい……」

 

「間桐、さんって言ったっけ? 近づきがたい雰囲気だけど、すごく優しそう……」

 

 

 背後で囁かれる無数の感嘆と羨望の声。

 

 あっという間に、新入生たちの間で「とんでもない美少女が入学してきた」という噂が広がり始めていた。

 

 しかし、桜にとってそんなものは、ロンドンで見てきた魔術師たちの泥臭い権力闘争に比べれば、あまりにも他愛のない、可愛らしい日常の戯れ言に過ぎなかった。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2003年4月某日 09時00分 / 場所:穂群原学園・体育館(入学式)】

 

 

 厳かなクラシックのBGMが流れる体育館の内部。

 

 整然と並べられたパイプ椅子に、何百人もの新入生たちが着席し、式典の開始を待っていた。

 

 クラスごとに分けられた席の中で、桜は周囲の視線を集めながらも、ただ静かに前を見据えて座っていた。彼女にとって、この入学式という儀式自体にはさほどの意味はない。ただ、エルメロイⅡ世との契約を全うし、この街で平穏な生活を送るための「建前」を完璧に演じることだけが重要だった。

 

 だが、そんな彼女の意図とは裏腹に、運命の糸は彼女が意識せざる場所で、静かに、しかし確実に交錯を始めていた。

 

 

(……何かしら、あの違和感は)

 

 

 新入生席から少し離れた、生徒会や在校生の待機スペース。

 

 そこには、学園の「アイドル」として誰もが知る存在であり、冬木の霊地を管理する遠坂家の現当主――遠坂凛が立っていた。

 

 凛は、いつものように完璧な優等生の仮面を被りながらも、その鋭い双眸は、新入生席のある一画に完全に固定されていた。

 

 名門魔術師としての卓越した直感と、霊地管理者としての感性が、特定の方向から流れてくる「異常なまでの安定感」を察知していたのだ。

 

(魔力の漏れはない。オドの格別な放出も見当たらない。……でも、おかしい。あの子の周囲だけ、空間の『座』が妙に据わりすぎている……!)

 

 

 凛の視線の先には、紫の髪を揺らす美しい少女――間桐桜の姿があった。

 

 幼い頃、間桐家へ養子に出された実の妹。

 

 だが、凛が知る限りの情報では、間桐家は数年前に当主の臓硯も、後継者も不審な死を遂げ、完全に魔術家系としては没落・滅亡したはずだった。その生き残りである桜が、なぜこれほどまでの「格」を持って、今この場にいるのか。

 

(ただの一般人として育ったわけじゃない。あの身のこなし、あの視線の据わり方……。一体、誰が裏で手引きしたの? 間桐の残骸が、何か別の神秘を呼び込んだの……!?)

 

 

 凛の胸の奥に、激しい警戒心、深い不審が渦巻く。

 

 しかし、桜からは一切の敵意も、魔術を行使している痕跡すらも観測できない。あまりにも自然で、あまりにも完璧に日常に溶け込んでいる。だからこそ、魔術師としての凛は、その底知れなさに微かな鳥肌が立つのを感じていた。

 

 一方、その凛の視線など露知らず、別の場所からも、一人の少年が桜の姿を見つめていた。

 

(……綺麗な人だな)

 

 

 新入生席の数列斜め後ろ。

 

 赤髪の少年――衛宮士郎は、パイプ椅子に腰掛けながら、何気なく前方に座る桜の横顔を見つめていた。

 

 彼は魔術師としては半人前、いや三流以下の存在であり、凛のような鋭敏な魔術的直感は持っていない。だから、桜の背後に潜む「異常」にも、空間の歪みにも気づくことはできなかった。

 

 

 ただ、一人の少年として。

 

 桜の持つ、どこかクールで影がありながらも、圧倒的に洗練された美しさに、純粋な感嘆の念を抱いていた。

 

 それは恋心というよりは、美術館で歴史的な名画を不意に見上げてしまった時のような、そんな不可思議な衝撃に近いものだった。

 

 

(間桐……さん、か。)

 

 

 士郎の養父である衛宮切嗣からは、冬木の魔術家系についての詳細な話はほとんど聞かされていなかった。だから彼にとっても、間桐桜という少女は、今日初めて出会った「花のような後輩」でしかなかった。

 

 

 演壇で校長が読み上げる退屈な祝辞の声が、体育館に響き渡る。

 

 遠坂凛の冷徹な疑惑の視線。

 

 衛宮士郎の無垢な驚きの視線。

 

 その二つの視線を同時に受けながらも、間桐桜はただ、完璧な姿勢のまま正面を見据えていた。

 

 

(ふふっ、本当に退屈な儀式……。でも、ロンドンの雨に比べれば、この春の陽気は悪くないですね)

 

 

 彼女は、自分に向けられている複数の視線には、とっくに気づいていた。

 

 エルメロイ教室でサバイバルを生き抜いてきた彼女の索敵能力が、遠坂凛の鋭い視線と、衛宮士郎の素朴な視線を正確に捕捉している。

 

 

 だが、彼女は視線を返すことすらしない。

 

 まだ、交わる時ではない。今はただ、この退屈で愛おしい「日常」を、舞台の袖から眺めているだけで十分だった。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2003年4月某日 15時30分 / 場所:冬木市・深山町の通学路(帰り道)】

 

 

 入学式が終わり、いくつかの事務的な連絡が済んだ放課後。

 

 桜は、他の生徒たちが部活動の勧誘や友人同士での談笑に花を咲かせる中、一人静かに学園を後にしていた。

 

 西に傾きかけた太陽が、冬木の街を燃えるような茜色に染め上げている。

 

 深山町の閑静な住宅街へと続く坂道。周囲には人影もなく、ただ遠くからカラスの鳴き声と、風が木々を揺らす音だけが聞こえていた。

 

 アスファルトの上に、夕日によって引き伸ばされた桜の影が、長く、長く伸びている。

 

 歩みを止め、桜はふと、その自身の影を見つめた。

 

 誰もいない静寂の空間。日常の仮面を脱ぎ捨てるには、最高のシチュエーションだった。

 

 

「……お疲れ様、バーサーカー。本当に退屈な一日でしたね」

 

 

 ポツリと呟き、彼女は小さく息を吐き出した。

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 ――ガコンッ。

 

 

 彼女の耳の奥、いや、魂の底で。

 

 あの、世界の理を書き換える無機質な『法輪の回転音』が、幻聴のように、しかし絶対的な現実感を伴って、小さく鳴り響いた。

 

 

 ドクンッ、と。

 

 次の瞬間、夕日の中で伸びていた彼女の通常の影が、生き物のように歪にのたうち回った。

 

 アスファルトの表面が瞬時に「漆黒」へと変質し、空間の位相が現実から虚数へと数ミリだけズレる。生温かい夜風とは異なる、異界の、冷徹で圧倒的な神聖さを孕んだ『重力』が、影の底から微かに染み出してきたのだ。

 

 魔虚羅が、桜の「退屈」という感情に応えるように、影の底で僅かにその身を震わせた。

 

 それは外敵に対する迎撃行動ではない。ただの、主人に対する親愛の情か、あるいは「いつでも顕現できる」という確固たる自己主張だろうか。

 

 

「ふふっ、ダメですよ。こんなところで暴れては。先生との約束を破ってしまいます」

 

 

 影の異様な躍動を目の当たりにしながらも、桜の顔には恐怖など微塵もなかった。

 

 あるのは、深い慈愛と、心からの安堵。

 

 溢れ出そうになる虚数の魔力を、彼女は《虚数》の制御術式を脳内で一瞬にして編み上げることで、完璧に抑え込んだ。

 

 

 スッと、影の形が元の、ただの少女の影へと戻っていく。

 

 異界の重力は霧散し、再び辺りには極東の穏やかな夕暮れの静寂が戻ってきた。

 

 桜は、その場に佇みながら、自らの胸元に手を当てた。

 

 冷徹な魔術師としての顔。穏やかな少女としての顔。そして、異形の神を影に飼う狂信者としての顔。

 

 そのすべてが、今の彼女の中で完璧な調和を保って存在している。

 

 遠坂凛がどれほど疑おうとも、衛宮士郎がどれほど見つめようとも。この影の底にある絶対的な救済(絶望)だけは、誰にも奪えない。

 

 

「さあ、帰りましょう。明日の予習もしないと」

 

 

 気品に満ちた足取りで、桜は再び坂道を登り始めた。

 

 長く伸びた影を引き連れて、夕闇が迫る街へと消えていく。

 

 

 

 

 この美しい華の足元で、世界の崩壊を司る法輪が、静かに、しかし確実に次の回転の時を待っている。

 

 そして、この冬木の地に、間桐桜という名の「理外の厄災」が、静かに君臨し始めようとしていた――。

 

 

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