Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第三章:退屈な日常と、ムーンウォーカーの直感】

【記録:2003年7月某日 15時00分 / 場所:日本・冬木市 穂群原学園 1年教室】

 

 

 うだるような真夏の熱気が、開け放たれた窓から教室へと流れ込んでくる。

 

 グラウンドから聞こえてくる運動部の活気ある声と、遠くで鳴り響く蝉時雨。黒板の上でゆっくりと首を振る扇風機の羽音。

 

 七月の穂群原学園は、極東の夏特有の暴力的な日差しと湿度に包まれていた。多くの生徒たちがワイシャツの襟元を緩め、下敷きで顔を扇ぎながら、気怠げに午後の授業の終わりを待っている。

 

 だが、教室の後方、窓際の席に座る一人の少女の周囲だけは、まるで別世界の高原のような清涼な空気が保たれていた。

 

 

 

 間桐桜。

 

 入学から三ヶ月が経過した現在でも、彼女が纏う「気品」と「余裕」は微塵も崩れることはなかった。真っ白な半袖のブラウスには一点のシワもなく、長く艷やかな紫の髪は、夏の熱気にあてられることもなく静かに肩に流れている。

 

 彼女の姿勢は常に完璧であり、ノートにペンを走らせる手首の角度一つをとっても、計算し尽くされたかのような美しさがあった。

 

 

(……ええ。今日も、とても平和な一日でしたね)

 

 

 桜は、黒板に書かれた数式を無心でノートに書き写しながら、内心で静かに微笑んだ。

 

 魔術師としての修練も、命を懸けた権力闘争もない、眩しいほどの日常。

 

 入学当初こそ、その浮世離れした美貌と雰囲気から、遠巻きにされていたが、彼女自身の物腰の柔らかさと、誰に対しても分け隔てなく接する完璧な愛想の良さによって、今ではそれなりに言葉を交わす友人もできた。

 

 何度か、勇気を振り絞った男子生徒から校舎裏に呼び出され、想いを告げられたこともあったが、彼女はそれらすべてを「今は学業に専念したいので」と、誰も傷つけない模範的な笑顔で丁重に断り続けていた。

 

 彼女の心は、ロンドンの霧の中で育てられた恩師たちへの感謝と、自身の影の底で微睡む「神」への愛おしさだけで、すでに満たされているのだから。

 

 

「――はい、今日の授業はここまで! 号令!」

 

 

 チャイムの音と共に、教壇に立っていた女性教師――藤村大河が、パンッと勢いよく手を叩いた。

 

 日直の号令に合わせて生徒たちが立ち上がり、礼をする。その直後、教室は一気に放課後の解放感とざわめきに包まれた。

 

 部活動へ向かう者、足早に帰宅する者、友人たちと雑談を始める者。桜もまた、ペンケースを鞄にしまい、席を立とうとした。彼女は特定の部活動には所属していない。エルメロイⅡ世との契約通り、目立つ行動は避け、放課後は真っ直ぐに新都のマンションへと帰宅するのが彼女のルーティンであった。

 

「あー、そこの間桐さーん! ちょっといいかな!」

 

 

 教室を出ようとした桜の背中に、ひときわ大きく、元気な声がかけられた。

 

 振り返ると、先ほどまで教壇にいた藤村大河が、両手を合わせて申し訳なさそうな顔を作りながら、小走りで近づいてくる。

 

「はい。藤村先生、どうかされましたか?」

 

「ごめんねえ、帰るところ引き止めちゃって。実はさ、先生これからすぐに弓道部の指導に行かなくちゃいけなくて。大会が近くて、もうてんてこ舞いなのよー」

 

「そうなんですね。お疲れ様です」

 

「それでね、悪いんだけど、この授業で使ったプリントの余りとか、教材の束を職員室の私の机まで運んでおいてくれないかなーって。お願い! 頼めるの、間桐さんくらいしかいなくて!」

 

 

 藤村は、机の上に山積みにされたプリントと分厚いバインダーの束を指差しながら、必死に拝むようなポーズをとった。

 

 普通であれば、少し面倒に思うような雑用かもしれない。だが、桜は嫌な顔一つせず、完璧な笑みを浮かべて頷いた。

 

「ええ、構いませんよ。職員室ですね。運んでおきます」

 

「ほんと!? 助かるわー、間桐さんは本当にえらいねえ! 恩に着るわ! それじゃ、よろしくーっ!」

 

 

 桜が了承するや否や、藤村はハイテンションで何度もお礼を言いながら、嵐のように教室を飛び出していった。廊下をパタパタと走り去る足音が遠ざかっていく。

 

 

(ふふっ……教師が廊下をあんなに走ってしまっていいのでしょうか。でも、とても愉快で、裏表のない素敵な先生ですね)

 

 

 桜はクスッと笑いをこぼし、教卓の上の荷物を抱え上げた。

 

 女性一人が持つにはなかなかの量と重量だったが、桜の表情は全く変わらない。彼女は魔術師であり、エルメロイ教室での過酷な鍛練によって、身体の重心操作や筋力の使い方は常人の比ではない。加えて、《虚数魔術》の基礎である自己の身体と魔力のリンクを無意識下で行っているため、この程度の荷物で体幹がブレることなどあり得なかった。

 

     

 

 

 

 

【記録:2003年7月某日 15時15分 / 場所:穂群原学園 校舎内・廊下】

 

 

 静まり返った廊下を、桜は規則正しい足音を響かせながら歩いていた。

 

 窓の外からは蝉の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。

 

「間桐、さん?」

 

 

 不意に、進行方向から声がかけられた。

 

 顔を上げると、そこには同じクラスの男子生徒の姿があった。

 

 茶色がかった癖のある髪に、どこかぼんやりとした、けれど芯のある不思議な瞳。制服をだらしなく着崩すこともなく、きっちりと着こなしている。

 

「角隈くん」

 

 

 角隈白野。

 

 彼は同じクラスの生徒でありながら、生徒会に所属している優秀な人物だと聞いている。たまに授業中や休み時間に廊下や屋上で居眠りをしているという噂も耳にするが、どこか憎めない、温和な空気を纏った少年だった。

 

「どうしたの、その荷物。すごい量だけど」

 

「ああ、これですか。藤村先生に頼まれまして、職員室まで運ぶところなんです」

 

 

 桜が事の顛末を軽く説明すると、角隈は「なるほど」と納得したように頷いた。タイガーこと藤村大河の奔放さは、学園でも有名なのだろう。

 

「重そうだね。半分、持つよ」

 

 

 角隈はそう言うと、桜が断る隙も与えずに、彼女が抱えていた教材の山の半分をスッと持ち上げた。

 

 その動作には、下心で桜に近づいてきたこれまでの男子生徒たちのような「恩着せがましさ」や「計算」が一切なかった。ただ目の前で重そうな荷物を持っているクラスメイトがいるから助ける。それだけの、純度百パーセントの善意。

 

「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ? わたし、これくらいなら平気ですから」

 

「いや、いいんだ。俺もこれから生徒会室に向かうところだったし、職員室なら通り道だからさ。それに、女の子にこんな荷物全部持たせて手ぶらで横を歩くのは、さすがに気が引けるしね」

 

 

 角隈は苦笑しながら、ひょいっと荷物を抱え直した。

 

 桜は、少しだけ目を丸くした後、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。

 

(……裏表のない人。ロンドンでは、こんな純粋な善意に触れる機会なんて、ほとんどありませんでしたから)

 

 

 魔術師の世界では、善意すらも取引の道具だ。しかし、この日常を生きる少年からは、打算の気配が全く感じられない。

 

「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかな。助かります、角隈くん」

 

「うん。行こうか」

 

 

 二人は並んで廊下を歩き始めた。

 

 窓から差し込む西日が、二人の足元に影を落とす。桜の影は、隣を歩く角隈の影と一定の距離を保ちながら、アスファルトの上に静かに伸びていた。

 

「学校生活は、もう慣れた? 間桐さん、いつも一人でいることが多いみたいだけど」

 

「ええ、すっかり慣れました。一人の時間も嫌いじゃないですし、静かでとても過ごしやすいです。角隈くんは、生徒会のお仕事でいつも忙しそうですね。お疲れ様です」

 

「いやあ、俺は柳洞……生徒会長にこき使われてるだけだよ。気づいたら書類の山に埋もれてて、たまに逃げ出して屋上で寝てるんだけど、すぐに捕まるんだ」

 

 

 角隈の自虐的な冗談に、桜はくすくすと笑い声を立てた。

 

「ふふっ、優秀な人ほど頼られてしまうものですから。角隈くんは、とても真面目で、優しい方なんですね」

 

「優しいっていうか……放っておけないだけだよ。ほら、会長もあれで結構無茶するからさ」

 

 

 何気ない雑談。

 

 魔術の「ま」の字も出ない、高校生としてのありふれた会話。桜は、この退屈で平和な時間の流れを、心から心地よいと感じていた。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2003年7月某日 15時25分 / 場所:穂群原学園 校舎内・渡り廊下】

 

 職員室へ続く渡り廊下に差し掛かった時のことだった。

 

 前方から、複数の生徒が連れ立って歩いてくるのが見えた。

 

 その中心にいるのは、学園の誰もが知る優等生であり、美少女として名高い二年A組の遠坂凛。そして、その隣で仏頂面をしているのが、生徒会長の柳洞一成だった。

 

 何やら言い争いをしているのか、それともただの口喧嘩なのか。一成の棘のある厳しい口調に対し、凛は余裕の笑みを浮かべて華麗に躱している。仲が悪いと噂されている二人だが、その実、互いに奇妙な信頼関係があるようにも見えた。

 

「あ、会長。それに、遠坂先輩」

 

 

 角隈が立ち止まり、二人に軽く会釈をした。

 

「おお、角隈か。これから生徒会室に向かうところか? なんだ、その荷物は」

 

 

 一成が、角隈と、その隣にいる桜、そして二人が抱えている大量の荷物に目を留めて問いかけた。

 

「藤村先生のお使いです。間桐さんが一人で運んでたから、職員室まで手伝おうと思って。これを置いたらすぐに向かいますよ」

 

「そうか、ご苦労。……ふん、どこぞの女狐と同じく、藤村先生も人使いが荒いな。角隈も苦労する。まあいい、生徒会室で待っているぞ」

 

「あら柳洞くん。聞こえよがしに嫌味かしら? 私が人使いが荒いとでも言いたげね。心外だわ、私はいつでも後輩に優しい、品行方正な優等生よ?」

 

 

 凛が、わざとらしく胸を張って一成をからかう。

 

 そのやり取りの間、桜は一歩引いた位置で、ただ静かに微笑みを浮かべたまま立っていた。

 

 

 

 ほんの一瞬。

 

 遠坂凛の冷ややかな、しかし宝石のように強い意志を秘めた瞳が、桜の虚ろな瞳と交差した。

 

 冬木の霊地を管理する遠坂の次期当主と、かつてその家から間桐へと出された妹。

 

 

 本来であれば、血を分けた姉妹の再会。

 

 だが、桜の顔には、一片の動揺も、懐かしさも、恨みすらも浮かばなかった。ただ「先輩生徒に会釈をする礼儀正しい後輩」という完璧な仮面が、そこにあるだけ。

 

 凛もまた、一瞬だけ鋭い視線を向けたものの、何も言葉を交わすことなく、一成と共にすれ違う。

 

 桜は内心で冷徹に事実を確認し、再び歩き出そうとした。

 

「……間桐さん」

 

 

 不意に、隣を歩く角隈が、ひどく真剣な、探るような声で彼女の名前を呼んだ。

 

「はい? どうしました、角隈くん」

 

「……今、遠坂先輩とすれ違った時。何か、あった?」

 

「え……?」

 

 

 桜は、完璧な仮面の奥で、ほんのわずかに息を呑んだ。

 

 自分の表情の筋肉は、一ミリたりとも動いていなかったはずだ。魔力的な波長も、呼吸の乱れも、心拍数の変化すらも、完全に制御していた。

 

「どうして、そう思うんですか?」

 

「いや……ごめん。気のせいかもしれないけど」

 

 

 角隈は、困ったように頭を掻きながら、それでもその不思議な瞳を桜へと向けた。

 

「一瞬だけ、間桐さんが……すごく遠いところを見てるような、何かを無理やり押さえ込んでいるような。そんな風に見えたんだ。遠坂先輩に対して、何か思うところがあるのかなって」

 

「……」

 

 

 

(……驚きました。この人の目には、いったい何が視えているのでしょうか)

 

 

 桜の深層心理の微かな揺らぎ。

 

 それを、魔術の知識を持たないはずの彼が、ただの「直感」だけで掬い上げたのだ。

 

 角隈白野。冬木大災害の生存者であり、時に未来予知とも呼べる異常な勝負勘や洞察力を発揮する、通称「ムーンウォーカー」。

 

 桜は、この少年の底知れない特異性に、内心で静かに舌を巻いた。

 

 

 だが、ここで彼に踏み込ませるわけにはいかない。

 

「ふふっ……角隈くんは、不思議なことを言うんですね」

 

 

 桜は、先ほどよりもさらに柔らかく、そして隙のない完璧な笑顔を作ってみせた。

 

「遠坂先輩は、学園でも有名な方ですから。少しだけ、見惚れてしまったのかもしれません。あんな風に、綺麗で堂々とした人に憧れる気持ちって、女の子なら誰にでもあるんですよ?」

 

「あ、ああ……なるほど。そういうことか。変なこと聞いてごめん」

 

「いえ、角隈くんが気遣ってくれたのは分かりますから。ありがとうございます」

 

 

 角隈は納得したように安堵の息を吐き、再び前を向いて歩き出した。

 

 

 桜もそれに続く。

 

 完璧な誤魔化し。だが、桜は角隈白野という少年を、単なる「純粋なクラスメイト」から、「少しだけ注意すべき、鋭い観察者」へと、心の中のリストで密かに格上げしていた。

 

     

 

 

 

 

 

 

【記録:2003年7月某日 15時35分 / 場所:穂群原学園 職員室前〜グラウンド付近】

 

 職員室に到着し、不在だった藤村大河の机の上に、綺麗に整頓して荷物を積み上げる。

 

「ここまでで大丈夫ですよ。角隈くん、本当にありがとうございました。とても助かりました」

 

 桜が深く頭を下げて礼を言うと、角隈は照れくさそうに笑って手を振った。

 

「気にしないで。大したことしてないし。それじゃ、俺は生徒会室に行くから。また明日、教室で」

 

「はい。また明日」

 

 

 角隈が廊下の奥へと消えていくのを見送った後、桜は一人、校舎の出口へと向かった。

 

 昇降口で靴を履き替え、外に出る。

 

 西に傾き始めた太陽が、グラウンドで汗を流す運動部の生徒たちの影を長く引き伸ばしていた。

 

 ボールを蹴る音、竹刀のぶつかり合う音、顧問の怒声。

 

 平和で、活気に満ちていて、そして――ひどく退屈な、日常の風景。

 

「……今日も、退屈な一日が終わりましたね」

 

 

 桜は、グラウンドを静かに眺めながら、独り言のように呟いた。

 

 魔術師としての修練に明け暮れたロンドンでの日々と比べれば、この平穏は奇跡のように尊い。だが、同時に、彼女の身体に流れる魔術回路は、時折この無刺激な環境に飢餓感を覚えることもあった。

 

 

 歩き出す。

 

 夕日を背に受けて、彼女の足元には一本の長い影が伸びている。

 

 その影の奥底に潜む「絶対的な暴力」は、今はまだ、静かに眠り続けている。

 

 彼女は、その影の確かな重みを感じながら、新都への帰路についた。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2003年7月某日 16時30分 / 場所:日本・冬木市 深山町 住宅街から新都への帰路】

 

 

 極東の夏、夕暮れ時はひどく粘り気を帯びている。

 

 深山町の閑静な住宅街を抜ける長い坂道。アスファルトが日中に吸い込んだ熱をジリジリと吐き出し、遠くの景色が微かに陽炎となって揺らめいていた。

 

 

 間桐桜は、誰ともすれ違わないその静かな道を、一定の歩幅で優雅に歩いていた。

 

 彼女の足元には、西日を受けて長く引き伸ばされた自身の影が、真っ黒な道標のように付き従っていた。

 

 

(……本当に、穏やかな日々。先生には感謝しなくてはいけませんね)

 

 

 自身を縛る間桐の因習は既にこの世にない。

 

 時計塔の陰謀も、魔術師としての血みどろの闘争も、今の彼女には遠い世界の話だ。

 

 彼女が守るべきは、この「退屈で愛おしい日常」という仮面であり、その仮面の裏で息を潜める巨大な神将の秘匿である。

 

 

 

 その時だった。

 

 桜の鼓膜を、重く、硬質な足音が打った。

 

 

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 

 坂道の下方から、一人の男が歩いてくる。

 

 逆光の中でシルエットとなっているが、その体躯が常人のそれではないことは一目で分かった。

 

 身長は優に一九〇センチに迫る長身。肩幅は広く、分厚い筋肉の鎧が衣服の上からでも容易に見て取れる。だが、それ以上に異様なのは、その男が纏う「気配」だった。

 

(……魔術師? いいえ、魔術回路の質が違いますね。それに、この血と灰の匂い……)

 

 

 桜は、完璧なポーカーフェイスを維持したまま、網膜に映る男の姿を冷徹に分析した。

 

 男は、真夏であるにもかかわらず、首元までボタンを留めた漆黒の法衣(カソック)を纏っていた。胸元には銀色の十字架が揺れている。

 

 神に仕える聖職者の出で立ち。

 

 しかし、その男の瞳の奥底に宿っているのは、慈愛や信仰などという美しいものではない。ただ底知れず暗く、他者の痛みを啜り取ることを渇望するような、泥濘のごとき「虚無」であった。

 

 聖堂教会の代行者であり、冬木の地を預かる神父――言峰綺礼。

 

 第四次聖杯戦争の生き残りであり、この街の最大の暗部の一つ。

 

 桜は歩みを緩めることなく、ただの「すれ違う女子高生」として、彼の横を通り過ぎようとした。

 

 距離が縮まる。五メートル。三メートル。一メートル。

 

 互いの肩が、ほんの数十センチの距離ですれ違う。

 

 言峰は前を見据えたまま。桜もまた、目を伏せて静かに歩みを進める。

 

 何も起きない。ただの、夕暮れ時の交差。

 

 そう、終わるはずだった。

 

「――見ない顔だな」

 

 

 

 不意に。

 

 背後を通り過ぎたはずの黒衣の男から、ひどく低く、粘着質な声が投げかけられた。

 

 桜はピタリと歩みを止める。

 

 だが、その表情に驚きや動揺はない。彼女はゆっくりと振り返り、完璧に計算された「愛想の良い優等生」の微笑みを浮かべた。

 

「はい。去年の冬に越して来たばかりですので。神父様は、この教区の方ですか?」

 

「ああ。丘の上にある教会の主をしている。言峰という」

 

 

 言峰は、ゆっくりと振り返り、桜を見下ろした。

 

 感情の抜け落ちた黒い瞳が、桜の紫の髪、仕立ての良い制服、そして――その立ち姿の異常なまでの「隙のなさ」を舐めるように観察する。

 

「お前のような、どこか浮世離れした気品を持つ少女がこの街を歩いていれば、嫌でも目に留まる。……名前を聞こう」

 

 

 それは、聖職者の穏やかな問いかけを装った、代行者の尋問であった。

 

 普通の高校生であれば、その蛇のような視線に射竦められ、怯えながら答えるか、逃げ出してしまうだろう。

 

 

 だが、間桐桜は違った。

 

 彼女は、エルメロイ教室で一流の魔術師たちと渡り合ってきた「化け物」の隠し親である。

 

「間桐桜と申します」

 

 

 澄み切った声で、一切の躊躇いなく名乗った。

 

「…………ほう」

 

 

 その瞬間、言峰綺礼の喉の奥から、微かな、しかし決定的な「歓喜」の吐息が漏れた。

 

 

 間桐。

 

 第四次聖杯戦争で当主の臓硯が消滅し、雁夜もまた無惨な死を遂げたことで、完全に途絶えたはずの魔術家系。その名を冠する少女が、今、無傷のまま自分の目の前に立っている。

 

「間桐、か。……奇遇だな。かつてその名を冠する古い知人がいてな。だが、間桐の家は既に没落し、誰も住んでいないはずだが?」

 

「ええ。屋敷はもうありませんから。今は遠方の後見人にお世話になりながら、新都の方で一人暮らしをしてるんです」

 

 

 桜は、ルヴィア譲りの気品ある口調で、淀みなく嘘を織り交ぜて答えた。

 

「一人暮らし。なるほど。……身内はどうした? かの家には、臓硯という老人がいたはずだが。お前は彼から、何も継いでいないのか?」

 

 

 言峰の言葉が、徐々に核心へと踏み込んでくる。

 

 それは明確なルール違反(タブー)の領域。魔術世界の秘匿に触れる問い。

 

 彼は探っているのだ。この少女が、ただの一般人として生き残っただけの無力な羊なのか、それとも――何かを隠し持っているのかを。

 

「お爺様は、わたしが幼い頃に亡くなりました。……家の事情は、わたしには、よく分かりません」

 

 

 桜は小首を傾げ、困ったような、あどけない表情を作った。

 

 完璧な演技。魔術回路の反応も、オドの漏洩も一切ない。

 

 だが、言峰綺礼という男の狂った直感は、その完璧さこそが「異常」であると告げていた。

 

(……隠蔽がすぎるな。魔術の気配はない。だが、この少女の存在そのものが、空間に異常なほどの『重さ』をもたらしている)

 

 

 言峰の顔に、邪悪な笑みが張り付く。

 

 言葉での探りはここまでだ。相手のメッキを剥がすための最も手っ取り早い方法は、圧倒的な暴力の予兆――すなわち「死の恐怖」を与えること。

 

 言峰綺礼は、法衣の下で黒鍵を握る右手に力を込め、間桐桜に対して、一筋の針のように鋭く研ぎ澄まされた純度百パーセントの『殺意』を放った。

 

 

 ――ピキリ。

 

 

 真夏の夕暮れ時の空気が、物理的に凍りついた。

 

 周囲の蝉の鳴き声が完全に消失する。

 

 代行者として幾多の異端を惨殺してきた男が放つ、本物の殺気。それは、向けられただけで一般人であれば心停止を起こしかねないほどの、重圧と悪意の塊であった。

 

 言峰は、少女が恐怖に顔を引き攣らせ、へたり込む姿を期待した。

 

 あるいは、隠し持った魔術を暴発させる瞬間を。

 

 

 

 だが。

 

 少女の顔から、あの完璧な微笑みが消えることはなかった。

 

 

 その代わり――。

 

 

 

 ――ガコンッ。

 

 

 言峰の耳の奥で、いや、影の根幹で、無機質で冷徹な『歯車の回る音』が鳴り響いた。

 

「……なッ!?」

 

 

 言峰綺礼の顔から、余裕の笑みが完全に剥げ落ちた。

 

 彼の視線が、少女の足元に釘付けになる。

 

 西日を受けて伸びていた間桐桜の影。それが、タールのように沸騰し、アスファルトを侵食しながら異常な速度で膨張を始めていたのだ。

 

 

 

 ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!

 

 

 

 影の奥底から、圧倒的な『死』が這い上がってくる。

 

 それは、言峰が放ったような人間レベルの殺意ではない。

 

 自然現象としての絶対的な破壊。あらゆる事象に適応し、異端を根絶やしにする究極の浄化機構。

 

 虚数の海を割って、純白の巨人の右腕が――邪悪を討つ『退魔の剣』が、物理次元の境界線を破って顕現しようとしていた。

 

 

(馬鹿な、これは……英霊(サーヴァント)!? いや、違う! この圧倒的な正のエネルギーの奔流は、なんだ……!?)

 

 

 言峰の背筋を、絶対零度の悪寒が駆け上がった。

 

 代行者としての彼の生存本能が、警鐘を通り越して絶望の悲鳴を上げている。

 

 今、あの影の中から現れようとしている存在に、彼自身の「殺意(悪意)」が迎撃対象としてロックオンされた。

 

 もしあと一秒、あの巨人が現界すれば、言峰綺礼という男の肉体と魂は、一片の塵も残さず浄化(消滅)される。防御も回避も不可能。完全なる死の確定。

 

 

 

 だが。

 

 巨人の刃が、影の表面を突き破る直前。

 

 

「――だめですよ」

 

 

 涼やかな声が、凍りついた空間に響いた。

 

 桜が、自身の影を見下ろして、まるでじゃれつくペットを嗜めるかのように、優しく、愛おしげに呟いたのだ。

 

 同時に、彼女の体内で超高度な影の、制御術式が展開され、虚数空間の位相が現実から強引に引き剥がされる。

 

 

 

 スウッ……。

 

 タールのように沸騰していた影が、一瞬にして元のサイズへと収縮し、何の変哲もない少女の影へと戻った。

 

 死の重圧が消え去り、再び遠くから蝉の鳴き声が聞こえ始める。

 

 空間の異常が、完全に平定された。

 

 桜の制御による、完璧な「抑え込み」であった。

 

 言峰は、呼吸をすることすら忘れ、滝のような冷や汗を額から流しながら、目の前の少女を見つめていた。

 

 黒衣の下の肉体は、死の恐怖によって完全に粟立っている。

 

 そんな彼に向けて、間桐桜はゆっくりと顔を上げた。

 

 

 そして――。

 

 

 

「ふふっ」

 

 

 先ほどまでの優等生の微笑みとは違う。

 

 あどけなく、蠱惑的で、それでいて底知れず冷酷な――ひどく『賑やかな』笑みが、彼女の唇に咲いた。

 

「神父様? どうかされましたか? ひどく汗をかいていらっしゃいますが」

 

「…………、……」

 

 

 言峰の喉が引き攣り、声が出ない。

 

 彼には理解できていた。この少女は、自分が放った殺意に怯えるどころか、その殺意を利用して自身の影に潜む「怪物」を呼び覚まし、そして己の意志一つでそれを首の皮一枚で止めてみせたのだ。

 

 それは、「いつでも貴方を殺せる」という、圧倒的強者からの無邪気な宣告。

 

「……いや。……何でも、ない」

 

 

 言峰は、這うような声でようやくそれだけを絞り出した。

 

 これ以上、この少女に干渉してはならない。聖杯戦争の監督役である自分の特権など、あの影の底にいる理外の存在の前では、紙屑以下の価値しかない。

 

「そうですか?熱射病にはお気をつけてくださいね」

 

 

 桜は、上品に両手を前で組んで、深く一礼した。

 

「それでは、暗くなりますので、わたしはこれで。……ごきげんよう、神父様」

 

 

 踵を返し、再び新都への帰路を歩き始めた。

 

 軽やかな足取り。紫の髪が夕日を受けて美しく輝く。

 

 その背中は、どこにでもいる幸せな女子高生のそれであり、一切の恐怖も警戒も帯びていなかった。

 

 言峰綺礼は、その場から一歩も動くことができず、ただ遠ざかっていく少女の背中と、その足元に伸びる影を、亡霊でも見るかのような目で見送っていた。

 

 

(……間桐、桜。間桐の生き残りが、あのような理不尽な怪物を影に飼い慣らしているというのか。あれは、聖杯システムの産物ではない。世界の法則そのものを破壊する、究極のエラーだ)

 

 

 彼の口元が、恐怖と、そして彼特有の歪んだ「愉悦」によって、三日月のように歪む。

 

 第五次聖杯戦争は、まだ始まってすらいない。

 

 だが、この冬木の地には既に、最強のマスターと、最悪のバグが君臨している。

 

「……素晴らしい。冬木は、再び血に染まるか」

 

 

 男の呟きは、夕暮れの風に溶けて消えた。

 

 一方、言峰を背後に残して歩き続ける桜の胸中は、ひどく穏やかで、満たされていた。

 

 

(バーサーカー。怒ってくれて、ありがとうございます)

 

 

 彼女は、自身の足元で機嫌を損ねた猫のように微かに脈打っている影に向けて、心の中でそっと語りかけた。

 

 先ほどの黒衣の男からの悪意。それを感知して、即座に自分を守ろうとしてくれた絶対的な防衛機構。

 

 

 その事実が、桜の心をたまらなく温かくする。

 

(でも、まだ早いですよ。先生との約束がありますからね。……ええ、誰もわたしをいじめることはできません。わたしには、あなたがいますから)

 

 

 鼻歌交じりに、桜は坂道を下っていく。

 

 彼女にとって、先ほどの出来事は「少しだけ面倒な虫を追い払った」程度の認識でしかない。

 

 彼女の心にあるのは、明日の授業の予習と、夕飯の献立のことだけだ。

 

 

「今日は、ハンバーグにしましょうか」

 

 

 賑やかに、日常を謳歌する。

 

 自身の影に潜む絶対的な神への想いを抱き締めながら。

 

 異戒の華は、冬木の夕暮れの中で、誇り高くその美しさを咲き誇っていた。

 

 

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