喫茶店と猫好きな少女   作:喜助

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名前を忘れても
愛された記憶だけは
魂に残る




番外編 珈琲の香りが残る場所

 

穏やかな一日だった。

喫茶店“バロン”の店内には、静かなジャズが流れている。

 

今日は客足も少ない。昼時を過ぎれば、店内に残っているのはコーヒーの香りと、猫たちの気ままな足音くらいだった。

 

「……平和ですわね」

 

カウンター席に腰掛けた狂三が、膝の上のトトを撫でながら呟く。

 

「いいことだろ」

 

紬はカップを磨きながら答えた。

 

クロは窓際で丸くなり、あんずはカウンターの上で尻尾を揺らしている。

 

店内は、どこまでも穏やかだった。

 

だが。

 

カラン――。

 

ドアベルが鳴った瞬間、空気が僅かに変わった。

紬が顔を上げると入口に立っていたのは、一人の幼い少女だった。

 

年は十にも満たないほど少女

薄い色の髪に、少し古めかしいワンピース。店の中を不安そうに覗き込むその姿は、とても客には見えなかった。

 

紬が声をかけようとした、その時。

少女の胸元に、鎖が見えた。

 

「……魂魄か」

 

小さく呟く。

 

狂三の表情も変わる。

 

少女はびくりと肩を震わせた。

 

「……見えるの?」

 

その声は、今にも消えてしまいそうだった。

紬は静かに頷く。

 

「見えるよ」

 

少女の瞳が揺れる。

長い間、誰にも見つけてもらえなかった者の顔だった。

 

「入れよ」

 

紬はそれ以上何も聞かずカウンター席を指し、少女は恐る恐る店内へ入る。

その足元へ、クロが歩み寄った。

 

「にゃ」

 

少女は目を丸くする。

 

「猫……」

 

クロは少女の足に頭を擦り寄せた。まるで、怖がらなくていいと言っているように。

少女の表情が、少しだけ緩んだ。

 

「名前は?」

 

紬が尋ねると少女は少し迷ってから答えた。

 

「……結衣」

 

その名を聞いた瞬間、紬の手が止まった。

知らない名前だった。少なくとも、紬自身の記憶にはない。

 

だが、胸の奥が妙にざわついた。

知らないはずなのに、どこかで聞いたことがある気がする。

 

いや、違う。

これは――自分の記憶ではない。

 

紬はゆっくりと目を伏せると、脳裏に淡い光景が浮かぶ。

若い父と母が経営していた頃の喫茶店バロン。

 

カウンターの向こうで母が笑い、小さな少女を膝に乗せて優しく髪を梳く父。

 

『結衣、熱いからゆっくり飲むんだぞ』

 

『うん……』

 

『ふふ。この子、本当にあなたに懐いてるわね』

 

それは、紬が見た記憶ではない。

紬はその頃、まだ生まれていなかった。

 

いや、正確には――まだ“紬”としてこの世界を見てすらいなかった。

生まれてからしばらくの間、紬には目も見えず、耳も聞こえず、声も出せなかった。

 

世界を知る手段など、ほとんどなかった。

両親が死ぬその時まで、彼はただの赤子だった。

 

だからこの記憶は、紬自身のものではない。

両親が死んだ時に、彼らから流れ込んできた愛情と記憶の残滓。

 

その中に、この少女がいた。

 

「……そうか」

 

紬は小さく呟く。

 

「お前が、結衣か」

 

少女が目を見開いた。

 

「私のこと……知ってるの?」

 

「俺は知らない」

 

紬は正直に答えると、少女の顔が少し曇る。

だが、紬は続けた。

 

「でも、親父とお袋が覚えてた」

 

「……え?」

 

「二人にとって、お前は大事な子だったんだと思う」

 

結衣の瞳が大きく揺れた。

 

「おじさんと……おばさん……」

 

その呼び方に、紬の胸の奥が少し痛んだ。

記憶の中の両親は、確かに結衣を愛していた。

まるで本当の家族みたいに。

 

我が子のように。大切に。

 

「……私」

 

結衣は震える声で言った。

 

「ずっと、探してたの」

 

「この店を?」

 

結衣は小さく頷く。

 

「暗いところを、ずっと歩いてて……誰にも視えなくて……おじさんとおばさんの声も、だんだん思い出せなくなって……」

 

そこで、声が詰まる。

 

「でも、匂いだけは覚えてた」

 

「匂い?」

 

「コーヒーの匂い」

 

結衣は店内を見回す。

 

「この匂いが、ずっと好きだったの」

 

紬は何も言わなかった。

ただ静かに、コーヒーミルへ手を伸ばした。

豆を挽く音が、店内に響く。

 

ガリ、ガリ、と。

 

狂三は黙ってその様子を見つめていた。

いつもの紬とは、少し違う。

優しいというより、慎重だった。

壊れかけた思い出に触れるような手つき。

 

「……コーヒー、飲めるか?」

 

紬が尋ねると、結衣は少しだけ笑った。

 

「昔は、ミルクいっぱい入れてもらってた」

 

「だろうな」

 

紬も少しだけ笑う。

湯を注ぎ、豆が膨らむ。香りが広がる。

その香りに、結衣の肩が震えた。

 

「……この匂い」

 

やがて、紬は小さなカップを結衣の前に置いた。ミルクを多めに入れた、柔らかな色のコーヒー。

 

「親父たちの味とは違うかもしれないけどな」

 

結衣は両手でカップを包み込む。

温かさを確かめるように。

 

そして、ゆっくりと口をつけた。

 

一口。

 

その瞬間、結衣の瞳から涙が零れた。

 

ぽたり、と。

カウンターに落ちる。

 

「……同じだ」

 

震える声。

 

「おじさんが淹れてくれた味と……おばさんが笑ってくれた時の味と……同じ……」

 

紬は目を伏せた。

 

違う、本当は同じではない。

紬は両親から直接コーヒーを教わったわけではない。手ほどきを受けた記憶もない。

ただ、両親から流れ込んできた記憶の中に、豆の挽き方があった。

 

湯の温度があった。

ミルクの量があった。

誰かのために、少しだけ甘くしてやる癖があった。

 

紬の中に残っていた、両親の愛情。

それが今、結衣へ届いたのだ。

 

「……おじさんとおばさん、私のこと嫌いになってなかった?」

 

結衣が小さく尋ねると、紬は即答した。

 

「なってない」

 

結衣の唇が震える。

 

「本当?」

 

「ああ」

 

紬は静かに言う。

 

「最後まで、お前のことを気にしてた」

 

それは嘘ではなかった。

両親の記憶の中にあった。

もう会えなくなった幼い少女を案じる気持ち。

 

無事でいてほしいと願う心。

もしまた会えたら、温かいものを出してやろうと笑う声。

 

「……そっか」

 

結衣は泣きながら笑った。

 

「よかった」

 

長い時間、店内には結衣の小さな嗚咽だけが響いていた。

 

狂三は何も言わない。

ただ、トトを撫でる手だけを止めていた。

 

その表情は、どこか遠かった。

誰かに覚えられていること。

誰かに愛されていたこと。

それがどれほど魂を救うのか、彼女にもわかったからだ。

 

やがて、カップを置いた結衣の表情はとても穏やかだった。

さっきまでの不安は、もうない。

 

「……もう、行かなきゃいけないんだね」

 

紬は静かに頷いた。

 

「その鎖、長くは保たない」

 

結衣は自分の胸元を見ると、鎖はところどころ黒ずみ始めていた。

このまま放っておけば、いずれ虚になる。

 

紬はそれを知っている。

だからこそ、見送らなければならない。

 

「怖いか?」

 

結衣は少し考えて、首を振った。

 

「ちょっとだけ」

 

そして笑う。

 

「でも、もう大丈夫」

 

紬はカウンターの奥から出る。

 

黒い霊子が、静かにその手元へ集まった。

黒刀が現れたが、戦うための力ではない。

"魂を送る"ための、静かな力。

 

狂三はその光を見つめていた。

死の気配。けれど、不思議と怖くない。

むしろ、祈りに近かった。

 

「結衣」

 

紬が名前を呼ぶと、少女は顔を上げる。

 

「親父とお袋に会えたら、伝えてくれ」

 

「……何を?」

 

紬は少しだけ迷った。

だが、やがて静かに言う。

 

「俺は、ちゃんと店を続けてるって」

 

結衣は目を細めた。

 

「うん」

 

「あと」

 

紬は小さく息を吐く。

 

「ありがとうって」

 

結衣は優しく笑った。

 

「きっと、喜ぶよ」

 

紬は黒刀の柄を少女の額へ近づける。

そして、静かに触れる。

 

鈴の音みたいな霊子が震え、柔らかな光が結衣の身体を包み込み、胸の鎖がほどけていく。

少女の輪郭が、少しずつ光へ変わっていく。

 

「……ありがとう」

 

結衣が言った。

 

「また、ここのコーヒーが飲めてよかった」

 

紬は小さく笑う。

 

「あっちで、親父たちに淹れてもらえ」

 

結衣は涙を浮かべながら頷いた。

 

「うん」

 

そして.....少女の姿は、光となって空へ溶けた。

 

店内に、静寂が戻る。

ジャズの音に猫の寝息。コーヒーの香り。

何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ、店の空気が温かくなった気がした。

 

狂三が静かに口を開く。

 

「……紬さん」

 

「ん?」

 

「貴方のご両親は、とても優しい方だったんですのね」

 

紬は少しだけ黙った。

そして、カウンターの奥に置かれた古い写真を見た。

 

若い父と母。

その笑顔を、自分自身の目で見た記憶はない。

声を聞いた記憶もない。

けれど ーー 確かに、胸の奥に残っている。

 

誰かを愛した記憶が。

誰かを大切にした温度が。

 

「……そうみたいだな」

 

紬は小さく呟くと、狂三はそれ以上何も聞かなかった。

ただ、少しだけ優しい顔で微笑む。

 

クロがカウンターへ飛び乗り、紬の手に頭を擦り寄せた。

 

「にゃ」

 

紬はその頭を撫でる。

 

「……今日は、少し甘めに淹れるか」

 

「まあ。わたくしにも?」

 

「飲むならな」

 

「もちろんですわ」

 

狂三は楽しそうに笑った。

その笑顔を見ながら、紬はもう一度コーヒーミルへ手を伸ばす。

 

ガリ、ガリ、と。

 

豆を挽く音が、静かな店内に響く。

 

それは、誰かが残した愛情を、もう一度この場所へ満たしていく音のようだった。

 

 

淹れられたコーヒーは『 少しだけ、甘かった 』

 

 






誰かが想って淹れた熱は
時間が経っても
少しだけ甘い


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