締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第9話 まだ何も聞いていない

「どこからが嘘で、どこからが勘なのかしら」

 

モルガーヌがそう言った瞬間、俺の口は俺の許可を取らずに走り出した。

 

「違います」

 

編集室が静まり返った。

俺も静まり返りたかった。

 

「何が?」

 

夜紫の瞳が細くなる。

 

「いえ、その、神託ではありません。俺は神の声を聞いていませんし、月から手紙も受け取っていませんし、月には知り合いもいません」

 

言い終わってから気づいた。

俺はまだ、何も聞かれていない。余計なことを言った。

モルガーヌは少しだけ首を傾けた。黒い手袋の指が、机の上の新聞をとん、と叩く。

 

「まだ何も聞いていないわ」

 

緊張すると勝手にしゃべり出す口を縫い付けたくなる。

 

「念のためです」

 

「念のために否定した順番が、神託、月からの接触、月の知人」

 

「あなたが一番恐れているのは、教会に神託詐称として扱われること。次が、月と直接つながった危険人物として見られること。最後が、月の民という作り物に具体的な相手がいるか聞かれること」

 

「違います」

 

「どれが?」

 

「……順番が」

 

「では正しい順番を」

 

「全部同時です」

 

情けない答えだった。

 

だが本当だった。恐怖に順位をつける余裕などない。財布の中身、処刑台、教会、魔女、編集長の笑顔。どれも等しく胃に悪い。

 

バスティアンが横で小さくうなった。

 

「なるほど。筆者本人による高度な否認術」

 

「編集長、記事にしないでください」

 

「いや、これは売れる。『筆者、月に知人なし』」

 

「見出しにすると逆に知人がいそうなんですよ」

 

モルガーヌが目だけでバスティアンを見た。

 

「黙りなさい。今のは記事ではなく自白よ」

 

「自白でも、刷れば記事です」

 

「刷ったら、共犯欄にあなたの名前を載せるわ」

 

強い。

魔女の一語で、編集長が紙より薄くなった。

しかし助かった気はしない。

 

モルガーヌの視線はすぐ俺に戻ってきた。

 

「では、ユーリ・ミクラ。月の民とは何?」

 

来た。

 

俺は喉を鳴らした。黒パンがまだ机の端に置かれている。昼飯だったものが、今では取り調べの同席者だ。俺より余計なことを口走らないので有能に見える。

 

「怪奇記事の、比喩です」

 

「比喩」

 

「はい。月から見たように遠い場所、というか、読者に分かりやすい見立てというか」

 

「読者に分かりやすい」

 

モルガーヌは新聞の見出しを指でなぞった。

 

『月の民、西の大陸オンドワナを示す』

 

活字は逃げない。

俺は逃げたい。

 

「その比喩は、今朝から王都で神の使いの顔をして歩いているわ」

 

「歩かせたのは見出しです」

 

「本文はあなたね」

 

「本文では断定していません」

 

「ええ。断定していない。だから厄介なの」

 

モルガーヌの声は冷たくなかった。

 

「嘘つきは普通、記事の中に出口として曖昧なことを書き出口を作る。けれどあなたの文章は逆ね。逃げ場の形をした入口を作っている。読者が勝手に入れるように」

 

やめてほしい。

 

「俺は、ただ紙面の穴を埋めたかっただけで」

 

「紙面の穴を、西の大陸で埋めたの?」

 

「そう言われると規模がおかしいですね」

 

おかしいのは最初からだ。

俺の人生は、今日の朝から急転直下している。

 

表口の方で、控えめな咳払いが聞こえた。

 

教会の従者だ。

 

まだいる。

 

礼儀正しい待機というものは、無言の圧力として非常に優秀だった。怒鳴られるより胃に来る。扉の向こうには月と太陽の徽章があり、その奥には赤い法衣の裾がある。

 

モルガーヌは表口をちらりとも見なかった。

 

「もう一つ。オンドワナという名は、どこから?」

 

「なんとなくです」

 

「便利な言葉ね」

 

「俺の人生で一番働いている言葉です」

 

「酷使しすぎて信用を失っているわ」

 

「休ませます」

 

「今すぐ」

 

俺は口を閉じた。閉じると、閉じたで沈黙が重い。その沈黙に耐えられずまた余計なことを口走ろうとする。

 

モルガーヌは椅子を一つ引き、俺の向かいに座った。黒いドレスの裾が、インク染みだらけの床に影を落とす。立っている時より低い位置にいるはずなのに、圧は減らなかった。むしろ逃げ道の高さまで降りてこられた感じがした。

 

「あなたは、全部を作った顔ではない」

 

俺は息を止めた。

 

「ですが、全部本当という顔でもない」

 

「それは、まあ」

 

「月の民は?」

 

「作りました」

 

声が小さくなった。

 

言った瞬間、編集室の空気が少し揺れた。刷り場の少年が目を丸くし、活字工が手元の紙束を握り直す。バスティアンだけが、何かの見出しを考えた顔をしている。

 

「オンドワナは?」

 

「名前は、作りました」

 

「西に何かあるという話は?」

 

俺は答えられなかった。

 

全部嘘です、と言えばいい。

 

言えば、たぶん単純になる。俺は最低の三流新聞屋で、バスティアンは部数の亡者で、教会は怒り、王都は笑う。火刑台も免れるだろう。かなりの怒られは発生するかもしれないが。

 

なのに、喉の奥で言葉が止まった。

 

前世の雑な地図。海の向こうに大陸があった世界。西へ行けば何かある、という、知識とも勘とも言い切れない古い感覚。

 

俺自身が一番信用していないものが、今だけ俺の舌を押さえていた。

 

モルガーヌはそこを見逃さなかった。

 

「そこだけ沈黙するのね」

 

「……俺にも、よく分からないんです」

 

「嘘としては弱い」

 

「すみません」

 

「謝る相手もまだまだ増えそうね」

 

やめてほしい。教会もすぐそこにいるのだ。

 

表口でまた咳払いがした。今度は少しだけ硬い。

 

バスティアンが小声で言う。

 

「モルガーヌ殿、教会の方が」

 

「待たせなさい」

 

「どのくらい」

 

「この男が、何を嘘と呼び、何を勘と呼ぶか分かるまで」

 

「長くなりそうですね」

 

俺が言うと、モルガーヌは微笑んだ。

美しい。

そして胃に悪い。

 

「自覚があるなら上等よ」

 

褒められていないのに、少し命が延びた気がした。

 

モルガーヌは刷り場の少年へ視線を向けた。

 

「紅茶を」

 

少年が跳ねるように背筋を伸ばした。

 

「こ、紅茶ですか」

 

「ええ。長話(じんもん)には紅茶は必要でしょう?」

 

こんな場末の三流新聞社で優雅に茶会などしたことがない。

 

俺は机の端の黒パンを見た。

 

冷えきった昼飯は、まだ食べられていない。

 

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