締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
「どこからが嘘で、どこからが勘なのかしら」
モルガーヌがそう言った瞬間、俺の口は俺の許可を取らずに走り出した。
「違います」
編集室が静まり返った。
俺も静まり返りたかった。
「何が?」
夜紫の瞳が細くなる。
「いえ、その、神託ではありません。俺は神の声を聞いていませんし、月から手紙も受け取っていませんし、月には知り合いもいません」
言い終わってから気づいた。
俺はまだ、何も聞かれていない。余計なことを言った。
モルガーヌは少しだけ首を傾けた。黒い手袋の指が、机の上の新聞をとん、と叩く。
「まだ何も聞いていないわ」
緊張すると勝手にしゃべり出す口を縫い付けたくなる。
「念のためです」
「念のために否定した順番が、神託、月からの接触、月の知人」
「あなたが一番恐れているのは、教会に神託詐称として扱われること。次が、月と直接つながった危険人物として見られること。最後が、月の民という作り物に具体的な相手がいるか聞かれること」
「違います」
「どれが?」
「……順番が」
「では正しい順番を」
「全部同時です」
情けない答えだった。
だが本当だった。恐怖に順位をつける余裕などない。財布の中身、処刑台、教会、魔女、編集長の笑顔。どれも等しく胃に悪い。
バスティアンが横で小さくうなった。
「なるほど。筆者本人による高度な否認術」
「編集長、記事にしないでください」
「いや、これは売れる。『筆者、月に知人なし』」
「見出しにすると逆に知人がいそうなんですよ」
モルガーヌが目だけでバスティアンを見た。
「黙りなさい。今のは記事ではなく自白よ」
「自白でも、刷れば記事です」
「刷ったら、共犯欄にあなたの名前を載せるわ」
強い。
魔女の一語で、編集長が紙より薄くなった。
しかし助かった気はしない。
モルガーヌの視線はすぐ俺に戻ってきた。
「では、ユーリ・ミクラ。月の民とは何?」
来た。
俺は喉を鳴らした。黒パンがまだ机の端に置かれている。昼飯だったものが、今では取り調べの同席者だ。俺より余計なことを口走らないので有能に見える。
「怪奇記事の、比喩です」
「比喩」
「はい。月から見たように遠い場所、というか、読者に分かりやすい見立てというか」
「読者に分かりやすい」
モルガーヌは新聞の見出しを指でなぞった。
『月の民、西の大陸オンドワナを示す』
活字は逃げない。
俺は逃げたい。
「その比喩は、今朝から王都で神の使いの顔をして歩いているわ」
「歩かせたのは見出しです」
「本文はあなたね」
「本文では断定していません」
「ええ。断定していない。だから厄介なの」
モルガーヌの声は冷たくなかった。
「嘘つきは普通、記事の中に出口として曖昧なことを書き出口を作る。けれどあなたの文章は逆ね。逃げ場の形をした入口を作っている。読者が勝手に入れるように」
やめてほしい。
「俺は、ただ紙面の穴を埋めたかっただけで」
「紙面の穴を、西の大陸で埋めたの?」
「そう言われると規模がおかしいですね」
おかしいのは最初からだ。
俺の人生は、今日の朝から急転直下している。
表口の方で、控えめな咳払いが聞こえた。
教会の従者だ。
まだいる。
礼儀正しい待機というものは、無言の圧力として非常に優秀だった。怒鳴られるより胃に来る。扉の向こうには月と太陽の徽章があり、その奥には赤い法衣の裾がある。
モルガーヌは表口をちらりとも見なかった。
「もう一つ。オンドワナという名は、どこから?」
「なんとなくです」
「便利な言葉ね」
「俺の人生で一番働いている言葉です」
「酷使しすぎて信用を失っているわ」
「休ませます」
「今すぐ」
俺は口を閉じた。閉じると、閉じたで沈黙が重い。その沈黙に耐えられずまた余計なことを口走ろうとする。
モルガーヌは椅子を一つ引き、俺の向かいに座った。黒いドレスの裾が、インク染みだらけの床に影を落とす。立っている時より低い位置にいるはずなのに、圧は減らなかった。むしろ逃げ道の高さまで降りてこられた感じがした。
「あなたは、全部を作った顔ではない」
俺は息を止めた。
「ですが、全部本当という顔でもない」
「それは、まあ」
「月の民は?」
「作りました」
声が小さくなった。
言った瞬間、編集室の空気が少し揺れた。刷り場の少年が目を丸くし、活字工が手元の紙束を握り直す。バスティアンだけが、何かの見出しを考えた顔をしている。
「オンドワナは?」
「名前は、作りました」
「西に何かあるという話は?」
俺は答えられなかった。
全部嘘です、と言えばいい。
言えば、たぶん単純になる。俺は最低の三流新聞屋で、バスティアンは部数の亡者で、教会は怒り、王都は笑う。火刑台も免れるだろう。かなりの怒られは発生するかもしれないが。
なのに、喉の奥で言葉が止まった。
前世の雑な地図。海の向こうに大陸があった世界。西へ行けば何かある、という、知識とも勘とも言い切れない古い感覚。
俺自身が一番信用していないものが、今だけ俺の舌を押さえていた。
モルガーヌはそこを見逃さなかった。
「そこだけ沈黙するのね」
「……俺にも、よく分からないんです」
「嘘としては弱い」
「すみません」
「謝る相手もまだまだ増えそうね」
やめてほしい。教会もすぐそこにいるのだ。
表口でまた咳払いがした。今度は少しだけ硬い。
バスティアンが小声で言う。
「モルガーヌ殿、教会の方が」
「待たせなさい」
「どのくらい」
「この男が、何を嘘と呼び、何を勘と呼ぶか分かるまで」
「長くなりそうですね」
俺が言うと、モルガーヌは微笑んだ。
美しい。
そして胃に悪い。
「自覚があるなら上等よ」
褒められていないのに、少し命が延びた気がした。
モルガーヌは刷り場の少年へ視線を向けた。
「紅茶を」
少年が跳ねるように背筋を伸ばした。
「こ、紅茶ですか」
「ええ。
こんな場末の三流新聞社で優雅に茶会などしたことがない。
俺は机の端の黒パンを見た。
冷えきった昼飯は、まだ食べられていない。