締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第10話 魔女の紅茶は逃げ道を塞ぐ

刷り場の少年が運んできた紅茶器は、この新聞社の備品らしく、縁も欠けている。

 

なのにモルガーヌが手に取ると、王宮の茶会で出された器のように見えるから顔のいい奴は不公平だ。俺が同じものを持てば、貧相さに磨きがかかるだろう。

 

「飲みなさい」

 

緊張で喉が乾いている自覚はあるが、うちの新聞社でうちのお茶なのに……なんで命令を...

 

「みたいな顔をしたわね?」

 

俺は黙って両手で茶碗を持った。熱い。指先が少し痛い。現実感がある。表口には教会の従者。机には問題の新聞。向かいには月蝕の魔女。

 

前門の虎、後門の狼どころではない。

 

モルガーヌは新聞を広げ直した。

 

『月の民、西の大陸オンドワナを示す』

 

見出しがまた俺を殴った。

 

「まず、これは創作ね」

 

黒い手袋の指が、『月の民』の3文字を軽く叩いた。

 

「はい」

 

「月には知り合いがいない」

 

「いません」

 

「月から手紙も来ていない」

 

「来ていません」

 

「そう。では、月の民はあなたの作り物」

 

短い断定だった。

 

俺は頷いた。記事を書いた時は、比喩のつもりだった。月から見るほど遠い場所。読者がわくわくするための舞台装置。怪奇記事の小道具。

だが小道具は動き出し、王都の通りで神の使いの顔をして歩いている。

 

「次」

 

指が『オンドワナ』へ移った。

 

「この名前」

 

「作りました」

 

「ずいぶん早い返事ね」

 

「今のうちに正直で得点を稼ごうと思いまして」

 

「現状はマイナス100点よ」

 

「マイナス……」

 

紅茶が急に冷たく思える。

 

バスティアンが横から身を乗り出しかけた。

 

「しかしモルガーヌ殿、名は重要です。読者は名のある土地を信じる。オンドワナ、口に残る。実に紙面向きで」

 

モルガーヌが一瞥した。

 

「今度、口を開いたら、あなたの茶にインクを入れるわ」

 

バスティアンは自分の茶碗を両手で守った。

味方が弁護してくれたと思ったらあまりにも弱い。速攻で撤退した。

 

モルガーヌは新聞の本文へ視線を落とした。長い睫毛の影が、活字の上にかかる。

 

「ここからが面倒ね。あなたは本文で断定していない」

 

「そこは本当にしていません」

 

「『かもしれない』『古い船乗り話では』『月から見たならば』『諸説ある』」

 

彼女は読み上げながら、指で細かい語を拾っていった。

俺の逃げ文句が、魔女の一喝で逃げる前に一列に整列させられている。

 

「逃げ口をたくさん作ったのに、全部深読みする方向に向いている」

 

「俺としては、逃げるための裏口だったんですが」

 

「新聞に刷った時点で裏口は表玄関になるわ」

 

やめてほしい。

刷り場の少年が、そっと自分の足元を見た。活字工も黙っている。

彼らの顔も魔女の権威に当てられて、いつ矛先が向くのかと青くなっている。

彼らは俺の記事を組んだ人間だ。だが誰も悪くない。鉛の活字は、命じられた形に並んだだけだ。

 

命じたのは、俺と編集長だ。いや、編集長だけだろう。

ようやくこぶしを振り上げる対象を見つけた。

 

「では、明らかな創作を分けるわ」

 

モルガーヌは机の上の紙切りナイフを取った。手書きを開けるための安物だ。彼女が持つと、すさまじい業物に見える。

 

「月の民。オンドワナという名。月からの観測。ここまでは作り物」

 

紙面の端を軽く押さえ、彼女は切らずに文字をなぞった。

だが次の瞬間、彼女の指は『西の大陸』へ移った。

軽さは消えた。

 

「では、ここ」

 

紅茶の湯気が細く上がる。

 

「西の大陸」

 

「これも、記事としては盛っています」

 

「記事として、”は”」

 

拾われた。

言葉の端を拾われた。

俺は余計なことをいう自分の舌を噛みたくなった。何度目だ...

 

「西に何かある、と書いた根拠は?」

 

「古い船乗り話とか……」

 

「あなたの記事を書く前から、王都にある話ね」

 

「はい」

 

「それだけなら、あなたはここで全部嘘と言える」

 

「……そうですね」

 

「でも言わない」

 

俺は紅茶を飲んだ。

冷たいと思っていた紅茶が熱かった。

飲んでいる間、人は返事をしなくていい。沈黙の言い訳になる。

 

モルガーヌは待った。

教会の従者よりも静かに。

その静けさが一番逃げられない。

 

「ユーリ・ミクラ」

 

「はい」

 

「あなたは嘘を吐く時、言葉を増やす。逃げる時はもっと増やす。けれど今は、紅茶を盾にした」

 

夜紫の瞳が、俺を見る。

 

「西に何かある、という部分だけは、あなたの中でただの創作ではない」

 

編集室のみんなが息をのんだ音がした。

 

刷り場の少年が息を止め、活字工が手元の鉛を置いた。バスティアンでさえ。

 

俺は何を言えばいいのか分からなかった。

 

前世の地図。世界史の授業。大航海時代という言葉。西の海の向こうに、コロンブスが勝手に見つけたことにした大陸。そこに元から人がいた、という肝心な部分まで、ぼんやりとしか覚えていない。

 

それをこの場で言えばどうなる。

 

神託ではない。

でも普通でもない。

教会に聞かせたら終わる。学者に聞かせても終わる。編集長に聞かせたら特集が始まる。

 

どれも終わる。

終わり方が違うだけだ。

 

「俺にも、説明できません」

 

やっと出た声は、ひどく小さかった。

 

「でも、全部作り物です、と言うと、そこだけ嘘になる気がするんです」

 

モルガーヌは笑わなかった。

その代わり、茶碗を置いた。

陶器の音が、編集室に小さく響いた。

 

「面白いわね」

 

やめてほしい。

 

その言葉は、助かった時より危ない時に出る。

 

「月の民は嘘。名も嘘。月から見たという飾りも嘘。けれど西に何かあるかもしれないという勘だけは、あなたが自分で殺せない」

 

「殺したい気持ちはあります」

 

「そこは正直ね」

 

「正直で得点は」

 

「まだマイナスね」

 

バスティアンが、恐る恐る口を開く。

 

「つまり、モルガーヌ殿。記事は虚偽だが、調査価値はある、と?」

 

やめろ。

 

なぜ新聞社の人間(バスティアン)は、燃え残りから次の見出しを拾うのか。

 

モルガーヌはバスティアンを見ずに答えた。

 

「記事としては無責任。神託としては危険。航海予報としては、まだ形にもなっていない」

 

「航海予報」

 

バスティアンの目が光った。

 

「編集長、その単語を拾わないでください」

 

「ユーリ、拾うなと言われた単語ほど売れる」

 

「売らないでください。俺の寿命が目減りします」

 

モルガーヌが短く息を吐いた。笑ったのではない。たぶん、呆れた。

 

「少なくとも、教会にこのまま渡すには危険すぎるわ」

 

俺の背筋が伸びた。

 

「助けてくれるんですか」

 

「まだ助けではないわ。分類よ」

 

「分類」

 

「詐欺師、狂人、預言者、ただの三流記者。どの札を貼るかで、死に方が変わる」

 

「札を貼らない選択肢は」

 

「ないわ」

 

言い返せなかった。

 

紅茶が冷めていく。黒パンはまだ食べられない。表口の向こうでは、礼儀正しい待機が続いている。

モルガーヌは新聞を畳んだ。

 

「最後に一つだけ、今ここで聞くわ」

 

「一つだけでお願いします」

 

「あなた、西に何かあると本気で思っているのね」

 

茶碗の底に残った紅茶が揺れた。

 

俺は答えられなかった。

 

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