締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
俺が答えられないまま黙っていると、編集室の空気まで紅茶みたいに冷めていった。
机の端には問題の新聞。
向かいには月蝕の魔女。
表口には教会の従者。
そして俺の目の前には、まだ食べられていない黒パン。
この中で一番無害なのが黒パン。
そして誰も俺を助けてくれない。
「もう一度聞くわ」
モルガーヌは新聞を畳み、俺だけを見た。
「あなた、西に何かあると本気で思っているのね」
「……思っている、というか」
「というか?」
逃げ道を探した。
なかった。
逃げ道はさっき、全部モルガーヌに切り分けられた。月の民。オンドワナという名。月からの観測。どれも作り物。そして最後に残ったのが、西に何かあるかもしれないという、俺自身も扱いに困る勘だ。
俺は紅茶の底を見た。
茶葉の細かい欠片が、茶碗の底で頼りなく揺れている。
今の俺と同じだった。
「根拠は、あります」
言った瞬間、バスティアンの目が光った。
やめろ。見出しを見つけた顔をするな。
「根拠! いい言葉だ。読者は根拠が好きだ。根拠が薄いほど大きく刷れば」
「編集長、お願いですから、今だけ紙面から離れてください」
「私は常に紙面と共にある」
モルガーヌが指先で机を一度叩いた。
「とん」という軽い音だけで、編集長は口を閉じた。
魔法より便利な沈黙命令だ。俺にもほしい。
「続けなさい」
「はい」
続けなければならない。
だが、どう説明すればいい。
前世の記憶があります。昔の世界地図では西の海の向こうに大陸がありました。だからこの世界でも、なんとなくありそうだと思いました。
言葉にすると、神託詐称より別の方向で処刑されそうだった。
『狂人』のレッテルで悪魔に魅入られたとかで……
「その、地図です」
結局言わずにおこうと思っていたことが口から出た。
「地図?」
「昔、見た地図の形が、この辺りの国々と少し似ていた気がして」
「どこの地図?」
「ええと」
俺は言葉を飲み込んだ。
日本。地球。ヨーロッパ。アメリカ。大航海時代。
どれもこの部屋で言った瞬間、説明を求められる。説明できない。俺の前世知識は、授業中に居眠りした記憶と、教科書の図だけを雑に引っ張り出したような代物だ。
しかもその教科書の内容すら、当時の俺は試験が終わったら半分捨てた。
いま全力で拾い直したい。記憶のゴミ箱を漁りたい。
「どこの地図かは、うまく言えません」
「うまく、ね」
モルガーヌの声が少しだけ楽しそうになった。
嫌な予感がした。
「では、うまくなくていいわ。雑に言いなさい」
雑に言ったら死ぬから困っている。
だがモルガーヌは待つ。
教会の従者は表で待つ。
バスティアンは待ちきれない。
俺だけが追い詰められている。
「この国とか、周りの国とか、海とかが……俺の知っている、別の地図に、少し似ている気がしたんです」
「別の地図」
「はい」
「あなたの荷物にある?」
「ありません」
「新聞社の資料室に?」
「ないです」
「学士院に?」
「たぶん、ないです」
「では、どこにあるの」
俺は自分のこめかみを指で押さえた。
「ここに、ぼんやりと」
編集室が静まり返った。今度の沈黙は重かった。
俺は自分で言っておいて、机の下に潜りたくなった。
頭の中にだけある地図。
怪しすぎる。
怪奇記事の筆者が、脳内地図を根拠に西方大陸を書きました。騒ぎにならなければ許されていた程度の三流記事だったはずだ。
「頭の中の地図」
モルガーヌがゆっくり復唱した。
「はい」
「それで、あなたは西に大陸があると」
「大陸と断定したわけでは」
「見出しは断定しているわ」
「あれは編集長の腕力です」
「本文はあなたね」
「はい」
「昔、その別の地図では、こちらに似た場所の西の海の向こうに、大きな陸があったんです」
「こちらに似た場所」
「フランシールとか、その周辺の国の感じです。王様がいて、教会があって、船があって、新聞があって、商人が強くて、戦争と商売が海の向こうへ伸びていくような」
「かなり広い雑さね」
「自分でもそう思います」
「その雑さで記事を書いたの?」
やめてほしい。
核心を鈍器で叩かないでほしい。給金で頬を叩かれて書いたのだ。
「締切がありまして」
「締切は神託より強いの?」
「うちの新聞社では、たぶん」
バスティアンが胸を張りかけた。
モルガーヌが見た途端、編集長の胸はしぼんだ。
「歴史の流れも、少し似ていると思ったんです」
俺は無意識に早口になった。
危険だ。早口はだいたい墓穴の前兆だ。俺は喋れば喋るほど墓穴を掘るタイプなのだ。それは前世と今日でいやというほど思い知った。
「西の海がまだよく分かっていない。ただこの王国の港町には古い船乗り話がある。星が消える夜とか、変な漂着物とか、遠い海から来たかもしれない噂もある。だから、もし俺の知っている地図と似ているなら、西の向こうに何かあるかもしれない、と」
「それを、月の民が見たことにした」
「そこは本当にすみません」
「なぜ月の民?」
「紙面が寂しかったので」
編集室の誰かが、息をのむ代わりに変な音を立てた。
刷り場の少年だった。笑いかけて、必死に飲み込んだ顔をしている。
気持ちは分かるが飲み込んでほしい。俺の命がかかっている。
モルガーヌは黙っていた。
夜紫の瞳が、俺を見ている。
怒っているのか、呆れているのか、分からない。
俺はさらに言葉を足した。足すな、俺。でも足した。足してしまった。
「最初は、本当に穴埋めだったんです。読者が月を見上げて、少し怖がって、少し楽しんで、翌週には忘れるような。西の海の向こうに何かあるかもしれない、でも俺は断定していない。名前も仮名。月の民も比喩。逃げられると思って」
「逃げられた?」
「今、あなたの前に座っています」
「正直ね」
「得点は」
「まだマイナスよ」
知っていた。
俺の人生の採点欄は、今日だけで紙が足りない。
モルガーヌは茶碗を持ち上げた。
もう冷めているはずなのに、彼女は気にした様子もなく一口飲んだ。
「つまり、あなたの根拠はこう」
黒い手袋の指が一本ずつ立つ。
「頭の中にだけある、出所不明の別の地図」
一本。
「この国がその地図の一部に似ている気がした」
二本。
「その地図では西の海の向こうに大きな陸があった」
三本。
「歴史の流れも、なんとなく似ている」
四本。
「締切だった」
五本目。
最後がほぼすべてだ。
「はい」
「預言ではないわね」
「違います」
「学問でもない」
「はい」
「取材でもない」
「はい」
「航海記録でもない」
「はい」
「ほとんど、三流記者の思いつきね」
「そこまで削ると悲しいですが、反論できません」
モルガーヌの肩が震えた。最初、怒りかと思った。月蝕の魔法が火を噴くのかと思った。
違った。
彼女は口元を手袋の指で隠し、堪えようとして、堪えきれなかった。
笑った。
月蝕の魔女が、三流新聞社の欠けた茶碗を前に、本気で笑った。
高くはない。大声でもない。けれど、今までの皮肉の薄い笑みとはまったく違う。喉の奥からこぼれる、抑えきれない笑いだった。
編集室の空気が緩む。バスティアンでさえ、見出しを忘れた顔をしている。
俺は顔が熱くなった。
「そんなに笑います?」
「笑うわ」
モルガーヌはまだ少し息を揺らしていた。
「月の民。西の大陸。神託詐称。教会。商人。王都の噂。そこまで大きく燃えている火種の芯が、頭の中の曖昧な地図と、締切だったなんて」
「俺としても、火が大きすぎると思っています」
「あなた、自分が何をしたか分かっている?」
「薄給の三流記者が、紙面の穴を埋めようとして、宗教問題を引き起こしました」
「よくできました」
「褒めてます?」
「処刑台に上がる前の自己分析としては」
笑いの余韻を残したまま、モルガーヌは新聞を指先で押さえた。
その目はもう笑っていなかった。
けれど、さっきより冷たくもなかった。
俺を切り捨てる目ではない。
研究して、解剖して、ラベルを貼って、瓶に入れて棚に置くかどうか考えてるように見える目だった。
それはそれで怖い。
「ユーリ・ミクラ」
「はい」
「預言者としては最低」
「はい」
「詐欺師としても雑」
「はい」
「学者に見せたら、鼻で笑われる」
「はい」
「でも」
彼女は短く息を吐いた。
「珍獣としては上等ね」
俺は喜んでいいのか、逃げていいのか、分からなかった。
その時、表口の向こうで教会の従者が、三度目の咳払いをした。