締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第12話 笑われたら終わりではない

人生で笑われた回数なら、俺にもそれなりの蓄積がある。締切を落としかけた時。似顔絵広告の店主を別人みたいに書いた時。給料日前にパン屋の前で財布の中身を数えていた時。

普通の笑いではないものが思い浮かぶが……

 

だが、宗教問題の火元として笑われるのは初めてだった。

たぶん、普通は一生ない。

 

「珍獣としては上等ね」

 

モルガーヌはそう言ったまま、まだ少しだけ口元に笑いを残していた。

 

俺は黒パンを見た。黒パンは黙っていた。当然だ。月に喋らせたが、黒パンの声が聞こえたら、俺はいよいよ医者を呼ばれる。

 

表口の向こうで、教会の従者が三度目の咳払いをした。

 

今度の咳払いは、さっきよりも少し硬かった。石段の上で靴底を鳴らすような、礼儀で包んだ催促だ。

 

バスティアンが首をすくめた。

 

「お客様が熟成しているな」

 

「編集長。人をワインみたいに言わないでください」

 

「待たせるほど香りが立つ場合もある」

 

「怒りの香りですか?」

 

モルガーヌがカップを置いた。

 

かつん、と短い音がした。

 

それだけで、編集室の喉が全部止まった。印刷室の奥で活字を拾っていた少年まで、鉛の小箱を持ったまま固まっている。

 

「バスティアン」

 

「はい、月蝕の魔女殿」

 

さっきまで三流新聞社の見出しを見つけた顔をしていた編集長が、一瞬でキメ顔になった。こういう切り替えだけは速い。普段から倫理のブレーキを外している分、人道に戻るためのハンドル操作に慣れているのだろうか。

 

「表の従者へ伝えなさい。筆者への確認は、私が先に行っている。教会には後ほど、月の言葉ではないという点だけをまず報告する、と」

 

俺は思わず息をのんだ。

 

助け舟。

 

「月の言葉ではない、ですか」

 

バスティアンの目が光った。

 

やめろ。

 

今の一文を見出しにするな。

 

「紙面に載せたら」

 

「載せたら?」

 

モルガーヌの声は低くなかった。

 

低くないのに、首筋が冷えた。

 

「あなたの新聞社は…わかるわね?」

 

「載せません」

 

即答だった。

 

三流新聞屋にも、生存本能はある。

 

モルガーヌは満足したとも不満そうとも分からない顔で、俺へ視線を戻した。

 

「ユーリ・ミクラ」

 

「はい」

 

「笑われたから終わりだと思った顔をしているわね」

 

「……違うんですか」

 

「違うわ」

 

違うらしい。

 

「あなたは、完全な詐欺師としては雑すぎる」

 

「そこはもう少し優しい分類名になりませんか」

 

「善良な詐欺師としても半端」

 

「善良の部分だけ受け取っていいですか」

 

「詐欺師の部分を支払ってからにしなさい」

 

モルガーヌは新聞を広げ直した。見出しの黒い活字が、俺の罪状みたいに机の上へ並ぶ。

 

「ただの嘘なら燃やせばいい。神託詐称なら教会へ渡せばいい。学問なら学士院へ押しつければいい」

 

「俺はどこへ」

 

「どこにも収まりが悪い、嘘の中に、あなた自身も扱えていない勘が混ざっている」

 

モルガーヌはそう言って、新聞の端を指で押さえた。

 

「月の民、オンドワナという名、月から見た大陸。ここは作り物」

 

指が少し動く。

 

「西に何かあるかもしれない。別の地図に似ている気がした。ここは、あなたも全部は捨てられていない」

 

「捨てられるなら、今すぐ捨てたいです」

 

「訂正不能な見出し」

 

バスティアンが小さく咳をした。

 

心当たりしかない顔だった。

 

編集室の空気が少し動いた。誰かが笑いそうになり、教会の咳払いを思い出して飲み込んだ気配がした。

 

俺は冷めきった紅茶を見た。

 

表面に薄い膜が張っていた。さっきまで笑われていた時には気づかなかった。

 

「では、俺はどうすれば」

 

「まず、逃げない」

 

「はい」

 

即答した。

俺は逃げない人間ではない。逃げた人生を送ってきた人間だ。今も逃げたい。ただ、逃げ道の入口にモルガーヌが立っている。

 

彼女が立つと、編集室の戸口が少し狭く見えた。

 

「次に、神が言ったとは言わない」

 

「言いません」

 

「月が命じたとも言わない」

 

「言いません」

 

「月の民から聞いたとも」

 

「言いません」

 

「では、何と言うつもり」

 

詰んだ。

 

言わないことは決まった。言うことがない。

 

俺は口を開け、閉じた。インク壺の蓋を無意味に開け閉めしたい衝動に襲われたが、手元にあるのは黒パンだけだった。黒パンを無意識に握る。トングがあれば物凄い勢いでカチカチしていただろう。

 

「……西海について、調べる価値があるかもしれない、と」

 

モルガーヌの夜紫の目が、ほんの少し細くなった。

 

「理由は」

 

「記事の中身は盛りすぎました。でも、古い船乗り話や、漂着物の噂や、西風の話は王都にもあります。そこに俺の、あの、頭の中の地図の気持ち悪い一致が重なって」

 

「気持ち悪い一致」

 

「言い方を間違えました」

 

「いいえ。今のほうが信用できる」

 

信用。

 

その単語が出た瞬間、バスティアンがこちらを見た。刷り場の少年も見た。机の下で紙束を結んでいた社員まで顔を上げた。

 

普通に生きていたら絶対に知り合わない魔女とコネができた。これから新聞のネタに困らない…といった顔をしている。それぐらいのゲスい顔だ。

 

「月蝕の魔女殿が、ユーリに信用を」

 

「編集長」

「言っていないわ」

 

俺とモルガーヌの声が重なった。

重なったことに、俺だけがひどく動揺した。モルガーヌは動揺しなかった。ずるい。

 

「私は観察すると言っただけよ」

 

「言ってないです。今初めて聞きました」

 

「では、今言うわ」

 

彼女は立ち上がった。

 

黒いドレスの裾が床の紙片をかすめ、月光の届かない午後の部屋なのに、影だけが少し濃くなった気がした。

 

「ユーリ・ミクラ。しばらく観察するわ」

 

「拒否権は」

 

「あると思う?」

 

「ないと思いました」

 

「賢明ね。初めて学者らしい返答をした」

 

「俺は学者では」

 

「では、詐欺師?」

 

選択肢がひどい。

 

だが、教会へそのまま渡されるよりはましだ。たぶん。少なくとも、火刑台より観察のための虫かごのほうがましな気がする。

 

モルガーヌは表口のほうへ目を向けた。

 

「教会には、私からも一言添える。あなたが神の声を騙ったのではなく、新聞が月の比喩を太らせたのだと」

 

「それは助かります」

 

「ただし」

 

来た。

うまい話には裏がある。

 

「あなたは私の前から逃げない。呼ばれたら来る。質問には素直に答える」

 

「難易度が高いです」

 

「生きたいなら練習なさい」

 

生存が宿題になった。

 

バスティアンが表へ向かい、従者に伝える声が聞こえた。言葉は丁寧だったが、ところどころ新聞屋の癖が混じっている。どうか余計な喧嘩を売らないでほしい。

 

俺は黒パンの欠片を口に入れた。

硬かった。

 

 

 

その時、表口ではなく、裏手の扉が控えめに叩かれた。

 

『こん、こん、こん』

 

教会の咳払いとは違う。

もっと細く、均一な音を立てていた。

 

刷り場の少年が扉を開ける。

 

外に立っていた金髪の青年が、眼鏡の位置を指で直した。

 

「失礼。学士院のセレスタン・オルセーです」

 

俺は黒パンを飲み込めなかった。

青年は、新聞を一部持ち上げた。

 

「この記事の論理的欠陥について、筆者に確認したい点が二十七あります」

 

二十七!?

 

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