締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
人生で笑われた回数なら、俺にもそれなりの蓄積がある。締切を落としかけた時。似顔絵広告の店主を別人みたいに書いた時。給料日前にパン屋の前で財布の中身を数えていた時。
普通の笑いではないものが思い浮かぶが……
だが、宗教問題の火元として笑われるのは初めてだった。
たぶん、普通は一生ない。
「珍獣としては上等ね」
モルガーヌはそう言ったまま、まだ少しだけ口元に笑いを残していた。
俺は黒パンを見た。黒パンは黙っていた。当然だ。月に喋らせたが、黒パンの声が聞こえたら、俺はいよいよ医者を呼ばれる。
表口の向こうで、教会の従者が三度目の咳払いをした。
今度の咳払いは、さっきよりも少し硬かった。石段の上で靴底を鳴らすような、礼儀で包んだ催促だ。
バスティアンが首をすくめた。
「お客様が熟成しているな」
「編集長。人をワインみたいに言わないでください」
「待たせるほど香りが立つ場合もある」
「怒りの香りですか?」
モルガーヌがカップを置いた。
かつん、と短い音がした。
それだけで、編集室の喉が全部止まった。印刷室の奥で活字を拾っていた少年まで、鉛の小箱を持ったまま固まっている。
「バスティアン」
「はい、月蝕の魔女殿」
さっきまで三流新聞社の見出しを見つけた顔をしていた編集長が、一瞬でキメ顔になった。こういう切り替えだけは速い。普段から倫理のブレーキを外している分、人道に戻るためのハンドル操作に慣れているのだろうか。
「表の従者へ伝えなさい。筆者への確認は、私が先に行っている。教会には後ほど、月の言葉ではないという点だけをまず報告する、と」
俺は思わず息をのんだ。
助け舟。
「月の言葉ではない、ですか」
バスティアンの目が光った。
やめろ。
今の一文を見出しにするな。
「紙面に載せたら」
「載せたら?」
モルガーヌの声は低くなかった。
低くないのに、首筋が冷えた。
「あなたの新聞社は…わかるわね?」
「載せません」
即答だった。
三流新聞屋にも、生存本能はある。
モルガーヌは満足したとも不満そうとも分からない顔で、俺へ視線を戻した。
「ユーリ・ミクラ」
「はい」
「笑われたから終わりだと思った顔をしているわね」
「……違うんですか」
「違うわ」
違うらしい。
「あなたは、完全な詐欺師としては雑すぎる」
「そこはもう少し優しい分類名になりませんか」
「善良な詐欺師としても半端」
「善良の部分だけ受け取っていいですか」
「詐欺師の部分を支払ってからにしなさい」
モルガーヌは新聞を広げ直した。見出しの黒い活字が、俺の罪状みたいに机の上へ並ぶ。
「ただの嘘なら燃やせばいい。神託詐称なら教会へ渡せばいい。学問なら学士院へ押しつければいい」
「俺はどこへ」
「どこにも収まりが悪い、嘘の中に、あなた自身も扱えていない勘が混ざっている」
モルガーヌはそう言って、新聞の端を指で押さえた。
「月の民、オンドワナという名、月から見た大陸。ここは作り物」
指が少し動く。
「西に何かあるかもしれない。別の地図に似ている気がした。ここは、あなたも全部は捨てられていない」
「捨てられるなら、今すぐ捨てたいです」
「訂正不能な見出し」
バスティアンが小さく咳をした。
心当たりしかない顔だった。
編集室の空気が少し動いた。誰かが笑いそうになり、教会の咳払いを思い出して飲み込んだ気配がした。
俺は冷めきった紅茶を見た。
表面に薄い膜が張っていた。さっきまで笑われていた時には気づかなかった。
「では、俺はどうすれば」
「まず、逃げない」
「はい」
即答した。
俺は逃げない人間ではない。逃げた人生を送ってきた人間だ。今も逃げたい。ただ、逃げ道の入口にモルガーヌが立っている。
彼女が立つと、編集室の戸口が少し狭く見えた。
「次に、神が言ったとは言わない」
「言いません」
「月が命じたとも言わない」
「言いません」
「月の民から聞いたとも」
「言いません」
「では、何と言うつもり」
詰んだ。
言わないことは決まった。言うことがない。
俺は口を開け、閉じた。インク壺の蓋を無意味に開け閉めしたい衝動に襲われたが、手元にあるのは黒パンだけだった。黒パンを無意識に握る。トングがあれば物凄い勢いでカチカチしていただろう。
「……西海について、調べる価値があるかもしれない、と」
モルガーヌの夜紫の目が、ほんの少し細くなった。
「理由は」
「記事の中身は盛りすぎました。でも、古い船乗り話や、漂着物の噂や、西風の話は王都にもあります。そこに俺の、あの、頭の中の地図の気持ち悪い一致が重なって」
「気持ち悪い一致」
「言い方を間違えました」
「いいえ。今のほうが信用できる」
信用。
その単語が出た瞬間、バスティアンがこちらを見た。刷り場の少年も見た。机の下で紙束を結んでいた社員まで顔を上げた。
普通に生きていたら絶対に知り合わない魔女とコネができた。これから新聞のネタに困らない…といった顔をしている。それぐらいのゲスい顔だ。
「月蝕の魔女殿が、ユーリに信用を」
「編集長」
「言っていないわ」
俺とモルガーヌの声が重なった。
重なったことに、俺だけがひどく動揺した。モルガーヌは動揺しなかった。ずるい。
「私は観察すると言っただけよ」
「言ってないです。今初めて聞きました」
「では、今言うわ」
彼女は立ち上がった。
黒いドレスの裾が床の紙片をかすめ、月光の届かない午後の部屋なのに、影だけが少し濃くなった気がした。
「ユーリ・ミクラ。しばらく観察するわ」
「拒否権は」
「あると思う?」
「ないと思いました」
「賢明ね。初めて学者らしい返答をした」
「俺は学者では」
「では、詐欺師?」
選択肢がひどい。
だが、教会へそのまま渡されるよりはましだ。たぶん。少なくとも、火刑台より観察のための虫かごのほうがましな気がする。
モルガーヌは表口のほうへ目を向けた。
「教会には、私からも一言添える。あなたが神の声を騙ったのではなく、新聞が月の比喩を太らせたのだと」
「それは助かります」
「ただし」
来た。
うまい話には裏がある。
「あなたは私の前から逃げない。呼ばれたら来る。質問には素直に答える」
「難易度が高いです」
「生きたいなら練習なさい」
生存が宿題になった。
バスティアンが表へ向かい、従者に伝える声が聞こえた。言葉は丁寧だったが、ところどころ新聞屋の癖が混じっている。どうか余計な喧嘩を売らないでほしい。
俺は黒パンの欠片を口に入れた。
硬かった。
その時、表口ではなく、裏手の扉が控えめに叩かれた。
『こん、こん、こん』
教会の咳払いとは違う。
もっと細く、均一な音を立てていた。
刷り場の少年が扉を開ける。
外に立っていた金髪の青年が、眼鏡の位置を指で直した。
「失礼。学士院のセレスタン・オルセーです」
俺は黒パンを飲み込めなかった。
青年は、新聞を一部持ち上げた。
「この記事の論理的欠陥について、筆者に確認したい点が二十七あります」
二十七!?