締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第13話 学士院の鼻笑い

俺は口の中にパンを入れたまま、裏手の扉に立つ金髪の青年を見た。きっちり整えた髪。細い銀縁眼鏡。手には問題の記事。

『学士院』

その単語は、俺の胃にとって教会よりは優しい。教会は物理的に火あぶりの可能性があるが、学士院はネチネチと精神的に追い詰められるだけだ。それもダメージがあるが。

 

「この記事の論理的欠陥について、筆者に確認したい点が二十七あります」

 

二十七。

あの三文記事からよくそんなに分析できるものだと感心してしまう。

 

「多いですね」

 

俺はやっと黒パンを飲み込んだ。喉が紙やすりになった。

 

「少なくまとめました」

 

青年は真顔だった。

少なくまとめて二十七!

 

「セレスタン・オルセー」

 

モルガーヌが名前を呼んだ。

青年の背筋が一瞬だけ伸びる。月蝕の魔女を見て、鼻で笑う予定だった顔が、礼儀の形へ戻った。

 

「月蝕の魔女殿。ご同席とは存じませんでした」

 

「知っていたら来なかった?」

 

「来ました。ただ、鼻で笑う角度を少し調整しました」

 

調整しないでほしい。

俺の人生を学術的な角度で鼻笑いしないでほしい。

 

表口のほうでは、教会の従者に何かを説明するバスティアンの声がまだ聞こえていた。丁寧だが、ところどころ売れる見出しを探している声だ。こっちは裏手から学士院。表には教会。室内には魔女。

俺は新聞社の机の端に追い詰められた、記事を書ける以外に取り柄のない小動物だった。

 

「ユーリ・ミクラさん、で間違いありませんね」

 

セレスタンがこちらを見た。

 

「できれば別人であってほしいです」

 

「では、別人でないものとして進めます」

 

容赦がない。

 

彼は小さな帳面を開いた。紙面に細い字がびっしり並んでいる。あれが二十七の墓標か。

 

「第一。月の民が西の大陸を見た、という記述について。観測者、観測方法、観測日時、記録媒体のいずれも記事内に示されていません」

 

「怪奇記事だったので」

 

「怪奇であれば根拠が不要になる、という規則は学士院にはありません」

 

「この新聞社、月桂冠通信にはあります」

 

印刷室の奥で誰かが小さく咽ていた。

 

セレスタンは眼鏡を押し上げた。

 

「第二。オンドワナという地名の出典。航海記録、古地図、異国語の写し、いずれですか」

 

俺はモルガーヌを見た。

彼女は優雅にカップを持ち上げただけだった。助け舟の形をした沈黙だ。

素直に答えろ。

さっき命じられたばかりだ。

 

「……仮名です」

 

「仮名」

 

セレスタンの声が一段冷えた。

 

「仮名を、大見出しに?」

 

「大見出しにしたのは俺では」

 

表口から戻りかけていたバスティアンが、扉の陰で足を止めた。派手なベストだけが見えている。

 

「編集長」

 

「私は教会への報告で忙しい」

 

「忙しい人は壁の陰で聞き耳を立てません」

 

「壁にも読者はいる」

 

子供でももっとましな言い訳をするだろう。

セレスタンはそのやり取りを、実験室の汚れた器具を見る目で見た。

 

「第三。西海の向こうに大陸があるとする根拠。記事では、月から見た、という詩的表現に寄せていますが、実際に参照したのは何ですか」

 

来た。

 

「古い船乗り話、西風の噂、漂着物の話……そういうものは、王都にも少しあります」

 

「少し、とは」

 

「噂として、です。サン=リュンヌの船乗りが西海で星が消える夜を見たとか、遠い浜に見慣れない貝が流れ着いたとか」

 

「貝は海で流れます」

 

「はい」

 

「星は雲で消えます」

 

「はい」

 

「西風は吹きます」

 

「それは、まあ」

 

俺の根拠が、ひとつずつ普通の自然現象に処刑されていく。

ロマンがない!!

 

モルガーヌが短く笑った。

 

「いい刺し方ね」

 

「褒めないでください。刺されているのは俺です」

 

「標本は静かに」

 

標本になった。

 

セレスタンは帳面の端を指で押さえた。

 

「第四。保存根菜について。『土中に眠る白き月の実』という表現は、植物分類として不適切です」

 

それはそうだ。そもそも三流新聞社の与太話なのだ。植物分類学など知ったことではない。

 

「俺はそんな分類名で書いてないです」

 

「では、誰が」

 

バスティアンの派手なベストが、扉の陰から半歩引っ込んだ。

 

「編集上の文字装飾です」

 

「装飾で農学を汚さないでいただきたい」

 

「農学の方に謝ればいいですか」

 

「まず芋に謝るべきでしょう」

 

セレスタンの真顔が少しも崩れない。

俺は不覚にも納得しかけた。芋には本当に申し訳ない。

 

「ですが」

 

彼はそこで初めて、ほんの少しだけ鼻で息を抜いた。

笑いというには冷たい。鼻笑いというには、意外に熱がある。

 

「悪質です。非常に悪質です。ただ、構造は面白い」

 

「面白い?」

 

俺の声が裏返った。

面白がられるのは危険だ。今朝から、面白がる人間はだいたい俺の逃げ道を塞いでくる。

 

「断定を避けています。逃げています。にもかかわらず、読者が勝手に断定できる余地を残している。これは論文なら落第、広告なら巧妙、神学なら危険です」

 

「新聞なら?」

 

バスティアンが小声で言った。

 

「訂正記事を大きく載せるべきです」

 

「急に面白くなくなった」

 

「編集長、黙っていてください」

 

俺は反射で言った。

この人が喋ると、欠陥が二十八に増える。

 

セレスタンは俺へ向き直った。

 

「確認します。あなたは、月の民から聞いていない」

 

「聞いていません」

 

「月が命じたわけでもない」

 

「命じていません」

 

「神託ではない」

 

「違います」

 

表口の向こうで、教会の従者がまた咳払いをした。

俺の否定は、なぜかいつも教会関係者の耳に届きそうな距離で行われる。人生の設計が悪い。

 

セレスタンはその音を聞き、声をさらに整えた。

 

「では、残るのは、根拠の薄い西海調査提案です」

 

「提案というほど立派なものでは」

 

「では、根拠の薄い西海雑感」

 

「急に安くなりましたね」

 

「安いのは中身です」

 

正論が痛い。

 

俺は机の上の新聞を見た。大見出しは黒々としていて、俺の言い訳よりずっと強そうだった。あの活字はもう王都のあちこちで切り取られ、貼られ、読み上げられている。

ここで全部嘘ですと叫んでも、たぶん声は見出しに負ける。

 

「でも」

 

言ってから、しまったと思った。

モルガーヌの夜紫の目がこちらへ向く。

セレスタンの眼鏡もこちらへ向く。

表口の教会の従者まで、こちらへ向いた気がした。

 

「でも?」

 

「西に何もないと、証明されたわけでもないですよね」

 

沈黙。

 

俺は自分の口を縫いたくなった。

これは逃げの文句だ。苦し紛れだ。三流記事の端に小さく入れる「諸説あり」と同じで、責任を薄くするための濡れた紙だ。

 

だが、セレスタンはすぐには切り返さなかった。

 

「……その言い方は、卑怯です」

 

「すみません」

 

「ないことを証明するのは不可能です」

 

「本当にすみません」

 

「ただし」

 

ただし。

 

俺の胃が、そこで変な止まり方をした。

 

「否定はできません」

 

セレスタンは帳面を閉じた。

 

「西海へ行った船乗りの整理されていない航海記録があります。学士院にも、漁師や港町から集めただけで棚に眠っている報告がある。貝、潮、鳥、星の見え方。単独では噂でも、並べる価値はあります」

 

並べる価値。

その言葉は、俺の胸の奥に妙な重さで落ちた。

 

前世で、そういう学問の話を読んだことがある。

王様や戦争の記録ではなく、村の言い伝え、祭り、道端の祠、祖母から聞いた昔話みたいなものを拾って、普通の人たちの暮らしを掘る学問。

それでも、船乗りの噂、漁師の言い伝え、港町の小さな違和感を並べることに意味があるなら。

俺の三文記事は、全部が汚点ではなく、棚の奥に手を伸ばす乱暴なきっかけくらいにはなったのかもしれない。

 

ほんの少しだけ、胸が軽くなった。

胃は痛いままだった。

入口の先にあるのは、たぶん尋問室と請求書だからだ。

 

モルガーヌがカップを置いた。

 

「よかったわね、ユーリ。三流記事の火元から、学士院の棚を開けさせる厄介者に昇格よ」

 

「昇格の香りがしません」

 

「正しい鼻ね」

 

セレスタンは俺を見た。

 

「あなたの無知は不快です」

 

「はい」

 

「記事の盛り方は最悪です」

 

「はい」

 

「ですが、資料室で確認すべき点があります」

 

その瞬間、表口のほうで教会の咳払いとは違う音がした。

金属が布袋の中で触れ合う、軽い音。

 

バスティアンが顔だけこちらへ出し、ものすごく売れそうな顔をした。

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