締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第14話 商人は西を向く

表口で鳴った金属音は、教会の鈴でも、学士院の実験器具でもなかった。

布袋の中で硬貨が触れ合う音だった。

この世で一番分かりやすく、人を黙らせる(かね)である。

 

バスティアンの顔が、見出しを見つけた時の顔になった。

 

「お客様だ」

 

「編集長、もうこれ以上お客様はこのぼろい新聞社には入れません」

 

「馬鹿野郎、ネタを逃がすのは新聞記者失格だ」

 

表口から入ってきたのは、濃緑の上着を着た男だった。胸元に金糸で小さな帆船の印が縫われている。手には布袋。腰には帳面。笑顔は丁寧だが、目だけが値札を探していた。

 

「失礼いたします。《月桂冠通信》様でお間違いなく?」

 

「もちろん。王都で今もっとも月に近い新聞社だ」

 

バスティアンが胸を張った。

近いのは火刑台ではないだろうか。

 

男は深く頭を下げた。

 

「ヴェルヌ商会の者でございます。本日付の記事に関しまして、広告枠と協賛告知をお願いに参りました」

 

ヴェルヌ商会。

その名は俺でも知っている。穀物、塩、布、船荷、倉庫。王都の商売で、どこかに金貨の匂いがすれば大抵そこにいる大商会だ。

 

「広告枠?」

 

セレスタンが眼鏡の奥で眉をひそめた。

学士院は商人が嫌いらしい。

 

番頭らしき男は帳面を開いた。中から刷り見本が数枚出てくる。まだインクも乗っていないのに、見出しだけはやけに堂々としていた。

 

『オンドワナ航路準備積立』

『西方作物先買い権』

『月の民が示した新市場へ』

 

俺は三枚目を見た瞬間、息が詰まった。

 

「示してません」

 

「はい?」

 

「月の民は、何も示してません。そもそも月の民がいません」

 

表口の教会従者が、また咳払いをした。

最悪のタイミングである。

 

モルガーヌが紅茶のカップを持ち上げた。

 

「続けなさい、珍獣。今の否定は生存に必要よ」

 

「できれば珍獣でない肩書きも必要です」

 

「まだ早いわ」

 

進歩することはあるのだろうか。

番頭は困ったように、しかし目は鋭くこちらを見ている。

 

「もちろん、商会としても神託とは申し上げません。あくまで、西海に関する期待の整理でございます」

 

「期待の整理」

 

セレスタンの声が冷えた。

 

「存在未確認の大陸を前提に、金を集めるのですか」

 

「前提にはいたしません。準備でございます」

 

「言葉を替えれば許されると思っていますか」

 

「言葉を替えなければ売れません」

 

こいつ、正直だ。

金を目の前にした商人ほど怖いものはない。この時代、倫理観が薄っぺらい。なんでもござれだ。商売で恨みを買うと夜道が怖い。

 

バスティアンが刷り見本を受け取った。

 

「積立は一口銀貨三枚、か。悪くない。広告文は少し硬いな。『今、西を向いた者から席が埋まる』ではどうだ?」

 

「編集長!」

 

「なんだ」

 

「席を埋めないでください。船も大陸もまだありません」

 

「だから今だけ席が空いている」

 

バスティアンと商売っ気のある商人、最悪のコンビだ。

 

前世にも、まだ取れていない作物や、まだ届いていない荷物に先に値段をつける仕組みがあった気がする。詳しくは知らない。知っていたら、俺は前世でも今世でも、もう少し財布に優しい人生を送っている。

ただ、今目の前にあるのは知識ではない。

俺の記事をきっかけに、銀貨三枚の広告収入があるかもしれないということだ。ボーナスを期待したい。少し胃の粘膜が回復してきた。

 

「あの、ヴェルヌ商会さん」

 

「はい、筆者様」

 

室内の全員が俺を見た。

 

「なぜ俺だと」

 

「皆様の視線が」

 

やめて。

味方の目線で身元を売らないで。

 

バスティアンが咳払いした。

 

「当社は筆者の安全と匿名性を大切にしている」

 

「今さら遅いです。文責で載せたじゃないですか」

 

俺は机に手をついた。

薄給の三流記者が、商会、学士院、魔女に囲まれている。教会は外だ。歴史の教科書で見た植民地分割の風刺図のようだ。この場合分割されるのは俺か...

 

番頭は布袋をそっと机に置いた。

硬貨がまた鳴った。

 

「こちらは広告前金でございます。月桂冠通信様の紙面に、明朝から三日連続で告知をお願いしたい」

 

「こんな未確認の与太話に広告を払うのですか?」

 

「ですから、確認前だから価値があるのでございます」

 

セレスタンが声を荒げる。

 

「確認前であることが、なぜ価値になるのです!」

 

番頭は少しだけ首を傾けた。

 

「確認後では、皆が殺到して買えなくなります。機を見るに聡い」

 

沈黙。

 

俺はその理屈が、あまりに商人として正しいことに絶望した。

まだ分からないから安い。分かってからでは遅い。噂の段階が一番よく売れる。

東市場の露天商と同じ理屈だ。ただし、鶏羽根ではなく銀貨を束にしている。

 

「おやめください」

 

俺は絞り出した。

 

「西に何かあるかもしれない、というだけです。大陸とは決まっていない。航路もない。作物もない。俺の記事は、かなり盛られた怪奇記事です」

 

「承知しております」

 

「承知して売るんですか」

 

「はい」

 

強い。

商人の覚悟が決まっている。

 

「筆者様の記事のおかげで、市場が西を向きました」

 

番頭は静かに言った。

 

「倉庫番は帆布の在庫を数え直し、船主は古い船を修理する値段を尋ね、港町サン=リュンヌの商人へ早馬を出す者もおります。真偽が定まる前に、準備する者だけが最初の荷を積める。商売とは、そういうものです」

 

サン=リュンヌ。

西海への港町の名が出た瞬間、俺の記事が紙面から現実の道へ一歩出た気がした。

まだ船は出ていない。

なのに、誰かの倉庫で帆布が数え直されている。

 

モルガーヌが短く笑った。

 

「よかったわね、ユーリ。あなたの三流記事、ついに倉庫を動かしたわ」

 

「褒め言葉の倉庫が空です」

 

「責任でそのうち倉庫がいっぱいになるわよ」

 

やめてほしい。

俺の倉庫は胃痛だけで満杯だ。

 

セレスタンは刷り見本に指を置いて番頭と会話する。

 

「『月の民が示した』は削除してください」

 

「では、『月の噂が開いた』では」

 

「噂は開きません」

 

「『西海調査の可能性をめぐる準備積立』」

 

「長いですが、まだましです」

 

バスティアンが露骨に嫌な顔をした。

 

「売れない見出しだ」

 

「売れなくていいです」

 

俺とセレスタンの声が重なった。

また重なった。

今度はモルガーヌが少し楽しそうにこちらを見た。

 

「学士院と三流記者が、初めて同じ方向を向いたわね」

 

番頭は二枚目の刷り見本を引っ込め、一枚目に細い字で書き込み始めた。

 

「では、神託、月の民、確定した大陸、聖なる作物、この四語は広告から外します」

 

バスティアンが布袋を指でつついた。

 

「広告料は困らない」

 

表口の従者が、そこで四度目の咳払いをした。

 

バスティアンは布袋から手を離した。

教会の咳払いは、銭ゲバも少しは冷静に戻すらしい。

 

番頭は帳面を閉じた。

 

「それと、もう一点」

 

俺の胃が先に返事をした。

嫌な音ではない。嫌な沈み方だった。

 

「会長、ヴェルヌ・ランベールより、記事の筆者様へご挨拶を申し上げたいとのことです」

 

「広告の件なら編集長へ」

 

「広告ではなく、情報の件でございます」

 

「情報はありません」

 

「情報がないことも、商人には情報でございます」

 

怖い。

何もない箱に値札を貼る専門家が来た。

 

番頭は白いカードを一枚、机の上へ置いた。厚手の紙に、帆船の印と商会長の名が押されている。インクの黒がやけに新しい。

 

バスティアンの目が、また売れそうな顔になった。

セレスタンは眼鏡を押し上げた。

モルガーヌは俺を見る。

 

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