締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
机の上に置かれた白いカードは、ただの厚紙ではなかった。
帆船の印。黒いインク。ヴェルヌ・ランベールという、商業界のビックネーム。
それが一枚あるだけで、ぼろい編集室が気品のある部屋に見えてくる。
「筆者様に、商会長がご挨拶を」
ヴェルヌ商会の番頭は、あくまで丁寧に頭を下げている。
俺はカードを指先で押し戻した。
「編集長にお願いします。筆者は留守です」
「あなたでしょう」
「心が留守です」
モルガーヌの黒い手袋が、俺の襟元に軽く触れた。
まだ引っ張られていない。触れただけだ。
それだけで逃げ道が消えるのだから、魔法より怖い。
「珍獣。心だけ逃がすのは許してあげるわ。体は置いていきなさい」
「体も俺の所有物です」
「教会と商人と学士院が欲しがっているわよ」
所有権が怪しくなってきた。何なら第一所有権は魔女だ。
バスティアンは、机の上のカードを宝石でも見るような顔で眺めていた。
「ヴェルヌ商会長が筆者に会いたい。いい響きだな。紙面の下に小さく入れるか」
「入れないでください」
「『本紙若き筆者、商会長より面会希望』」
「若きも筆者も余計です」
「若くない筆者では売れん」
表口で、教会の従者が咳払いをした。
今度は遠慮ではなく、順番を主張する咳払いだった。
バスティアンが片手を上げる。
「どうぞ。月桂冠通信は公正な新聞社です。金を払う客も、祈る客も、資料を抱えた客も歓迎する」
「編集長、歓迎の範囲が広すぎます」
入ってきた教会の従者は、先ほどより顔が硬かった。手には細長い封筒。
封蝋は教会の太陽輪だ。まだ正式な裁きではない。たぶん。そう思いたい。
「ユーリ・ミクラ様の信仰歴、所属、ならびに当該記事の執筆経緯について、上席より確認を求められております」
「様」
俺は小さく復唱した。
三流記者に様がつく時は、大抵ろくな時ではない。給金袋にはつかないのに。
バスティアンが即座にうなずく。
「筆者は当社のユーリ・ミクラ。雑文、広告、怪奇記事、穴埋め全般を担当する若き才能だ」
「売らないでください」
「売っていない。紹介している」
番頭が帳面にさらさらと書き込んだ。
やめろ。俺の名前を商人の帳面に入れるな。そこに入ったものは、たぶん利子がついて買い戻す羽目になる。
セレスタンが眼鏡を押し上げた。
「教会へ
「その通りです」
俺は勢いよくうなずいた。
ここだけは全力で乗る。命綱は蜘蛛の糸でも握る。
従者は困ったように羽根ペンを止めた。
「では、なぜ記事に」
「締め切りに追われて、新聞向けに盛りすぎただけです」
言った瞬間、室内の全員が俺を見た。
モルガーヌだけが、少し口角を上げる。
「覚えたじゃない」
「命がかかると人は暗記します」
従者はその言葉を書き留めた。
書き留めるな。そこは感想だ。
裏手の扉が叩かれた。
今度は二回。学士院の人間が好みそうな、几帳面な間隔だった。
セレスタミンが扉を見る。
「私の使いです」
「呼んだんですか」
「資料室への確認状を出しました。未整理航海記録、港町サン=リュンヌからの古い報告、漂着物の控えを閲覧するためです」
「仕事が早い」
「あなたの記事よりは遅い。あれは論理より先に王都へ走りました」
嫌な褒め方をされた。
入ってきた学士院の小使いは、革紐で巻いた書類束を抱えていた。表に大きく『西海関連照合仮票』と書かれている。
そこへ、表口から配達少年が飛び込んできた。
「編集長! 王宮書記局の使いが外に!」
俺は机の下を見た。
隠れるには狭い。だが人生には、狭さを理由に諦めてはいけない場面がある。
膝を曲げた瞬間、襟首が止まった。
モルガーヌである。
「机の下に隠れても遅いわ」
「一時避難です」
「王宮に見つかる前に魔女に見つかったのだから、運がいいと思いなさい」
どこがだ。
王宮書記局の使いは、灰色の上着に紺の腕章をつけた若い男だった。封書は持っていない。
命令ではなく確認。まだ命令ではない。そう思って俺は全財産ぶんの希望をベットした。
「本日付《月桂冠通信》の記事について、出所、編集責任者、執筆者名の確認を求められております」
バスティアンの顔が輝いた。
ああ、駄目だ。
この男は王宮の確認を、王宮に読まれた実績として売る顔をしている。
「編集責任者、バスティアン・ベルナール。執筆者、ユーリ・ミクラ。当社の若き才能です」
「だから若き才能をやめてください」
「王宮へは良い肩書きで渡した方がいい」
「渡す前提をやめてください」
王宮の使いは淡々と書いた。
教会の従者も書く。
学士院の小使いも書く。
ヴェルヌ商会の番頭は、なぜか一番字がきれいだった。
俺の名前が、紙の上で四方向へ運ばれる。
教会へ行けば信仰歴。
学士院へ行けば資料室。
商会へ行けば面会予約。
王宮へ行けば出所確認。
同じ名前なのに、行き先ごとに罪名が違う。
「違います」
俺は思わず言った。
王宮の使いが顔を上げる。
「どの点が」
全部、と言いたかった。
だが全部と言うと、俺という存在から否定しなければならない。
「神託ではありません。月の民から聞いていません。大陸が確定したわけでもありません。西海について、調べる価値があるかもしれない、というだけです」
言えた。
言えたが、室内が一瞬静かになった。
セレスタンが小さくうなずく。
「最低限、今の言い方です」
番頭は帳面を閉じた。
教会の従者は封筒を胸に抱え直した。
「上席へは、神託ではないとの暫定説明があったと伝えます。ただし、正式な確認は改めて」
正式。
その二文字が、俺の胃を締め付ける。
王宮の使いも一礼する。
「出所確認の報告として持ち帰ります。追って書記局より連絡があるかと」
追って……追うな。
小使いはセレスタンへ書類束を渡し、番頭は商会長のカードを俺の前に少し近づけた。
バスティアンだけが、部屋の真ん中で満足そうに両手を打った。
「素晴らしい。教会、学士院、商会、王宮。四方が当社の筆者を求めている。月桂冠通信、ついに王都の中心だ」
「中心ではありません。台風の目みたいな扱いです」
「売れる目だ」
「売らないでください」
バスティアンは聞いていなかった。
彼は印刷室へ向かって声を張る。
「おい、問い合わせ票をまとめろ。ユーリ宛ては別袋だ。取次は当社を通せと伝えろ」
「別袋?」
俺は嫌な予感に振り向いた。
印刷室の少年が、麻袋を一つ抱えてきた。
袋の口から、折りたたまれた紙、封筒、木札、なぜか月の羽根らしきものまで飛び出している。
バスティアンが満面の笑みで言った。
「君宛ての質問状だ」
間違えて前の話を2重で投稿したので消しました。