締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
麻袋は、郵便物の顔をした災害だった。
印刷室の少年が床に置いた瞬間、袋の口から封筒、紙片、木札、鶏羽根、月の形に切った菓子の包みまでこぼれた。
すべて俺宛て。人気ラジオのお便りコーナー並みだろうか。
「開けよう」
バスティアンが見出しを見つけた顔で言った。
「燃やしましょう」
俺は即答した。
「燃やす前に読む。読まずに燃やすのは編集者ではなく証拠隠滅だ」
モルガーヌは黒い手袋で袋の口をつまみ、少しだけ中を覗いた。
「よく育ったわね」
「俺が育てたみたいに言わないでください」
「種をまいたのは誰かしら」
返す言葉がない。
いや、返す言葉はある。締切です。編集長です。俺は被害者です。
ただし、その三つを口に出すと、バスティアンが「文責は君だ」と笑う未来が見えたので黙った。
セレスタンが眼鏡を押し上げる。
「分類しましょう。全部を同じ扱いにすると、後で本当に必要な問い合わせを見落とします」
「本当に必要な問い合わせがこの袋にありますか」
「可能性は低い。ですが、可能性が低いことと、確認を怠ってよいことは別です」
正論は刃物だ。さすが学者様。
切れ味が良すぎて、俺の逃げ道だけが薄く削られていく。
バスティアンは机の上を片づけ、羊皮紙を何枚か並べた。
「目撃談、神学、商売、求婚、その他。これでどうだ」
「求婚を最初から分類に入れないでください」
「もういくつも手紙が見えた。モテるな」
見えるな。
袋の口から薄桃色の封筒が半分出ている。封蝋の代わりに乾いた花が貼ってあった。
嫌な種類の丁寧さだった。どんな貞操観念なんだ。怖すぎる。
バスティアンが一通目を開いた。
「『昨夜、月見広場の煙突の上に、銀色の小人を三名見ました。小人は西の方を指し、パン屋の煙突へ消えました。これは月の民でしょうか』」
「ただの煤か何かを見間違えたのでしょう」
俺は即答した。
「『なお、小人の一人は帽子をかぶっていました』」
「煤に帽子を見ないでください」
モルガーヌが少し笑った。
「帽子をかぶった煤。あなたの記事よりは控えめね」
返す言葉がまた消えた。
セレスタンが紙片を横に置いた。
「月見広場、煙突、西の方を指す。目撃談としては信頼できませんが、広場で記事が読まれている影響の記録にはなります」
「それを記録しないでください。俺の裁判資料になってしまいます」
「資料は厚いほど説得力があります」
「俺の生存には薄いほど助かります」
二通目は、太陽輪を下手に写した封筒だった。
バスティアンが開く前に、俺は背筋を伸ばした。教会関係は笑えない。いや、さっきから笑えるものも笑えない。
セレスタンが文面を読む。
「『月の民が神の使いでないなら、月の民は神の民の隣人に当たるのでしょうか。隣人ならば喜捨の対象でしょうか。異端ならば〇〇〇するべきでしょうか』」
「うちは教会じゃありません。教会の懺悔室へどうぞ」
バスティアンは真面目な顔をした。
「読者相談欄を作ろう」
「作りません」
「『ユーリ先生が答える月と暮らし』」
「先生をつけないでください。暮らしてもいません」
モルガーヌが俺を見る。
「答えは簡単よ。神の声ではありません、新聞向けに盛りすぎた西海の可能性の話です」
「それを全部の封筒に写して返したい」
「写字生の給金だけ必要ね」
給金。
俺の胸が一瞬だけ現実的に痛んだ。
訂正にも金がかかる。否定にも手間がかかる。嘘は一度刷ると、訂正するたびに紙とインクと人件費を食う。
三通目は木札に紐で結ばれていた。
商人の字は、なぜこうも読みやすいのか。金が絡む文字は整っている。
「『オンドワナ航路準備組合への出資について、筆者様の推薦文を一筆いただきたく』」
俺は木札を机に戻した。
「断ります」
「まだ最後まで読んでいない」
「推薦文の時点で断ります」
セレスタンが木札を別の山に置いた。
「これは商売の問い合わせ。危険語がありますね。『月の民公認』『聖なる西海利回り』」
「利回りに聖なるをつけるな」
次の封筒は農家からだった。
紙に土がついている。
「『白き月の実を植える場合、畑は満月の方角へ向けるべきでしょうか。灰を混ぜるべきでしょうか。祈りは朝と夜の二回で足りますか』」
「芋に祈るな」
思わず本音が出た。
バスティアンが目を輝かせる。
「いいな。聖なる芋の栽培相談だ」
セレスタンが淡々と紙を押さえる。
「あなたの記事では保存性の高い根菜を示唆しただけですね」
「はい」
「見出しが悪い」
「編集長に言ってください」
バスティアンは胸を張った。
「見出しが良いからここまで来た」
「だからここまで来たんです」
言い合っている間にも、投書は増える。
袋の中身は減っているはずなのに、机の上の圧は増えていた。
月の民を見たという話は、背が指二本ぶんの小人から、鐘楼ほどの巨人までいた。銀の髪だという者もいれば、緑の肌だという者もいる。ある少年は、月の民に似顔絵を送って返事を待っていた。
薄桃色の封筒がついに開かれた。
バスティアンが声を整える。
「『月の民の殿方が独身であれば、文通から始めたいと存じます。身長、信仰、持参金の要不要をお知らせください』」
「知るか」
俺の声が編集室に落ちた。
モルガーヌは封筒の花を指先でつついた。
「よかったじゃない。あなた本人だけじゃなくて嘘の登場人物に縁談まで来たわ」
「俺の縁談も、月の民の縁談も破談です!」
「月の民の仲人ね」
「役職を増やさないでください」
バスティアンが羊皮紙に大きく何かを書き始めた。
「特集名は『月の民への手紙』でどうだ」
「どうも何もありません」
「読者参加型だ。王都は自分の見た月、自分の欲しい大陸、自分の得たい金を投書にして送ってくる。これは売れる」
「投書欄に載せるのに金をとるんですか?」
俺は月の民を書いた。
バスティアンが見出しを大きくした。
露天商が羽根を売り、商人が先物を作り、信徒が神学を送り、誰かが結婚相手まで求める。
嘘はもう、俺一人の机の上にはなかった。
王都の人間が、それぞれの不安と欲と退屈を貼りつけて、勝手に大きくしている。
「訂正記事を出しましょう」
俺は言った。
バスティアンが顔を上げる。
「出す。もちろん出す」
「本当ですか」
「『本紙筆者、過熱する投書に慎重姿勢』。その横に読者投書の抜粋を載せる」
「横に載せるな」
セレスタンが深くため息をついた。
「少なくとも、危険な語は削るべきです。神託、公認、確定、聖なる。この四つは使わない」
「では『月の民かもしれない方々へのお便り』」
「削れていません」
俺は一番上の封筒を取った。
指先にインクと乾いた花粉がついた。
「せめて、神託ではないと大きく書いてください」
セレスタンが珍しくうなずいた。
「そこだけは正しい。大きく、ただし正確に」
「大きく書こう」
「見出しより大きく」
「それは紙面の秩序に反する」
「俺の人生はもう混沌です」
その時、袋の底で硬いものが鳴った。
木札ではない。封蝋つきの厚い封書が、他の投書の下から滑り出てきた。
白い紙。金の縁取り。押された蝋には、
バスティアンのペンが止まった。
セレスタンの眼鏡が、窓の光を拾った。
モルガーヌだけが、面白そうに俺を見ている。
封書の表には、整った文字でこうあった。
ユーリ・ミクラ殿へ。