締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
夜逃げに必要なものは、身軽な荷物と、静かな足音と、少しの勇気である。
俺には、替えのシャツと財布と干し肉しかなかった。
勇気は、鞄の底をほじくり返してやっと出てきた。
下宿の部屋で鞄の口を閉めた俺は、しばらく扉を見ていた。
王都を離れず、王宮からの次報を待つこと。
王女殿下の封書にあった一文が、頭の中で何度も読み上げられる。
読み上げる声がだんだんセレスタンに似てくるのが腹立たしい。
「……散歩だ」
小声で言った。
散歩なら王宮への反抗ではない。たぶん。散歩の距離が少し長く、目的地が南部で、帰る予定が未定なだけだ。
俺は窓を少し開け、外の様子を見た。
下宿の裏手には細い路地がある。洗濯紐、空き樽、割れた石畳。夜の王都は昼間よりも湿った匂いがして、どこかの家の煮込みの残り香と、馬糞と、古い雨水が混ざっていた。
月は欠けかけている。
見ないふりをした。
俺は扉を開けた。
蝶番が鳴った。
「今のは床です」
誰に言い訳しているのか分からない。
俺は廊下を抜け、階段を降りた。下宿の女将が寝る部屋の前を通るとき、財布を押さえた。家賃を払っている。たぶん。少なくとも今月分は、払った記憶がある。逃亡前に家賃まで不安になる人生は嫌だ。
裏口の掛け金を外す。
冷たい夜気が顔に触れた。
一歩。
二歩。
三歩。
俺は裏路地へ出た。
「いける」
言った瞬間、フラグを立てた気がした。
だが、人間は言葉で自分を押すことがある。新聞屋ならなおさらだ。見出しだけ先に作って、中身をあとから埋める。俺の逃亡計画は完全にその方式だった。
第一の角を曲がる。
誰もいない。
第二の角を曲がる。
閉じた酒場の戸板が風で小さく鳴った。俺は足を止め、誰も出てこないのを確認してから進んだ。
第三の角を曲がった。
石畳の上で、俺の影が伸びた。
月は背後にある。だから影が前に伸びるのは分かる。
問題は、その影が俺の足首をつかんだことだ。
「うわっ」
声が情けなく跳ねた。
足首に黒い紐のようなものが巻きつき、膝が止まる。鞄の持ち手が肩からずれ、俺は前のめりになった。踏ん張ろうとした足まで、影に絡め取られる。
転ぶ。
そう思った瞬間、背中側から別の影が伸び、俺の胴を支えた。
鞄が落ちた。
口が開き、替えのシャツが半分出て、干し肉が石畳に転がった。
ついでに、替えの下着も出た。
「夜の散歩にしては、準備がいいわね」
路地の先、月光の下にモルガーヌが立っていた。
黒いドレスの裾が夜に溶けている。銀髪だけが青白く光り、夜紫の目がこちらを見ていた。
その顔は怒っていない。
怒っていないのが、いっそ怖い。
「散歩です」
俺は即答した。
人は追い詰められると、最初に決めた嘘へしがみつく。たとえ石畳の上に干し肉と下着が転がっていてもだ。
モルガーヌは足元を見た。
「南部まで?」
「長めの散歩です」
「替えの下着つきで」
「汗をかくかもしれないので」
「干し肉も?」
「お腹も空くかもしれないので」
「書きかけの原稿は?」
俺は鞄からのぞいた紙束を見た。
なぜ出る。せめてそこは奥にいてくれ。
「……散歩中に仕事熱心になるかもしれないので」
モルガーヌは小さく笑った。
それは声というより、月光が刃物の背を撫でたような笑いだった。
「珍獣、あなたは嘘をつくなら、荷物を選びなさい」
「次から気をつけます」
「次があると思っているの」
ありません。
心の中では即答した。口に出すと負けを認めたことになるので、俺は黙った。
影が足首をきゅっと締めた。
痛くはない。ただし、逃げられないことだけはよく分かる。
「どうして分かったんですか」
俺は聞いた。
聞かずにはいられなかった。荷造りは静かにした。窓もあまり開けなかった。廊下では足音も殺した。酒場の戸板にも見逃された。
モルガーヌは俺の鞄を影で持ち上げた。落ちた干し肉と下着が、黒い手袋の前にふわりと集まる。
「あなた、封書を読んだときに窓と財布を見たでしょう」
「それは人間なら見るものでは」
「見ない人間もいるわ」
「いるんですか」
「王宮へ行く覚悟のある人間」
俺は黙った。そんな覚悟のある庶民がいるのだろうか。
残念ながら、俺はその分類ではなかった。
モルガーヌは続けた。
「新聞社を出る前、あなたは裏口の方角を二度見た。下宿へ戻る道では南門の方を見た。そしてこの時間に下宿を出た」
「最後の方は見えてないでしょう」
「月光は便利よ」
便利の範囲が広すぎる。これが王国最強格の魔女か……。
王都内すべてを把握しようと思えばできるのか……。
俺は影に支えられたまま、路地の壁にもたれる形になった。捕まっているのに姿勢だけは丁寧に整えられる。罪人を王宮へ出す前の身だしなみみたいで嫌だった。
「怒ってますか」
「いいえ」
即答だった。
かえって胃が縮む。
「怒るほど意外ではなかったもの」
「それはそれで傷つきます」
「傷つく権利は、せめて下宿を三つ角ぶん離れてから主張なさい」
三つ角。
俺の逃亡距離が単位になった。
モルガーヌは鞄を俺の胸元へ押し返した。影が持ち手を指に絡ませる。
「王女の封書を受け取った者が、その夜に逃げる。教会と学士院と商会と王宮が、どう読むと思う?」
「……罪を認めたように見えます」
「それだけではないわ」
彼女の声が少し低くなった。
「誰かがあなたを逃がした、と読む者も出る。新聞社が隠した。商人が買った。教会が押さえた。魔女がさらった。見出しはいくらでも作れる」
俺は息を詰めた。
逃げれば楽になると思っていた。少なくとも俺一人は、王都の中心から外へ出られると。
「俺が逃げても、終わらないんですね」
「終わるわ」
モルガーヌはあっさり言った。
「あなたの人生が、悪い形で」
短い。刺さる。
俺は鞄を抱え直した。干し肉が中で硬く鳴った。
「戻ります」
「素直で結構」
影が足首からほどける。
俺は立てるようになった。逃げられるようにもなった。だが、目の前にモルガーヌがいる。自由という言葉は、使う場所を選ぶ。
「ただし、戻る前に少し話しましょう」
「ここでですか」
「いいえ」
モルガーヌは空を見上げた。
路地の上には、欠けた月と、黒い屋根の線があった。
「月がきれいだから、屋根の上で話しましょう」
「俺、高いところは得意では」
言い終わる前に、影が俺の胴と鞄をまとめて持ち上げた。
石畳が足元から離れる。
干し肉が鞄の中でまた鳴った。
俺は、三分で破綻した逃亡計画の残りを抱えたまま、夜の王都の屋根へ運ばれていった。