締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第18話 逃亡計画、一瞬で破綻

夜逃げに必要なものは、身軽な荷物と、静かな足音と、少しの勇気である。

俺には、替えのシャツと財布と干し肉しかなかった。

勇気は、鞄の底をほじくり返してやっと出てきた。

 

下宿の部屋で鞄の口を閉めた俺は、しばらく扉を見ていた。

王都を離れず、王宮からの次報を待つこと。

王女殿下の封書にあった一文が、頭の中で何度も読み上げられる。

読み上げる声がだんだんセレスタンに似てくるのが腹立たしい。

 

「……散歩だ」

 

小声で言った。

散歩なら王宮への反抗ではない。たぶん。散歩の距離が少し長く、目的地が南部で、帰る予定が未定なだけだ。

 

俺は窓を少し開け、外の様子を見た。

下宿の裏手には細い路地がある。洗濯紐、空き樽、割れた石畳。夜の王都は昼間よりも湿った匂いがして、どこかの家の煮込みの残り香と、馬糞と、古い雨水が混ざっていた。

月は欠けかけている。

見ないふりをした。

 

俺は扉を開けた。

蝶番が鳴った。

 

「今のは床です」

 

誰に言い訳しているのか分からない。

俺は廊下を抜け、階段を降りた。下宿の女将が寝る部屋の前を通るとき、財布を押さえた。家賃を払っている。たぶん。少なくとも今月分は、払った記憶がある。逃亡前に家賃まで不安になる人生は嫌だ。

 

裏口の掛け金を外す。

冷たい夜気が顔に触れた。

 

一歩。

二歩。

三歩。

 

俺は裏路地へ出た。

 

「いける」

 

言った瞬間、フラグを立てた気がした。

だが、人間は言葉で自分を押すことがある。新聞屋ならなおさらだ。見出しだけ先に作って、中身をあとから埋める。俺の逃亡計画は完全にその方式だった。

 

第一の角を曲がる。

誰もいない。

第二の角を曲がる。

閉じた酒場の戸板が風で小さく鳴った。俺は足を止め、誰も出てこないのを確認してから進んだ。

第三の角を曲がった。

 

石畳の上で、俺の影が伸びた。

 

月は背後にある。だから影が前に伸びるのは分かる。

問題は、その影が俺の足首をつかんだことだ。

 

「うわっ」

 

声が情けなく跳ねた。

足首に黒い紐のようなものが巻きつき、膝が止まる。鞄の持ち手が肩からずれ、俺は前のめりになった。踏ん張ろうとした足まで、影に絡め取られる。

転ぶ。

そう思った瞬間、背中側から別の影が伸び、俺の胴を支えた。

 

鞄が落ちた。

口が開き、替えのシャツが半分出て、干し肉が石畳に転がった。

ついでに、替えの下着も出た。

 

「夜の散歩にしては、準備がいいわね」

 

路地の先、月光の下にモルガーヌが立っていた。

黒いドレスの裾が夜に溶けている。銀髪だけが青白く光り、夜紫の目がこちらを見ていた。

その顔は怒っていない。

怒っていないのが、いっそ怖い。

 

「散歩です」

 

俺は即答した。

人は追い詰められると、最初に決めた嘘へしがみつく。たとえ石畳の上に干し肉と下着が転がっていてもだ。

 

モルガーヌは足元を見た。

 

「南部まで?」

 

「長めの散歩です」

 

「替えの下着つきで」

 

「汗をかくかもしれないので」

 

「干し肉も?」

 

「お腹も空くかもしれないので」

 

「書きかけの原稿は?」

 

俺は鞄からのぞいた紙束を見た。

なぜ出る。せめてそこは奥にいてくれ。

 

「……散歩中に仕事熱心になるかもしれないので」

 

モルガーヌは小さく笑った。

それは声というより、月光が刃物の背を撫でたような笑いだった。

 

「珍獣、あなたは嘘をつくなら、荷物を選びなさい」

 

「次から気をつけます」

 

「次があると思っているの」

 

ありません。

心の中では即答した。口に出すと負けを認めたことになるので、俺は黙った。

 

影が足首をきゅっと締めた。

痛くはない。ただし、逃げられないことだけはよく分かる。

 

「どうして分かったんですか」

 

俺は聞いた。

聞かずにはいられなかった。荷造りは静かにした。窓もあまり開けなかった。廊下では足音も殺した。酒場の戸板にも見逃された。

 

モルガーヌは俺の鞄を影で持ち上げた。落ちた干し肉と下着が、黒い手袋の前にふわりと集まる。

 

「あなた、封書を読んだときに窓と財布を見たでしょう」

 

「それは人間なら見るものでは」

 

「見ない人間もいるわ」

 

「いるんですか」

 

「王宮へ行く覚悟のある人間」

 

俺は黙った。そんな覚悟のある庶民がいるのだろうか。

残念ながら、俺はその分類ではなかった。

 

モルガーヌは続けた。

 

「新聞社を出る前、あなたは裏口の方角を二度見た。下宿へ戻る道では南門の方を見た。そしてこの時間に下宿を出た」

 

「最後の方は見えてないでしょう」

 

「月光は便利よ」

 

便利の範囲が広すぎる。これが王国最強格の魔女か……。

王都内すべてを把握しようと思えばできるのか……。

俺は影に支えられたまま、路地の壁にもたれる形になった。捕まっているのに姿勢だけは丁寧に整えられる。罪人を王宮へ出す前の身だしなみみたいで嫌だった。

 

「怒ってますか」

 

「いいえ」

 

即答だった。

かえって胃が縮む。

 

「怒るほど意外ではなかったもの」

 

「それはそれで傷つきます」

 

「傷つく権利は、せめて下宿を三つ角ぶん離れてから主張なさい」

 

三つ角。

俺の逃亡距離が単位になった。

 

モルガーヌは鞄を俺の胸元へ押し返した。影が持ち手を指に絡ませる。

 

「王女の封書を受け取った者が、その夜に逃げる。教会と学士院と商会と王宮が、どう読むと思う?」

 

「……罪を認めたように見えます」

 

「それだけではないわ」

 

彼女の声が少し低くなった。

 

「誰かがあなたを逃がした、と読む者も出る。新聞社が隠した。商人が買った。教会が押さえた。魔女がさらった。見出しはいくらでも作れる」

 

俺は息を詰めた。

逃げれば楽になると思っていた。少なくとも俺一人は、王都の中心から外へ出られると。

 

「俺が逃げても、終わらないんですね」

 

「終わるわ」

 

モルガーヌはあっさり言った。

 

「あなたの人生が、悪い形で」

 

短い。刺さる。

俺は鞄を抱え直した。干し肉が中で硬く鳴った。

 

「戻ります」

 

「素直で結構」

 

影が足首からほどける。

俺は立てるようになった。逃げられるようにもなった。だが、目の前にモルガーヌがいる。自由という言葉は、使う場所を選ぶ。

 

「ただし、戻る前に少し話しましょう」

 

「ここでですか」

 

「いいえ」

 

モルガーヌは空を見上げた。

路地の上には、欠けた月と、黒い屋根の線があった。

 

「月がきれいだから、屋根の上で話しましょう」

 

「俺、高いところは得意では」

 

言い終わる前に、影が俺の胴と鞄をまとめて持ち上げた。

石畳が足元から離れる。

干し肉が鞄の中でまた鳴った。

 

俺は、三分で破綻した逃亡計画の残りを抱えたまま、夜の王都の屋根へ運ばれていった。

 

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