締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第1話 売れない新聞社の月曜日

月曜日の早朝、天井から雨が落ちてきた。

 

正確には雨漏りだ。王都リュミエールの春雨はしとやかで、石畳を濡らすぶんには絵になる。けれど三流新聞社《月桂冠通信》の編集室に落ちると、ただの経営危機の音になった。

 

ぽたり。

 

机の上の空白だらけの紙面に、丸い染みが広がる。

 

「ユーリ、そこを埋めろ」

 

編集長のバスティアン・ベルナールが、インクの染みた指で天井を指した。丸眼鏡の奥の目は、雨漏りより紙面の空白を憎んでいる。

 

「天井をですか」

 

「紙面だ。天井は来月直す」

 

「先月もそう言ってましたよね」

 

「来月は常に来月だ」

 

この人、たまに真理みたいな顔で借金の言い訳をする。

 

俺は雑巾を広げ、空白欄の上へ置いた。すると、バスティアンが悲鳴に近い声を上げた。

 

「馬鹿、記事を隠すな!」

 

「記事はありません。白紙です」

 

「ならなおさら隠すな。白紙にも読者の夢が宿る」

 

宿るのは編集長の現実逃避だと思う。

 

《月桂冠通信》は、王都リュミエールの東市場裏にある小さな新聞社だ。立派な名前のわりに、月桂冠らしいものは玄関の欠けた看板に描かれたしおれた葉だけ。

 

俺、ユーリ・ミクラはそこで雑文係という三流記者をしている。

 

雑文係。

 

響きだけなら文化の香りがするかもしれないが、実態は「空いたところに何か書く係」だ。落とし物の告知、靴屋の広告文、劇場の安っぽいステマ記事、貴族の舞踏会での婚約破棄の顛末。この三流新聞の隙間は、だいたい俺の薄給軽薄文章で埋められている。

 

そして今日の隙間は、あまりにも広かった。

 

紙面の中央、見開きの一番目立つ場所が、堂々と白い。

 

「編集長」

 

「なんだ」

 

「この穴、俺の人生より大きいです」

 

「よかったな。人生にまだ余白がある証拠だ」

 

「新聞の余白は売れません」

 

「だからおまえが埋めるんだ」

 

バスティアンは派手な赤いベストの腹を叩いた。なぜ赤いのかと聞いたら、以前「赤字を着こなしている」と答えられた。笑っていいのか分からず、俺はその日から少しだけ彼を尊敬している。かもしれない。

 

奥の印刷室から、鉛の活字を並べる音が聞こえる。

 

かちり、かちり。活版印刷の活版を組む音だ。

 

あの音は嫌いではない。こちらでは文字のハンコを並べて文章にする。一度組まれたら簡単にはなかったことにできない。

 

だから新聞屋は、きっと言葉に慎重であるべきなのだ。

 

そう思いながら、俺は昨日、パン屋の新作広告に「噛めば王都の春が広がる」と書いた。実物は硬すぎて、噛めば歯が折れて、歯医者の予定が埋まるパンだった。

 

人間は理想だけでは生きられない。

 

「特ダネはないんですか。火事とか、決闘とか、貴族の婚約破棄とか」

 

「火事は雨で消えた。決闘は双方寝坊。婚約破棄は、憧れた学園の生徒が劇でやっただけだ」

 

「平和ですね」

 

「新聞にとっては災害だ」

 

バスティアンは人の不幸も飯のタネと思うタイプの人間だ。やはり尊敬できない。

 

「真実は遅れて来るが、締切は先に来る」

 

「今の名言っぽいですね」

 

「紙面に載せるか?」

 

「自分の墓碑銘にします」

 

「ならまだ早い。生きて記事を書け」

 

ひどい職場だ。だが、他に行くところもない。

 

俺には、この世界で立派にやっていけるだけの肩書きも、血筋も、魔法の才能もなかった。あるのは栗色の癖毛と、寝不足でくすんだ灰緑の目と、なぜか前の世界の記憶が少しだけ残っていることくらい。

 

その記憶も、役に立つようで立たない。

 

前世の俺は、歴史学者でも冒険家でもなかった。地図は見たことがある。大きな海の向こうにアメリカ大陸があったことも知っている。けれど細かい年代も航路も、誰がどこへ行ったかも、驚くほど曖昧だ。

 

たぶん学校で習った。たぶん試験のあと忘れた。前世の俺、もう少し未来の俺に優しくしておいてほしかった。若人よ、しっかり勉強したほうがいいぞ。異世界転生したときに役に立つ。

 

「海外欄は?」

 

「東方の香辛料価格高騰は先週やった。南方の王子来訪は、王子ではなく商人の甥だった。北方の雪男は、毛皮を着た徴税官だった」

 

「徴税官のほうが怖いですね」

 

「怖いだけでは売れん。読者は怖くて、甘くて、少しありがたいものを欲しがる」

 

「新聞に砂糖でも振ります?」

 

「湿気るだろうが」

 

そこは現実的なんだな。

 

バスティアンは白紙の中央を睨んだ。白い紙は黙っている。締切前の白紙は痛いほどの沈黙がある。

 

「怪奇はどうだ」

 

「またですか」

 

「月見広場の老婆が、昨夜の月に人影を見たと言っていた」

 

「それ、毎月言ってますよね」

 

「継続は信頼だ」

 

「耄碌では」

 

「ユーリ、読者に失礼だぞ。こんな三流紙を買ってくれている貴重な読者だ。そうだ月で何かネタを書くか?」

 

俺は口を閉じた。こういう時のバスティアンは脳の回転は速い。倫理ではなく部数が基準になるから、俺の常識も通じない。

 

窓の外は暗い。雨も降っており、新聞社の朝は早いため、街の屋根がかろうじて見えるかぐらいだ。王都リュミエールは華やかな都だが、夜は月明かり以外の光がない。

 

この国では、月はただの夜の飾りではない。

 

祈りの対象で、暦で、祭りで、時々かなり面倒な権威だ。

 

「月ネタは危なくないですか。教会に怒られません?」

 

月は女神の象徴になっており、教会が絡むのだ。

 

「怒られるほど売れれば勝ちだ」

 

「怒られる前提で勝敗を組まないでください」

 

「心配するな。神学には触れん。読者が勝手に神秘を感じる程度にする」

 

それが一番危ない気がする。

 

俺は腕を組み、白紙を見下ろした。

 

穴埋め記事。読者の目を引くもの。けれど大事件ではなく、来週には忘れられるもの。

 

誰にも怒られず、俺の給金が払ってもらえて、印刷機が止まらない程度のもの。

 

前世の記憶が、泥水の底から泡のように浮かんだ。

 

見出しが大げさな記事。ほとんど中身がないのに、妙に気になって押してしまう題名とスキャンダルで発行部数を稼ぐことに特化した雑誌。

 

ああいうのは、嘘というより娯楽だった。たぶん、少なくとも、きっと、読んだ人間が翌日に世界を動かす類のものではなかった。

 

なんかたまにスキャンダルで世界を動かしていた気もするが。

 

この世界ではどうか。

 

その疑問を、俺は残念ながら深く考えなかった。すべての始まりだった。

 

「月とか、西の果てとか、失われた大陸とか書けば売れるんじゃないですか」

 

バスティアンの丸眼鏡が光った。

 

言ってから、しまったと思った。

 

それは、金庫の鍵が半開きだと気づいた泥棒の眼だった。

 

「続けろ」

 

「いえ、今のは冗談で」

 

「嘘から出た誠という言葉もある」

 

「」

 

「月。異国。失われた大陸。いいぞ。香りがある。怖くて、甘くて、少しありがたい」

 

バスティアンは白紙の中央を、インクの付いた指でとん、と叩いた。

 

白い紙に黒い指紋が残る。

 

それが、妙に消えない傷みたいに見えた。

 

「西の海は空白だ。船乗りは嫌な噂を語る。教会は月を語る。商人は新しい産地を欲しがる。読者は退屈している。そこへ我々が、品よく火を投げる」

 

「火は投げた時点で品がないです」

 

「なら灯火だ」

 

「燃え広がる予定の灯火ですよね」

 

「ユーリ」

 

バスティアンは俺の肩に手を置いた。インクの匂いがする。金策に失敗した男の手なのに、こういう時だけ妙な熱があった。

 

「真実は遅れて来る。だが読者の空腹は今ここにある」

 

「物理的には減っていないでしょう。今の治世はすくなくとも安定している。」

 

「雑文係が何を言う」

 

反論できない身分さで殴られた。

 

印刷室の音が速くなる。かちり、かちり、かちり。活字が組まれ、紙が待っている。雨漏りはまだ続いている。白紙はまだ白い。

 

俺は羽根ペンを取った。

 

この時の俺は、本当にただの穴埋めだと思っていた。

 

月の民だの、西の海だの、失われた大陸だの。そんなものは紙面の片隅で少しだけ読者を笑わせ、翌日には市場の包み紙になる。その程度の、軽い冗談。

 

俺はまだ知らない。

 

冗談が活字になると、重くなることを。

 

「で、見出しは?」

 

「まだ本文もありません」

 

「見出しが先だ。本文は見出しに従う」

 

「思想が危険です」

 

「危険な思想ほど売れる」

 

バスティアンはにやりと笑い、空白欄をもう一度叩いた。

 

「月、異国、失われた大陸。これでいこう」

 

俺の胃が、キリキリする音がした。

 

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