締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第19話 月光下の事情聴取

屋根の上は、逃亡犯の取調室としては最高だった。

なぜなら逃げられないからだ。

それどころか、身動きすることが怖い。

屋根は冷たい。傾いている。少し動くと尻がずれる。下を見れば、路地が細い黒い溝になっている。

俺は高いところが苦手だ。

 

「動かない方がいい」

 

モルガーヌが隣に立っていた。

黒いドレスは夜に溶け、銀髪だけが欠けた月の光を拾っている。俺の鞄は影に吊られ、膝の横で揺れていた。干し肉が中で小さく鳴る。

 

「それは落ちるからですか」

 

「落ちても死なないようにはするから、落ちる前に答えなさい」」

 

座り心地だけでなく、質問の入り方も悪い。

俺は瓦に両手をつき、なるべく屋根の中心へ尻を寄せた。逃げようとすれば影が止める。

 

モルガーヌは月を背にして俺を見下ろした。

 

「西に大陸がある。あなたは、なぜそう思ったの」

 

「なんとなくです」

 

「その答えは前にも聞いたわ」

 

「便利なので、何度でも使えます」

 

「便利な言葉は、教会で使うと首を締める縄になるわよ」

 

俺は黙った。

月と太陽の教会。王宮。学士院。商人。新聞社。

俺の雑な記事は、すでにいくつもの手に回されている。そこへ「なんとなく」を出すと、誰かが勝手に神聖な縄にしてくれる。ありがたくない。

 

モルガーヌは屋根の端へ腰を下ろした。彼女はまったく揺れない。

影で支えているのだろうか。

 

「質問を変えるわ。あなたの中に、見たことのない地図がある?」

 

俺の喉が詰まった。

さっきまで夜気は冷たかったのに、首の裏だけ熱い。

 

「……地図、というほど正確なものでは」

 

「では、何」

 

「夢みたいなものです」

 

言った瞬間、嫌な汗が出た。

夢。神の声。月の告げたもの。啓示。

この世界でその辺の言葉を雑に使うのは、地雷原でタップダンスを踊るようなものだ。

 

モルガーヌの目が細くなる。

 

「続けなさい。ここには教会の書記はいないわ」

 

「いないんですか」

 

「少なくとも、この屋根の上には」

 

「下の路地にいたらどうするんです」

 

「消すわ」

 

「存在を!? 記憶を!?」

 

解決になっているのか分からないが、月蝕の魔女の声は低くて本気だった。

 

「俺には、ここではない場所の記憶が少しあります」

 

モルガーヌは遮らなかった。

 

「生まれる前に見た夢みたいなものです。町も、文字も、服も違う。国の名前も違う。そこで見た地図では、西の海の向こうに大きな陸がありました」

 

口に出すと、ひどく頼りなかった。

前世。転生。そう呼べるのかどうかも、俺には分からない。ただの夢ではないと思いたい。

 

「その世界では、誰が西の陸を見つけたの」

 

「昔の船乗りです。名前は……覚えていますが、言っても意味がないと思います。こちらの人ではありません」

 

「船は、月に導かれた?」

 

「いいえ。少なくとも、俺の知っている話では」

 

「月の民は」

 

「いません」

 

そこだけはすぐに答えられた。

俺の記事の一番ひどい部分だ。月の民はいない。見たわけでも聞いたわけでもない。締切と見出しと、バスティアンの目の輝きに負けて生まれた、紙面上の住人である。

 

モルガーヌは息を吐いた。

 

「月の民は捏造。西の大陸は、別の世界の記憶。白い根の作物も同じ?」

 

「たぶん」

 

「たぶん」

 

「俺も、どこまで本当か分からないんです」

 

ようやく出た声は、自分でも情けないほど小さかった。

 

「その地図がこの世界と同じ形とは限りません。海流も、風も、国も違うかもしれない。俺は航海者じゃないし、学者でもない。ただ、似ている気がした。西に何かあるかもしれないと思った。それを、穴埋め記事にしました」

 

「月の民を足して」

 

「足しました」

 

「聖なる芋も足して」

 

「あれは編集長が増やしました」

 

「責任を半分だけ屋根から落とそうとしない」

 

「すみません」

 

干し肉が鞄の中でまた鳴った。こんな場面で主張する食料があるか。

俺は鞄を押さえようとして、影に先に押さえられた。持ち主より鞄の管理がうまい影だった。

 

モルガーヌは俺の顔をじっと見た。

嘘を見抜く魔法が本当にあるのかは知らない。けれど、彼女の前では、嘘をつくより先に自分の言葉が薄くなる。

 

「あなたは、自分のその記憶を信じているの」

 

「信じたい時と、なかったことにしたい時があります」

 

「今は」

 

「なかったことにしたいです」

 

「正直ね」

 

褒められた気はしなかった。

 

「でも、完全になかったことにはできない。あなたは西に何かあると思っている。だから逃げた。王宮で説明を求められたら、嘘だけでは済まないと分かっているから」

 

俺は返事を探した。

見つからなかった。

逃げた理由は怖かったからだ。王宮が怖い。教会が怖い。商人の金貨袋も怖い。バスティアンの前向きさも怖い。

でも、その奥にもう一つある。

もし本当に西に何かあるなら。

もし俺の雑な記憶が、誰かの船を動かすなら。

その時、俺は「嘘でした」とだけ言って机の下に隠れられるのか。

 

隠れたい。

だが、机の下にもたぶんモルガーヌの影が入ってくる。

 

「俺は、責任を取れるほど偉くありません」

 

「みんながきちんとが責任を取るなら、世の中はもう少し静かよ」

 

「嫌な真理を屋根の上で渡さないでください」

 

「下で渡すと逃げるでしょう」

 

「実績があります」

 

「三つ角ぶんね」

 

俺の逃亡距離がまた単位になった。

 

モルガーヌは立ち上がった。影が彼女の足元から薄く広がり、瓦の隙間を黒くなぞる。

 

「分かったことがあるわ」

 

「俺が浅はかだと」

 

「それはもう知っている」

 

早い。

 

「あなたの嘘は、全部が嘘ではない。けれど本当とも言えない。本人が扱い方を知らなくて箱をいじっていたらパンドラの箱が空いたわね」

 

彼女は俺の前に立ち、少し身をかがめた。夜紫の目が近い。月光がその奥で、細く揺れている。

 

「王宮では、記憶と言ってもいい。推測と言ってもいい。地図の断片に似たもの、と言い換えてもいい」

 

「かなり苦しいです」

 

「苦しい言い換えで生き延びるのが、あなたの仕事でしょう」

 

三流記者の職能が、こんなところで国家案件に使われようとしている。

 

モルガーヌの声が低くなった。

 

「でも、教会がいたら、その言い方をしてはだめ」

 

「夢、ですか」

 

「夢。声。告げられた。見せられた。授かった。月が、神が、民が。全部だめ」

 

「では、何と言えば」

 

「まだ言わない」

 

「え」

 

「言葉を選ぶ前に、あなたが何を隠して、何を出すかを決める。明日の朝、新聞社で整理するわ。セレスタンも使えるでしょう」

 

「使えるって、学士院の人間を工具みたいに」

 

「あなたよりは精密よ」

 

反論できないのが悔しい。

 

モルガーヌは俺の鞄を影で持ち上げた。替えのシャツ、財布、干し肉、書きかけの原稿。俺の浅い逃亡計画一式が、月光の下で静かに揺れる。

 

「今夜は下宿へ戻りなさい。窓から月を見ないふりをしても無駄よ」

 

「監視しますか」

 

「観察するだけ」

 

「俺にとっては同じです」

 

「なら、逃げない理由が増えたわね」

 

影が俺の背中と膝を支えた。

屋根から降ろされるのだと分かって、少しほっとした。直後に、これから眠れるわけがないと気づいた。

 

モルガーヌは最後に、俺の耳元で静かに言った。

 

「明日、教会の者が来るかもしれない。最初の一言で死にたくなければ、今夜は口の中で余計な言葉を育てないこと」

 

「育てたら」

 

「私が刈るわ」

 

どのくらい物理的に刈るのか、聞けなかった。

影が俺を持ち上げる。欠けた月が少し遠ざかり、屋根瓦の冷たさが尻から消えた。

俺は、口の中で「夢」という言葉を噛み殺したまま、夜の路地へ下ろされていった。

 

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