締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第20話 教会の白い使者

翌朝の新聞社は、昨日より静かだった。

俺はほとんど眠れなかった。

下宿の寝台で目を閉じても、「夢」「声」「告げられた」「授かった」が口の中で勝手に育ちそうになる。

そのたびに昨夜のモルガーヌの忠告を思い出して噛み殺した。

食いしばりすぎて頬が筋肉痛だ。

 

「顔色が悪いな、ユーリ」

 

バスティアン編集長が、丸眼鏡の奥から俺を見た。相変わらず、派手なベストだ。

 

「眠れませんでした」

 

「なら記事にできる。『月の筆者、神秘の夜を過ごす』」

 

「寝不足を神秘にしないでください」

 

「売れる見出しは神秘に近い」

 

朝から信仰の敵みたいなことを言う。

セレスタンは机の端で訂正案を整えていた。金髪は今日もきっちりしている。

 

「一行目は残しましょう。『本紙記事は神託を主張するものではありません』。比較的まともです」

 

窓際にはモルガーヌが立っていた。黒いドレス。銀髪。朝なのに、彼女の周りだけ夜の残りが薄く漂っているように見える。

 

「教会には、その一文を渡せばいいわ」

 

「一文で済みますか」

 

「済まないから、あなたも同席するの」

 

「済まない仕事に本人を添える制度、嫌いです」

 

「文責とはそういうものよ」

 

逃げ道が、正論でふさがれた。

 

表口の鈴が鳴った。

小さな来客用の鈴なのに、編集室全体が一斉に固まる。昨日から何度も来客はあった。商人、学士院の小使い、王宮書記局。

だが今朝の鈴は、鳴り方が丁寧すぎた。

 

バスティアンが扉を開ける。

立っていたのは、白い法衣の男だった。

 

三十前後だろうか。胸元には金糸の太陽紋と、銀糸の月輪。手には細長い革筒。背後には若い従者が二人、同じ白い法衣で控えている。

昨日、表口で咳払いをしていた下位の従者とは違う。

柔らかい顔をしているのに、建物の入口が急に教会の石段になった気がした。

 

「月桂冠通信の編集長、バスティアン・ベルナール殿でいらっしゃいますね」

 

「はい。当紙をお読みいただき光栄です」

 

「読ませていただきました。何度も」

 

光栄ではない読み方だった。

 

白い使者は室内へ入る前に、モルガーヌへ目を向けた。

 

「ノクテール卿」

 

「朝から白いわね」

 

「職務ですので」

 

「そう。私は黒いけれど、これもだいたい職務よ」

 

使者は微笑んだが、笑い返してはいなかった。月蝕の魔女に直接逆らわない。

 

「ユーリ・ミクラ殿は」

 

俺の胃が名前を呼ばれた。

 

「俺です」

 

声が裏返った。

使者は責める目ではなく、穏やかな目で俺を見る。穏やかなのに、机の上の投書袋より重い。

 

「私は月と太陽の教会、聖務記録院のリュシアン・メローと申します。本日は、貴殿の記事について確認に参りました」

 

「確認、ですか」

 

「責めに来たのではありません。言葉を正しく置くためです」

 

俺はモルガーヌを見た。

彼女は黙っている。助け舟は出ない。溺れ方を観察している顔だった。

 

リュシアンは革筒から、丁寧に巻かれた紙を出した。

『月の民、西の大陸オンドワナを示す』

俺の記事だ。しかも、見出しだけ切り取られ、別紙に大きく貼られている。本文の小さな逃げ文句は下に細く写されていた。

見出しは大きい。言い訳は小さい。

紙面上でも俺は負けていた。

 

「この『月の民』とは、教会の教えにある月下の魂を指しますか」

 

「指しません」

 

早く答えすぎた。

従者が筆を動かす。否定も記録された。俺の胃がさらに薄くなる。

 

「では、実在する民を指しますか」

 

「それも、確認されたものではありません」

 

「確認されていない」

 

「はい。記事上の……表現です」

 

表現。

便利な言葉だ。だが比喩と言い切ると、何を何にたとえたのか聞かれる。

昨夜、屋根の上で学習した。

言葉は逃げ道ではなく、足場にしないと落ちる。

 

リュシアンは頷いた。

 

「では、貴殿は月から何かを聞いたわけではない」

 

禁句の一つが、向こうから来た。

 

「教会がいう意味での、神の声とは申し上げておりません」

 

バスティアンは見出しを見つけた顔をしている。やめろ。その顔で俺の発言を見るな。

 

「神の声とは申し上げていない。では、何を申し上げたのですか」

 

「西海について、調べる価値があるかもしれない、という……新聞向けの仮説です」

 

「新聞向けの仮説」

 

「はい」

 

「貴殿は、航海者ですか」

 

「違います」

 

「学者ですか」

 

「違います」

 

「聖職者ですか」

 

「絶対に違います」

 

強く言いすぎた。

バスティアンが咳払いをし、セレスタンが紙の端を押さえた。モルガーヌは少しだけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。俺の命で笑わないでほしい。

 

「では、なぜその仮説を紙面に載せたのです」

 

答えは簡単だ。

締切だったから。紙面に穴が空いていたから。編集長が見出しを三倍にしたから。俺の給金が薄かったから。

どれも真実だが、教会の記録に残すと人間としての底が抜ける。

 

俺は机の上の訂正案を見た。

『本紙記事は神託を主張するものではありません』

その横に、昨日分類した投書がある。目撃談。神学質問。商売問い合わせ。聖なる芋の栽培相談。

俺の紙面は、もう俺だけの言い訳で閉じない。

 

「読者に、西海について考えさせる記事になると思いました。ただし、書き方を盛りすぎました。見出しも、本文も、読まれ方への注意が足りませんでした」

 

バスティアンが小さく「見出しは売れたが」と言った。

 

「編集長」

 

「黙る」

 

珍しく俺が言っても素直だった。

 

リュシアンは紙面の切り抜きを見た。

 

「教会が問題にしているのは、西海そのものではありません。海は広く、人の知らぬ陸がある可能性は教義だけで否定するものではない」

 

俺は少し息を吐きかけた。

 

「ですが」

 

来た。

 

「教会の確認を経ない『月の言葉』が、市場と広場で流通している。人々は記事を切り取り、石段へ持ち込み、祈りの言葉に混ぜています。これは真偽以前に、教会の教えが変節する可能性がある」

 

柔らかい。

柔らかいのに、机ごと押される。

 

「俺は、月に喋らせるつもりではありませんでした」

 

「つもり、は記録します。結果も記録します」

 

新聞社と同じことを、もっと怖い声で言われた。

 

セレスタンが静かに口を開いた。

 

「メロー殿。学士院としては、記事中の西海に関する断定を避け、未整理の航海記録や漂着物の資料確認へ移すべきだと考えています。神託ではなく、誇張された航海予報として扱う余地があります」

 

「航海予報」

 

リュシアンがその語をゆっくり繰り返す。

俺は心の中でセレスタンに少し感謝した。本人に言うと、定義を求められそうなので言わない。

 

モルガーヌも窓際から声を落とした。

 

「この珍獣は、月を担いで王都を走るほど器用ではないわ。紙に余計な飾りをつけた。危険なのは、その飾りを祭壇に置く者が増えること」

 

「ノクテール卿は、筆者に啓示性はないと見ますか」

 

また危ない語が出た。

 

モルガーヌは俺を見た。

 

「少なくとも、神殿で飾れる質ではないわ」

 

リュシアンは革筒から別の紙を出した。白い紙。金と銀の細い紋。

 

「ユーリ・ミクラ殿。明後日の朝、月と太陽の教会、東側聖務室へ出頭してください。聖務記録院および上位聖職者立ち会いのもと、記事の経緯、表現の意図、訂正の文面を確認します」

 

「明後日」

 

「王宮書記局への出頭命令が先にあると承知しています。日程は王宮側と調整済みです」

 

承知されている。

調整されている。

俺の知らないところで、俺の処理順が決まっている。

 

バスティアンが小声で言った。

 

「予定が詰まってきたな」

 

「人気作家の締切みたいに言わないでください」

 

「君は今、王宮と教会の連載を抱えている」

 

「打ち切りでお願いします」

 

「打ち切りは不穏です」

 

セレスタンに真顔で止められた。そういうところだけ反応が早い。

 

リュシアンは出頭要請を机に置いた。

 

「本日中に、貴紙としての暫定訂正文を一枚、ご用意ください。『神託ではない』という点を明確に。ですが、教会を挑発しない言い方で」

 

「難しくないですか」

 

「難しいから、筆者にお願いしています」

 

お願いの形をした処罰だった。

 

リュシアンたちは、来た時と同じように丁寧に去っていった。

扉が閉まるまで、新聞社の社員は誰も大きく息をしなかった。

 

机の上には王女の封書、教会の出頭要請、投書袋、訂正案。

紙が増えるたびに、俺の逃げ道が薄くなる。

 

俺は椅子に座り直し、訂正案を手元へ引き寄せた。インク壺の横で白い出頭要請が朝の光を受けている。

白い紙なのに、黒い見出しより重かった。

 

モルガーヌが窓際から言った。

 

「書きなさい。神が言っていないことを、人間の言葉で」

 

俺はペンを取った。

ペン先が紙に触れる直前、表口の鈴がまた鳴った。

 

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