締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
表口の向こうで止まった馬車は、王宮の金ぴか馬車ではなかった。
学士院の小さな荷馬車だった。
俺は少しだけ息を吐いた。少しだけだ。荷馬車でも、今の俺には十分に胃へ悪い。
「資料が来ました」
セレスタンが当然の顔で言った。
「いつ手配したんですか」
「昨日のうちに」
「俺の処理予定が、俺より早く動いている」
「あなたの判断速度に合わせると、王都が先に燃えます」
朝から正論である。
表口から、学士院の小使いが木箱を二つ運び込んできた。古い紙と革表紙の匂いがした。
バスティアン編集長は箱を見て、残念そうに眉を下げた。
「金貨ではないのか」
編集長、あまりに品がない。
セレスタンは一冊目の台帳を開いた。表紙には『西海沿岸漂着物控え』とある。文字は細かく、ところどころ水染みで薄い。
「まず確認します。ミクラ氏、あなたの記事には三種類のものが混ざっています」
「嫌な予感しかしません」
「一つ、完全な創作。月の民、オンドワナという名称、月からの観測」
俺は机に額をつけたくなった。
「二つ、不適切な装飾。聖なる、告げた、示した、三つの名を持つ、など」
「俺の罪と編集長の罪が混ざっています」
「三つ、検証できる可能性。西海の向こうに陸があるかもしれない、未知の作物があるかもしれない、漂着物や風の記録に何か残っているかもしれない」
モルガーヌが窓際から言った。
「つまり、泥と金粉と芋の皮を同じ袋に入れて売ったのね」
「金粉ありました?」
「極限まで薄くした金箔のかけらぐらいかしら」
セレスタンは台帳の頁をめくった。
「問題は、あなたの頭の中身です」
モルガーヌが椅子を引いた。黒いドレスの裾が床に静かに落ちる。
「彼の頭は、鍵付きの書庫ではないわ。穴の開いた引き出しよ。中身を取り出すたび、余計な埃も舞う」
「かなり失礼な家具評価ですね」
「家具ならまだ安定してるわね」
セレスタンが真顔で頷いた。
「同意します。ミクラ氏の発言は、資料ではなく根拠不明の情報です。これから検証作業がいる」
「学者と魔女が初めて仲良くなった話題が俺の頭の悪口なの、つらいんですが」
「悪口ではありません」
「評価よ」
二人で言うな。
セレスタンは台帳の一部を俺の前へ押した。
そこには、港町サン=リュンヌ近郊で拾われた木片、見慣れない種子、奇妙な浮草についての古い記録が並んでいる。
どれも決定的ではない。だが、何もない、と笑い飛ばすには少しだけ引っかかる。
「これは、あなたの記事の証拠ではありません」
「はい」
「あなたの正しさの証明でもありません」
「はい」
「ですが、西海について再整理する理由にはなります」
俺は息を止めた。
怒られると思っていた場所で、仕事が生まれた。
ありがたいような、刑の執行が事務作業に変わったような、複雑な気分だった。
モルガーヌは俺を見た。
「よかったわね。預言者ではなく、資料整理の口実になれた」
セレスタンは別の紙を取り出した。俺の訂正案だ。
一行目には、昨日から何度も見た文字がある。
『本紙記事は神託を主張するものではありません』
「これは残します」
「残るんですか」
「残します。ただし、次に『月の民の存在を否定するものでもありません』などと逃げる一文を入れてはいけません」
「入れようとしてません」
「あなたは逃げ道を見ると文章にします」
否定できない。
モルガーヌが訂正案の余白を指で叩いた。
「ここには、人間の言葉だけを書くの。月は言わない。神も言わない。民も喋らせない」
「では、何が残るんですか」
「新聞屋の失敗と、調べる価値」
セレスタンが即座に補った。
「そして、未整理の航海記録です」
三人分の視線が、俺の手元のペンに集まった。
バスティアンだけは、箱の端に貼られた学士院の封帯を見ていた。たぶん、見出しにできるか考えている。
「書くなら、こうです」
セレスタンがゆっくり言った。
「本紙記事は神託を主張するものではありません。西海に関する未整理記録と民間伝承をもとにした、誇張を含む仮説記事です。今後、学士院および関係機関の確認を待ちます」
「関係機関」
俺はその語を見た。
王宮。教会。学士院。商人。
関係したくない機関ばかりである。
モルガーヌは短く笑った。
「いい言葉ね。誰も喜ばず、誰も完全には怒れない」
「そんな文章、売れますかね」
バスティアンが真剣に聞いた。
セレスタンは少し考えた。
「売れにくいでしょう」
「駄目では?」
「命は残りやすいです」
俺は即座に頷いた。
「採用で」
バスティアンは悲しそうな顔をしたが、反論はしなかった。昨日からこの新聞社では、命が売上に勝つ瞬間が増えている。
良いことなのか、経営的に悪いことなのかは分からない。
俺はペンを取った。
月を黙らせる文章を書く。
神を出さず、民を作らず、商人に売らず、学者に刺されすぎず、魔女に笑われすぎない文章。
難易度が高い。三流新聞屋の仕事ではない。
「ミクラ氏」
セレスタンが言った。
「念のため確認します。月は、本当に何も言っていませんね」
俺はペン先を止めた。
モルガーヌの視線も、静かに俺へ向く。
窓の外では、荷馬車の車輪が石畳を離れていく音がした。
「……言っていません」
その一言を、どこまで紙に載せていいのか。
俺にはまだ分からなかった。
紙は、まだ白い。