締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
王宮の紋章は、遠くから見るぶんにはきれいだった。
近くで見ると、威圧感を庶民に与える形をしていた。
表口の外に停まった馬車は、金ぴかではない。白い車体に百合と王冠の紋が控えめに入っている。控えめなのに、通りの人間が一歩ずつ下がった。
まるで、ご老公の印籠だ。
「お迎えに上がりました」
扉を開けて入ってきた男は、濃紺の上着に白い手袋をしていた。腰には剣。声は低く、礼儀正しい。
「ユーリ・ミクラ様でいらっしゃいますね」
「人違いです」
セレスタンが即座に言った。
「こいつです」
「せめて一拍考えさせてください」
「不敬ですよ。考える時間で、余罪が増えます」
余罪という言葉を、俺の人生に常用しないでほしい。
使者は顔色一つ変えず、胸元から細い書状を出した。
「シャルロット王女殿下の御意により、先日の記事に関する説明のため、王宮書記局までご同行願います」
ご同行。
バスティアン編集長が、俺より先に身を乗り出した。
「王宮書記局。正式にですか」
「正式に、です」
「当社の記者が王宮へ招かれるわけですな」
「説明のために、ご同行いただきます」
「招かれる、と書いても」
「説明のために、ご同行いただきます」
使者の声は一文字も揺れなかった。
編集長は、見出しを見つけた顔から、訂正欄を見つけた顔へ少しだけ戻った。
「……では、『王宮、記事筆者へ説明要請』くらいか」
「生きて帰ってから紙面の心配をしてください」
「生きて帰ったら特集を組む」
「戻らなかった場合を先に心配して」
「追悼特集は売れる」
俺は手元の訂正文を見た。
月の民という語は、紙面上の表現であり、確認された事実ではありません。
西海に関する推測は、未整理の航海記録、漂着物控え、民間伝承を再確認するための仮説であり、確定した発見ではありません。
硬い。退屈。命が残りやすい。
いまの俺には、三つ目が一番大事だった。
「その紙は持って行きなさい」
モルガーヌが言った。
「王宮で読むんですか」
「読まされるでしょうね」
「読み上げるの、苦手なんですが」
「苦手で持っていかなかったら、また口が勝手に走って碌なことにならないわよ」
俺の口は、最近の俺より行動力がある。
セレスタンは台帳から薄い紙を一枚抜き、俺の訂正文の下に重ねた。
「学士院の確認事項です。西海沿岸漂着物控え、民間伝承、未整理航海記録。この三つは調査価値として扱う。証拠とは言わない。発見とも言わない」
「はい」
「月の民、神託、啓示、授かった、告げられた。この類は避ける」
「はい」
「王宮で聞かれても、夢や声の話はしない」
俺の背中が一瞬だけ冷えた。
使者は無表情のまま立っている。聞こえたのか、聞こえなかったのか。分からない。
セレスタンは眼鏡の奥で俺を見た。
「比喩を比喩として注釈される人生、だいぶ末期ですね」
「末期にしないための注釈です」
外からざわめきが聞こえてきた。
通りに人が集まり始めている。パン屋の前掛け、靴屋の革屑だらけの手、配達少年の帽子。誰かが新聞を持っていた。
例の記事だ。見出しだけがきれいに切り取られている。出版社凸とかこの時代からあったのか?
「筆者だって」
「王宮に呼ばれたぞ」
「やっぱり本物だったのか」
「違います」
俺は小声で言った。
誰にも届かない。届いたとしても、慎み深い否定にされる未来が見える。
バスティアンが窓際から外を見た。
「すごい宣伝効果だ」
「俺の護送を広告にしないでください」
「護送ではない。王宮書記局への説明要請だ」
「編集長まで言葉を整え始めた」
「売るためなら学ぶ」
嫌な成長である。
使者は一歩横へ引き、扉の方を示した。
「馬車の準備はできております。王女殿下は、無用な混乱を避けるため、移動を望んでおられます」
無用な混乱。
俺はペンを置いた。
置いた瞬間、手にインクが付いていることに気づいた。拭う時間はない。三流新聞屋の手のまま、王宮へ行くことになる。
「上着くらい」
「そのままで」
使者が言った。
「そのまま?」
「筆者御本人の通常の姿で、とのお言葉です」
王女殿下、何を見るつもりだ。
宮廷用に整えられた俺ではなく、寝不足で、インクまみれで、訂正文を握った俺。
標本か。
標本だな。
モルガーヌが短く笑った。
「よかったわね。珍獣としての鮮度を評価されているわ」
「よくないです」
「暴れると肉質が悪くなって、価値が下がるわ」
「俺は競りに出されるんですか」
「王宮は値札を付けるのが上手い場所よ」
皮肉なのか忠告なのか、最近は区別がつかない。
セレスタンが俺の前に紙束を整えて差し出した。
「これを。順番を崩さないでください。一枚目が訂正文案、二枚目が学士院確認事項、三枚目が危険語一覧です」
「危険語一覧」
「あなたには必要です」
一番上に『神託』『啓示』『月の声』『月の民の実在』と書かれている。
地雷原の地図みたいな紙だ。俺の場合、地図を持っていても足元を見ない可能性がある。
バスティアンが俺の肩を叩いた。
「胸を張れ。君は《月桂冠通信》の名を王宮へ運ぶんだ」
「できれば別の人が運んでください」
「私が行くと、王宮で広告枠を売りたくなる」
「自覚があるだけ偉い」
「だから君だ」
納得したくない選抜理由だった。
俺は紙束を胸に抱え、表口へ向かった。
通りのざわめきが近くなる。馬車の扉の横で、御者が帽子を取った。近衛らしい二人が、通行人を下がらせている。誰も怒鳴らない。だから余計に怖い。
「ミクラ様」
様を付けられるたび、首の周りが寒くなる。
「これ、本当に断れないんですよね」
「王女殿下の御意です」
「断れないんですね」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
理解していない。
ただ、理解したことにされた。
背後でバスティアンの声がした。
「ミクラ、紙面に載せられる範囲で見てこい」
「生存範囲で見てきます」
セレスタンが続けた。
「言葉を分けてください。確認済みの事実と未確認の仮説です」
「はい」
モルガーヌは何も言わなかった。
それが少しだけ怖かった。
俺は馬車の中へ足をかけた。
革張りの座席、磨かれた窓枠、薄い香の匂い。新聞社の湿った紙とインクの匂いとは別世界だ。
俺が座ると、外の人々がまたざわめいた。
「王宮へ行くぞ」
「筆者が」
「月の」
「違う」
俺の声は馬車の内側で小さく落ちた。
扉が閉まりかけた、その時。
白い車体の縁に、黒いドレスの裾が映った。
月蝕みたいな黒だった。