締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第26話 白百合の間の被告席

◇◇◇

 

魔女と最終確認をしていると、控室から白百合の間へ案内された。

 

白百合の間という名前を聞いて、少しでも安心した自分を殴りたい。

床どころか壁まで真っ白だった。

床も磨かれた白石で、もちろん傷一つない。

そして、その全部が光を反射して俺を照らしているようだ。

 

「こちらへ」

 

若い使者が、広間の中央に置かれた椅子を示した。

椅子は一脚だけだった。背もたれは低く、飾りもない。周囲の長卓や金の燭台に比べると、妙に質素で、妙に孤独だった。

 

被告席、とは誰も言っていない。

言っていないだけで、誰が見ても被告席だった。

 

「座ってよろしいのですか」

 

「ご着席ください」

 

俺は危険語一覧を一番上にした紙束を抱えたまま、椅子に腰を下ろした。安物の上着の袖口に、まだ新聞社のインクが付いている。白い部屋では、そこだけ罪状みたいに黒かった。

 

モルガーヌは俺の右斜め後ろに立った。

座らない。

許可を待たない。

黒いドレスと夜紫の瞳だけで、白い壁の方が少し後退したように見えた。

 

「ノクテール様のお席を」

 

使者が小声で言うと、モルガーヌは短く答えた。

 

「不要よ。今は、この珍獣が逃げないように見ているだけだから」

 

珍獣が、王宮の公式記録に残りませんように。

 

広間の奥には、長卓が半円に置かれていた。

中央に座るのはシャルロット王女だった。

蜂蜜色の髪をきれいに結い、白と金の宮廷服を着ている。喉元には小さな百合の飾り。

袖口の刺繍まで、俺の月給では一体何ヶ月分になるのかすら想像できないほど緻密だ。

 

見た目だけなら絵本の王女だ。俺もいつか大層立派な馬車で教会へ向かわれるところを見たことがあるぐらいだ。

だが、彼女の前に広げられているのは俺の記事の切り抜き、教会からの照会状、学士院の台帳写し、商会の意見書。

王女は切り抜きを中央に置き、教会の照会状を左へ、学士院の台帳写しを右へ、商会の意見書を少し離して並べた。

 

俺が部屋に入っても、王女はすぐには声をかけなかった。

まず俺の顔を見る。

次に、安物の上着の袖口についたインクを見る。

最後に、俺が抱えている危険語一覧の一番上を見た。

 

そこでようやく、青い目が細くなる。

紙面の誤字を探す校正係みたいに冷静で、しかも誤字を直すだけでなく、そのまま国家方針に組み込む種類の目だった。

 

「そのまま連れてくるよう命じた理由は、間違っていなかったようですね」

 

誰に向けた言葉か分からなかった。

使者は短く頭を下げた。書記官の一人が、今の一文まで書き取ろうとして、王女の視線を受けて手を止めた。

 

書き取らない指示まで、視線だけで済むらしい。

俺はこの人の前で、余計な比喩を絶対に口にしないと決めた。

 

その隣に、赤い法衣の老人がいる。

白髪、穏やかな顔、薄く笑った口元。アルマン・デュボワ枢機卿。

本人に会うのは初めてだ。

だが、名前と容姿紹介だけは新聞社の古い切り抜きで見たことがあった。

 

五年前、王都南区の小さな礼拝堂で「月の涙を流す聖像」が騒ぎになった。

夜に信徒が、月の象徴の女神像から涙を流しているところを見たそうだ。

信徒は奇跡だと泣き、露天商は聖水瓶を売り、うちの編集長は泣く聖像特集を刷りたがったらしい。

そのとき、デュボワ枢機卿は奇跡とも偽りとも言わず、

ただ「涙はそのままに。金箱は下げなさい。神のものか人のものか、調べる前に売ってはいけません」と告げた。

翌日には寄進箱が片づき、聖像は教会の保管庫へ移り、騒いだ商人も神官もそろって黙った。

 

柔らかい言葉で、正道に戻す人だ。決して悪徳坊主……いや、悪徳神官ではない。

今、その人が俺の記事の前にいる。

 

反対側には、学士院の席があった。

セレスタン・オルセーが、眼鏡の奥から俺を見ている。

 

「なぜ先にいるんですか」

 

そして、学士院の代表になれるほど偉いのか?

小声で言うと、セレスタンは手元の台帳を軽く叩いた。

 

「まぁ世の中いろいろあります」

 

商人側の席には、恰幅のいい男が座っていた。香水の匂いと宝石の指輪だけで、帳簿が歩いてきたような存在感がある。

ヴェルヌ商会長、ヴェルヌ・ランベール。

先ほど金貨五十枚で俺を買いかけた商会の親玉である。

 

長卓の端には書記官たちが並び、羽根ペンを構えていた。俺が一言間違えるたび、紙に残る。新聞より怖い。

 

シャルロット王女が口を開いた。

 

「ユーリ・ミクラ」

 

呼び捨てだった。

 

「はい」

 

「本日は裁きの場ではありません。先日の記事について、王宮、教会、学士院、商人組合が同じ事実を確認するための場です」

 

裁きの場ではない。

その言葉を聞いた瞬間、俺の体は少しだけ楽になりかけた。

 

王女は続けた。

 

「ただし、確認の結果しだいでは、裁きの場へ移ります」

 

ですよね。

 

俺は紙束を握り直した。

 

書記官の一人が、銀の盆に載せた新聞の切り抜きを長卓へ置いた。

例の記事だった。

いや、例の記事の死体だった。見出しだけが大きく切り取られ、本文の逃げ文句は細く別紙に写されている。

 

『月の民、西の大陸オンドワナを見たり』

 

自分の書いたものではある。

あるが、こうして王宮の白い机に置かれると、まるで俺とは別の犯罪者が書いたみたいだった。

 

「この見出しは、あなたの筆によるものですか」

 

枢機卿の声は驚くほど柔らかかった。

 

「見出しは、編集長の筆です」

 

長卓の空気が少し動いた。

俺は慌てて続ける。

 

「本文の原案は、私です。見出しと囲み記事の誇張は編集上の判断です。ただし、署名記事として出た以上、責任がないとは申しません」

 

言えた。

危険語一覧を見ながらなら、人間は少しだけ賢くなれる。

 

セレスタンが小さくうなずいた。

モルガーヌは何も言わない。

黙っている魔女は、褒めているのか、次の失言を待っているのか分からない。

 

ランベール商会長が指輪を鳴らした。

 

「責任は結構。商人としては、責任より根拠を聞きたいところですな。西に大陸があるという話は、どの程度まで値札を付けてよいものか」

 

値札。

この人たちは本当に、空白にも値札を付ける。

 

「値札は、まだ付けないでいただけると」

 

「付けない値札も、商売では値札です」

 

ランベール商会は、新聞社に来た時からそればかりだ。

否定が商品になる。

 

シャルロット王女がランベールを見た。

 

「商会長。今日は売買ではなく確認です」

 

「失礼いたしました、殿下。確認の後に売買がございますので、つい先走りました」

 

悪びれ方が商売上手だった。

 

枢機卿は微笑んだまま、新聞の切り抜きに指を添えた。

 

「では、根拠の前に言葉を整えましょう。ミクラ殿。この『月の民』とは、教会が認める月の使いを指しますか」

 

来た。

 

危険語一覧の一行目が、急に熱を持った気がした。

俺は紙を見た。

神託、啓示、月の声、月の民の実在。

全部だめ。

全部踏むと爆発する。

 

「本紙記事は、教会が認める意味での神託を主張するものではありません」

 

俺は、訂正文案の一文をほぼそのまま読んだ。

 

命を残すための文章だ。

売れないが、生き残りやすい。

 

書記官の羽根ペンが走った。

カリカリという音が、広間に小さく響く。

 

枢機卿は笑みを崩さない。

 

「神託ではない、と」

 

「はい」

 

「では、なぜ月を用いたのです」

 

胃が縮んだ。

 

なぜ。

締切だったからです。

紙面の空白が憎かったからです。

月は文字で映えたからです。

どれも正直だが、どれも王宮の白い部屋で言うと寿命が減る。

 

セレスタンが台帳を一枚めくった。

 

「記事本文には、未整理の航海記録、漂着物控え、民間伝承への逃げ文句が残っています。学士院としては、そこを検証対象にできます。ただし、月の民から聞いたという根拠は確認できません」

 

助け舟。

正論でできた、硬くて乗り心地の悪い助け舟だった。

 

「つまり」

 

シャルロット王女が俺を見た。

 

「あなたの記事は、神の言葉ではなく、人間の資料をもとにした航海予報を、新聞向けに飾ったものだと?」

 

航海予報。

その言葉が出ると、長卓の人間たちが一斉に俺を見た。

教会は、神託ではないなら教会の外に出せる。

王宮は、予報なら管理できる。

商人は投資にできる。

学士院は検証できる。

 

そして俺は、予報と言った覚えがない。

いや、どこかで言ったかもしれない。

 

「あの、予報というほど立派なものでは」

 

モルガーヌの指が、俺の椅子の背に触れた。

軽い。

軽いのに、黙れという意味だけは重い。

 

俺は言い直した。

 

「未確認の資料を再確認するための仮説です」

 

「仮説」

 

枢機卿が、柔らかく繰り返す。

 

「はい。確認済みの事実ではありません。確定した発見でもありません」

 

今度は危険語一覧ではなく、学士院確認事項の紙を見た。

西海沿岸漂着物控え。

民間伝承。

未整理航海記録。

証拠とは言わない。

発見とも言わない。

 

紙がなければ、俺はもう燃えていた。

 

ランベール商会長が指輪を撫でた。

 

「しかし、仮説でも市場は動きます」

 

「動かさないでください」

 

「もう動いております」

 

やめてほしい。

動いた市場を止める方法を、俺は知らない。

三流新聞屋に市場の手綱を握らせないでくれ。

 

シャルロット王女が、新聞の切り抜きと俺の訂正文案を見比べた。

 

「ミクラ。あなたは自分が何を書いたか、理解していますか」

 

「昨日から、いやというほど理解させられています」

 

口が滑った。

 

長卓の端で、書記官の羽根ペンが一瞬止まった。

王女は怒らなかった。むしろ、少しだけ目を細めた。

 

「では、理解した言葉で答えなさい」

 

はい。

それが一番難しいです。

 

枢機卿が、切り抜きの見出しをこちらへ向けた。

黒い活字が、白い机の上でやけに鮮やかだった。

 

「ミクラ殿。あなたは、この紙面を通じて、月と太陽の神の言葉を騙りましたか」

 

広間の音が消えた。

 

羽根ペンも、商人の指輪も、窓の外の噴水も、一瞬だけ遠くなる。

危険語一覧の一行目に、俺の親指の汗がにじんだ。

 

答えなければならない。

黙ると、周りが俺の代わりに喋る。

馬車の中でモルガーヌが言った通りだ。

 

俺は口を開いた。

 

その瞬間、白百合の間へ入る直前、控え室でモルガーヌに口を塞がれた感触を思い出した。

 

◇◇◇

 

 

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