締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
その感触は、白百合の間へ入る少し前のものだった。
◇
王宮の控え室は、広間ほど白くなかった。
壁は淡い灰色で、窓は細く、水差しと杯が銀の盆に載っている。椅子は二脚あったが、俺は座る気になれず、紙束を抱えたまま立っていた。
危険語一覧。
訂正文案。
学士院確認事項。
順番は、馬車の中でモルガーヌに直された通りだ。
一枚目には『神託』『啓示』『月の声』『月の民の実在』と並んでいる。
地雷原の地図としては親切だ。
ただし、地雷が地図に全部載っているとは誰も言っていない。
「白百合の間には、王女殿下、デュボワ枢機卿、学士院の方、商人組合側の代表がお待ちです」
若い使者が扉の前で言った。
お待ちです、という言葉の圧が重い。待たれているのは客ではなく、説明責任でできた人形ではないだろうか。
「本日は、記事に関する事実確認が中心となります。裁きの場ではございません」
「裁きの場ではない」
俺は復唱した。
「はい」
「確認の結果次第では...」
使者は礼儀正しく沈黙した。
最後まで言い切ってほしい、怖すぎる。
モルガーヌは控え室の壁際に立っていた。黒いドレスが灰色の壁から少し浮いて見える。王宮の空気を吸っても、彼女だけは王宮に合わせて薄まらない。
「ミクラ様。中では、枢機卿猊下から直接お尋ねがあるかと」
「どういう尋ね方ですか」
「記事が月と太陽の神の言葉を騙ったものかどうか、という形になると思われます」
胃が、体内で小さく畳まれた。
神の言葉を騙ったか。
はいと言えば終わる。
いいえと言っても、説明を間違えれば終わる。
黙れば、周りが俺の代わりに喋る。
俺は危険語一覧を見た。
神託はだめ。
啓示もだめ。
月の声もだめ。
月の民の実在もだめ。
では、何ならいいのか。
神の言葉ではなく、自然の規則を読んだだけ、と言えばいいのではないか。
前世の高校倫理か、古い本か、どこかで聞きかじった考えが頭の底から浮いてきた。神を人間みたいに喋る存在ではなく、世界の秩序として見る話。
人格神ではありません。
自然の秩序です。
だから私は預言者ではありません。
いける気がした。
後から考えると、いける気がした時点でだいたい俺は失敗している。
「つまり、神の声を聞いたわけではなく、世界の秩序を読んだだけでして」
俺は小声で練習した。
モルガーヌの夜紫の瞳が、瞬間こちらを向いた。
「たとえば、神とは人格ではなく自然の秩序であり...ムグッ」
そこで、俺の口は黒い手袋に塞がれた。
速かった。
影が動いたのか、手が動いたのか分からない。気づいたときには、俺の唇は完全に封鎖されていた。
「死にたいの?」
モルガーヌは真顔だった。
皮肉ではない。
冗談でもない。
市場の安い占い師が「今日は雨でしょう」と言うくらいの平らな声で、俺の死亡予定を確認してきた。
「んむ」
「返事は瞬きでいいわ。死にたいの?」
俺は全力で首を横に振った。
「そう。では、今の続きを王宮しかも枢機卿がいる場で言わない」
モルガーヌが手を離した瞬間、俺は息を吸った。
「神託じゃないと説明するためですよ」
「説明ではなく挑発よ」
「でも、神が人間みたいに喋ったわけじゃないと」
「それは言っていい。言い方を間違えなければ」
「どこが違うんですか」
「『私は神の声を聞いていません』は弁明。『神は声で語る存在ではありません』は教義への踏み込み」
丁寧に教えられて理解した。
俺は神託詐称を否定するために、もっと大きな教義問題を増やそうとしていたわけだ。
「教会の前で神の性格を語らないこと。神の位置を動かさないこと。枢機卿の前で、神を世界の秩序へ置き換えないこと」
「最後のやつ、今まさに言ったやつですね...」
「あなたは危険な言葉を言う前、少し賢そうな顔をする」
「褒めてます?」
「馬鹿が考えていい案と思った案は、大抵最悪の結果を招くわよ」
ひどい。
若い使者が、扉のそばで目を伏せていた。
聞こえていないふりをしている。王宮の人間は、聞こえていないふりの訓練まで受けるのかもしれない。
「ミクラ様」
使者が静かに言った。
「白百合の間では、今の形の発声練習はお控えいただけますと」
聞こえていた。
俺は紙束で顔を隠した。
「はい」
モルガーヌは少しも謝らなかった。
「いい。神がどういう存在かを、あなたが定義してはいけない。あなたは新聞屋で、しかも三流紙の雑文係よ」
俺は危険語一覧の余白に、急いで一行を書き足した。
神の性格を語らない。
インクが少しにじんだ。
手が震えているせいだ。王宮の控え室で、三流新聞屋が自分の口を止めるためのメモを書いている。人生の底は何度も更新されるらしい。
「じゃあ、何と言えばいいんですか」
「人間の範囲で答える」
「人間の範囲」
「あなたが書いた。新聞が盛った。確認できていない。調査する価値があるかもしれない。そこまで」
「ミクラ様、そろそろ」
使者が扉へ手をかけた。
「お待ちなさい」
モルガーヌの声に、使者の白手袋が止まる。
「ノクテール様。王女殿下の御前です。これ以上は」
「御前ではないわ」
「……は?」
「王女はまだ入っていない。扉前に王女付きの近侍がいない。書記官の席順もまだ整っていない。あなたも『殿下がお待ちです』とは言わなかった」
使者の口が、礼儀正しい形のまま閉じた。
「この寸刻だけよ」
モルガーヌは、王宮でもいつもの調子を崩さないらしい。
そして俺の紙束を見て、余白の一行を指で叩いた。
「さて、珍獣。短い講義よ。命に関わるものから教えてあげる」
モルガーヌがそう言った瞬間、俺は危険語一覧の余白を両手で押さえた。
若い使者は扉の前で、銀の盆に載った水差しを見つめていた。
聞いていないふりをしている。
ただし、寸刻前の経験上、この人は聞こえていないふりが非常に上手いだけで、耳は普通に働いている。
「一つ目」
モルガーヌは黒い手袋の指で、俺が書き足した『神の性格を語らない』を叩いた。
「神の性格を語らない」
「書きました」
「読むだけではだめ。口に出して」
「神の性格を語らない」
「よろしい。あなたは今、教会に神学を教える立場ではないわ」
「教える気はありません」
「気がなくても、余計な一言が説教になる。すると本人より先に周囲が薪を用意するわ」
薪。
比喩だと思いたい。
この部屋の近くに実物が保管されていないことを祈りたい。
「では、聞かれたらどう答えるんですか。『神の声ではありません』だけで足ります?」
「足りない。けれど、そこから先を神へ伸ばしてはいけない」
モルガーヌは俺の紙束から学士院確認事項を抜き、危険語一覧の隣へ置いた。
西海沿岸漂着物控え。
民間伝承。
未整理航海記録。
「二つ目。神の声ではなく、世界の兆しと言いなさい」
「世界の兆し」
「月光の見え方。潮の流れ。漂着物。渡り鳥。古い航海譚。人間が見て、記録し、間違えるもの」
「間違えるものまで入れるんですか」
「入れるの。完璧なものにすると神託になる。間違えるのが人間よ」
なるほど、と言いかけて止めた。
俺が納得すると、だいたい次の失言の前触れになる。
「つまり、私は月の声を聞いたのではなく、月光や潮流や漂着物の兆しを見て、西海について考えた、と」
「『見た』は表現として強いわね」
「考えた」
「まだ強い」
「疑った」
「少しよくなった」
俺は余白に書いた。
神の声ではなく、世界の兆し。
「三つ目」
モルガーヌは俺の手元を見ず、細い窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。
朝の光が灰色の壁に薄く差している。
白百合の間よりは暗いのに、彼女の銀髪だけは冷たい光を拾った。
「断定ではなく、可能性と言いなさい」
「『西に大陸があります』ではなく」
「死にたいの?」
俺は急いで書き直した。
西方に大陸または巨大島嶼群が存在する可能性。
字が長い。
命が助かる言葉は、紙面に向かない。
だから新聞社では見出しにされないのだろう。
「それを、王宮で言う」
「はい」
「教会には、神の言葉ではないと言う」
「はい」
「学士院には、検証可能な未整理資料の話にする」
「はい」
「商人には、未確認の噂を商品にするなと言う」
「それ、商人が聞きますか」
「聞かないでしょうね」
だめじゃないか。
モルガーヌは平然としていた。
「聞かなくても、記録には残る。あなたが断定したのではなく、商人が先走った。王宮と教会と学士院の前で、そこを分けるの」
分ける。
ここ数日、俺の人生はずっとそれだ。
嘘と推測を分ける。
記事と見出しを分ける。
神の声と人間の言葉を分ける。
分ければ助かるかもしれない。
混ぜたのは俺と編集長なのに。
「……モルガーヌさん」
「何」
「どうして、そこまで神託扱いを嫌い、私を助けるんですか?」
この人は自分の過去のあまり語らないらしい。
もしかしたら、年齢を聞くより危険かもしれない。
若い使者の指が、扉の取っ手からわずかに離れた。
聞いていないふりの精度が少し落ちた。
モルガーヌは怒らなかった。
ただ、紙束の上に置いた指を止めた。
「嫌っているわけではないわ」
「神の言葉にされた人間を見たことがあるだけ」
「最初は、本人が何かを言ったの。月を見た。夢を見た。船の帰りを当てた。飢饉を避ける草を知っていた。どれでもいいわ。小さな言葉だった」
「そこへ王権が意味を足し、教会が印を押し、商人が物を売り、群衆が続きを欲しがった。本人の言葉は、すぐに月の言葉になった」
「その人は?」
「最後には、自分の口で何を言ったか分からなくなった」
「重圧のせいか、薬のせいか、審問のせいか、都合の悪い沈黙のせいか。原因を一つにしてあげるほど、現実は親切ではなかったわ」
俺の手の中で、ペンが止まった。
月の信託を受けた誰か。
月の言葉にされた人間。
最後に本人の言葉を失った人。
そうなった前例を聞くと、昨日から脅されている火あぶりが余計にリアリティを持ってくる。
俺は紙に三行を書いた。
神の性格を語らない。
神の声ではなく世界の兆し。
断定ではなく調査すべき可能性。
字は震えていたが、読めた。
「それから」
モルガーヌは俺の紙束を整え、危険語一覧を一番上に戻した。
「枢機卿が『月の民とは何か』と聞いたら、足を踏むわ」
「なぜですか」
「あなたが余計な修飾を足す前に、痛みで文を短くするためよ」
「医療行為みたいに言わないでください」
「生存処置よ」
若い使者が、小さく咳払いをした。
今のは聞こえていた。絶対に聞こえていた。
「ノクテール様。そろそろ、本当に」
「ええ」
モルガーヌは何事もなかったように扉へ向かった。
使者が取っ手に手をかける。
俺は紙束を抱え直した。
危険語一覧、訂正文案、学士院確認事項。
三枚の紙が、薄い盾みたいに胸元でこすれた。
扉の向こうから、羽根ペンの音が聞こえた気がした。
まだ入っていないのに、もう記録されているような音だった。
「ミクラ様」
使者が扉を開ける直前、礼儀正しく俺を見た。
「白百合の間へ」
俺はうなずいた。
モルガーヌが背後から短く言った。
「珍獣。短く」
「はい」
◇
このやり取りと感触を思い出した。
ネタ元:スピノザのエチカ