締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第27話 死にたいの?

その感触は、白百合の間へ入る少し前のものだった。

 

 

王宮の控え室は、広間ほど白くなかった。

壁は淡い灰色で、窓は細く、水差しと杯が銀の盆に載っている。椅子は二脚あったが、俺は座る気になれず、紙束を抱えたまま立っていた。

 

危険語一覧。

訂正文案。

学士院確認事項。

 

順番は、馬車の中でモルガーヌに直された通りだ。

一枚目には『神託』『啓示』『月の声』『月の民の実在』と並んでいる。

地雷原の地図としては親切だ。

ただし、地雷が地図に全部載っているとは誰も言っていない。

 

「白百合の間には、王女殿下、デュボワ枢機卿、学士院の方、商人組合側の代表がお待ちです」

 

若い使者が扉の前で言った。

お待ちです、という言葉の圧が重い。待たれているのは客ではなく、説明責任でできた人形ではないだろうか。

 

「本日は、記事に関する事実確認が中心となります。裁きの場ではございません」

 

「裁きの場ではない」

 

俺は復唱した。

 

「はい」

 

「確認の結果次第では...」

 

使者は礼儀正しく沈黙した。

最後まで言い切ってほしい、怖すぎる。

 

モルガーヌは控え室の壁際に立っていた。黒いドレスが灰色の壁から少し浮いて見える。王宮の空気を吸っても、彼女だけは王宮に合わせて薄まらない。

 

「ミクラ様。中では、枢機卿猊下から直接お尋ねがあるかと」

 

「どういう尋ね方ですか」

 

「記事が月と太陽の神の言葉を騙ったものかどうか、という形になると思われます」

 

胃が、体内で小さく畳まれた。

 

神の言葉を騙ったか。

はいと言えば終わる。

いいえと言っても、説明を間違えれば終わる。

黙れば、周りが俺の代わりに喋る。

 

俺は危険語一覧を見た。

神託はだめ。

啓示もだめ。

月の声もだめ。

月の民の実在もだめ。

 

では、何ならいいのか。

 

神の言葉ではなく、自然の規則を読んだだけ、と言えばいいのではないか。

前世の高校倫理か、古い本か、どこかで聞きかじった考えが頭の底から浮いてきた。神を人間みたいに喋る存在ではなく、世界の秩序として見る話。

 

人格神ではありません。

自然の秩序です。

だから私は預言者ではありません。

 

いける気がした。

後から考えると、いける気がした時点でだいたい俺は失敗している。

 

「つまり、神の声を聞いたわけではなく、世界の秩序を読んだだけでして」

 

俺は小声で練習した。

 

モルガーヌの夜紫の瞳が、瞬間こちらを向いた。

 

「たとえば、神とは人格ではなく自然の秩序であり...ムグッ」

 

そこで、俺の口は黒い手袋に塞がれた。

 

速かった。

影が動いたのか、手が動いたのか分からない。気づいたときには、俺の唇は完全に封鎖されていた。

 

「死にたいの?」

 

モルガーヌは真顔だった。

皮肉ではない。

冗談でもない。

市場の安い占い師が「今日は雨でしょう」と言うくらいの平らな声で、俺の死亡予定を確認してきた。

 

「んむ」

 

「返事は瞬きでいいわ。死にたいの?」

 

俺は全力で首を横に振った。

 

「そう。では、今の続きを王宮しかも枢機卿がいる場で言わない」

 

モルガーヌが手を離した瞬間、俺は息を吸った。

 

「神託じゃないと説明するためですよ」

 

「説明ではなく挑発よ」

 

「でも、神が人間みたいに喋ったわけじゃないと」

 

「それは言っていい。言い方を間違えなければ」

 

「どこが違うんですか」

 

「『私は神の声を聞いていません』は弁明。『神は声で語る存在ではありません』は教義への踏み込み」

 

丁寧に教えられて理解した。

 

俺は神託詐称を否定するために、もっと大きな教義問題を増やそうとしていたわけだ。

 

「教会の前で神の性格を語らないこと。神の位置を動かさないこと。枢機卿の前で、神を世界の秩序へ置き換えないこと」

 

「最後のやつ、今まさに言ったやつですね...」

 

「あなたは危険な言葉を言う前、少し賢そうな顔をする」

 

「褒めてます?」

 

「馬鹿が考えていい案と思った案は、大抵最悪の結果を招くわよ」

 

ひどい。

 

若い使者が、扉のそばで目を伏せていた。

聞こえていないふりをしている。王宮の人間は、聞こえていないふりの訓練まで受けるのかもしれない。

 

「ミクラ様」

 

使者が静かに言った。

 

「白百合の間では、今の形の発声練習はお控えいただけますと」

 

聞こえていた。

 

俺は紙束で顔を隠した。

 

「はい」

 

モルガーヌは少しも謝らなかった。

 

「いい。神がどういう存在かを、あなたが定義してはいけない。あなたは新聞屋で、しかも三流紙の雑文係よ」

 

俺は危険語一覧の余白に、急いで一行を書き足した。

 

神の性格を語らない。

 

インクが少しにじんだ。

手が震えているせいだ。王宮の控え室で、三流新聞屋が自分の口を止めるためのメモを書いている。人生の底は何度も更新されるらしい。

 

「じゃあ、何と言えばいいんですか」

 

「人間の範囲で答える」

 

「人間の範囲」

 

「あなたが書いた。新聞が盛った。確認できていない。調査する価値があるかもしれない。そこまで」

 

「ミクラ様、そろそろ」

 

使者が扉へ手をかけた。

 

「お待ちなさい」

 

モルガーヌの声に、使者の白手袋が止まる。

 

「ノクテール様。王女殿下の御前です。これ以上は」

 

「御前ではないわ」

 

「……は?」

 

「王女はまだ入っていない。扉前に王女付きの近侍がいない。書記官の席順もまだ整っていない。あなたも『殿下がお待ちです』とは言わなかった」

 

使者の口が、礼儀正しい形のまま閉じた。

 

「この寸刻だけよ」

 

モルガーヌは、王宮でもいつもの調子を崩さないらしい。

そして俺の紙束を見て、余白の一行を指で叩いた。

 

「さて、珍獣。短い講義よ。命に関わるものから教えてあげる」

 

モルガーヌがそう言った瞬間、俺は危険語一覧の余白を両手で押さえた。

 

若い使者は扉の前で、銀の盆に載った水差しを見つめていた。

聞いていないふりをしている。

ただし、寸刻前の経験上、この人は聞こえていないふりが非常に上手いだけで、耳は普通に働いている。

 

「一つ目」

 

モルガーヌは黒い手袋の指で、俺が書き足した『神の性格を語らない』を叩いた。

 

「神の性格を語らない」

 

「書きました」

 

「読むだけではだめ。口に出して」

 

「神の性格を語らない」

 

「よろしい。あなたは今、教会に神学を教える立場ではないわ」

 

「教える気はありません」

 

「気がなくても、余計な一言が説教になる。すると本人より先に周囲が薪を用意するわ」

 

薪。

比喩だと思いたい。

この部屋の近くに実物が保管されていないことを祈りたい。

 

「では、聞かれたらどう答えるんですか。『神の声ではありません』だけで足ります?」

 

「足りない。けれど、そこから先を神へ伸ばしてはいけない」

 

モルガーヌは俺の紙束から学士院確認事項を抜き、危険語一覧の隣へ置いた。

西海沿岸漂着物控え。

民間伝承。

未整理航海記録。

 

「二つ目。神の声ではなく、世界の兆しと言いなさい」

 

「世界の兆し」

 

「月光の見え方。潮の流れ。漂着物。渡り鳥。古い航海譚。人間が見て、記録し、間違えるもの」

 

「間違えるものまで入れるんですか」

 

「入れるの。完璧なものにすると神託になる。間違えるのが人間よ」

 

なるほど、と言いかけて止めた。

俺が納得すると、だいたい次の失言の前触れになる。

 

「つまり、私は月の声を聞いたのではなく、月光や潮流や漂着物の兆しを見て、西海について考えた、と」

 

「『見た』は表現として強いわね」

 

「考えた」

 

「まだ強い」

 

「疑った」

 

「少しよくなった」

 

俺は余白に書いた。

 

神の声ではなく、世界の兆し。

 

「三つ目」

 

モルガーヌは俺の手元を見ず、細い窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。

朝の光が灰色の壁に薄く差している。

白百合の間よりは暗いのに、彼女の銀髪だけは冷たい光を拾った。

 

「断定ではなく、可能性と言いなさい」

 

「『西に大陸があります』ではなく」

 

「死にたいの?」

 

俺は急いで書き直した。

 

西方に大陸または巨大島嶼群が存在する可能性。

 

字が長い。

命が助かる言葉は、紙面に向かない。

だから新聞社では見出しにされないのだろう。

 

「それを、王宮で言う」

 

「はい」

 

「教会には、神の言葉ではないと言う」

 

「はい」

 

「学士院には、検証可能な未整理資料の話にする」

 

「はい」

 

「商人には、未確認の噂を商品にするなと言う」

 

「それ、商人が聞きますか」

 

「聞かないでしょうね」

 

だめじゃないか。

 

モルガーヌは平然としていた。

 

「聞かなくても、記録には残る。あなたが断定したのではなく、商人が先走った。王宮と教会と学士院の前で、そこを分けるの」

 

分ける。

ここ数日、俺の人生はずっとそれだ。

嘘と推測を分ける。

記事と見出しを分ける。

神の声と人間の言葉を分ける。

分ければ助かるかもしれない。

混ぜたのは俺と編集長なのに。

 

「……モルガーヌさん」

 

「何」

 

「どうして、そこまで神託扱いを嫌い、私を助けるんですか?」

 

この人は自分の過去のあまり語らないらしい。

もしかしたら、年齢を聞くより危険かもしれない。

 

若い使者の指が、扉の取っ手からわずかに離れた。

聞いていないふりの精度が少し落ちた。

 

モルガーヌは怒らなかった。

ただ、紙束の上に置いた指を止めた。

 

「嫌っているわけではないわ」

 

「神の言葉にされた人間を見たことがあるだけ」

「最初は、本人が何かを言ったの。月を見た。夢を見た。船の帰りを当てた。飢饉を避ける草を知っていた。どれでもいいわ。小さな言葉だった」

 

「そこへ王権が意味を足し、教会が印を押し、商人が物を売り、群衆が続きを欲しがった。本人の言葉は、すぐに月の言葉になった」

 

「その人は?」

 

「最後には、自分の口で何を言ったか分からなくなった」

 

「重圧のせいか、薬のせいか、審問のせいか、都合の悪い沈黙のせいか。原因を一つにしてあげるほど、現実は親切ではなかったわ」

 

俺の手の中で、ペンが止まった。

月の信託を受けた誰か。

月の言葉にされた人間。

最後に本人の言葉を失った人。

そうなった前例を聞くと、昨日から脅されている火あぶりが余計にリアリティを持ってくる。

 

俺は紙に三行を書いた。

 

神の性格を語らない。

神の声ではなく世界の兆し。

断定ではなく調査すべき可能性。

 

字は震えていたが、読めた。

 

「それから」

 

モルガーヌは俺の紙束を整え、危険語一覧を一番上に戻した。

 

「枢機卿が『月の民とは何か』と聞いたら、足を踏むわ」

 

「なぜですか」

 

「あなたが余計な修飾を足す前に、痛みで文を短くするためよ」

 

「医療行為みたいに言わないでください」

 

「生存処置よ」

 

若い使者が、小さく咳払いをした。

今のは聞こえていた。絶対に聞こえていた。

 

「ノクテール様。そろそろ、本当に」

 

「ええ」

 

モルガーヌは何事もなかったように扉へ向かった。

使者が取っ手に手をかける。

 

俺は紙束を抱え直した。

危険語一覧、訂正文案、学士院確認事項。

三枚の紙が、薄い盾みたいに胸元でこすれた。

 

扉の向こうから、羽根ペンの音が聞こえた気がした。

まだ入っていないのに、もう記録されているような音だった。

 

「ミクラ様」

 

使者が扉を開ける直前、礼儀正しく俺を見た。

 

「白百合の間へ」

 

俺はうなずいた。

 

モルガーヌが背後から短く言った。

 

「珍獣。短く」

 

「はい」

 

 

このやり取りと感触を思い出した。

 

 




ネタ元:スピノザのエチカ
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