締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第28話 月の民は比喩です

足の甲は、時として命綱になる。

 

「ミクラ殿。あなたは、この紙面を通じて、月と太陽の神の言葉を騙りましたか」

 

俺は危険語一覧を握り直した。

神の性格を語らない。

神の声ではなく世界の兆し。

断定ではなく調査すべき可能性。

 

控え室でモルガーヌに叩き込まれた三行だ。

紙が少し汗を吸っている。

命綱としては薄すぎるが、今の俺にはこれしかない。

 

「いいえ」

 

声は出た。

やや細い。命に直結する応答でかすれるのはしょうがない。

 

「記事本文は、教会が認める意味での神託を主張するものではありません。神の声を聞いた、神から命じられた、そういう趣旨ではありません」

 

羽根ペンが走った。

カリカリという音が、俺の寿命を少しずつ紙へ移していく。

 

デュボワ枢機卿は、切り抜きの見出しを指で押さえた。

 

『月の民、西の大陸オンドワナを見たり』

 

この見出し、今すぐ畳んで小さくしたい。

ただし証拠を握りつぶした人間として、俺の方が大きく畳まれる可能性がある。

 

「では、この『月の民』とは何ですか」

 

来た。

 

俺の右斜め後ろに、モルガーヌが立っている。

黒いドレスの裾が少し見える。

ついでに、俺の右足も見えているはずだ。

 

「月の民とは」

 

比喩です。

それだけでいい。

短く。

珍獣、短く。

 

なのに口という器官は、なぜか余計な装飾を好む。

 

「月を見上げる人々の想像が、遠い西海の未確認情報を...」

 

ぐっ、と足の甲に重みが乗った。

 

痛い。

ものすごく痛い。

モルガーヌの靴先が、俺の足を白石の床へ丁寧に縫い止めている。

 

「比喩です」

 

俺は言った。

 

羽根ペンが一斉に止まった。

止めないでほしい。

止まると、俺が何か大発見をしたみたいになる。

ただ短く言えただけだ。足の犠牲によって。

 

枢機卿の眉が、ほんの少し上がる。

 

「比喩」

 

「はい。紙面上の表現です。実在を確認した民族、教会が認めた使い、神の言葉を伝える存在、いずれの意味でもありません」

 

今度は踏まれなかった。

ただし靴はまだ乗っている。

仮合格らしい。

 

シャルロット王女が、訂正文案へ視線を落とした。

 

「つまり、月の民という語は、読者に西海への関心を持たせるための新聞上の飾りであり、確認された存在ではない」

 

「はい」

 

「その飾りを、見出しにした」

 

「はい」

 

「その見出しを、王都の人々が神託に近いものとして読み始めた」

 

「……はい」

 

王女は怒鳴らない。

ただ事実を並べる。

並べられた事実は、白い机の上で俺の逃げ道を一枚ずつふさいでいく。

 

セレスタンが台帳を開いた。

 

「学士院として確認します。ミクラ殿は、月の民から聞いた記録を提出できない。月上の居住者を観測した記録もない。そうですね」

 

「ありません」

 

「では、検証対象になり得るのは、未整理の航海記録、漂着物控え、民間伝承など、人間が記録したものに限られる」

 

「その通りです」

 

素直に答えた。

正論で刺される前に自分から刺さりにいくと、少しだけ傷が浅い。

気のせいかもしれない。

 

枢機卿が静かに口を開く。

 

「ミクラ殿。比喩は、人を導くことがあります。ですが、比喩が神の使いの姿を借りると、人はそこへ膝をつく」

 

俺は白い机の上の切り抜きを見た。

本文は細く写され、見出しだけが大きく置かれている。

まさに今、その形で裁かれかけている。

 

「理解し始めています。見出しの強い言葉だけが人に渡ることを、軽く見ていました」

 

言えた。

危険語一覧にない言葉だけで、どうにか言えた。

 

モルガーヌの靴先が、ようやく足から離れた。

痛みが残る。

生存の印としては、だいぶ物理的だ。

 

シャルロット王女が書記官へ目を向ける。

 

「今の一文を記録へ」

 

羽根ペンが走る。

俺の言葉が、王宮の紙に入っていく。

新聞は騒ぎになる。

王宮記録は制度になる。

どちらも、三流新聞屋の手には余る。

 

「確認を続けます」

 

セレスタンが、眼鏡を指で押し上げた。

 

「月の民が比喩であるなら、西方に関する部分は何に基づくのですか」

 

ついに来た。

月の民を紙から剥がしたら、次は西海の中身だ。

 

俺は学士院確認事項を一枚めくった。

西海沿岸漂着物控え。

民間伝承。

未整理航海記録。

渡り鳥。

潮の流れ。

 

全部、確定ではない。

だが、全部が空白でもない。

 

「黒い雲が出ていたら、雨を疑います」

 

言った瞬間、書記官の羽根ペンがまた止まった。

だから止めないでほしい。

俺の言葉は、止まられると不安で増える。

 

「黒雲を見て雨を疑った人間が、雨を司る神の代弁者になるわけではありません。空の色や風の向きや雲の厚さを見て、雨かもしれないと考えるだけです。外れることもあります」

 

背後でモルガーヌの靴が、床を軽く鳴らした。

踏まれてはいない。

今のところは。

 

デュボワ枢機卿が、柔らかく拾った。

 

「雨の声を聞いたのではなく、空模様を見た」

 

「はい。西海についても、それに近いです。漂着物、古い記録、船乗りの話、潮の流れ。人間が見て記録し間違えるものです。そこから言えるのは、西海に調査すべき可能性があると考えました」

 

セレスタンがうなずいた。

 

「表現としては危ういですが、検証可能です。雨が降らなければ予報は外れ。大陸がなければ、記事は外れ」

 

「私の記事は外れです」

 

自分で言って、少し胃が縮んだ。

新聞屋としては負けだ。

だが、神託詐称として燃えるよりは、負けた新聞屋の方がまだ呼吸できる。

 

ランベール商会長が、にこやかに言った。

 

「黒雲が出れば、油布と外套は売れますな」

 

「だから売らないでください」

 

「雨が降るかもしれない時が、一番よく売れるのです」

 

商人は本当に、雨雲にも値札を付ける。

 

シャルロット王女は、書記官へ目を向けた。

 

「記録。ミクラは、神の言葉ではなく未整理資料にもとづく航海予報に近い仮説と説明した。月の民という語は比喩であり、根拠は人間の記録、漂着物、伝承、潮流などである」

 

羽根ペンが一斉に走った。

 

俺の言葉が整えられていく。

整えられると、少し賢そうに見える。

 

セレスタンが確認する。

 

「ミクラ殿。あなたは、西海に確定した大陸があると断定しない」

 

「しません」

 

「月の民が見たとも言わない」

 

「言いません」

 

「神が示したとも言わない」

 

「言いません」

 

「調査すべき可能性がある、と言う」

 

「はい」

 

短い確認が続く。

ありがたい。

短い言葉は、危険語が入り込む余地も短い。

 

モルガーヌが背後で、低く言った。

 

「珍獣にしては、人間の範囲ね」

 

褒められたのか、分類されたのか。

たぶん後者だ。

だが、人間の範囲なら生きられる。

 

デュボワ枢機卿が、切り抜きから指を離した。

 

「黒雲を見て雨を疑うことは、罪ではありません。ですが、黒雲を見て『雨の祝福がこの家にだけ約束された』と書き、油布を売り、信徒を集めれば、それは別の問題です」

 

ランベール商会長が、わずかに咳をした。

商人にだけ聞こえる痛点があったらしい。

 

シャルロット王女が、机上の切り抜きを一枚、こちらへ向け直した。

 

「神託詐称かどうかについては、ひとまず整理がつきました」

 

ひとまず。

王宮で聞くと、その言葉は縄の結び目みたいに聞こえる。

ほどけていない。

締める位置が変わっただけだ。

 

「では次に」

 

王女の指が、黒い見出しの端を叩いた。

 

「新聞屋として、どれほど低俗なことをしたのかを確認しましょう」

 

羽根ペンが止まらずに走り続けた。

 

俺は、自分の処刑場が少しだけ庶民的な場所へ移されたことを理解した。

 

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