締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第2話 月面の民、誕生する

羽根ペンを取った瞬間、紙面の白さが俺を攻撃する。

 

白紙はただ白いだけなのに、締切前の新聞社では刃物に近い。しかも今回の白紙は見開き中央、読者の目に真っ先に刺さる場所だ。

 

「ユーリ、止まるな。紙は待ってくれない」

 

バスティアンが机の向こうで腕を組んでいた。丸眼鏡の奥の目は、俺ではなく俺の手元を見ている。

 

「編集長」

 

「なんだ」

 

「西の海と月で売れる原稿を、一時間で書けと言われている状況、冷静に考えると人権がありません」

 

「そんな最新の啓蒙的な思想をうちは採用していない。報酬を下げるぞ」

 

封建制が根強く残るこの国で、啓蒙思想は思想狩りの対象だ。

 

「そこ、逆にしてほしかったです」

 

「原稿を書けば少しは増える」

 

嘘だ。増えたことがない。増えるのは仕事と雨漏りだけだ。

 

とはいえ、白紙は埋めなければならない。

 

俺は紙面の端に、小さく「月」と書いた。

 

月。

 

この国でその字を書くと、少しだけ空気が重くなる。前世では夜空に浮かぶ岩だとか、ウサギがいるとかいないとか、その程度だった。

 

誰かが本当は人は月に行っていないとか、妙な話も混ざっていた。

 

前世の知識は、こういう時だけ妙に役に立ちそうな顔をして現れる。

 

そして近づくと、だいたい悪い顔をしていた。

 

「月の民、というのはどうだ」

 

バスティアンが言った。

 

「どうだ、と言われましても」

 

「響きがある。神秘的だ。読者が勝手に顔を想像できる」

 

「顔を想像させるだけなら似顔絵広告でいいのでは」

 

「似顔絵広告は絵師に金がかかる。お前の文字は安い」

 

ひどい言いようだ。

 

「問題は、月の民に何を見せるかです」

 

俺は紙の余白にペンを走らせた。

 

月の民。

 

西の海。

 

失われた大陸。

 

三つ並べると、急に詐欺の骨格ができる。怖い。言葉に何か宿った気がする。

 

「西の海の向こうに何かある、という噂は前からありますよね」

 

「船乗りは何にでも噂をつける。酒、霧、岩、徴税官、クラーケン」

 

「徴税官は噂じゃなくて災害です」

 

胸三寸で税を決める徴税官はとにかく嫌われていた。

 

「その線でいけ」

 

いかない。国家権力に喧嘩を売ったら真っ先に磔だ。この時代に報道の自由はない。

 

俺はこめかみを押さえた。

 

西の海の向こう。

 

前世の世界地図の断片が、頭の奥でぼやけている。ヨーロッパっぽい場所から西へ行くと、アメリカ大陸があった。コロンブス。なんか女性の名前の船。卵は関係ない。

 

だめだ。

 

知識が新聞の裏面に染みたインクくらい曖昧だ。

 

だが、この世界の地図にも西は空いている。船乗りの嫌な噂も、海流の話もある。全部が全部、ただの与太とは言い切れない。

 

言い切れない。

 

この言葉は危険だ。

 

新聞屋は「言い切れない」を「可能性あることを認めた」に変え、最後には「○○という声が上がっている」と都合よく書く生き物である。俺もその末端にいる。

 

「ユーリ、顔が悪い」

 

「元からです」

 

前世からのコンプレックスをいじらないでほしい。比喩でも効くから。

 

俺は最初の一文を書いた。

 

月を見上げる者は、夜の海をも見ている。

 

「お」

 

バスティアンが身を乗り出した。

 

「続けろ。今のは少し金になる」

 

「金にしないでください。まだ比喩です」

 

「比喩に読者が金を払う」

 

名言みたいに言うな。

 

俺は羽根ペンを止めずに、文章を繋いだ。

 

『王都の空に浮かぶ月が、ただ空に浮かぶだけと誰が決めたのか。古い船乗りは言う。月には海を見る者がいる。彼らは夜ごと地上を眺め、雲の切れ間に王国の屋根を見、さらにその西、誰も戻らぬ海の果てへ目を向ける』

 

ここまでは怪文章だ。

 

怪奇記事である。

 

俺は誰かの神様を語っていない。ただの雰囲気だ。読者が「へえ、面白い」と笑って数刻あとには、パンを包むのに使う程度の文章だ。

 

そう自分に言い聞かせながら、俺は次の行を書いた。

 

彼らは見たのかもしれない。西の海の向こう、霧と潮の先に、まだ王国の地図が名を持たぬ大地を。

 

羽根ペンの先が止まった。

 

少し、静かになった気がした。

 

印刷室の活字の音も、雨漏りの音も、バスティアンの呼吸も聞こえている。けれど紙の上に置いた一文だけが、妙に重い。

 

「大地、と書いたな」

 

「名を持たぬ、です。断定してません」

 

「新しい大地か」

 

「かもしれない、も付けました」

 

「読者は都合のいいところだけ切り取って読む」

 

「こちらがそれを言うと犯行声明なんですよ」

 

バスティアンは否定しなかった。

 

俺は冷や汗を拭いた。

 

本当は「何かあるかもしれない」くらいにしたかった。けれど、それでは紙面の中央は埋まらない。バスティアンは空白を許さない。雨漏りは止まらない。

 

こうやって人はそのうち不正に手を染めるのだと思う。椅子に座ったまま、羽根ペンで一行ずつ。

 

「名前がいるな」

 

バスティアンが言った。

 

「月の民にですか」

 

「大地にだ。名がなければ地図が書けん」

 

「まだ見つかってないのにですか?」

 

「読者の頭の中にイメージを置くんだ」

 

この人、たまに本当に新聞屋として正しいから困る。

 

俺は記憶を探った。

 

アメリカ。新大陸。インディアス。西方。黄金郷。なんだか全部危ない。前世の歴史の匂いがする言葉は、うかつに使うと余計な火を呼びそうだ。

 

なら、こちらの世界らしい響きにするしかない。

 

「オンドワナ」

 

口から出た音は、半分以上その場の勢いだった。

 

「いいな」

 

早い。

 

「今のは仮です」

 

「仮名はそのまま残る。新聞ではよくある」

 

「怖い業界ですね」

 

「所属して三年目で何を言う」

 

俺は「オンドワナ」と紙の端に書いた。意味はない。少なくとも俺にはない。だが、字面だけはそれっぽかった。遠くて、少し暑そうで、王都の読者が勝手に色を塗れそうな名前だ。

 

名前を付けた瞬間、存在しないものが実態をもった気がした。

 

もちろん、これは古い船乗り話と月見広場に残る怪談をつなぎ合わせた仮説にすぎない。月の民が本当にいると断じるものではなく、西海の果てに大陸があると証明するものでもない。

 

よし。

 

逃げ道を作った。

 

かなり太い逃げ道だ。教会の異端審問官を載せた馬車も素通りしてもらえるように作った。

 

「そこは小さい字に変えろ」

 

バスティアンが言った。

 

「大事な逃げ道です」

 

「大事な注意書きほど小さい字で読ませる。世の中の契約書を見ろ」

 

「新聞を詐欺契約書側に寄せないでください」

 

とくにこの時代では、下手に契約書にサインすると数刻あとには身ぐるみはがされたりする。

 

「読者は大きい字で夢を見て、小さい字で現実に戻る。よくできた構造だ」

 

熱狂した読者は小さい字を読んで、戻ってくれるだろうか。

 

不安になった俺は、さらに逃げ道を足した。

 

この話を笑い飛ばすのはたやすい。だが、笑い飛ばす前に一度だけ考えてみてほしい。王国の地図の端が白いのは、そこに何もないからか。それとも、なにか見えない権力者のタブーがあるのか。

 

続きを書いた瞬間、胃が痛くなった。

 

これは駄目だ。俺の中の三流記者魂が「うまい」と思ってしまった。職業倫理より先に、見出しの匂いを嗅いでしまった。最低だ。だが少し気持ちいい。もっと最低だ。

 

「ユーリ」

 

「はい」

 

「今の最後、いいぞ」

 

「消します」

 

「消すな。読者は不安と希望の間に金を払う」

 

「編集長の言葉、全部あとで裁判で証拠にします」

 

「裁判になったら特集記事を組んでやる」

 

口で勝てない。

 

俺は原稿を読み返した。

 

月の民。

 

西の海。

 

名を持たぬ大地。

 

オンドワナ。

 

どれも断定はしていない。少なくとも俺はしていない。月の民が本当に見た、とは書いていない。西の海の向こうに大陸がある、とも書いていない。ただ、そういう古い話があり、そう考えると面白いのではないか、と読者に差し出しただけだ。

 

大丈夫。

 

たぶん大丈夫。

 

…大丈夫だといいなぁ。

 

「できました」

 

俺は原稿を差し出した。

 

バスティアンは受け取り、黙って読み始めた。

 

沈黙が落ちる。

 

雨漏りが、ぽたり、と鳴った。

 

印刷室の奥で、活字工が急かしている。俺は椅子の背に手をかけ、逃げる準備だけした。精神的な問題だ。

 

バスティアンは最後まで読み、丸眼鏡を押し上げた。

 

「ユーリ」

 

「はい」

 

「見出しを三倍の大きさにしよう」

 

俺の胃が、さらにキリキリ痛んだ。

 

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