締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第29話 低俗だから助かった

低俗という言葉は、火刑やギロチンより軽い。

ただ、白百合の間で見た目麗しい王女殿下に言われると、なんだか虚しくなってくる。

 

シャルロット王女は、机の上の切り抜きを一枚ずつ並べ替えた。

見出しが上。

本文が下。

端の小さな注意書きは、極小の字で隅に押し込まれている。

 

「確認します。ミクラ」

 

「はい」

 

「この見出しは、読者に『月の民』という確認済みの存在があり、その者たちが西海の大陸を見た、と読ませる形です」

 

「……はい」

 

「本文中の慎重な語句は、小さい」

 

「はい」

 

「見出しと囲み記事は、大きい」

 

「はい」

 

「新聞屋として、どちらが先に読まれるかは理解していましたね」

 

逃げ道が、白い机の上で丁寧に畳まれていく。

 

俺は喉を鳴らした。

ここで「編集長が」と言えば、バスティアン編集長はたしかに燃える。

だが俺も文責欄に名前が載っている。

人を薪にして暖を取るほど、まだ俺の良心は貧しくない。

編集長には後でたっぷりと臨時ボーナスは請求するが。

 

「理解していました。見出しの方が先に読まれます」

 

羽根ペンが走った。

今の一文だけで、新聞社の壁に釘を打たれた気がする。

 

デュボワ枢機卿が、見出しの端を指で押さえた。

 

「ミクラ殿。あなたが神の声を聞いたと主張していないことは、先ほど整理されました」

 

「はい」

 

「月の民も、確認された民族や神の使いではなく、紙面上の比喩であると」

 

「はい」

 

「では問題は、神聖な偽りではなく、俗な紙面が神聖なものに見える衣を借りたことです」

 

俗な紙面。

 

自分の仕事が、雲上人の枢機卿の口からこれほどきれいに殴られる日が来るとは思わなかった。

 

「それは、異端ではなくなりますか」

 

俺は聞いてしまった。

 

枢機卿は怒らず、静かに首を振った。

 

「異端でない、と今ここで無罪の札を貼ることはできません。信徒が膝をつきかけた以上、教会は見過ごせません」

 

ですよね。

 

「ただし、あなたを神の言葉を騙った者として扱うより、信徒を惑わせた誇大な新聞屋として扱う方が、事実に近い」

 

誇大な新聞屋。

俺は、息を吸った。

少しの屈辱が肺に入る。

低俗だから助かった。

人としては最低の烙印を押されたかもしれないが、生物としてはかなりありがたい。

 

セレスタンが台帳写しを開いた。

 

「学士院としても、その整理なら扱いやすいです。神託の真偽ではなく、未整理資料と紙面表現の距離を測ればよい」

 

「距離」

 

「はい。漂着物控え、古い航海譚、潮流、渡り鳥。これらは検証対象です。一方で『月の民が見た』という見出しは、検証対象を飛び越えた表現です」

 

「つまり」

 

シャルロット王女が、セレスタンの言葉を拾った。

 

「学士院は、西海に関する未整理資料の再確認を必要とする。ただし、それはこの記事の正しさを認めるものではない」

 

「その通りです」

 

セレスタンはうなずいた。

 

「確認には人手と閲覧許可が必要です。港町サン=リュンヌの古い船荷控え、漂着物台帳、航海者の証言、教会保管の寄進記録や王宮の資料にも関係する可能性があります」

 

すごい。

したたかに研究費と資料の要求をしている。

 

俺は思わずセレスタンを見た。

彼は涼しい顔をしている。

 

ランベール商会長が、にこやかに指輪を鳴らした。

 

「港町の記録となると、船も倉庫も動きますな」

 

ランベールは悪びれない。

彼は背後に控えていた商会書記へ、小さな札を渡した。

 

「綿と麻の買い付けを始めなさい。帆布と袋地だ。高騰する前に、サン=リュンヌ方面からも当たりをつける」

 

「承りました」

 

商会書記が一礼し、白百合の間の端へ退いた。

 

今、俺の低俗さから帆布が生まれた。

正確には、帆布の値上がりが生まれた。

新聞の見出しは、神託でなくても市場を走らせる。

 

シャルロット王女が、ランベールを見た。

 

「商会長。王宮は、まだ西海調査の実施を布告していません」

 

「承知しております」

 

「では、なぜ買うのです」

 

「布告されてからでは遅いからです」

 

デュボワ枢機卿が、穏やかに眉を寄せる。

 

「未確認の噂を商品にするな、と先ほどミクラ殿は説明していました」

 

「猊下。商品にするのではありません。商品になりそうな物を、倉庫へ入れておくだけです」

 

「言い換えが上手い商人は、悔い改めにも値札を付けますね」

 

枢機卿の声は柔らかい。

だがランベール商会長の笑顔が、ほんの少し薄くなった。

 

怖い。

この部屋、誰も大声を出さないのに全員がしたたかに利確を行っている

 

モルガーヌが背後で低く笑った。

 

「珍獣。あなたの低俗さ、布になるそうよ」

 

「せめて服になるまで待ってください」

 

「着たら逃げやすそうね」

 

「逃げません」

 

言ってから、俺は自分でも驚いた。

逃げない。

ただ、この場で逃げると言ったら、帆布より先に縄が買い付けられそうだった。

 

シャルロット王女は、俺とモルガーヌの短いやり取りを聞き流し、紙面へ視線を戻した。

 

「ミクラ。あなたは自分の記事が低俗であったと認めますか」

 

認めたくない。

新聞屋として、見出しが人を引くのは仕事だ。

だが、読まれた結果、王宮と教会と学士院と商人が同じ机に集まっている。

存在しすぎた。

 

「認めます。読者の関心を引くために、確認できていないものを、確認されたもののように読める形へ大きくしました」

 

「意図して」

 

「はい」

 

「神聖さを利用した自覚は」

 

俺は少し止まった。

ここで軽く言えば、たぶん足を踏まれる。

重く言いすぎれば、また神の領域へ転がる。

 

「月という言葉が、人を集めるとは思っていました。ただ、信仰として膝をつかせるほどだとは、軽く見ていました」

 

羽根ペンが走る。

 

デュボワ枢機卿が、深くはないが、確かにうなずいた。

 

「よろしい。軽く見た者には、軽く見た責任があります」

 

軽く見た責任。

軽いのに、やっぱり重い。

 

セレスタンが、王女へ向き直る。

 

「殿下。教会の神託審査とは別に、王国事業として西海資料の再確認を行うなら、学士院は協力できます」

 

ランベールがすぐに続いた。

 

「商人組合も、王宮管理の調査であれば、無秩序な噂売りよりは見通しが立ちます。もちろん、正規の出資枠があればですが」

 

「研究費と出資枠が、同じ紙面から生えてきました」

 

俺が小声で言うと、モルガーヌが背後から小さく言った。

 

「あなたの記事より生まれたのよ」

 

刺さる。

だが否定できない。

 

シャルロット王女は、白い机の上で指を組んだ。

王女の前には、教会照会状、学士院台帳写し、商会意見書、俺の記事切り抜きが並んでいる。

どれも別々の顔をしていたのに、今は一つの仕事へ押し込まれようとしている。

 

「神託でないなら、教会だけの領域ではありません」

 

枢機卿は黙って聞いている。

 

「ただの新聞騒ぎなら、王宮がここまで扱う必要はありません」

 

ランベールの指輪が、かすかに止まった。

 

「しかし、未整理資料にもとづく航海予報に近い仮説であり、市場と信徒を動かし、学士院の検証対象となるなら、王国が管理する理由があります」

 

俺は、白い机を見た。

今、何かが決まろうとしている。

俺の低俗な紙面が、王国の言葉へ着替えさせられている。

 

「ユーリ・ミクラ」

 

王女が、初めて少しだけ名前をゆっくり言った。

 

「あなたの記事は、神託ではありません」

 

「はい」

 

「確認済みの発見でもありません」

 

「はい」

 

「低俗な誇大表現です」

 

「……はい」

 

三回目が一番痛い。

 

「ですが、その低俗な誇大表現が、王国の未整理な西海情報を表へ引きずり出したことも事実です」

 

俺は返事が遅れた。

褒められたのか。

いや、違う。

これは、拾える部分を拾うための分類だ。

 

「よって、西海に関する再確認と調査準備は、王国管理の案件として扱います」

 

白百合の間で、羽根ペンが一斉に走った。

 

俺の火刑は遠ざかった。

その代わり、俺の低俗さは王国事業の入口に置かれた。

 

書記官が新しい羊皮紙を引き寄せる。

一行目に『西海調査に関する王国管理案』と書かれた。

 

その下には、まだ空白があった。

 

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