締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
白い羊皮紙の空白は、人間を吸い込む。
『西海調査に関する王国管理案』
書記官がそう書いた下には、まだ何もない。
何もないはずなのに、俺にはそこに自分の名前と首輪が見えた。
「猊下」
静かな声がした。
デュボワ枢機卿の後ろに控えていた、赤い飾り紐の聖務官だった。
これまで黙っていた人間が口を開くと、だいたい空気が悪くなる。
俺は身構えた。
「信徒がすでに膝をつきかけた以上、罰を示さぬまま王国事業へ移せば、教会は月の言葉を軽んじたと見られます」
来た。
火の匂いが、また少し戻ってきた。
「神託を騙ったと断じないにせよ、神聖な語を紙面で飾り、信徒を惑わせた責任は公に問われるべきです」
公に問われる。
その言葉、三流新聞屋の耳には「広場」と「柱」と「群衆」と「火」が勝手に付いて聞こえる。
シャルロット王女は、聖務官を見た。
「教会として、処罰を求めるということですか」
「少なくとも、罰なき管理は危険です。民は、王宮が月の民の記事を認めたと受け取ります」
デュボワ枢機卿が、聖務官へ静かに手を上げた。
それだけで、赤い飾り紐の男は口を閉じた。
「懸念はもっともです」
枢機卿の声は柔らかい。
柔らかいものほど、ここでは逃げ道をふさぐ。
「しかし、処刑や重罰は、必ずしも神聖化を防ぎません」
俺は息を止めた。
処刑という単語は、白百合の間の空気を一段冷たくする。
「月の民を否定するために本人を燃やせば、噂は灰にならず、殉教物語になります。信徒は、罰せられた者の沈黙に、勝手な続きを聞きます」
やめてほしい。
俺は生きている今でも勝手な続きを書かれている。
死んだ後まで連載されるのは勘弁してほしい。
聖務官は苦い顔をしたが、反論はしなかった。
シャルロット王女が、白い紙の空白へ視線を落とす。
「では、消すのではなく、喋らせる」
怖い言い方だった。
助かる方針のはずなのに、なぜか胃が縮む。
「ただし、勝手には喋らせない」
もっと怖くなった。
王女は書記官へ目を向けた。
「記録。ミクラは、神託者として認定しない。月の民からの伝達者とも認めない。低俗な誇大表現により信徒と市場を惑わせた新聞屋であり、西海に関する未整理資料を確認するための参考人とする」
羽根ペンが走った。
神託者ではない。
伝達者でもない。
低俗な新聞屋。
参考人。
肩書きが増えるたび、大体偉くなるものだが、偉くなっている気がしない。
セレスタンが、台帳写しを指で押さえた。
「本人を燃やしても、西海の漂着物控えは燃えません。古い船荷控えも、航海者の証言も、潮流の記録も残ります」
「学士院としては、本人より紙の方が惜しいと」
俺が小声で言うと、セレスタンは眼鏡の奥で一度だけこちらを見た。
「紙は失言しません」
「ひどい正論」
「あなたはします」
さらにひどい正論だった。
モルガーヌが背後で短く笑った。
「珍獣、紙に負けたわね」
「せめて同じ分類に入れてください」
「燃えやすいところは同じよ」
やめてほしい。
いま火の話は本当にやめてほしい。
ランベール商会長が、場の冷えたところへ滑るように声を入れた。
「監督つき調査であれば、商人組合としても出資者へ説明しやすくなりますな」
言った直後、ランベールは軽く咳をした。
「もちろん、信徒の混乱を避ける意味でも、です」
シャルロット王女は、そこも拾った。
「商会長。無秩序な噂売りより、王宮監督の調査の方が見通しが立つ」
「その通りでございます」
「つまり、王宮が管理すれば、商人は勝手な神託商法を抑えられ、正規の出資機会を得る」
「……大変、公共心にかなう整理でございます」
ランベールの笑顔が、紙一枚ぶんだけ固くなった。
王女は幼いころから、権力闘争をしてきたのだろう。商人魂も抑え込んで王宮が頂点に立った。
俺は、ふと気づいた。
空気が変わっている。
さっきまで、俺が罰されるかどうかの話だった。
今は、俺をどこに置けば便利かの話になっている。
処分から、備品管理へ。
助かったはずなのに、人間としての棚が遠ざかっていく。
「ミクラ」
シャルロット王女が俺を見た。
「あなたは王都を離れないよう、すでに命じられています」
「はい」
「今後、西海に関する説明、訂正文、資料確認に協力してもらいます」
「はい」
「ただし、あなたが単独で商人、新聞社、信徒、学者、教会関係者と接触すれば、また別の見出しになります」
「反論できません」
王女が少しも笑わずに言うから、俺はうなずくしかなかった。
そこで、モルガーヌが一歩だけ前に出た。
黒いドレスの裾が、白石の床を静かに払う。
「なら、私が付くわ」
白百合の間の羽根ペンが、寸刻だけ止まった。
止まらないでほしい。
止まると、また何かが制度になる。
王女が目を上げる。
「ノクテール殿。理由は」
「安全確保と失言防止」
「だから私が見張る」
見張る。
護衛ではなく、見張ると言った。
デュボワ枢機卿が静かに問う。
「庇護ではなく、監視ですか」
「どちらでも同じよ。本人が死ぬのを防ぎ、余計なことを喋るのも防ぐ」
「違いが、本人には大きいのですが」
俺は小さく抗議した。
モルガーヌは俺を見た。
「逃げた場合、今度は出たところで拘束するほど丁寧には扱わないわ」
「前回、丁寧だったんですか」
「荷物は拾ったでしょう」
あれは丁寧の分類だったらしい。
この世界の庇護、涙が出るほどやさしい。
シャルロット王女は、モルガーヌをしばらく見てから、書記官へ視線を移した。
「記録。ノクテール殿は、ミクラの安全確保および失言防止のため、庇護を申し出た」
書記官が書く。
俺は少しだけ安心しかけた。
庇護。
いい言葉だ。
毛布と温かいスープの気配がする。
王女は続けた。
「なお、この庇護は王宮管理下の監督措置として扱う」
書記官が同じ行に書いた。
庇護。
監督。
同じ欄に並ぶと、体温差で風邪をひきそうだ。
「殿下」
デュボワ枢機卿が口を開いた。
「教会としては、教義に関わる表現の監査人を置くことを条件としたい」
「認めます。ただし、監査人は王宮へ報告し、直接ミクラを拘束しない」
「教会の聖務に関する出頭要請は」
「王宮を通す」
短い。
王女の短い台詞は、反論を許さない。
セレスタンがすぐに紙へ指を置いた。
「学士院は、検証記録の閲覧権を求めます。ミクラ殿の発言、訂正文案、漂着物台帳、港町サン=リュンヌの船荷控え、王宮資料、教会寄進記録のうち西海に関わるものです」
「範囲が広いですね」
「未整理資料は、範囲を狭める前に所在確認が必要です」
学者魂が顔を出している。
どさくさにまぎれて普段は開けられない、資料室の扉を全部開けようとしている。
シャルロット王女は、少し考えた。
「閲覧権は認めます。持ち出しは許可制。報告書の写しは王宮書記局に一部提出」
「承知しました」
セレスタンは満足そうにしない。
ただ、羽根ペンの動きを見ている。
勝った顔をしないところが逆に勝っている。
ランベール商会長は、今度はとても慎重に口を開いた。
「商人組合は、調査の実務に必要な船、帆布、保存食、倉庫、保険の見積もりを用意できます」
「出資機会ですね」
「王宮監督下の、公共性ある資金協力です」
さっきより言い換えが増えた。
商人は一度刺されると、次の言葉に防具を着せてくる。
シャルロット王女はうなずいた。
「商人組合には、限定出資と調達見積もりの機会を与えます。ただし、月の民、神託、確定した大陸という語を広告に使うことは禁じます」
ランベールの笑顔が、少しだけ痛そうになった。
「では、航海予報関連調達、という表現は」
「王宮が許可した文案のみ」
「承知しました」
この人、承知しましたと言いながら、頭の中で別案を十個くらい組んでいそうだ。
王女は白い羊皮紙を指で押さえた。
「整理します。教会には監査権。学士院には検証権。商人組合には限定出資と調達協力の機会。ノクテール殿には庇護兼監督。命令系統、記録、帳簿は王宮へ集める」
羽根ペンが走る。
教会がうなずく。
学士院がうなずく。
商人がうなずく。
モルガーヌはうなずかず、ただ立っている。
全員が勝ったような顔をしない。
だが全員が、自分の取り分を紙に入れた。
俺だけが、取り分ではなく取り扱い欄に入っている。
「ミクラ」
王女が俺を見た。
「あなたには、これらの確認に協力する義務が生じます」
「拒否権は」
「あります」
意外だった。
俺は思わず顔を上げた。
「ただし、拒否した場合、教会は独自に信徒を惑わせた責任を問います。学士院はあなた抜きで記録を調べます。商人はあなたの沈黙を別の噂にします。王宮は、あなたが王都待機命令に従わない者として扱います」
「それは拒否権がないというのでは...」
「選択肢があるでしょう」
さすが王族、自由度がない。
モルガーヌが背後から言った。
「よかったわね。棺桶にも種類があるそうよ」
「嬉しくないです」
過労死前提での『協力』で使い潰されるか、今すぐ物理的な棺桶で土の下か
書記官が新しい欄を引いた。
そこに『組織』と書いた。
嫌な予感がした。
さっきまで俺の処遇だった紙が、今度は公共事業の企画書になっている。
セレスタンが先に言った。
「王宮書記局の一部門として置くのであれば、西海資料再確認室、あるいは航海予報検証室が妥当です」
長い。とても売れない。
いや、別に王宮の機関の名前が売る必要はないのだが、新聞屋の身体が勝手に反応する。
ランベール商会長が首をかしげた。
「出資者向けには少々硬い名ですな。西海調査会なら分かりやすい」
聖務官がすぐに眉を寄せる。
「西海調査会では、商売っ気が強すぎます。もう少し教会の監査の色を出したい」
「神託監査会はだめです」
俺は反射で言った。
全員の視線がこちらへ来た。
しまった。教会色への反発から口が勝手に危険語を出した。
「今のは、だめな例としてです」
モルガーヌの靴先が、床を軽く鳴らした。
踏まれてはいない。
警告音だ。
シャルロット王女は、俺を見たまま言った。
「では、ミクラ。だめでない名は」
どうして俺に聞く。
俺は命名してはいけない側の人間だ。
月の民でこの騒ぎを起こした男だぞ。
だが沈黙すると、周りがもっと硬くて怖い名を付ける。
神託とか聖務とか断罪とかいう文字が紛れ込んだら、俺の首にまた火が近づく。
俺は、白い紙を見た。
月の民ではない。
神託ではない。
月を読む。
月そのものではなく、月光や潮や記録を読む。
逃げ道のつもりで、雑に言った。
「月読局、みたいな名前はどうですか」
白百合の間が、一拍だけ黙った。
やってしまった。
冗談を言う相手を間違えた。
案の定、書記官のペン先が紙へ近づいた。
「待ってください」
俺は思わず手を上げた。
「今のは、正式提案ではなく、危険語を避けるための仮の」
「仮称ですね」
シャルロット王女が言った。
違う。
いや、違わない。
仮称という言葉は、正式になる前の正式候補だ。
セレスタンが眼鏡を押し上げた。
「名称としては、悪くありません」
ランベール商会長が、すでに看板を見る顔をしていた。
「月読局。短く、覚えやすい。調達文書にも載せやすい名です」
デュボワ枢機卿は、しばらく黙っていた。
その沈黙が一番怖い。
「月の神託ではなく、月読み」
枢機卿はゆっくり言った。
「天気読みと同じで読み違えることがあり、正すことができる。神の言葉ではなく、人間の読みとして扱うならば、危険語は避けられます」
聖務官は少し不満げだったが、枢機卿の言葉に逆らわなかった。
シャルロット王女は、もう決めていた顔で書記官へ告げた。
「記録。仮称、月読局」
羽根ペンが走った。
俺の軽口が、制度へ向かう音がした。
印刷機より静かなのに、よほど怖い。
モルガーヌが俺の背後で、低く言った。
「珍獣、命名責任も背負いなさい」
「建物の看板になったわね」
書記官はさらに別の紙を引いた。
今度は細い欄がいくつもある。
氏名。
庇護者。
監督者。
出頭義務。
発言記録。
見てはいけないものを見ている気がした。
「ミクラ」
シャルロット王女が、最後に言った。
「あなたは異端として断じられません」
体の力が、ほんの少し抜けた。
「ですが、無罪放免でもありません」
抜けた力が、別の場所から戻ってきた。
主に胃に。
「王国管理下で、西海に関する確認、訂正文、資料検証に協力すること。ノクテール殿の庇護兼監督を受けること。教会監査、学士院検証、商人組合の限定調達を王宮記録に従って受け入れること」
「はい」
短く答えた。
長く答えると、また何かが増える。
「よろしい」
王女が指先で紙を押さえた。
「署名は、のちほど」
白い机の上には、庇護契約の署名欄と、『仮称・月読局』の記録が並んでいた。
生き残った代金が、きれいな字で用意されていた。