締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
給金欄というものは、人間の目を眩ませる。
白百合の間の机に、新しい羊皮紙が置かれた。
さっきまで俺の前には、庇護契約の署名欄と『仮称・月読局』の記録が並んでいた。そこへ書記官がさらに一枚、薄く罫線を引いた紙を重ねる。
『ミクラ処遇案』
嫌な表題だった。
だが、その下の小さな欄に、俺の目は勝手に吸い寄せられた。
給金。
しかも、今の月桂冠通信でもらっている薄い給金より、明らかに桁が多い。王宮出入り許可、食費補助、交際費、資料閲覧時の写し代支給まである。
俺は寸刻だけ、救われた顔をしたと思う。
万年貧乏の三流新聞屋に、王宮が合法的な飯代をくれる。
これはもしかして、出世では。
「ミクラ」
モルガーヌの声が、背後から釘のように落ちた。
「金に目がくらむと後で後悔するわよ」
俺は紙から目を離した。
遅かった。
視線はもう給金欄を撫でたあとだった。俺の財布は主人より先に王国へ降伏していた。
「頷いてません。少しだけ、給金という文字の健康状態を確認しただけです」
「よく肥えていた?」
「はい」
素直に答えてしまった。
王宮で素直になる場所を間違えた。
シャルロット王女は、俺の薄給ぶりなど当然知っている顔で、同じ紙の下を指した。
「処遇案には、あなたの公式肩書きも記します。月読顧問」
月読顧問。
神託者ではない。預言者でもない。
そのあたりは、さっき命がけで避けた危険語なので、まだ分かる。
問題は、その隣だった。
『仮称・月読局 局長代行』
俺は目で三度読み返した。
読み間違いであってほしかった。
だが、羊皮紙は逃げない。字も逃げない。逃げたいのは俺だけだ。
「あの」
声が少し裏返った。
「局長代行とは、何ですか」
書記官の羽根ペンが止まる。
シャルロット王女は平然と言った。
「仮称・月読局の実務責任者です。正式布告までは、月読顧問を公式肩書きとし、内部整理上は局長代行として扱います」
「局長は」
「私とします」
王女は、当然のように言った。
「ただし、私は名ばかりの名誉職として扱います。王宮の印は貸しますが、日々の確認、説明、署名欄との格闘は、局長代行であるあなたの仕事です」
「俺、昨日まで新聞社の雑文係だったんですが」
「承知しています」
「部下もいません」
「これから置きます」
解決の仕方が全部、こちらの逃げ道を埋める方向だった。
俺は羊皮紙を見た。
月読局局長。
局長代行。
月読顧問。
肩書きだけを見ると、俺は階段を上がっている。
「なぜ俺が出世したんですか」
白百合の間が、少しだけ静かになった。
「いや、出世というか、これは出世なんですか。俺は何を評価されたんですか。低俗さですか。炎上規模ですか。名前を書いた紙の売れ行きですか」
言ってから、自分で悲しくなった。
評価項目がどれもあり得る。
セレスタンが、台帳写しを一枚ずらした。
「評価ではありません。発生源の明確化です」
「もっと優しく砕いて説明いただけませんか?」
「あなたの発言が、今後も西海調査の説明に使われます。責任者欄を空白にすれば、王宮、教会、学士院、商人組合のどこが責任者を出すか血みどろの権力闘争が始まる。あなたを責任者欄へ置くのが一番ましです」
一番まし。
それは救いの言葉ではない。
被害を比べた結果、後ろ盾のない哀れな三流記者が生贄にささげられただけだ。
「では、俺は褒められて局長ではなく」
「燃え広がりを防ぐための犠牲です」
「犠牲」
モルガーヌが短く笑った。
「よかったわね。看板だけでなく、局長にもなったわ」
シャルロット王女が書記官へ目を向けた。
「責任欄を読み上げて」
「はい。月読顧問は、王宮管理下で西海未整理資料の再確認に協力すること。漂着物台帳、港町サン=リュンヌの船荷控え、航海者の証言、教会寄進記録、王宮資料のうち西海に関わるものについて、学士院検証に応じること」
給金欄の数行に比べて、責任欄はよく育っていた。
契約書なので、他に小さい文字でとんでもないことが書かれていないか確認した。
「訂正文案については、教会監査を受けること。月の民、神の言葉、授かった、告げられた等の表現を避けること。未確認の大陸を確定した発見として扱わないこと」
デュボワ枢機卿が穏やかにうなずいた。
「教会としては、その条件であれば監査人を置けます」
置けます……
置かないでほしい、とは言えない。
「商人組合には、船、帆布、保存食、倉庫、保険の見積もり提出を許可。ただし広告文には王宮許可の文案のみ使用」
ランベール商会長の指輪が、朝の光を受けて光った。
「顧問料という響きは悪くありませんな。専門家には値がつく」
俺の財布が、もう一度だけ起き上がりかけた。
モルガーヌの靴先が床を鳴らす。
「財布」
「はい、寝かせます」
俺は心の中の財布に布をかけた。
ランベールは何も聞かなかった顔で続ける。
「船は噂では動きません。帆布と保存食と倉庫で動きます。そこへ王宮監督の印が付くなら、出資者も話を聞きやすい」
「月の民を広告に使わないこと」
シャルロット王女が即座に釘を刺した。
「承知しております。航海予報関連調達、という言い方なら」
「王宮が許可した文案のみ」
「承知しております」
二度目の承知は、一度目より細かった。
商人の言葉は、縫い目を探す針みたいだ。王女はその針穴を先にふさいでいる。
セレスタンが次の紙を開いた。
「調査項目は、表現を分けます。確定事実、未確認資料、仮説、新聞上の誇大表現。ミクラ殿の発言は、原則として発言記録に残します」
「原則として、ですか」
「例外は、あなたが黙っていた場合です」
「じゃあ黙ります」
「黙った場合は、沈黙理由を記録します」
詰んでいる。
喋っても記録、黙っても記録。
シャルロット王女は、そこで俺を見た。
「ミクラ。あなたがなぜ局長代行になるのか、分からない顔をしていますね」
「はい。いまだに分かりません」
「月読局は、あなたを偉くするための機関ではありません」
それは分かる。
むしろ、そこだけは痛いほど分かる。
「あなたの言葉を、誰かが勝手に神託へ戻さないための置き場です。あなたの記事から始まった以上、その置き場の名札には、あなたの名が必要です」
俺は反論しかけて、止まった。
褒められていない。
信じられてもいない。
ただ、俺の言葉がまた別の誰かに持っていかれないように、俺自身をその言葉のそばへ縛る。
局長。
なんて偉そうな名前だ。
実物は、逃げた言葉の番人だった。
「……給金は、危険手当込みですか」
俺が小さく言うと、セレスタンが紙を見た。
「精神的負荷に関する記載はありません」
「そこが一番かかるんですが」
モルガーヌが背後で言った。
「追加で請求すればいいわ。却下されるところまで記録に残るから」
シャルロット王女が、処遇案の下へ指を置いた。
「署名は、庇護契約と同時に行います。その後、訂正文案へ移ります」
訂正文。
その言葉で、俺の背中が冷えた。
王宮で削られた訂正文が、新聞社に戻る。
そして新聞社には、バスティアンがいる。
訂正まで売る男だ。
書記官が赤字用の細い筆を盆に載せた。
セレスタンが余白を押さえる。
枢機卿の聖務官が、赤い飾り紐を直した。
白い机の上で、給金欄のすぐ隣に、長い責任欄が伸びていた。
俺は局長代行として、まずその長さを読む仕事から始めることになった。