締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第31話 給料は上がる、胃は下がる

給金欄というものは、人間の目を眩ませる。

 

白百合の間の机に、新しい羊皮紙が置かれた。

さっきまで俺の前には、庇護契約の署名欄と『仮称・月読局』の記録が並んでいた。そこへ書記官がさらに一枚、薄く罫線を引いた紙を重ねる。

 

『ミクラ処遇案』

 

嫌な表題だった。

だが、その下の小さな欄に、俺の目は勝手に吸い寄せられた。

 

給金。

 

しかも、今の月桂冠通信でもらっている薄い給金より、明らかに桁が多い。王宮出入り許可、食費補助、交際費、資料閲覧時の写し代支給まである。

 

俺は寸刻だけ、救われた顔をしたと思う。

万年貧乏の三流新聞屋に、王宮が合法的な飯代をくれる。

これはもしかして、出世では。

 

「ミクラ」

 

モルガーヌの声が、背後から釘のように落ちた。

 

「金に目がくらむと後で後悔するわよ」

 

俺は紙から目を離した。

遅かった。

視線はもう給金欄を撫でたあとだった。俺の財布は主人より先に王国へ降伏していた。

 

「頷いてません。少しだけ、給金という文字の健康状態を確認しただけです」

 

「よく肥えていた?」

 

「はい」

 

素直に答えてしまった。

王宮で素直になる場所を間違えた。

 

シャルロット王女は、俺の薄給ぶりなど当然知っている顔で、同じ紙の下を指した。

 

「処遇案には、あなたの公式肩書きも記します。月読顧問」

 

月読顧問。

神託者ではない。預言者でもない。

そのあたりは、さっき命がけで避けた危険語なので、まだ分かる。

 

問題は、その隣だった。

 

『仮称・月読局 局長代行』

 

俺は目で三度読み返した。

読み間違いであってほしかった。

だが、羊皮紙は逃げない。字も逃げない。逃げたいのは俺だけだ。

 

「あの」

 

声が少し裏返った。

 

「局長代行とは、何ですか」

 

書記官の羽根ペンが止まる。

 

シャルロット王女は平然と言った。

 

「仮称・月読局の実務責任者です。正式布告までは、月読顧問を公式肩書きとし、内部整理上は局長代行として扱います」

 

「局長は」

 

「私とします」

 

王女は、当然のように言った。

 

「ただし、私は名ばかりの名誉職として扱います。王宮の印は貸しますが、日々の確認、説明、署名欄との格闘は、局長代行であるあなたの仕事です」

 

「俺、昨日まで新聞社の雑文係だったんですが」

 

「承知しています」

 

「部下もいません」

 

「これから置きます」

 

解決の仕方が全部、こちらの逃げ道を埋める方向だった。

 

俺は羊皮紙を見た。

月読局局長。

局長代行。

月読顧問。

肩書きだけを見ると、俺は階段を上がっている。

 

「なぜ俺が出世したんですか」

 

白百合の間が、少しだけ静かになった。

 

「いや、出世というか、これは出世なんですか。俺は何を評価されたんですか。低俗さですか。炎上規模ですか。名前を書いた紙の売れ行きですか」

 

言ってから、自分で悲しくなった。

評価項目がどれもあり得る。

 

セレスタンが、台帳写しを一枚ずらした。

 

「評価ではありません。発生源の明確化です」

 

「もっと優しく砕いて説明いただけませんか?」

 

「あなたの発言が、今後も西海調査の説明に使われます。責任者欄を空白にすれば、王宮、教会、学士院、商人組合のどこが責任者を出すか血みどろの権力闘争が始まる。あなたを責任者欄へ置くのが一番ましです」

 

一番まし。

それは救いの言葉ではない。

被害を比べた結果、後ろ盾のない哀れな三流記者が生贄にささげられただけだ。

 

「では、俺は褒められて局長ではなく」

 

「燃え広がりを防ぐための犠牲です」

 

「犠牲」

 

モルガーヌが短く笑った。

 

「よかったわね。看板だけでなく、局長にもなったわ」

 

シャルロット王女が書記官へ目を向けた。

 

「責任欄を読み上げて」

 

「はい。月読顧問は、王宮管理下で西海未整理資料の再確認に協力すること。漂着物台帳、港町サン=リュンヌの船荷控え、航海者の証言、教会寄進記録、王宮資料のうち西海に関わるものについて、学士院検証に応じること」

 

給金欄の数行に比べて、責任欄はよく育っていた。

契約書なので、他に小さい文字でとんでもないことが書かれていないか確認した。

 

「訂正文案については、教会監査を受けること。月の民、神の言葉、授かった、告げられた等の表現を避けること。未確認の大陸を確定した発見として扱わないこと」

 

デュボワ枢機卿が穏やかにうなずいた。

 

「教会としては、その条件であれば監査人を置けます」

 

置けます……

置かないでほしい、とは言えない。

 

「商人組合には、船、帆布、保存食、倉庫、保険の見積もり提出を許可。ただし広告文には王宮許可の文案のみ使用」

 

ランベール商会長の指輪が、朝の光を受けて光った。

 

「顧問料という響きは悪くありませんな。専門家には値がつく」

 

俺の財布が、もう一度だけ起き上がりかけた。

モルガーヌの靴先が床を鳴らす。

 

「財布」

 

「はい、寝かせます」

 

俺は心の中の財布に布をかけた。

 

ランベールは何も聞かなかった顔で続ける。

 

「船は噂では動きません。帆布と保存食と倉庫で動きます。そこへ王宮監督の印が付くなら、出資者も話を聞きやすい」

 

「月の民を広告に使わないこと」

 

シャルロット王女が即座に釘を刺した。

 

「承知しております。航海予報関連調達、という言い方なら」

 

「王宮が許可した文案のみ」

 

「承知しております」

 

二度目の承知は、一度目より細かった。

商人の言葉は、縫い目を探す針みたいだ。王女はその針穴を先にふさいでいる。

 

セレスタンが次の紙を開いた。

 

「調査項目は、表現を分けます。確定事実、未確認資料、仮説、新聞上の誇大表現。ミクラ殿の発言は、原則として発言記録に残します」

 

「原則として、ですか」

 

「例外は、あなたが黙っていた場合です」

 

「じゃあ黙ります」

 

「黙った場合は、沈黙理由を記録します」

 

詰んでいる。

喋っても記録、黙っても記録。

 

シャルロット王女は、そこで俺を見た。

 

「ミクラ。あなたがなぜ局長代行になるのか、分からない顔をしていますね」

 

「はい。いまだに分かりません」

 

「月読局は、あなたを偉くするための機関ではありません」

 

それは分かる。

むしろ、そこだけは痛いほど分かる。

 

「あなたの言葉を、誰かが勝手に神託へ戻さないための置き場です。あなたの記事から始まった以上、その置き場の名札には、あなたの名が必要です」

 

俺は反論しかけて、止まった。

 

褒められていない。

信じられてもいない。

ただ、俺の言葉がまた別の誰かに持っていかれないように、俺自身をその言葉のそばへ縛る。

 

局長。

なんて偉そうな名前だ。

実物は、逃げた言葉の番人だった。

 

「……給金は、危険手当込みですか」

 

俺が小さく言うと、セレスタンが紙を見た。

 

「精神的負荷に関する記載はありません」

 

「そこが一番かかるんですが」

 

モルガーヌが背後で言った。

 

「追加で請求すればいいわ。却下されるところまで記録に残るから」

 

シャルロット王女が、処遇案の下へ指を置いた。

 

「署名は、庇護契約と同時に行います。その後、訂正文案へ移ります」

 

訂正文。

その言葉で、俺の背中が冷えた。

王宮で削られた訂正文が、新聞社に戻る。

そして新聞社には、バスティアンがいる。

 

訂正まで売る男だ。

 

書記官が赤字用の細い筆を盆に載せた。

セレスタンが余白を押さえる。

枢機卿の聖務官が、赤い飾り紐を直した。

 

白い机の上で、給金欄のすぐ隣に、長い責任欄が伸びていた。

俺は局長代行として、まずその長さを読む仕事から始めることになった。

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