締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第32話 初めての護衛対象

署名というものは、羽根ペン一本で人間の逃げ道を細くする。

 

白百合の間で俺は、庇護契約に名を書き、ミクラ処遇案に名を書き、訂正文案の下にも確認印の代わりに名を書いた。

 

「次」

 

シャルロット王女が、何事もない顔で紙をずらす。

 

「まだありますか」

 

「あります。月読顧問は書類を読む仕事です」

 

「局長代行は」

 

「書類から逃げない仕事です」

 

訂正文案は、朝から昼にかけて削られた。

月の民、神の言葉、告げられた、授かった、確定した大陸。

危険語は赤い線で消され、残ったのは、未整理記録、漂着物台帳、航海者証言、検証すべき仮説、という地味な言葉だった。

 

地味。

あまりにも地味。

新聞社でこれを見たバスティアン編集長がどんな顔をするか、想像するだけで胃が痛い。

 

「売れない訂正文になりました」

 

俺が小さく言うと、セレスタンが封筒の口を押さえながら答えた。

 

「訂正文は売るものではありません」

 

「編集長は売ります」

 

「では、売れない形にして正解です」

 

正論だった。

ただし、うちの編集長は正論を紙面の端へ追いやり、売れる部分だけ切り取って大見出しにする男である。

『月読顧問、王宮公認へ』くらいは平気で打つ。

俺の胃は、まだ刷られていない見出しで先に傷ついた。

 

夕方、ようやく王宮を出ることになった。

白百合の間を出る時、書記官が封蝋つきの封筒を俺へ渡す。

 

「訂正文案です。《月桂冠通信》編集長へ直接渡してください」

 

「はい」

 

「途中で開封した場合、王宮記録に残ります」

 

「開けません」

 

「紛失した場合も記録に残ります」

 

「落としません」

 

「第三者に写された場合も」

 

「俺は封筒ですか?」

 

王宮西門の外は、夕方の冷えた空気に変わっていた。

朝に連れてこられた時より、石畳の影が長い。

門番が俺を見る目も、今朝とは少し違う。

被告人を見る目ではない。

何か面倒な荷物に札が付いたのを確認する目だ。

 

近衛が二人、少し離れて歩くことになった。

俺のすぐ横にはモルガーヌ。

黒いドレスの裾が、夕方の石畳を静かに払っている。

 

「あの、これは護衛ですか」

 

俺は確認した。

正式な肩書きをもらい、給金も上がり、王宮出入り許可まである。

少しだけ偉くなった気がしたのだ。

 

「護衛よ」

 

モルガーヌはあっさり言った。

 

「本当に」

 

「ええ。あなたが刺されないように」

 

「思ったより物理的でした」

 

「あなたが逃げないように」

 

「護衛の中に監視が混ざっています」

 

「あなたが余計なことを喋らないように」

 

「監視が本体では?」

 

「気づけて偉いわ」

 

偉くなった気分が、王宮西門から三歩で剥がれた。

俺は護衛対象であり、逃亡防止対象であり、口封じ防止対象でもあるらしい。

出世するほど不自由になる。

 

新聞社へ戻れば、バスティアンがいる。

いや、いるとは限らない。

あの人は金の匂いがする場所へ外出していることも多い。

ただし、不在でも怖い。

不在の机に置かれた封筒を見て、「売れる」と判断する未来だけははっきり見える。

 

「封筒を新聞社に届けたら、俺の今日の仕事は終わりでしょうか」

 

「終わると思う?」

 

「思いたいです」

 

「願望と予定を混ぜると、また記事になるわよ」

 

混ぜたくて混ぜているわけではない。

俺の人生が勝手に紙面向けに混ざるのだ。

 

大通りを避け、近衛は一本細い道へ入った。

表通りには夕市の声が残っている。

こちらの路地は、石壁の間に荷車の跡が細く伸び、軒先の灯りがまだ少ない。

 

「人目を避けるためですか」

 

俺が聞くと、近衛の一人が短く答えた。

 

「騒ぎを避けるためです」

 

同じ意味のようで、少し違う。

人目を避けるのは俺のため。

騒ぎを避けるのは王宮のため。

どちらにしても、俺は避けられる側だった。

 

路地の曲がり角で、声が落ちてきた。

 

「ミクラ殿」

 

知らない男の声だった。

 

俺は足を止めかけた。

モルガーヌの指が、俺の袖を軽く押さえる。

止まるな、という合図だった。

 

壁際に、灰色の外套を着た男が立っていた。

顔は帽子の影で見えにくい。

商人にも、信徒にも、新聞屋にも見える。

こういう時、人間の顔は便利に曖昧になる。

 

「月の民の本当を、少しだけ聞かせていただきたい」

 

胃が、封筒より先に折れた。

 

「本当は、王宮が隠しているのでしょう。教会へ渡す前に、私どもへ。金なら出せます」

 

私ども。

誰だ。

その曖昧さだけで、すでに面倒事の匂いがする。

 

「人違いです」

 

俺は反射で言った。

 

モルガーヌが横目で俺を見る。

 

「名前を呼ばれていたわよ」

 

「では、職違いです。そういう本当を売る職ではありません」

 

「昨日まで売っていたでしょう」

 

「傷をえぐらないでください」

 

男が一歩近づいた。

近衛の手が剣へ寄る。

それより早く、モルガーヌの影が動いた。

 

夕方の路地に落ちていた細い影が、石畳の上をすべる。

黒い糸が引かれるようで、けれど糸よりずっと静かだった。

しかも、仕事が早い。

 

黒い線が男の足首に触れた。

次の寸刻、男は膝から崩れた。

悲鳴は出ない。

足だけが石畳へ縫いつけられたみたいに動かない。

 

男の袖から、小さな刃物が落ちた。

 

「動くな」

 

モルガーヌの声は、低くも大きくもなかった。

だが路地の温度が下がった。

 

男は震えたまま、両手を上げた。

近衛が駆け寄り、刃物を蹴って離す。

もう一人が王宮側へ合図の笛を吹いた。

 

俺は封筒を胸に抱えたまま、ようやく息を吐いた。

守られた。

たぶん、守られたのだ。

 

その実感はありがたい。

ありがたいのだが、同時に別の理解が追いついてきた。

前世から命の危機などあったことがない。

 

「モルガーヌさん」

 

「何」

 

「俺、もしかして、前より安全ではなくなってますか」

 

彼女は男の足元の影を押さえたまま、こちらを見た。

 

「ようやく局長代行らしい顔になったわね」

 

その顔は、たぶん胃痛の顔である。

 

近衛の笛に応じて、王宮側から複数の足音が近づいてきた。

石畳の上には、小さな刃物と、動けない男の影が残っている。

 

俺は新聞社へ戻る前に、まず王宮へ一人分の面倒事を返却することになった。

 

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