締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
署名というものは、羽根ペン一本で人間の逃げ道を細くする。
白百合の間で俺は、庇護契約に名を書き、ミクラ処遇案に名を書き、訂正文案の下にも確認印の代わりに名を書いた。
「次」
シャルロット王女が、何事もない顔で紙をずらす。
「まだありますか」
「あります。月読顧問は書類を読む仕事です」
「局長代行は」
「書類から逃げない仕事です」
訂正文案は、朝から昼にかけて削られた。
月の民、神の言葉、告げられた、授かった、確定した大陸。
危険語は赤い線で消され、残ったのは、未整理記録、漂着物台帳、航海者証言、検証すべき仮説、という地味な言葉だった。
地味。
あまりにも地味。
新聞社でこれを見たバスティアン編集長がどんな顔をするか、想像するだけで胃が痛い。
「売れない訂正文になりました」
俺が小さく言うと、セレスタンが封筒の口を押さえながら答えた。
「訂正文は売るものではありません」
「編集長は売ります」
「では、売れない形にして正解です」
正論だった。
ただし、うちの編集長は正論を紙面の端へ追いやり、売れる部分だけ切り取って大見出しにする男である。
『月読顧問、王宮公認へ』くらいは平気で打つ。
俺の胃は、まだ刷られていない見出しで先に傷ついた。
夕方、ようやく王宮を出ることになった。
白百合の間を出る時、書記官が封蝋つきの封筒を俺へ渡す。
「訂正文案です。《月桂冠通信》編集長へ直接渡してください」
「はい」
「途中で開封した場合、王宮記録に残ります」
「開けません」
「紛失した場合も記録に残ります」
「落としません」
「第三者に写された場合も」
「俺は封筒ですか?」
王宮西門の外は、夕方の冷えた空気に変わっていた。
朝に連れてこられた時より、石畳の影が長い。
門番が俺を見る目も、今朝とは少し違う。
被告人を見る目ではない。
何か面倒な荷物に札が付いたのを確認する目だ。
近衛が二人、少し離れて歩くことになった。
俺のすぐ横にはモルガーヌ。
黒いドレスの裾が、夕方の石畳を静かに払っている。
「あの、これは護衛ですか」
俺は確認した。
正式な肩書きをもらい、給金も上がり、王宮出入り許可まである。
少しだけ偉くなった気がしたのだ。
「護衛よ」
モルガーヌはあっさり言った。
「本当に」
「ええ。あなたが刺されないように」
「思ったより物理的でした」
「あなたが逃げないように」
「護衛の中に監視が混ざっています」
「あなたが余計なことを喋らないように」
「監視が本体では?」
「気づけて偉いわ」
偉くなった気分が、王宮西門から三歩で剥がれた。
俺は護衛対象であり、逃亡防止対象であり、口封じ防止対象でもあるらしい。
出世するほど不自由になる。
新聞社へ戻れば、バスティアンがいる。
いや、いるとは限らない。
あの人は金の匂いがする場所へ外出していることも多い。
ただし、不在でも怖い。
不在の机に置かれた封筒を見て、「売れる」と判断する未来だけははっきり見える。
「封筒を新聞社に届けたら、俺の今日の仕事は終わりでしょうか」
「終わると思う?」
「思いたいです」
「願望と予定を混ぜると、また記事になるわよ」
混ぜたくて混ぜているわけではない。
俺の人生が勝手に紙面向けに混ざるのだ。
大通りを避け、近衛は一本細い道へ入った。
表通りには夕市の声が残っている。
こちらの路地は、石壁の間に荷車の跡が細く伸び、軒先の灯りがまだ少ない。
「人目を避けるためですか」
俺が聞くと、近衛の一人が短く答えた。
「騒ぎを避けるためです」
同じ意味のようで、少し違う。
人目を避けるのは俺のため。
騒ぎを避けるのは王宮のため。
どちらにしても、俺は避けられる側だった。
路地の曲がり角で、声が落ちてきた。
「ミクラ殿」
知らない男の声だった。
俺は足を止めかけた。
モルガーヌの指が、俺の袖を軽く押さえる。
止まるな、という合図だった。
壁際に、灰色の外套を着た男が立っていた。
顔は帽子の影で見えにくい。
商人にも、信徒にも、新聞屋にも見える。
こういう時、人間の顔は便利に曖昧になる。
「月の民の本当を、少しだけ聞かせていただきたい」
胃が、封筒より先に折れた。
「本当は、王宮が隠しているのでしょう。教会へ渡す前に、私どもへ。金なら出せます」
私ども。
誰だ。
その曖昧さだけで、すでに面倒事の匂いがする。
「人違いです」
俺は反射で言った。
モルガーヌが横目で俺を見る。
「名前を呼ばれていたわよ」
「では、職違いです。そういう本当を売る職ではありません」
「昨日まで売っていたでしょう」
「傷をえぐらないでください」
男が一歩近づいた。
近衛の手が剣へ寄る。
それより早く、モルガーヌの影が動いた。
夕方の路地に落ちていた細い影が、石畳の上をすべる。
黒い糸が引かれるようで、けれど糸よりずっと静かだった。
しかも、仕事が早い。
黒い線が男の足首に触れた。
次の寸刻、男は膝から崩れた。
悲鳴は出ない。
足だけが石畳へ縫いつけられたみたいに動かない。
男の袖から、小さな刃物が落ちた。
「動くな」
モルガーヌの声は、低くも大きくもなかった。
だが路地の温度が下がった。
男は震えたまま、両手を上げた。
近衛が駆け寄り、刃物を蹴って離す。
もう一人が王宮側へ合図の笛を吹いた。
俺は封筒を胸に抱えたまま、ようやく息を吐いた。
守られた。
たぶん、守られたのだ。
その実感はありがたい。
ありがたいのだが、同時に別の理解が追いついてきた。
前世から命の危機などあったことがない。
「モルガーヌさん」
「何」
「俺、もしかして、前より安全ではなくなってますか」
彼女は男の足元の影を押さえたまま、こちらを見た。
「ようやく局長代行らしい顔になったわね」
その顔は、たぶん胃痛の顔である。
近衛の笛に応じて、王宮側から複数の足音が近づいてきた。
石畳の上には、小さな刃物と、動けない男の影が残っている。
俺は新聞社へ戻る前に、まず王宮へ一人分の面倒事を返却することになった。