締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
石畳には、小さな刃物が落ちていた。
外套の男は膝をついたまま動けない。足首のあたりに、夕方の影が細く絡んでいる。縄ではない。鎖でもない。ただの影に見えるのに、男は足を石畳へ縫いつけられたみたいに震えていた。
俺は封蝋付きの封筒を胸に抱えたまま、ようやく息を吸った。
肺に入った空気が冷たい。
ついさっきまで、俺は新聞社へ帰る途中だった。正式な護衛対象になったとか、出世するほど不自由になるとか、そういう小さな胃痛で済ませていた。
小さな刃物が袖から落ちた瞬間、種類が変わった。
王宮側から駆けてきた近衛が、路地の入口で足を止める。
二人、さらに遅れてもう一人。手には短い灯り。夕方の薄暗さの中で、金具だけが冷たく光った。
「ノクテール殿」
先ほどまで俺たちについていた近衛の一人が、男の袖と足元を確かめる。
「負傷は」
「させていないわ」
モルガーヌは、黒いドレスの裾をわずかに払った。
「足を止めただけ。刃物はそこ。拾うなら布越しに」
近衛はうなずき、布で刃物を包んだ。
もう一人が男の両手を取る。男は何か言いかけたが、近衛の視線で口を閉じた。
俺は少しだけ感心した。
王宮の近衛は、怖い場面で大声を出さないらしい。
新聞社なら、バスティアン編集長がまず見出しを叫ぶ。
「この者は頓所へ連れていきます。応援と合流し、背後を確認します」
近衛がモルガーヌへ向き直った。
「ミクラ殿をお願いいたします。新聞社まで」
「預かるわ」
モルガーヌはあっさり答えた。
「珍獣の紐を離すなと言われているもの」
「紐」
俺は思わず聞き返した。
「比喩よ。足に影を巻かれたい?」
「比喩でお願いします」
男は近衛二人に挟まれ、路地の奥へ連れていかれた。
モルガーヌの影が、男の足首からするりと離れる。離れた途端、男の膝が崩れかけた。近衛が腕を支え、灯りが揺れる。
暴れない。
叫ばない。
相手を傷つけず、足だけ止め、刃物だけを落とす。
モルガーヌの魔法は、強いというより正確だった。
「ミクラ殿」
連行される前、近衛がこちらへ少しだけ顔を向けた。
「今夜は寄り道をなさらぬよう。明朝、王宮から正式な確認の使いが出ます」
「明朝」
嫌な言葉だった。
今日一日だけでたっぷり王宮を満喫したつもりなのに、王宮のほうは俺をまだ放す気がないらしい。あと教会から呼ばれていた気もするが、それも王宮が調整してくれるのだろうか。
近衛たちの足音が遠ざかる。
路地には、俺とモルガーヌだけが残った。
表通りの夕市の声が、石壁の向こうでまだ細く鳴っている。
その声があるおかげで、さっきの刃物が夢ではないと分かる。夢なら、もう少し俺に都合よく終わってほしい。
モルガーヌが歩き出した。
俺も慌ててついていく。
「あの」
「何」
「モルガーヌさんって、やっぱり反則的に強いですね」
「知っているわ」
自覚がある強者は返事が短い。
「なら、その力で、教会とか商人とか新聞社の騒ぎも、もう少し静かにできたりしませんか」
モルガーヌの足が止まった。
彼女は振り返らず、横顔だけで俺を刺した。
「暴力は少しの時間は黙らせられる。でも少し黙った分だけ後で激しく噴き出す。だから神や金には触らないに越したことはないわ」
石畳に、短い沈黙が落ちた。
俺は封筒を抱え直す。
「でも、さっきみたいに足を止めれば、口も止まるんじゃ」
「一人の口なら止まるわ」
モルガーヌは歩きながら言った。
「けれど、誰かが『月が言った』と叫んだ時、その人間だけを黙らせても遅い。隣の人間が、黙らされた理由を勝手に考える。次の日には、魔女が真実を隠すために口を封じた、になる」
「うちの編集長なら号外にします」
「だからやらないの」
路地を抜けると、細い月明かりが屋根の縁にかかっていた。
モルガーヌの銀髪が、そこで青白く光る。黒いドレスと白い髪のせいで、彼女だけ夕方ではなく別の夜を歩いているみたいだった。
「まだ納得していない顔ね」
「顔だけです。口では何も」
「あなたは顔が一番よく喋るわ」
やめてほしい。
俺の顔まで発言記録に残されたら、もう黙秘する場所がない。
モルガーヌは、しばらく黙って歩いた。
そして、急に声を落とした。
「世界に秩序があるなら、そこに神の痕跡を読むことはできる。潮が満ちる。月が欠ける。見知らぬ木片が岸へ着く。渡り鳥が季節を外れて飛ぶ。そういう並びから、人は世界に『何かがある』と考えていい」
俺は何も言わなかった。
ここで余計な相槌を打つと、たぶん地雷が爆発する。
「でも、限られた時しか生きられない人間が、その何かの本質を握った顔で喋るのは、私には理解できない。それらしい何かから、『神はこういう方だ』『神はいま、この者を選んだ』と言った瞬間、人間が神の名で騙ったなにかよ。そしてそういうものほど早く強烈に広がる」
彼女に口を塞がれた感触が戻ってきた。
俺は控え室で、神を世界の秩序として説明しかけた。
あの時、モルガーヌは真顔で俺を止めた。
死にたいの、と。
「あなたが昼にやりかけた言い方も同じよ。神を世界の秩序へ置き換えるのは、賢そうに聞こえる。けれど、白百合の間では新しい教義か異端に聞こえる。どちらに転んでも、あなたの首には優しくない」
「俺の首に優しい思想だけ採用したいです」
「なら黙ることね」
月読顧問。
局長代行。
喋って整理し、喋りすぎれば燃える仕事。
求人票があったら、誰も応募しない。
モルガーヌは、俺のくだらない逃げを追わなかった。
「教会は、人々の『何かがある』という不安やひらめきに形を与えるのがうまい。祈り、儀礼、聖務、記録。怖い夜に、一人ではないと思える形を渡す。それ自体が、いつも悪いわけではない」
彼女の声には、教会への単純な嫌悪はなかった。
だから余計に、続く言葉が冷たく聞こえた。
「けれど、その形に王宮が印を押し、商人が値を付け、新聞が見出しを付けると、一人の人間が神の口にされる。人は不安な時、責任ある記録より、誰か一人の英雄を欲しがる」
細い路地の先で、灯りが揺れた。
月桂冠通信のある通りが近い。
「いつも一人の英雄を殺すのは、多数の民衆よ」
それは、短い言葉だった。
けれど、影より重かった。
彼女が言った、神の言葉にされた人間。
最後には自分の言葉を失った人間。
俺は封筒を見下ろす。
封蝋のついた訂正文案。
月の民も、神の言葉も、授かったも、告げられたも削られた、地味な紙。
あれは売れない。
たぶん編集長は嫌がる。
でも、売れない形にすること自体が、今の俺を祭壇に載せないための作業なのだ。
「モルガーヌさんは、神が怖いんですか」
聞いてから、少し後悔した。
だが彼女は怒らなかった。
「違うわ」
月明かりの下で、夜紫の瞳がこちらを見る。
「神の名で、人間が人間を奪うのが嫌いなの」
俺の喉が詰まった。
モルガーヌは、俺の沈黙を責めずに続けた。
「だから、あなたは一人の英雄にも預言者にもなるな。月読局は、あなたを祭壇へ載せるための場所ではない。記録、検証、監査、責任分担。言葉を一人の喉から引きはがして、紙と人手と手続きに散らすために作るの」
「散らした先の責任者欄が俺なんですが」
「局長代行」
「美しい肩書きで刺さないでください」
「責任は消えないわ。でも、一人の喉に全部を詰め込むよりはましよ」
俺は胸の封筒を少し強く抱えた。
責任は消えない。
それは、あまり聞きたくない真実だった。
できれば責任も見出しも王宮の封蝋の中に閉じ込めて、どこかの保管庫へ預けたい。
「俺の責任だけは、できれば神様に預けたいんですが」
「却下」
一語で救済が死んだ。
「せめて審査を」
「棄却」
二語目で墓まで掘られた。
モルガーヌはまた前を向いた。
「訂正文を届けるわよ。神に預ける前に、編集長へ渡しなさい」
「順番が厳しい」
「順番を間違えると、また神託になるわ」
それは困る。
ものすごく困る。
俺は歩き出した彼女の後を追った。
月光が路地の石畳を細く照らし、モルガーヌの影が俺の足元まで伸びている。
さっき不審者の足を止めた影と、同じ魔女の影。
明朝、王宮から正式な確認の使いが来る。
辞退したい。
とても辞退したい。
俺はその気持ちごと、月明かりの下でモルガーヌの影を踏んで続いた。
予約投稿ミスしていました