締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第33話 強い女は神にも触らない

 

石畳には、小さな刃物が落ちていた。

外套の男は膝をついたまま動けない。足首のあたりに、夕方の影が細く絡んでいる。縄ではない。鎖でもない。ただの影に見えるのに、男は足を石畳へ縫いつけられたみたいに震えていた。

 

俺は封蝋付きの封筒を胸に抱えたまま、ようやく息を吸った。

肺に入った空気が冷たい。

ついさっきまで、俺は新聞社へ帰る途中だった。正式な護衛対象になったとか、出世するほど不自由になるとか、そういう小さな胃痛で済ませていた。

 

小さな刃物が袖から落ちた瞬間、種類が変わった。

 

王宮側から駆けてきた近衛が、路地の入口で足を止める。

二人、さらに遅れてもう一人。手には短い灯り。夕方の薄暗さの中で、金具だけが冷たく光った。

 

「ノクテール殿」

 

先ほどまで俺たちについていた近衛の一人が、男の袖と足元を確かめる。

 

「負傷は」

 

「させていないわ」

 

モルガーヌは、黒いドレスの裾をわずかに払った。

 

「足を止めただけ。刃物はそこ。拾うなら布越しに」

 

近衛はうなずき、布で刃物を包んだ。

もう一人が男の両手を取る。男は何か言いかけたが、近衛の視線で口を閉じた。

 

俺は少しだけ感心した。

王宮の近衛は、怖い場面で大声を出さないらしい。

新聞社なら、バスティアン編集長がまず見出しを叫ぶ。

 

「この者は頓所へ連れていきます。応援と合流し、背後を確認します」

 

近衛がモルガーヌへ向き直った。

 

「ミクラ殿をお願いいたします。新聞社まで」

 

「預かるわ」

 

モルガーヌはあっさり答えた。

 

「珍獣の紐を離すなと言われているもの」

 

「紐」

 

俺は思わず聞き返した。

 

「比喩よ。足に影を巻かれたい?」

 

「比喩でお願いします」

 

男は近衛二人に挟まれ、路地の奥へ連れていかれた。

モルガーヌの影が、男の足首からするりと離れる。離れた途端、男の膝が崩れかけた。近衛が腕を支え、灯りが揺れる。

 

暴れない。

叫ばない。

相手を傷つけず、足だけ止め、刃物だけを落とす。

 

モルガーヌの魔法は、強いというより正確だった。

 

「ミクラ殿」

 

連行される前、近衛がこちらへ少しだけ顔を向けた。

 

「今夜は寄り道をなさらぬよう。明朝、王宮から正式な確認の使いが出ます」

 

「明朝」

 

嫌な言葉だった。

今日一日だけでたっぷり王宮を満喫したつもりなのに、王宮のほうは俺をまだ放す気がないらしい。あと教会から呼ばれていた気もするが、それも王宮が調整してくれるのだろうか。

 

近衛たちの足音が遠ざかる。

路地には、俺とモルガーヌだけが残った。

 

表通りの夕市の声が、石壁の向こうでまだ細く鳴っている。

その声があるおかげで、さっきの刃物が夢ではないと分かる。夢なら、もう少し俺に都合よく終わってほしい。

 

モルガーヌが歩き出した。

俺も慌ててついていく。

 

「あの」

 

「何」

 

「モルガーヌさんって、やっぱり反則的に強いですね」

 

「知っているわ」

 

自覚がある強者は返事が短い。

 

「なら、その力で、教会とか商人とか新聞社の騒ぎも、もう少し静かにできたりしませんか」

 

モルガーヌの足が止まった。

彼女は振り返らず、横顔だけで俺を刺した。

 

「暴力は少しの時間は黙らせられる。でも少し黙った分だけ後で激しく噴き出す。だから神や金には触らないに越したことはないわ」

 

石畳に、短い沈黙が落ちた。

 

俺は封筒を抱え直す。

 

「でも、さっきみたいに足を止めれば、口も止まるんじゃ」

 

「一人の口なら止まるわ」

 

モルガーヌは歩きながら言った。

 

「けれど、誰かが『月が言った』と叫んだ時、その人間だけを黙らせても遅い。隣の人間が、黙らされた理由を勝手に考える。次の日には、魔女が真実を隠すために口を封じた、になる」

 

「うちの編集長なら号外にします」

 

「だからやらないの」

 

路地を抜けると、細い月明かりが屋根の縁にかかっていた。

モルガーヌの銀髪が、そこで青白く光る。黒いドレスと白い髪のせいで、彼女だけ夕方ではなく別の夜を歩いているみたいだった。

 

「まだ納得していない顔ね」

 

「顔だけです。口では何も」

 

「あなたは顔が一番よく喋るわ」

 

やめてほしい。

俺の顔まで発言記録に残されたら、もう黙秘する場所がない。

 

モルガーヌは、しばらく黙って歩いた。

そして、急に声を落とした。

 

「世界に秩序があるなら、そこに神の痕跡を読むことはできる。潮が満ちる。月が欠ける。見知らぬ木片が岸へ着く。渡り鳥が季節を外れて飛ぶ。そういう並びから、人は世界に『何かがある』と考えていい」

 

俺は何も言わなかった。

ここで余計な相槌を打つと、たぶん地雷が爆発する。

 

「でも、限られた時しか生きられない人間が、その何かの本質を握った顔で喋るのは、私には理解できない。それらしい何かから、『神はこういう方だ』『神はいま、この者を選んだ』と言った瞬間、人間が神の名で騙ったなにかよ。そしてそういうものほど早く強烈に広がる」

 

彼女に口を塞がれた感触が戻ってきた。

俺は控え室で、神を世界の秩序として説明しかけた。

あの時、モルガーヌは真顔で俺を止めた。

 

死にたいの、と。

 

「あなたが昼にやりかけた言い方も同じよ。神を世界の秩序へ置き換えるのは、賢そうに聞こえる。けれど、白百合の間では新しい教義か異端に聞こえる。どちらに転んでも、あなたの首には優しくない」

 

「俺の首に優しい思想だけ採用したいです」

 

「なら黙ることね」

 

月読顧問。

局長代行。

喋って整理し、喋りすぎれば燃える仕事。

求人票があったら、誰も応募しない。

 

モルガーヌは、俺のくだらない逃げを追わなかった。

 

「教会は、人々の『何かがある』という不安やひらめきに形を与えるのがうまい。祈り、儀礼、聖務、記録。怖い夜に、一人ではないと思える形を渡す。それ自体が、いつも悪いわけではない」

 

彼女の声には、教会への単純な嫌悪はなかった。

だから余計に、続く言葉が冷たく聞こえた。

 

「けれど、その形に王宮が印を押し、商人が値を付け、新聞が見出しを付けると、一人の人間が神の口にされる。人は不安な時、責任ある記録より、誰か一人の英雄を欲しがる」

 

細い路地の先で、灯りが揺れた。

月桂冠通信のある通りが近い。

 

「いつも一人の英雄を殺すのは、多数の民衆よ」

 

それは、短い言葉だった。

けれど、影より重かった。

彼女が言った、神の言葉にされた人間。

最後には自分の言葉を失った人間。

 

俺は封筒を見下ろす。

封蝋のついた訂正文案。

月の民も、神の言葉も、授かったも、告げられたも削られた、地味な紙。

 

あれは売れない。

たぶん編集長は嫌がる。

でも、売れない形にすること自体が、今の俺を祭壇に載せないための作業なのだ。

 

「モルガーヌさんは、神が怖いんですか」

 

聞いてから、少し後悔した。

だが彼女は怒らなかった。

 

「違うわ」

 

月明かりの下で、夜紫の瞳がこちらを見る。

 

「神の名で、人間が人間を奪うのが嫌いなの」

 

俺の喉が詰まった。

 

モルガーヌは、俺の沈黙を責めずに続けた。

 

「だから、あなたは一人の英雄にも預言者にもなるな。月読局は、あなたを祭壇へ載せるための場所ではない。記録、検証、監査、責任分担。言葉を一人の喉から引きはがして、紙と人手と手続きに散らすために作るの」

 

「散らした先の責任者欄が俺なんですが」

 

「局長代行」

 

「美しい肩書きで刺さないでください」

 

「責任は消えないわ。でも、一人の喉に全部を詰め込むよりはましよ」

 

俺は胸の封筒を少し強く抱えた。

 

責任は消えない。

それは、あまり聞きたくない真実だった。

できれば責任も見出しも王宮の封蝋の中に閉じ込めて、どこかの保管庫へ預けたい。

 

「俺の責任だけは、できれば神様に預けたいんですが」

 

「却下」

 

一語で救済が死んだ。

 

「せめて審査を」

 

「棄却」

 

二語目で墓まで掘られた。

 

モルガーヌはまた前を向いた。

 

「訂正文を届けるわよ。神に預ける前に、編集長へ渡しなさい」

 

「順番が厳しい」

 

「順番を間違えると、また神託になるわ」

 

それは困る。

ものすごく困る。

 

俺は歩き出した彼女の後を追った。

月光が路地の石畳を細く照らし、モルガーヌの影が俺の足元まで伸びている。

 

さっき不審者の足を止めた影と、同じ魔女の影。

 

明朝、王宮から正式な確認の使いが来る。

辞退したい。

とても辞退したい。

 

俺はその気持ちごと、月明かりの下でモルガーヌの影を踏んで続いた。




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