締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第34話 辞退演説は就任宣誓になる

昨夜、魔女は言った。

一人の英雄になるな。預言者になるな。言葉を一人の喉から引きはがし、紙と人手と手続きに散らせ。

 

だから翌朝、白百合の間にもう一度立たされた俺は、逃げるためではなく、責任分散を制度にするために口を開くことにした。

いや、正直に言うと責任からも逃げたい。

だがそこを前面に出すと、俺の薄い勇気がただの保身として記録される。王宮の羽根ペンは、人間の情けない部分を妙にきれいな字で残すのだ。

 

「正式な確認です」

 

シャルロット王女は、白と金の宮廷服で机の向こうに座っていた。

机の上には、昨日より整った羊皮紙が重ねられている。整っている書類ほど、人間をきれいに逃がさない。

 

デュボワ枢機卿、セレスタン、ランベール商会長。

さらに赤い飾り紐の聖務官と王宮書記官。

俺の横には、黒いドレスのモルガーヌ。

教会の出頭要請は、王宮確認の中へ吸い込まれたらしい。

 

昨夜、封蝋付きの訂正文案は《月桂冠通信》へ届けた。バスティアン編集長は封蝋を見るなり、見出しを見つけた顔をしたが、まだ紙面にはなっていない。モルガーヌにきつく言い含められていた。

 

「ミクラ。月読顧問としての職務確認を始めます」

 

「その前に、発言してもよろしいでしょうか」

 

俺は手を上げた。

モルガーヌが横目でこちらを見る。

その目は、昨日の説教を忘れて余計なことを言うなら踏む、という温度だった。

 

忘れていない。

むしろ、胸の奥に残りすぎて胃に刺さっている。

 

シャルロット王女は、目を細めた。

 

「許します」

 

「私は、月読顧問という肩書きを、私個人へ寄せすぎる形では受けられません」

 

書記官の羽根ペンが構えられた。

ここから間違えると、俺は自分で自分の祭壇を組み立てる男になる。

 

「月の民の記事は、新聞向けの誇大表現でした。西海についても、断定できる発見ではなく、古い記録や漂着物、航海者の話を改めて調べるべき可能性にすぎません」

 

セレスタンが小さくうなずいた。

今のは味方のうなずきだと思いたい。

 

「ですから、私一人を“月を読む者”として前に出すのは危険です。民間はそこへ勝手に神託を詰めます。商人は値札を付け、新聞は見出しを付けます。教会も学士院も王宮も、それぞれ別の意味で私の言葉を使う」

 

言いながら、昨夜の月明かりを思い出した。

モルガーヌの影。

彼女の短い声。

一人の英雄を殺すのは、多数の民衆。

 

俺は英雄になりたくない。

預言者にもなりたくない。昨日まで三流新聞社の雑文係だった人間に、祭壇は高すぎる。

 

「だから、断定ではなく検証を。神託ではなく記録を。見出しではなく台帳を優先してください。私の言葉を、私の口から離して、王宮の記録、教会の監査、学士院の検証、商人組合の調達文書へ分けてください」

 

白百合の間が静かになった。

俺は息を飲む。

 

俺個人を中心に据えないための、わりと真面目な辞退演説だった。

 

なのに。

 

シャルロット王女が、書記官へ視線を向けた。

枢機卿が、穏やかに聞いている。

セレスタンが、紙の余白を見ている。

ランベール商会長が、指輪を撫でながら考えている。

 

これは、辞退の空気ではない。

採用の空気だ。

 

「記録」

 

シャルロット王女が言った。

 

「月読局の基本方針案。断定ではなく検証を。神託ではなく記録を。見出しではなく台帳を優先する。月読顧問の発言は、王宮記録、教会監査、学士院検証、商人組合の調達文書へ分散して扱う」

 

羽根ペンが走った。

 

「待ってください」

 

俺は思わず声を上げた。

 

「今のは、私一人を中心に置かないための説明で」

 

「ええ」

 

王女はうなずいた。

 

「ですから、月読局の基本方針にします」

 

俺の辞退が、制度の看板に吸い込まれている。

 

デュボワ枢機卿が、静かに口を開いた。

 

「神託ではなく記録。この文言はよろしいでしょう。教会としても、神の言葉を騙ったものではなく、人間の調査記録として扱う線を明確にできます」

 

「ありがとうございます。ですが、私は」

 

「その線を守る者が必要です」

 

セレスタンが続ける。

 

「断定ではなく検証、という表現も適切です。確定事実、未確認資料、仮説、新聞上の誇大表現を分ける基準になります。ミクラ殿は、自分の発言が危険な発生源になると理解している」

 

ランベール商会長は、香水の匂いを少し揺らして笑った。

 

「断定しない方が、商いとしても息が長い。確定した発見なら一度売って終わりですが、調査なら船、帆布、保存食、倉庫、保険が順に動きますからな」

 

「商会長」

 

シャルロット王女が名を呼んだ。

 

ランベールは咳払いした。

 

「もちろん、王宮監督下の健全な調達として、です」

 

商人は、本音を一度出してから包装紙で包み直すのが早い。

 

俺はモルガーヌを見た。

助けてほしい、という顔ではない。

今のは昨日の話を踏まえたつもりです、という顔だ。

 

彼女は夜紫の瞳で俺を見返した。

 

「珍獣、少しは覚えていたのね」

 

「少しは、ですか」

 

「全部覚えていたら、最初から逃げ腰の声を出さないわ」

 

痛いところを正確に刺す。

だが、彼女の声は昨日より少しだけ冷たくなかった。

たぶん気のせいではない。気のせいだとしても、今はそれを食料にしたい。

 

シャルロット王女は、俺の前へ新しい羊皮紙を置いた。

 

『月読顧問 職務確認』

 

その下に、さっきの俺の言葉が、少し整った筆跡で書かれていた。

断定ではなく検証。

神託ではなく記録。

見出しではなく台帳。

 

「ミクラ。あなたの辞退理由は理解しました。あなたを一人の英雄や預言者にしないためには、言葉を散らす仕組みが必要です」

 

「では」

 

「その仕組みを動かすために、あなたを月読顧問に置きます」

「あなたが外れれば、空白へ勝手な神託が入る。だから、発生源を王宮管理下に置き、発言を記録し、検証手順へ回す。個人崇拝を避けるための役職です」

 

「役職が、個人崇拝を避けるため」

 

「ええ」

 

王女は当然のように言った。

 

「辞退は認めません」

 

短い。

清々しいほど短い。

俺の辞退演説は、逃亡ではなく制度論として評価され、そのせいで棺桶から名札付きの椅子へ移された。

 

「では、せめて就任ではなく、臨時協力くらいに」

 

「公式肩書きは月読顧問。内部実務は局長代行」

 

モルガーヌが横から羽根ペンを取って、俺の手元へ置いた。

 

「書きなさい。ここで粘るほど、あなたの辞退演説が全文で残るわ」

 

「全文は困ります」

 

「では短く負けなさい」

 

ひどい助言だが、実務的だった。

 

俺は羽根ペンを握る。

指先にインクの匂いがつく。

新聞社のインクは紙を売るための匂いだったが、王宮のインクは人を役職へ閉じ込める匂いがする。

 

ユーリ・ミクラ。

 

自分の名を書いた。

羽根ペンの先が、羊皮紙を小さく引っかく。

それだけで、辞退演説は就任宣誓になった。

 

ランベール商会長が、満足げにうなずく。

 

「月読顧問殿。調達見積もりの件は、のちほど」

 

「のちほどが怖い」

 

セレスタンも紙束を整えた。

 

「検証項目も、のちほど」

 

「のちほどが増える」

 

デュボワ枢機卿は、赤い法衣の袖を静かに直した。

 

「教会監査の確認も、のちほど」

 

「のちほどに囲まれている」

 

シャルロット王女は最後の一枚を取り上げた。

それだけ、他の紙より大きい。

余白が広く、上部には王冠と百合の印を押す場所が空いている。

 

「では、次です」

 

「西海調査に関する布告案を整えます。木札にして広場に掲示します」

 

白い紙が、机の中央へ置かれた。

その空白は、昨日の処遇案より広い。

広い空白ほど、国は遠くへ行ける。

そして俺は、だいたいその端に名前を書かれる。

 

扉の外で、掲示板用の木枠を運ぶ音がした。

 

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