締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
扉の外で、掲示板用の木枠を運ぶ音がした。
その音を聞いた瞬間、俺は理解した。
これはもう会議ではない。
設営だ。
王宮白百合の間の机に置かれた布告案は、まだ白い紙だった。
だが上部には王冠と百合の印を押す余白があり、書記官はすでに木札用の写しを作る姿勢になっている。
「文言を確認します」
シャルロット王女が言った。
「西海沿岸における未整理資料、漂着物台帳、航海者証言、古い寄進記録および民間航路控えを再確認するため、王国は調査準備を開始する」
書記官が読み上げた。
月の民。
神託。
大陸発見。
危険な言葉は、一つも入っていない。
代わりに並んでいるのは、資料、台帳、証言、控え。
眠くなるほど地味だ。
けれど、王宮の印が押された退屈な文章は、新聞の派手な見出しより長く残る。
「月読顧問の名は」
俺は思わず口を挟んだ。
「小さくできますか」
シャルロット王女は、紙面の余白を見た。
「できます」
助かった。
「ただし、文書等には残るので気休めですね」
助かっていない。
セレスタンが淡々と補足した。
「月読顧問ユーリ・ミクラ殿は調査可能性の整理、発言記録の提出、新聞上の誇大表現の訂正確認を担当する。神託者ではなく、調査協力者としての明記です」
出世という言葉は、もっと明るい時に使うものだと思っていた。
デュボワ枢機卿は、危険語がないことを確かめてからうなずいた。
シャルロット王女は、布告案の上部へ王冠と百合の印を押すよう命じた。
赤い封蝋が紙に落ちる。
その瞬間、足元が冷えた。
俺は火刑も神託詐称も避けた。
低俗な新聞屋という屈辱的だが命に優しい整理で生き残った。
なのに、俺の小さな嘘は、王国の顔を西へ向けていた。
「ミクラ」
シャルロット王女が言った。
「月読局の設立準備は、明日から具体化します。今日は新聞社へ戻り、訂正文と布告の扱いを確認しなさい」
「はい」
素直に返事をした。
逆らうと、また役職が増えそうだった。
モルガーヌが横で立ち上がる。
「行くわよ、月読顧問」
「せめて新聞社を出るまでは、元雑文係でいさせてください」
「では、元雑文係の月読顧問」
悪化した。
《月桂冠通信》へ戻ると、見たことのないごちそうが机に並んでいた。
焼いた鶏、白いパン、魚の酢漬け、干し果物、小さな菓子。
うちの編集室に白いパンがあるだけで、事件性がある。
活版のインクと油の匂いに、肉の匂いが混ざっていた。
印刷機の横で、バスティアン編集長が腕を広げる。
「ユーリ! 名誉の出世だ!」
「その言い方だと、俺が喜ぶ前提に聞こえます」
「喜べ。給金が上がるんだろう」
「胃の下がり方のほうが大きいです」
「胃は紙面に載らん。給金は載る」
載せないでほしい。
バスティアンは封蝋付きの訂正文案を掲げた。
「訂正文はそのまま刷る。王宮の布告も明日の紙面に載せる。安心しろ、危険語は削った」
「本当に?」
「本当にだ。《月の民が告げた》とは書かん」
胸を撫で下ろした。
「編集長」
声が少し詰まった。
自分でも意外だった。
「世話になりました。これからは、新聞社より月読局の仕事が主になります」
バスティアンは一拍だけ黙った。
それから、いつものように笑った。
「出世した部下は、記事のネタを持って帰ってくるものだ」
「感動的な送別の言葉は」
「紙面にすると売れない」
ひどい。
ひどいのに、少しだけ救われた。
モルガーヌは干し果物を一つつまみ、俺ではなく皿を見た。
「珍しく高いわね」
「月読顧問の送別兼栄転祝いですからな」
バスティアンが胸を張った。
俺は、その胸の張り方に嫌なものを感じた。
だが白いパンの匂いに負けた。
◇
翌朝、俺はその判断を後悔した。
《月桂冠通信》の紙面は、王都の通りに広がっていた。
訂正文は載っていた。
月の民は紙面上の比喩。
神託ではなく、未整理資料にもとづく航海予報に近い仮説。
王宮、教会、学士院、商人組合の監督下で検証する。
地味で、正しい。
だが読者の目は、その隣の大きな見出しに吸われていた。
《王国、西海調査へ》
訂正と期待が、同じ紙で売られている。
危険語を削ったのに、王都の目は西へ向く。
新聞とは、火を消した水で蒸気を売る仕事なのかもしれない。
俺は朝の人波をかき分けて新聞社へ戻った。
モルガーヌは新聞社の前で待っていた。
昨日から何かを察していた顔で、少し楽しそうだった。
「編集長!」
「おお、月読顧問殿」
バスティアンは編集机の向こうで、すでに次の紙面を組んでいた。
「布告を売りましたね」
「王宮布告は公共の知らせだ」
「大きすぎる」
「国が西を向いた。紙面も西を向く」
理屈だけは新聞屋として正しいから、怒る時に邪魔になる。
バスティアンは引き出しから一枚の紙を取り出した。
料理屋の請求書だった。
鶏、白いパン、魚の酢漬け、干し果物、菓子。
俺の薄給時代なら、見ただけで一月ぶんの昼食がなくなる額だ。
「昨日の祝いの費用だ」
「なぜ俺に見せるんですか」
「食べたからだ」
「罠だった」
「祝宴だ」
「罠に白いパンを置くな」
「よく食ったじゃないか」
言い返せない。
白いパンはおいしかった。
バスティアンは請求書の端を指で叩いた。
「今後、月読局でうまい情報があったら流せ。もちろん危険語は削る。だが、読者が知るべきことはある」
「それ、脅しですか」
「新聞社の先輩からの健全な期待だ」
「健全な期待は請求書を持たない」
モルガーヌが横で小さく笑った。
「昨日の皿を見た時から、こうなると思っていたわ」
「言ってくださいよ」
「あなたが肉に負けるところを検証していたの」
「神託ではなく記録ですね」
「ええ。見出しではなく請求書」
俺は両手で顔を覆った。
昼前、王宮前の広場へ行くと、木枠の掲示板に新しい布告が貼られていた。
王冠と百合の印。
西海調査に関する王国布告。
未整理資料。
漂着物台帳。
航海者証言。
月読顧問。
白い紙は、朝の光を受けてまぶしかった。
そのまぶしさの下で、人々が足を止める。
商人が指で行を追い、神官が静かに読み、船乗りらしい男が誰かへ内容を伝え、通りの少年が「西だって」と声を上げた。
国が、まだ見えない海の向こうを見ている。
俺は布告の端にある自分の肩書きを見た。
月読顧問ユーリ・ミクラ。
モルガーヌが隣で言った。
「終わりではないわ」
「分かってます」
声は思ったより小さかった。
「これは始まりよ」
広場の風が、布告の下端を小さく揺らした。
逃げ場のない白い紙が、木枠の中で音を立てていた。
2部は以上で
3部から月読局立ち上げ編です
ここまで読んでくださってありがとうございます。
よければ評価等頂けると月読顧問の寿命がちょっと延びます。