締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第35話 王国は西を向いた

扉の外で、掲示板用の木枠を運ぶ音がした。

 

その音を聞いた瞬間、俺は理解した。

これはもう会議ではない。

設営だ。

 

王宮白百合の間の机に置かれた布告案は、まだ白い紙だった。

だが上部には王冠と百合の印を押す余白があり、書記官はすでに木札用の写しを作る姿勢になっている。

 

「文言を確認します」

 

シャルロット王女が言った。

 

「西海沿岸における未整理資料、漂着物台帳、航海者証言、古い寄進記録および民間航路控えを再確認するため、王国は調査準備を開始する」

 

書記官が読み上げた。

 

月の民。

神託。

大陸発見。

 

危険な言葉は、一つも入っていない。

代わりに並んでいるのは、資料、台帳、証言、控え。

眠くなるほど地味だ。

 

けれど、王宮の印が押された退屈な文章は、新聞の派手な見出しより長く残る。

 

「月読顧問の名は」

 

俺は思わず口を挟んだ。

 

「小さくできますか」

 

シャルロット王女は、紙面の余白を見た。

 

「できます」

 

助かった。

 

「ただし、文書等には残るので気休めですね」

 

助かっていない。

 

セレスタンが淡々と補足した。

 

「月読顧問ユーリ・ミクラ殿は調査可能性の整理、発言記録の提出、新聞上の誇大表現の訂正確認を担当する。神託者ではなく、調査協力者としての明記です」

 

出世という言葉は、もっと明るい時に使うものだと思っていた。

デュボワ枢機卿は、危険語がないことを確かめてからうなずいた。

シャルロット王女は、布告案の上部へ王冠と百合の印を押すよう命じた。

赤い封蝋が紙に落ちる。

その瞬間、足元が冷えた。

 

俺は火刑も神託詐称も避けた。

低俗な新聞屋という屈辱的だが命に優しい整理で生き残った。

 

なのに、俺の小さな嘘は、王国の顔を西へ向けていた。

 

「ミクラ」

 

シャルロット王女が言った。

 

「月読局の設立準備は、明日から具体化します。今日は新聞社へ戻り、訂正文と布告の扱いを確認しなさい」

 

「はい」

 

素直に返事をした。

逆らうと、また役職が増えそうだった。

 

モルガーヌが横で立ち上がる。

 

「行くわよ、月読顧問」

 

「せめて新聞社を出るまでは、元雑文係でいさせてください」

 

「では、元雑文係の月読顧問」

 

悪化した。

 

《月桂冠通信》へ戻ると、見たことのないごちそうが机に並んでいた。

 

焼いた鶏、白いパン、魚の酢漬け、干し果物、小さな菓子。

 

うちの編集室に白いパンがあるだけで、事件性がある。

活版のインクと油の匂いに、肉の匂いが混ざっていた。

印刷機の横で、バスティアン編集長が腕を広げる。

 

「ユーリ! 名誉の出世だ!」

 

「その言い方だと、俺が喜ぶ前提に聞こえます」

 

「喜べ。給金が上がるんだろう」

 

「胃の下がり方のほうが大きいです」

 

「胃は紙面に載らん。給金は載る」

 

載せないでほしい。

 

バスティアンは封蝋付きの訂正文案を掲げた。

 

「訂正文はそのまま刷る。王宮の布告も明日の紙面に載せる。安心しろ、危険語は削った」

 

「本当に?」

 

「本当にだ。《月の民が告げた》とは書かん」

 

胸を撫で下ろした。

 

「編集長」

 

声が少し詰まった。

自分でも意外だった。

 

「世話になりました。これからは、新聞社より月読局の仕事が主になります」

 

バスティアンは一拍だけ黙った。

それから、いつものように笑った。

 

「出世した部下は、記事のネタを持って帰ってくるものだ」

 

「感動的な送別の言葉は」

 

「紙面にすると売れない」

 

ひどい。

ひどいのに、少しだけ救われた。

 

モルガーヌは干し果物を一つつまみ、俺ではなく皿を見た。

 

「珍しく高いわね」

 

「月読顧問の送別兼栄転祝いですからな」

 

バスティアンが胸を張った。

 

俺は、その胸の張り方に嫌なものを感じた。

だが白いパンの匂いに負けた。

 

 

翌朝、俺はその判断を後悔した。

 

《月桂冠通信》の紙面は、王都の通りに広がっていた。

訂正文は載っていた。

月の民は紙面上の比喩。

神託ではなく、未整理資料にもとづく航海予報に近い仮説。

王宮、教会、学士院、商人組合の監督下で検証する。

 

地味で、正しい。

 

だが読者の目は、その隣の大きな見出しに吸われていた。

 

《王国、西海調査へ》

 

訂正と期待が、同じ紙で売られている。

危険語を削ったのに、王都の目は西へ向く。

新聞とは、火を消した水で蒸気を売る仕事なのかもしれない。

 

俺は朝の人波をかき分けて新聞社へ戻った。

モルガーヌは新聞社の前で待っていた。

昨日から何かを察していた顔で、少し楽しそうだった。

 

「編集長!」

 

「おお、月読顧問殿」

 

バスティアンは編集机の向こうで、すでに次の紙面を組んでいた。

 

「布告を売りましたね」

 

「王宮布告は公共の知らせだ」

 

「大きすぎる」

 

「国が西を向いた。紙面も西を向く」

 

理屈だけは新聞屋として正しいから、怒る時に邪魔になる。

 

バスティアンは引き出しから一枚の紙を取り出した。

料理屋の請求書だった。

鶏、白いパン、魚の酢漬け、干し果物、菓子。

俺の薄給時代なら、見ただけで一月ぶんの昼食がなくなる額だ。

 

「昨日の祝いの費用だ」

 

「なぜ俺に見せるんですか」

 

「食べたからだ」

 

「罠だった」

 

「祝宴だ」

 

「罠に白いパンを置くな」

 

「よく食ったじゃないか」

 

言い返せない。

白いパンはおいしかった。

 

バスティアンは請求書の端を指で叩いた。

 

「今後、月読局でうまい情報があったら流せ。もちろん危険語は削る。だが、読者が知るべきことはある」

 

「それ、脅しですか」

 

「新聞社の先輩からの健全な期待だ」

 

「健全な期待は請求書を持たない」

 

モルガーヌが横で小さく笑った。

 

「昨日の皿を見た時から、こうなると思っていたわ」

 

「言ってくださいよ」

 

「あなたが肉に負けるところを検証していたの」

 

「神託ではなく記録ですね」

 

「ええ。見出しではなく請求書」

 

俺は両手で顔を覆った。

 

昼前、王宮前の広場へ行くと、木枠の掲示板に新しい布告が貼られていた。

 

王冠と百合の印。

西海調査に関する王国布告。

未整理資料。

漂着物台帳。

航海者証言。

月読顧問。

 

白い紙は、朝の光を受けてまぶしかった。

そのまぶしさの下で、人々が足を止める。

商人が指で行を追い、神官が静かに読み、船乗りらしい男が誰かへ内容を伝え、通りの少年が「西だって」と声を上げた。

 

国が、まだ見えない海の向こうを見ている。

 

俺は布告の端にある自分の肩書きを見た。

月読顧問ユーリ・ミクラ。

 

モルガーヌが隣で言った。

 

「終わりではないわ」

 

「分かってます」

 

声は思ったより小さかった。

 

「これは始まりよ」

 

広場の風が、布告の下端を小さく揺らした。

逃げ場のない白い紙が、木枠の中で音を立てていた。

 




2部は以上で
3部から月読局立ち上げ編です

ここまで読んでくださってありがとうございます。
よければ評価等頂けると月読顧問の寿命がちょっと延びます。
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