締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
印刷室は、嘘が刷って増える場所だった。
もちろん、活字工たちはそんなつもりで働いていない。彼らはただ鉛の文字を拾い、逆さまに並べ、枠に締め、インクを乗せて紙へ押しつけている職人だ。活版印刷機はかなり複雑な構造をしている。
だが、その「増える嘘」が怖い。
俺が羽根ペンで一度だけ書いた言葉が、活板になり、紙束になる。言い訳はまだ俺の口の中で震えているのに、文字だけはもうきれいに整列して、王都中へ配布される準備をしていた。
「編集長、本当に中央見出しをこれで組むんですか」
活字工の男が、組みかけの版を持ち上げた。
そこには、俺の目には少しも優しくない大きさで、こう並んでいた。
『月の民、西の大陸オンドワナを示す』
俺は椅子から立ち上がった。
「待ってください」
バスティアンは待たなかった。
「いい。力がある」
「力がありすぎます。暴力です」
「見出しは読者の肩を叩くものだ」
「肩を全力で叩いて脱臼に来ています」
善意のハイタッチで肩を外す気か?
俺は版の前へ回り込んだ。活字は左右が逆で、慣れないと読みにくい。それなのに、嫌な文字ほど読めてしまう。人間の脳は危険を見つける時だけ勤勉だ。
「俺は、示す、とは書いていません」
「書いていないな」
「では直してください」
「読者に示せば、示したことになる」
それは詭弁を通り越した捏造だ。
「本文では、古い船乗り話と月見広場の怪談をつなげただけだと書きました。大陸も、月の民も、断定してません」
「だから本文は小さく組む」
「俺の逃げ道を小さくしないでください」
「逃げ道は小さいほうが見つけた時にありがたみがある」
「その思想で建物を設計したら、火事で死人が出ますよ」
「新聞は火事場ではない」
バスティアンは言い切った。
俺は印刷室を見回した。
床には古い紙屑が散り、インク壺の縁は黒く固まり、死んだ目をした文字書き、活字棚は鉛の墓地みたいにぎっしり詰まっている。奥では印刷機が潤滑油の匂いを吐いていた。
どこから見ても火事場一歩手前だった。
「囲みはどうしますか」
別の活字工が紙を掲げる。
バスティアンは即答した。
「聖なる芋を大きく」
「聖なる芋ではありません」
俺は反射で言った。
「三つの名を持つ聖なる芋、だ」
「増やさないでください。名も、神聖さも、責任も」
「責任は筆者名の下に置く」
「置かないでください」
俺の抗議は、活字工たちの手を一瞬だけ止めた。けれど彼らの視線はすぐバスティアンへ戻る。ここで給金を払うのは俺ではない。俺が払えるのは財布を裏返しにして出てくる埃ぐらいだ。
「編集長、筆者名は?」
「ユーリ・ミクラ」
「せめて匿名で」
「匿名記事は弱い。読者は顔のない言葉を信用しない」
「そもそも俺は顔が売れていないし、数少ない信用を俺がこの記事で失います」
「よかったな。失う信用があったのか」
この人は、だいたい修羅場をまき散らす。
活字工が俺の名を拾った。
ユ、ー、リ。
一文字ずつ、鉛の小さな棺みたいなものが枠へ置かれる。文責が俺になり、本来なら自分の記事が自分の名前で世に出て嬉しいはずの光景なのに、墓石に自分の名前が掘られているようだった。
「いや、待って。本当に待ってください」
俺はバスティアンの前に立った。
「今ならまだ止められます。少なくとも、見出しを『西海に古い噂』くらいにできます」
「売れない」
「売れなくていいものもあります」
「借入金の返済日が近いのだ。真実を書いて売れなければただの紙屑だ」
「包み紙にはなりますよ」
「ならうちは包み紙屋になる」
「そっちのほうが社会のためになる可能性があります」
バスティアンは丸眼鏡を押し上げた。
「ユーリ。おまえの記事には、不思議な匂いがある」
急に真面目な声を出されると困る。
「不思議な匂いというか、俺の胃液では」
その言葉を無視して続ける。
「読者はそれを嗅ぎ分ける。おまえは嘘を書いたつもりで、逃げ道を書いたつもりで、しかしどこかで本気で西を見ている」
俺は言葉に詰まった。
たぶんそこが、一番まずい。
全部が嘘なら、笑って破れる。全部が本当なら、胸を張れる。だが俺の記事は、そのどちらでもない。前世の曖昧な記憶と、この世界の空白地図と、締切と薄給が闇鍋で混ざった記事だ。
それを読者に飲ませようとしている。
いや、飲ませるのはバスティアンだ。
俺は材料を刻んだだけだ。
そう言い訳した瞬間、胸のあたりが少し苦くなった。刻んだ時点で料理に参加している。
「だからこそ危ないんです」
俺は小声で言った。
「俺にも、どこまで冗談か分からない」
バスティアンは一拍だけ黙った。
印刷室の奥で、雨漏りを受ける桶が鳴った。ぽたり、という音が、やけに大きい。
「なら、なおさら出す」
「なぜ」
「分からないものは売れる。分かりきったものは役所の掲示板に任せろ」
真面目な沈黙を返してほしい。
「編集長」
「なんだ」
「いつか地獄に行くことになったら、俺は新聞は購読しません」
活字枠が締められた。
鉄の金具がきしみ、文字の列が一枚の版になる。さっきまで動かせたものが、急に動かせない状態になってしまった。
「試し刷り、出します」
活字工が声を張った。
俺は思わず印刷機の横の停止縄を見た。
非常停止ボタンの役割があり、引けば止まると聞いたことがある。腕が巻き込まれても絶対に引くなと教えられたことがある。引けばたぶん怒鳴られる。たぶん給金が減る。たぶん、すでに組まれた版は別の印刷所に持ち込まれて印刷される。
俺の勇気は、停止縄まで三歩届かなかった。
機械が動いた。
インクが活版に塗られ、白紙に転写されていく。さながら証拠の押印だった。
一枚目が刷り上がる。
活字工が紙を持ち上げ、バスティアンへ渡した。バスティアンは満足そうにうなずき、それを俺へ差し出す。
「見ろ。おまえの月だ」
「俺の月にしないでください」
紙はまだ湿っていた。インクの匂いが強い。大見出しは紙面の中央を堂々と占拠し、俺の本文はその下で、いかにも従順そうに並んでいる。
小さな注意書きもあった。
『諸説あり』
命綱は無事、太い縄から蜘蛛の糸に変わっていた。
「短い」
「美しいだろう」
「美しい絞首台ってあります?」
「紙面に余白ができた」
バスティアンは紙面を叩く。
「刷り増しだ」
印刷室の空気が変わった。
活字工たちが顔を上げる。奥で紙束を数えていた少年が「どのくらいですか」と聞いた。
「いつもの倍」
「倍!?」
俺の声が裏返った。
「流れを見るなら普通は少なめに」
「流行を後追いする新聞は売れない。流行を作る新聞が勝つ」
バスティアンの言葉で、印刷室は一気に動き出した。紙が運ばれ、インクが足され、白紙の束の紐が解かれる。誰も俺の胃の都合を聞かない。
前世から社会はたいてい、胃の弱い人間をより痛めつけてくる。
一枚、二枚、十枚。
俺の言い訳が増える。
二十枚、五十枚。
俺の「かもしれない」が、王都の朝へ出荷される。
前世のどこかには、書いた文章をあとから直せる便利な仕組みがあった気がする。差し替え、修正、削除、サイレント修正。画面の中では魔法みたいに軽く差し替えできたはずだ。
この世界では、間違いは重い。配達少年が抱えると、少年の背が少し丸くなるくらいには紙は重い。
「東市場へ十束! 月見広場へ八束! 教会前は?」
「教会前に置かないでください」
俺は即座に言った。
バスティアンが俺を見た。
「置く」
「なぜ火の近くに油を」
「月の話は教会前で売れる」
「それは売れるでしょうけど」
「売れる場所に置く。商売の初歩だ」
「異端審問の入口ですよ!」
活字工たちは笑った。
笑えるのは、彼らの名前が紙面に載っていないからだ。
配達少年たちが扉の前に集まってきた。まだ声変わりもしていない少年が、刷りたての新聞を胸に抱える。紙束からインクと湿った紙の匂いが立ち上がり、雨が上がった朝の空気に混ざった。
一人が紙面をちらりと見た。
「月の民って、本当に西を見たんですか」
俺は口を開いた。
本当ではない。
たぶん。
少なくとも、俺はそう断定していない。
そう言うべきだった。
だがバスティアンが先に答えた。
「読んだ者が確かめる」
少年の目が輝いた。
「じゃあ、売れますね」
「売ってこい」
扉が開いた。
王都リュミエールの朝の音が流れ込む。車輪、馬の蹄、遠くの鐘、雨上がりの石畳を踏む靴音。
配達少年たちは紙束を抱えて走り出した。
東市場へ。
月見広場へ。
月と太陽の教会前へ。
俺はその背中を見送った。
俺の嘘が、俺より足の速い少年たちに抱えられて、王都へ放流されていく。
「ユーリ」
バスティアンが満足そうに言った。
「昼までには反応が来るぞ」
俺は刷りたての一枚を握りしめた。
まだ乾いていないインクが黒く手につく。まるで、悪魔の魚に墨を吐かれたようだった。