締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
昼食を買いに出ただけだった。
出てすぐに気づく、王都全体が、月を見ていた。
雨あがりの雲の薄い昼前の空に、欠けた月が残っている。普段なら誰も気にしない。洗濯物の乾き具合とか、パン屋の焼き上がり時刻とかのほうが王都の人間にとってはよほど大事だ。
だが今日は違った。
街角で新聞を広げた男が、声を張り上げていた。
「月の民、西の大陸オンドワナを示す!」
やめろ。
俺は反射的に、持っていた銅貨を握りしめた。手のひらにインクが薄く残っていて、黒と銅の匂いが混ざる。
◇
新聞社《月桂冠通信》を出る時、バスティアンは満面の笑みだった。
「ユーリ、昼飯を買ってこい」
「今ですか」
「今だ。これから編集室は戦場になる。戦場には兵糧がいる」
「職場を戦場にしないでください」
「おまえは今、外の反応を見るべきだ」
「見たくありません」
「見たくないものほど記事になる」
新聞屋としては正しい。人間としてはあまり正しい道を進んでいなさそうだが。
しかも出がけに、配達少年が息を切らして戻ってきた。
「編集長、東市場、もう半分ありません!」
「よし。刷り増しだ」
「やめましょう」
俺は反射で言った。
バスティアンは聞こえなかった顔をした。三流新聞屋に必要な才能の半分は、都合の悪い声を聞こえないふりをする能力かもしれない。残り半分は都合の悪いものを見なかった振りをする能力だろう。
俺は、パンと薄いスープを買って戻るだけのつもりで東市場へ向かった。
買って戻るだけだ。
そう思っていた頃の俺は、まだ人間の好奇心というものを甘く見ていた。
◇
東市場の角では、魚屋の台の前に人だかりができていた。
内陸部だが魚が珍しいわけではない。台に並んでいるのは、いつもの川魚と塩漬けニシンだ。その真ん中に、濡れた木箱を台にして、一枚の新聞が広げられている。
「ここだ、ここ。月の民は西の海の向こうを見たってよ」
「月の民って、目がいいのか?」
「月に住んでるなら高いところから見てるんだろ」
「屋根の上から見えるかな?」
「屋根に上ったくらいでは隣町すら見えんわ」
まともな突っ込みが一つあった。
俺はその人に心の中で拍手した。だが拍手は音にしない。音にしたら仲間だと思われる。今の俺に必要なのは、仲間ではなく匿名性だ。
魚屋の女将が新聞の囲みを指で叩いた。
「それより、こっちだよ。土中に眠る白き月の実。飢えを退ける根。西の地が授ける第三のパン」
「ありがたいねえ」
「芋だろ」
「芋をそんな顔で見るんじゃないよ。この辺の芋と違ってありがたい芋かもしれないだろ」
芋は芋だ
だが、このままでは王都中の芋が急に肩身の狭い思いをする。俺はまだ見ぬ
「兄さんも買っていきな」
魚屋の女将が俺に声をかけた。
「魚ですか」
「新聞だよ。魚は昼までに売れればいい。新聞は今売れる」
魚屋が商売の順番を変えた。
紙は魚より足が速いらしい。情報は鮮度。
発行社に勤務しているとも言えず、転売購入を迫られる。
「一部ください」
俺は負けた。
自分の記事を自腹で買うのは、罰金に近い。しかも上乗せされている。
新聞を受け取ると、近くの少年が俺の顔をのぞき込んだ。
「兄ちゃん、読める人?」
「まあ、少しは」
「じゃあ、ここ読んで。月の民のところ」
「ほかのところも読みましょう。市の水路修理のお知らせとか」
「月の民のところ」
子どもの純粋さは時に残酷だ。
俺は逃げるように新聞を畳んだ。
「すみません、昼飯が冷めるので」
「まだ昼飯買ってないじゃん」
観察力まであり追及が鋭い。将来、記者にならないでほしい。
市場を抜けると、石畳の通りのあちこちで同じ光景が繰り返されていた。パン屋の前では職人が粉のついた手で新聞を持ち、靴屋の軒先では客が靴を片方だけ履いたまま空を見上げている。屋根の上では鳶職人が仕事の手を止め、煙突のそばから西の空を眺めていた。
「見えるか?」
下から誰かが叫ぶ。
「月は見える!」
「民は?」
「見えたら仕事を辞めて巡礼に行く!」
笑いが起きた。
その笑いに、俺は少しだけ救われかけた。
笑ってくれるなら、まだ怪奇記事の範囲だ。笑い話なら、夕方には別の噂に負ける。王都の胃袋は大きいが飽きっぽい。俺の胃もそれに合わせて飽きっぽく痛んでほしい。
だが次の瞬間、別の声がした。
「でもさ、もし本当に西に大地があるなら、船が出るんじゃないか?」
笑いが少し薄くなった。
「船か」
「商会が動くな」
「王宮も黙ってないだろ」
やめろ。
俺は昼飯どころではなくなった。
俺の記事は、たぶん娯楽の服を着たまま商売と政治の玄関を叩き始めている。玄関だけならまだいい。場合によっては靴を脱がずに奥へ上がる。新聞とはそういう無作法な客だ。
月見広場へ着いた時には、もう人が集まっていた。
広場の中央には、昔から月見の夜に使われる石の台がある。普段は子どもが上って怒られる場所だ。今日はそこに、白髭の老人が腰掛け、周囲の若者たちへ向かって語っていた。
「昔から、西風は変だった」
俺は足を止めた。
老人は杖で石畳を叩く。
「わしが若い頃、サン=リュンヌから来た船乗りが言った。西の海では、夜に星が消えることがあるとな」
「それ、嵐じゃないのか」
若者の一人が言う。
老人はうなずいた。
「嵐かもしれん。霧かもしれん。だが、何もない海に、なぜそんな話が残る」
いい問いだ。
いい問いだが、今日ここで育たないでほしい。
俺は前世の雑な記憶で西を舞台にした。老人は昔聞いた船乗り話で西をむいている。若者は退屈な王都から抜け出す口実として西を見ている。みんな見たいものを俺の記事に乗せてみている。
これが一番まずい。
嘘というのは、集団心理が働く。
「そこの賢そうな眼つきの悪い兄さん」
声をかけられて、俺は肩を跳ねさせた。眼つきが悪いは余計だ。
広場の端にいた中年男が、俺の持っている新聞を見ていた。
「あんたも読んだ口だな。どう思う」
「どう、とは」
「月の民だよ。西の大陸だよ。筆者は相当な学者か、神に近い何かか」
(三流新聞社の雑文係です)
言いかけて、飲み込んだ。
危ない。
昼の広場で自分から処刑台に登るところだった。
俺は喉を整えた。
「誇大表現には注意した方がいいと思います」
中年男は目を丸くした。
「誇大表現」
「はい。見出しは、ええと、読者の肩を強く叩くものなので」
「なるほど」
納得しないでほしい。
男は周囲へ振り返った。
「聞いたか。慎重に読めということだ。つまり、全部が嘘ではない」
「違います」
俺は即座に言った。
「全部が嘘とも言い切れないという意味だな」
「違います!」
俺の胃が、悲鳴を上げる。
若者たちは広場の石台の上から空を見上げた。老人は満足そうにうなずき、誰かが新聞の囲みを音読し始める。白き月の実、飢えを退ける根、第三のパン。そのたびに、広場のどこかから「ありがたい」「腹が減る」「月の民は白いものばかり食うのか」と声が上がる。
俺はパン屋で当てつけのように黒パンを二つ買った。
スープは諦めた。器を持って歩く精神的余裕がない。いま液体を持ったら、手が震えて自分の靴へこぼす。
帰ろう。
新聞社へ帰って、バスティアンにこの惨状を伝えよう。たぶん笑う。刷り増しを命じる。最悪、続編を書かされる。
帰り道、月見広場の掲示板が目に入った。
王都の掲示板は、役所の知らせ、迷子の犬、商会の求人、芝居小屋の宣伝、結婚相手募集が同じ顔で並ぶ場所だ。真面目な告知もくだらない紙も、同じ釘で打たれる。世の中の平等は、たまに釘の形をしている。
そこに、俺の記事の切り抜きが貼られていた。
誰かが新聞から大見出しだけを切り取り、掲示板の中央に打ちつけている。
『月の民、西の大陸オンドワナを示す』
俺は立ち尽くした。
下にあった逃げ文句も、諸説ありも、筆者の胃痛もない。大きな言葉だけが、物理的に切り取られて釘で板に固定されている。
物理的な本当の意味での切り抜きだ
そして、その下に炭で一文が書き足されていた。
『月の民は見ている』
俺は昼飯の黒パンを握りしめた。
月は、ただ空に残っているだけだ。
俺を見てなんかいない。
たぶん。
少なくとも、そういうことにしておいてほしい。