締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第7話 誰が為に鐘は鳴る

教会前は、市場より声が低かった。

 

東市場では笑いながら鶏の羽根が売れていた。

だが、月と太陽の教会前へ来ると、同じ新聞を囲んでいても空気が違った。

石段の下に人が集まっている。白い壁。金色の太陽紋。尖塔の上には、昼の薄い月を受ける銀の輪飾りがある。普段なら祈りに来た人が静かに通る場所だ。

 

今日は新聞紙が何枚も広げられ、祈りより先に見出しが読まれていた。

 

『月の民、西の大陸オンドワナを示す』

 

やめろ。

見出しは、場所を選んでほしい。

教会前でその文字を見ると、魚屋の台で見た時より三倍くらい重い。魚の匂いと一緒ならまだ庶民の噂で済む。教会の前で掲げられると、急に神学っぽい顔をし始め、異端審問官の顔がちらつく。

 

俺は黒パンを抱え直した。もう完全に冷えている。食べ物というより、手の中にある小さな石だった。

 

「月の民とは、神の使いなのか」

 

石段のそばで、年配の信徒が言った。

 

隣の若い男が首を振る。

 

「いや、月に人が住むなど聞いたことがない。異端者の噂じゃないか」

 

「でも新聞には、西の大陸を示したとあるよ」

 

「新聞が神学を決めるなら、うちの亭主も神官になれるね。」

 

まともな突っ込みがいた。

俺はその女性に心の中で深く礼をした。俺には今の王都で正気の発言が黄金にも見える。

 

そこへ、赤い首巻きの露天商が布袋を担いで現れた。

嫌な再会だった。

 

「さあ、月の羽根だよ! 教会前だけの清め値、銅貨三枚!」

 

値上げしやがったこの野郎!!

神聖な場所に来たのに信仰ではなく利幅が増えた。

 

「さっき東市場では銅貨二枚でしたよね」

 

俺は思わず言った。

露天商が俺を見る。

 

「旦那、また会ったな。ここは場所代が高い」

 

「誰に払うんですか」

 

「教会に喜捨する」

 

払っていない。

絶対にどこにも払っていない。

 

露天商は羽根を掲げた。教会の白壁を背にすると、ただの鶏羽根が少しだけそれらしく見えるのが腹立たしい。背景は大事だ。俺の記事も、新聞社の隅にあった時はただの穴埋めだった。掲示板に貼られ、教会前へ運ばれ皆に見られて罪が生まれる気がする。

 

俺が止める前に、白い法衣の若い神官が石段を下りてきた。まだ二十代に見える。細い顔で、眉間に疲れがある。なぜかは知らないが、朝から同じ質問を何度も受けたのだろう。

 

「教会の門前で、月の民を商品名に使うのは控えてください」

 

露天商はすぐに羽根を下げた。

 

「では、月の下で育った鳥の羽根」

 

「同じです」

 

「月と太陽の見守りを受けた鳥の羽根」

 

「増えましたね」

 

神官の返しが意外と鋭かった。

少しだけ安心しかけたが、若い神官は次に集まった人々へ向き直った。

 

「この新聞をお持ちの方は、できれば一部、教会へ預けてください。内容を確認します」

 

一瞬で安心が消えた。

『確認』

その言葉は、俺の胃に小さな穴をあけた。キリキリするどころではない。

 

信徒たちがざわめく。

 

「神託かどうか調べるのですか」

 

「異端かどうかでは」

 

「月の民を信じたら罪になるのかい」

 

若い神官は困ったように手を上げた。

 

「まだ何も決まっていません。だから確認するのです。月と太陽の名を勝手に使った言葉なら、正さねばなりません」

 

勝手に使いました。

 

いや、やっぱり俺は月と太陽の名を使ったつもりはない。月の民という怪奇っぽい言葉を使っただけだ。だがこの国では、月は教会の神聖なシンボルだ。ここで訂正すべきだ。

 

これは怪奇記事です。筆者は神に選ばれていません。むしろ締切に負けただけです。神聖さの欠片もありません。欠けているのは睡眠と給料です。

 

そう言えたらよかった。

だが、俺が口を開くより先に、隣の中年女が俺の袖を軽く引いた。

 

「ねえ、あなた。新聞を読める人でしょう」

 

またその役目か。

 

「少しだけです」

 

「筆者は、神に選ばれたのでしょうか」

 

「違うと思います」

 

即答した。

本当に、心から、全身で否定した。

 

中年女は目を潤ませた。

 

「本当でしょうか?神に選ばれたから聖なる芋のことを教えられたのでは?」

 

ちがう。

 

「いえ、そうではなく、筆者はたぶん普通の人間で」

 

「普通の人間に、神は声をかけるものですものね」

 

「かけていません!」

 

「本人でもないのに、なぜそこまで言い切れるの」

 

俺は固まった。

正論だった。

本人だからです、とは言えない。言った瞬間、俺は教会前で神託詐称疑惑の中心人物として、たぶん石段より高い場所に立たされる。立ちたくない。高所は嫌いではないが、処刑台と説教台は別だ。

 

露天商が横からにやりと笑った。

 

「旦那は慎重な人なんだよ。なんだか詳しそうだし顔を売ってやろうか?」

 

「売らないでください、俺の顔を」

 

「顔はまだ売ってない。名が分かれば売る」

 

名が分かったら終わる。

 

若い神官は新聞を何部か集め、石段の上で一枚ずつ見ていた。見出し、囲み、俺の小さな注意書き。指がそこで止まる。

 

「諸説あり、か」

 

その声は小さかったが、俺には鐘より大きく聞こえた。

やめてくれ。

そこは俺が逃げ道として残した蜘蛛の糸だ。

 

「筆者名は」

 

神官が新聞の端を探す。

 

俺は一歩下がった。

さらに一歩下がった。

こういう時、人間は考えるより先に足が動く。生存本能だ。

 

「ユーリ・ミクラ、とあります!」

 

誰かが叫んだ。

 

俺の背中に冷たい汗が走った。名は小さく載せたはずだ。雑文係の名前など誰も見ないと思っていた。だが人は、騒ぎになった紙の隅まで読む。隅にあるものほど、見つけた時に秘密を暴いた気分になる。

 

「その方は、どこの方ですか」

 

若い神官が尋ねた。

 

「月桂冠通信だってさ」

 

別の誰かが答えた。

 

やめろ。

 

俺は逃げるため群衆から離れた。露天商が遠くから手を振る。

 

「旦那、月の羽根は買わないのかい」

 

「筆者除けになるんでしたよね」

 

「今日は効能を増やした。教会問い合わせ除けにもなる」

 

「今まさに効いていないでしょう」

 

「だから銅貨三枚なんだ」

 

どういう計算だ。効かないんなら無料にしろ。

 

その時、鐘が鳴った。

昼を過ぎた、ただの時を告げる鐘のはずだった。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

そこで終わらなかった。

 

鐘の音は、広場の人々の声を少しずつ黙らせていった。長い。明らかに長い。誰かが祈りの姿勢を取り、誰かが新聞を畳み、露天商でさえ一瞬だけ羽根を下ろした。

 

俺は初めて、月と太陽の教会というものが、ただの建物ではないと理解した。

 

市場の噂は走る。

 

教会の鐘は、街を止める。

 

止まった街の中で、俺の名前だけが動き続けている気がした。

 

新聞社へ戻る道は、行きより短かった。足が勝手に急いだからだ。カチカチの黒パンはまだ手にある。

 

《月桂冠通信》の近くまで戻った時、裏通りの角で、赤い縁取りのある上等な従者服の男が店先の老婆に道を尋ねていた。

 

「月桂冠通信はこちらで合っていますか?」

 

俺は呼吸を止めた。

 

従者の胸には、月と太陽の教会の小さな徽章が光っていた。

 

しかも、その後ろの馬車の扉には、赤い法衣の裾が少しだけ見えている。

 

高位聖職者だ。

 

俺は新聞社の表口を諦め、裏口へ回った。裏口から入って私物をまとめて逃げようと思った。

 

そう思って扉へ手を伸ばした瞬間、背後から黒い手袋が伸びた。

襟首をつかまれる。

 

俺の身体は、荷物みたいに持ち上がった。

 

「ひっ」

 

声が出た。

 

耳元で、冷たい女の声がした。

 

「ずいぶん面倒な鐘を鳴らしたわね、三流記者さん」

 

俺はまだ振り返れない。

振り返る前から分かることが一つだけあった。

 

教会より先に、もっと危険そうな誰か(魔女)に捕まった。

 

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