締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
新聞社の裏口で、俺は自分がつまみ上げられるほど軽い存在だと知った。
襟首をつかまれたまま、靴の先が石畳から少し浮いている。
「ひ、人を持ち上げる時は、せめて本人の同意を」
「逃げようとする人間に同意を求めるほど、私は暇ではないわ」
耳元の声は冷たく、妙に澄んでいた。
俺は恐る恐る振り返った。
黒い手袋。黒いドレス。王都の裏通りには場違いなほど滑らかな布地。銀の髪が、昼の薄い光でも青白く見えた。瞳は夜紫。美しい、と思ってしまった自分に腹が立つ。
今、襟をつかまれている。
美術鑑賞をしている場合ではない。
女は俺を見下ろすように、少しだけ首を傾けた。
「ずいぶん面倒な鐘を鳴らしたわね、三流記者さん」
「鳴らしたのは教会です」
「鐘が鳴るような文を書いたのは、あなたでしょう」
正論で首が締まる。あとなぜ俺のことを知っているんだ?
あと襟首の布も物理的に締まっている。
「あの、どちら様でしょうか」
「先に逃げ道を探すのではなく、名前を聞くのね。礼儀だけは三流新聞よりましね」
褒められた気がしない。
彼女は俺を地面へ下ろした。下ろしたというより、ぽいっと床に置いた。荷物扱いだ。
「モルガーヌ・ノクテール」
その名前を聞いた瞬間、裏口の向こうで聞き耳をたてていたのか誰かが息を呑んだ。
俺も息を呑んだ。
『月蝕の魔女』
王都でその名を知らない人間はいないだろう。王宮付きだとか、教会にも顔が利くとか、月の影で人を吊るすとか、噂の種類が多すぎて真偽が分からない。
この国には、教会・王権・貴族・新聞のほかにもう一つ面倒な権威がある。
魔法使いだ。
しかし強力な魔法を使うことができる人間は国に数人。その中でも国でトップクラスの魔法使いがなぜここにいるのかさっぱりわからない。
ただ一つ分かることがある。
俺みたいな三流新聞屋が裏口で会っていい相手ではない。
「人違いです」
口が勝手に言った。
早かった。俺の保身は、たまに俺の知性より先に走る。
モルガーヌは少しも驚かなかった。
「ユーリ・ミクラ。月桂冠通信の雑文係。栗色の癖毛、灰緑の目、寝不足の影。今朝から買いに出た昼食用の黒パンを持ち歩き、まだ食べていない」
「最後の情報、必要ですか」
「怯えた人間は腹を空かせたまま嘘を吐くと声が薄くなるの」
微笑みながら答える魔女は本当に美しいが、そんなおびえた人間の生態をいったいどこで観察したのだろうか。
「なぜ俺を」
「教会が筆者を探していると聞いたから」
「では、教会の所属ですか?」
「違うわ」
即答だった。
俺の全身から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「では助けに」
「それも違う」
力が戻った。悪い方向に。
モルガーヌは黒い手袋の指で、俺の襟に残った皺を軽く直した。優しい動作なのに、首輪を整えられている気がした。
「火刑台に乗る前の珍獣を見に来たの」
「珍獣……火刑台……」
「ええ。預言者にしては顔が貧相。詐欺師にしては怯え方が正直。記者にしては逃げ足が遅い」
裏口の蝶番が、ぎい、と鳴った。
新聞社の奥から、刷り場の少年と活字工が顔を出していた。二人とも口を半開きにしている。俺が魔女に襟首をつかまれている光景は、紙面にするならそこそこ売れそうだった。
「ユーリ!」
編集室の方から、バスティアンの声がした。
「表口に教会の従者が来ているぞ。赤い法衣の馬車つきだ。君、何かしたのか」
そんなものバスティアンが一番わかっているだろうと言いたかったし、
俺より、編集長がやらかして、俺は何もしていないと叫びたかった。
ただ、俺のしたことは、
・記事を書いた
・印刷を止めなかった
・教会前で否定に失敗した
...並べると、何もしていないとは言いにくい。
バスティアンが裏口へ現れ、俺の横の女を見た。丸眼鏡の奥の目が、金を数えるときと同じ光を帯びる。
「これはこれは。月蝕の魔女モルガーヌ・ノクテール殿」
声が急に営業用になった。
「我が月桂冠通信へようこそ。月の件でしょうか。見出しは『月蝕の魔女、月の民を語る』でいかがです」
「語らないわ」
「では『月蝕の魔女、三流新聞社を訪れる』」
「訪れていない。三流記者の押収に近いわ」
俺を何として数えているんだ。
バスティアンは怯えるどころか、目を輝かせた。
「押収。いい言葉だ。筆者押収。事件性がある」
「編集長、俺を見出しにしないでください」
「本文の小さい文責名から、見出しの名前へ昇進だ」
最悪の昇進だった。
表口の方で、丁寧なノックがした。
新聞社の安い扉には似合わない、礼儀正しい音だった。礼儀正しい音ほど、逃げ道を塞ぐことがある。
「月と太陽の教会より参りました。記事の筆者、ユーリ・ミクラ殿へお取り次ぎ願います」
声まで丁寧だ。
丁寧な捕獲宣言だ。
俺は反射的に裏口へ一歩下がった。
モルガーヌの黒い手袋が、また俺の襟をつかんだ。
「逃げ道はそちらではないわ」
「ではどちらですか」
「椅子」
「椅子は逃げ道ではありません。むしろ牢屋では?」
「座っている人間は、少なくとも走って逃げて、余計に罪を重ねたりしないわ」
振りほどいて逃げ出したかったが、今の俺にはどうにもできなかった。
モルガーヌは俺を編集室へ連れていった。連行という言葉が一番近い。途中で活字工たちが壁際へ寄った。黒いドレスの裾が、インク染みだらけの床を不思議なくらい汚さず進む。
編集室は朝より散らかっていた。
刷り上がった新聞。投げ出された試し刷り。空のインク壺。俺の記事の切り抜き。すべてが俺を裏切る証拠品に見える。
モルガーヌは机の上に広がっていた新聞を一枚つまみ上げた。
『月の民、西の大陸オンドワナを示す』
大見出しが、彼女の白い指の間で妙に小さく見えた。
「派手ね」
「編集長の趣味です」
「本文はあなたね」
「筆者名は、そうですが」
「逃げ方が文章と会話で同じね。断定を避ける。けれど読ませたい方向だけは決めている」
魔法で心を読まれたわけではない。
文章を読まれ、分析された。
その方が、新聞屋としては痛い。
バスティアンが横から身を乗り出す。
「お分かりになりますか。彼の記事には不思議な匂いが」
「黙りなさい、部数の匂いしかしない人」
バスティアンが一瞬で黙った。
強い。
魔女は強い。
ただし今、助けられているのか裁かれているのかは分からない。
表口では、まだ教会の従者が待っている。刷り場の少年が青い顔でこちらを見た。
「編集長、表の方は」
モルガーヌが新聞を畳んだ。
「待たせて」
「教会をですか」
「ええ。月はすぐ欠けないでしょう」
言い方。
だがバスティアンは、なぜか感動したようにうなずいた。
「なるほど、月蝕の魔女が筆者を先に確認すると」
「確認というより、観察ね」
「観察」
社員たちの視線が、俺に集まる。
やめてほしい。
俺は新聞社の備品ではない。珍獣でもない。まだ檻に入りたくない。
モルガーヌは近くの椅子を指した。
「座りなさい」
「拒否権は」
「あると思う?」
「ありませんね」
俺は座った。
木の椅子がぎしりと鳴る。いつもの仕事椅子だ。朝までは薄給と腰痛の象徴だったのに、今は拷問椅子に見える。
モルガーヌは俺の向かいに立ったまま、新聞を机に置いた。
その動作は静かだった。静かすぎて、編集室全体が息を止めた。
彼女は微笑んだ。
美しい笑みだった。
俺の生存本能は、即座に危険物だと判断した。
「さて、ユーリ・ミクラ」
表口の向こうで、教会の従者がもう一度ノックした。
バスティアンが応対に出る気配がした。小声で「月蝕の魔女とユーリ・ミクラが先に会談をしている」と伝える。
扉の向こうの空気が、一段冷えた。
「モルガーヌ殿が……」
丁寧だった声が、初めて揺れた。
「では、我らは表でお待ちします。赤い法衣の方へも、そうお伝えします」
退いたのだ。
あの権威の象徴の教会のものが。
一体彼女は教会に何をしたんだろうか。
モルガーヌの夜紫の瞳が、俺を逃がさず捉えた。
「この記事、どこからが嘘で、どこからが勘なのかしら」