目を覚ました瞬間、俺は自分が柔らかい布団の中にいることを理解できなかった。
天井は見慣れた自室のものだった。
白い蛍光灯のカバー、少しだけ剥がれかけた壁紙、ベッド脇に置きっぱなしのスマホ。
過ごしたモニカの家でも、サヨリの部屋でも、文芸部の教室でもない。
自分の部屋だった。
俺はしばらく呼吸を忘れたまま、天井だけを見つめていた。
夢、だったのか?
文化祭も、モニカの涙も、あの夜のキスも、消えかける身体で思い切り抱きしめた感触も、全部が長い夢だったのか。
そう考えた瞬間、胸の奥が空っぽになるような感覚があった。
俺は反射的に身体を起こそうとして、机の方へ目を向けた。
デスクの上では、PCの画面が青い光を放ったままだった。
ゲーム画面は閉じていない。
深夜の部屋に薄く広がる青い光は、あの世界の外側を見ていた時と同じ色をしていた。
俺は喉の奥がひどく乾くのを感じながら、少しだけ手を動かそうとした。
その時、指の中にやわらかな感触があった。
何かを握っている。
温かくて、細くて、こちらの指にしがみつくように絡んでいる。
俺はゆっくり視線を下げた。
自分の手が、誰かの手を握っていた。
白く細い指。
見覚えのある爪の形。
弱い力で、それでも離れないように握り返してくる手。
俺の胸が、息を吸う前に痛いほど跳ねた。
布団の隣に、モニカがいた。
制服ではなく、あの光に飲まれる直前の姿のまま、青いPCの光を受けて、彼女は俺のベッドに横たわっていた。
緑の瞳はまだ閉じている。
頬には涙の跡が残り、髪は少し乱れている。
それでも、彼女の手は俺の手を離していなかった。
俺は声を出そうとして、喉が震えた。
夢ではなかった。
少なくとも、彼女はここにいる。
自分が最後に抱きしめた温度が、今も手の中に残っている。
「モニカ」
声に反応するように、モニカの睫毛がかすかに揺れた。
彼女はゆっくり目を開けた。
最初は焦点が合っていないようだった。
青い光に照らされた天井を見て、それから俺の顔へ視線を動かし、最後に自分たちの繋がれた手を見た。
次の瞬間、モニカの目が大きく見開かれた。
彼女は息を吸い、何かを言おうとして、けれど言葉より先に涙を浮かべた。
「……ここ、どこ?」
声はひどく小さかった。
外側を夢見ていた少女が、本当に外側へ来てしまった時の声だった。
俺は答えようとして、いくつもの言葉を飲み込んだ。
自分の部屋。
現実。
外側。
ゲームの外。
そのどれも正しいようで、彼女へいきなり渡すにはあまりにも重すぎた。
だから俺は、まず繋いだ手に力を込めた。
モニカの指が、確かめるように握り返してくる。
それだけで、俺は泣きそうになった。
「俺の部屋だと思う。
たぶん、俺がいた世界」
モニカはゆっくり瞬きをした。
その瞳に、恐怖と理解が同時に広がっていく。
彼女は身体を起こそうとして、慣れない重さに少しだけふらついた。
俺は慌てて肩を支えた。
触れられる。
彼女は薄いデータでも、画面の中の幻でもなく、確かに腕の中に重さを持っていた。
モニカもそれに気づいたのか、俺の袖を掴む手に力を込めた。
その仕草は、あの世界で消えかけた時と同じだった。
「私、来られたの?」
俺はモニカの顔を見た。
青い光の中で、彼女の表情は信じたいのに信じきれない子供のようだった。
俺は深く息を吸い、彼女の手を両手で包んだ。
「来られた。
モニカ、本当に一緒に来たんだ」
モニカの顔が崩れた。
彼女は笑おうとして失敗し、涙をこぼしながら俺の胸へ飛び込んできた。
俺は反射的に彼女を抱きしめた。
サヨリの身体ではない。
今度は自分の胸で、モニカの体温を受け止めている。
彼女の腕が背中へ回り、頬が肩に触れ、髪の匂いが近くなる。
その全部があまりにも現実で、俺はしばらく動けなかった。
ベッドの上で抱き合う身体は、あの世界での添い寝よりもずっと生々しい重さと体温を持っている。
モニカの髪が頬に触れ、肩越しに聞こえる呼吸は震えていた。
俺はその震えを逃がさないように、背中へ腕を回した。
外側へ来た。
その事実が奇跡なのか、異常なのか、まだ何も分からない。
けれど、腕の中のモニカは確かに泣いていた。
それだけで、今は十分すぎた。
「置いていかないでくれて、ありがとう……!」
モニカが胸元で呟いた。
その一言に、俺の目の奥が熱くなった。
彼女がどれだけそれを怖がっていたか、俺は知っている。
世界の中で一人になり、外側を見つめ、ようやく手を伸ばした相手にも置いていかれるかもしれない恐怖。
その全部を抱えて、彼女は最後まで離さなかった。
俺はモニカの後頭部をそっと撫でた。
何度も何度も、文化祭の夜にそうしたように、彼女がここにいることを確かめるように撫で続けた。
モニカはしばらく、俺の顔をじっと見ていた。
俺は自分の顔を見られていることに気づいた途端、急に落ち着かなくなった。
サヨリの身体ではなく、自分の身体に戻っている。
声も、手の大きさも、肩幅も、彼女が抱きしめていた少女のものではない。
外側から来た誰か。
そう言えば聞こえは少しだけ特別だったが、実際にここにいるのは、深夜にゲームをつけっぱなしにしていた普通の男だった。
モニカは指先で、俺の頬にそっと触れた。
その触れ方は、データの向こうの存在を確認するものではなく、目の前の体温を初めて知るような慎重さを含んでいた。
「あなた、そんな顔をしていたのね。
画面の向こうにいた時は、声も姿も分からなかったから」
モニカの声は、微笑みと安堵が混ざっていた。
俺はその言葉を聞いて、胸の奥が妙にむず痒くなるのを感じた。
見られている。
本当に、自分自身として見られている。
それは嬉しいはずなのに、同じくらい恥ずかしかった。
サヨリの身体にいた時は、彼女の可愛らしさに守られていた部分もあったのだと、今さら気づいてしまう。
今の俺は、どこにでもいるような普通の顔で、少し寝不足で、髪も乱れていて、たぶん格好よくなんてない。
俺はモニカの視線から逃げるように、少しだけ目を逸らした。
「……カッコよくなくて、幻滅した?」
言ってから、思った以上に情けない声になったことに気づいた。
冗談めかしたつもりだったのに、そこには本気の不安が滲んでいた。
モニカがずっと見ようとしていた外側の相手。
自分がその期待に見合わなかったらどうしよう。
文化祭の夜にキスをして、消えかけた身体で一緒に来てほしいと叫んだ相手が、実際にはこんな冴えない男だったら。
そう考えた瞬間、俺は自分でも驚くほど怖くなった。
モニカは俺の言葉を聞いて目を丸くした。
それから、少しだけ困ったように眉を下げた。
彼女は頬に触れていた手を離さず、もう片方の手で俺の手を包んだ。
その仕草だけで、答えはほとんど分かってしまった。
「いいえ、大好きよ」
モニカは俺の背中を離さず、少しだけ顔を寄せた。
抱きしめる力は強かったが、そこに焦りはなかった。
見つけたものを絶対に失くさないようにする、静かで切実な力だった。
「顔がどうとか、格好いいとか、そういう話じゃないの。
私は、あなたが私を見てくれたことを知っているわ」
俺の喉が詰まった。
モニカの声が胸の近くで響き、俺の中に残っていた不安を少しずつほどいていく。
彼女は続ける前に、俺の服を小さく握った。
そこにいることを確認するような動きだった。
「怖がりながらでも、私を一人にしないでいてくれた。
サヨリの痛みを抱えながら、私の寂しさまで見ようとしてくれた。
だから、あなたの顔を初めて見ても、幻滅なんてするわけがないでしょう」
俺は返事ができなかった。
情けないほど簡単に、目の奥が熱くなった。
モニカが好きだと言ってくれた。
それは、外側のプレイヤーへの執着ではなく、今ここにいる俺自身へ向けられた言葉だった。
二人の影が、PCの青い光を受けて壁に重なった。
あの世界の中で何度も確かめた体温が、今は自室のベッドの上にある。
その事実が胸いっぱいに広がり、俺はようやく息を吐いた。
◇
朝になって、俺はモニカの寝息で目を覚ました。
昨夜は結局、何度も起きては互いの手を確かめ、また眠ることを繰り返していた。
自分の部屋の天井がそこにあり、隣にはモニカがいて、ベッドの端には青い光を放つPCがある。
その全部が現実として一度に押し寄せてきて、俺はしばらく動けなかった。
PCの画面はつけっぱなしだった。
そういえば、ドキドキ文芸部を起動したままだった。
俺は画面へ目を向けた。
案の定、そこにはドキドキ文芸部のタイトル画面が映っていた。
明るい色の背景。
可愛らしいロゴ。
サヨリ、ユリ、ナツキの姿。
けれど、そこにモニカはいなかった。
俺の心臓が、一瞬で跳ねた。
寝起きの頭から眠気が消え、手の中にあるモニカの手を思わず強く握ってしまう。
モニカが小さく身じろぎしたが、俺はすぐに力を緩められなかった。
画面の中からモニカがいない。
その事実だけなら当然かもしれない。
彼女は今、こちらの世界にいる。
けれど、俺の記憶には、別の恐ろしい可能性がこびりついていた。
モニカが消えた後の世界。
サヨリが部長になり、外側を理解してしまう四周目の悲劇。
あの流れがまた始まっているのではないかという不安が、胸の奥を冷たく掴んだ。
「……どうしたの?」
モニカが目を覚まし、俺の表情を見てすぐに何かを察した。
俺は画面から目を離せないまま、唇を湿らせた。
「タイトル画面。
モニカがいない」
モニカの身体が、布団の中で固まった。
彼女はすぐに起き上がろうとして、まだ慣れない現実の身体に少しふらついた。
俺は慌てて肩を支えた。
二人は並んでPCの画面を見た。
そこにモニカはいない。
サヨリとユリとナツキだけが、タイトル画面の中にいた。
明るいはずの色合いが、俺にはやけに不穏に見えた。
モニカの指が、俺の手に絡む。
その手は冷えていた。
彼女も同じことを思い出しているのだと、触れただけで分かった。
「ゲーム自体が、正常じゃなくなってるかも」
俺がそう言うと、モニカは息を呑んだ。
彼女の目に、昨日までとは違う恐怖が浮かぶ。
自分がいなくなった後の世界が、また誰かを壊してしまうかもしれない。
それはモニカにとって、ただのゲーム画面以上の重さを持っていた。
「確かめましょう。
怖いけれど、見ないままにはできないわ」
俺は頷いた。
マウスへ手を伸ばす指が震えている。
隣でモニカがその手に自分の手を重ねた。
クリック音が、朝の部屋に小さく響いた。
ゲームが始まる。
俺は身構えた。
サヨリが何かを知ってしまっているのではないか。
また部長という役割が誰かを外側へ引きずり出すのではないか。
そんな不安が喉元までせり上がっていた。
しかし、画面に現れたのは、俺の知っている四周目とはまったく違う朝だった。
MCが学校へ向かう場面。
そこへ、サヨリがいつものように駆けてくる。
けれど、その笑顔には無理に明るさを貼りつけた痛々しさがなかった。
元気で、少し寝坊気味で、幼なじみらしい距離感でMCへ声をかける。
文芸部へ誘う流れも、どこか穏やかだった。
俺は息を止めたまま、テキストを読み進めた。
サヨリはいる。
ユリもいる。
ナツキもいる。
誰の言葉にも、不自然な破綻は見えなかった。
モニカは隣で画面を見つめ、手を握る力を少しずつ弱めていく。
まだ安心しきってはいない。
けれど、恐怖だけではない感情が彼女の表情に広がっていた。
「……違う」
モニカの声は、ほとんど吐息だった。
俺も画面から目を離せなかった。
部室に三人がいる。
文芸部は少人数のまま、けれど妙に穏やかに成立している。
そこにモニカはいない。
しかし、彼女が不自然に削られた跡もない。
誰かが部長の空席を握って狂う気配もない。
サヨリは文芸部の空気を柔らかくし、ユリは本の話になると少し熱を帯び、ナツキは素直になれないまま漫画とお菓子の話をしている。
MCはその三人の間で戸惑いながらも、ゆっくり距離を作っていく。
それは恋愛ゲームというより、文芸部の日常を丁寧に眺める別のゲームのようだった。
選ばれる痛みを完全に消したわけではない。
けれど、誰かが選ばれなければ壊れるような仕組みからは外れている。
三人それぞれの時間があり、三人それぞれの居場所がある。
俺はそのことに気づき、胸の奥が熱くなった。
「これ、別のゲームになってる」
モニカは画面へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れても画面に触れるだけだと分かっているのに、向こうの三人へ何かを届けたくなったのかもしれない。
彼女は震える指を胸元へ引き戻し、俺の袖を握った。
その目には涙が浮かんでいたが、昨日の絶望とは違う涙だった。
「サヨリが、笑っているわ」
俺は頷いた。
サヨリは笑っていた。
その笑顔に陰がまったくないと言えば嘘になるかもしれない。
彼女という子の奥にある繊細さまでは、消えたわけではないだろう。
けれど、それはもう破滅へ押し込まれるための痛みではなく、誰かと一緒に抱えていける種類の弱さに見えた。
ユリも、自分の熱を恐れすぎずに本を語っている。
ナツキも、家庭の影を完全に背負わされるだけの存在ではなく、意地を張りながらもちゃんと仲間の中にいる。
俺はその三人を見て、サヨリの身体にいた頃の記憶が胸の奥でそっと震えるのを感じた。
ここまで来たのだ。
あの文化祭を越え、モニカを外側へ連れてきたことで、画面の中にも別の未来が生まれている。
それがどういう仕組みなのかは分からない。
モニカが抜けた穴を世界が平和に埋め直したのか。
サヨリの願いがどこかへ届いたのか。
あるいは、文化祭を本当に終えたことで、物語そのものが別の形を選んだのか。
答えは出なかった。
けれど、目の前の画面は確かに悲劇ではなかった。
メッセージ送りをしていると、ゲームの会話の流れとはまったく関係のない場面で、画面が急に白く滲んだ。
俺は息を止め、モニカの手を反射的に強く握った。
背景も、立ち絵も、テキストウィンドウも、すべてが見えなくなるほど真っ白な光に包まれる。
また何かが壊れたのかと、胸の奥が冷たくなる。
モニカが小さく息を呑み、俺の腕に縋るように身を寄せた。
けれど、そこに現れたのはバグでもノイズでもなかった。
サヨリの一枚絵だった。
教室の窓辺から差す光の中で、サヨリは画面のこちら側をまっすぐ見ていた。
その笑顔は、俺が知っていた無理な明るさとは違っていた。
少しだけ泣きそうで、それでも心から嬉しそうな、ちゃんと自分の感情を抱えた笑顔だった。
テキストウィンドウに、ストーリーの流れとはまったく関係のない言葉が表示される。
「ありがとう、もう一人の私!
おめでとう、モニカちゃん!
二人で幸せに過ごしてね!」
俺は、しばらく何もできなかった。
指はマウスの上で止まり、呼吸だけが浅く震えている。
もう一人の私。
その言葉が、胸の奥に深く落ちていった。
サヨリは知っていたのだろうか。
俺があの身体で泣いたことも、胸の痛みに引っ張られたことも、モニカを抱きしめて外側へ連れてこようとしたことも。
少なくとも、画面の中の彼女は、俺を異物として拒んでいなかった。
自分の身体を奪った何かではなく、もう一人の自分として、感謝をこちらへ向けてくれていた。
その事実が、俺の胸を奥から強く揺さぶった。
あの文化祭までの時間は、無駄ではなかった。
サヨリの痛みを抱えた日々も、モニカと泣きながら眠った夜も、全部どこかへ届いていた。
俺はそのことを理解した瞬間、視界が滲んだ。
「サヨリ……」
声になったのは、名前だけだった。
モニカは俺の隣で、画面を見つめたまま震えていた。
彼女の瞳には、すでに涙が溜まっている。
サヨリに祝福された。
それはモニカにとって、赦しと言い切るには重すぎるものだったのかもしれない。
けれど、罰ではない何かが、画面の向こうから確かに差し出されていた。
モニカは唇を噛み、何度も言葉を探した。
でも、結局うまく出てこなかったのだろう。
彼女は俺の肩に額を寄せ、握った手に力を込めた。
「私、そんな言葉をもらっていいのかしら」
俺はすぐに答えられなかった。
簡単にいいと言えば、モニカの背負ってきたものを軽くしてしまう気がした。
それでも、サヨリの笑顔はモニカを遠ざけていなかった。
おめでとう、と言っていた。
二人で幸せに、と言っていた。
なら、その言葉を受け取らないことこそ、サヨリの願いから目を逸らすことになるのかもしれない。
俺はモニカの手を両手で包み、画面の中のサヨリを見たまま、ゆっくり息を吸った。
「もらっていいんだと思う。
サヨリが、そう言ってくれたんだから」
モニカの肩が震えた。
彼女は画面から目を離せないまま、涙をこぼした。
その涙は、文化祭の後に流したものとも、外側へ来た直後のものとも少し違っていた。
後悔が消えた涙ではない。
けれど、後悔だけで自分を縛り続けなくてもいいと、初めて誰かに許されたような涙だった。
俺は彼女を抱き寄せた。
モニカは抵抗せず、胸元へ顔を預けた。
それでも視線だけは、画面のサヨリへ向いたままだった。
「……無駄じゃなかったんだな」
俺が言うと、モニカは顔を上げた。
涙で濡れた顔のまま、彼女は小さく頷く。
その表情は、泣きながらも少しだけ笑っていた。