ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~ 作:〇彪
椿桜子は、病室の扉の前で立ち止まった。
手には小さな紙袋。
中には、飴が数袋と、コンビニで買ったプリンが二つ。
それから、病室に飾るための花が入っている。
桜。
季節外れだと言われるかもしれない。
だが、探せば手に入るものだ。
今の時代、お金を払えば、大抵のものは手に入る。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
椿は口の中で飴を転がしながら、扉を軽くノックした。
「入るよ」
返事はない。
いつものことだった。
椿は慣れた手つきで扉を開ける。
病室は白かった。
壁も、カーテンも、ベッドのシーツも。
清潔で、静かで、何もかもが整っている。
けれど、椿はその白さがあまり好きではなかった。
ホワイトルーム。
その言葉を思い出すからだ。
窓際に、一人の少女が座っていた。
白い服。
細い手首。
ぼんやりとした目。
何も見ていないようで、何かをずっと待っているような横顔。
「雪」
椿が呼ぶと、少女はゆっくりとこちらを向いた。
「桜子」
「うん。椿桜子ちゃんです」
椿はわざと軽い声で言い、紙袋をサイドテーブルに置いた。
「今日はプリン買ってきたよ。高いやつ」
「高い?」
「普通の三倍くらい」
「……それは、高いの?」
「コンビニ基準では、かなり高い」
雪は少しだけ考えるように瞬きした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
椿は花瓶の水を替える。
昨日の花は少し元気を失っていた。
白い病室に、桜の淡い色が入るだけで、少しだけ空気が変わる。
雪はその花を見ていた。
「桜」
「うん。好きなんでしょ?」
「うん」
「じゃあ良かった」
椿は椅子に座り、飴の袋を一つ開ける。
雪には渡さない。
今の彼女は、飴を口に入れたまま長く黙ってしまうことがある。
危ない。
だから、プリンにした。
椿はスプーンを出して、雪の前に置く。
「食べられそう?」
「あとで」
「じゃあ冷蔵庫入れとく」
小さな冷蔵庫にプリンをしまい、椿はベッド横へ戻った。
沈黙。
雪は窓の外を見ている。
椿は携帯を取り出し、画面を確認した。
そこには、いくつかのニュース記事。
綾小路清隆。
K・A。
自動タクシー。
ホワイトルーム関連と思しき断片。
正確な情報は少ない。
だが、椿は情報の継ぎ目を見るのが得意だった。
何が書かれているかより、何が書かれていないか。
誰が口を閉じているか。
どの記事が、どのタイミングで消えるか。
そういうものを見る。
「雪」
「なに?」
「先輩、日本に戻ってきたみたい」
雪の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「先輩?」
「綾小路清隆」
その名前を口にした瞬間、病室の空気が変わった。
大きな変化ではない。
心拍計の音が少しだけ速くなった程度。
けれど、椿には分かった。
雪は生きている。
その名前に、まだ反応する。
「清隆……」
雪は小さく呟いた。
「うん。日本にいる。そろそろ情報が取れなくなると思うけど、今はだいぶ派手に動いてる」
「元気?」
「元気って言うのかな。たぶん、普通の人よりは元気」
「そう」
雪は、それだけ言って黙った。
もっと聞きたいはずだ。
どこにいるのか。
何をしているのか。
誰といるのか。
けれど、聞かない。
聞くのが怖いのだろう。
椿は飴を転がしながら続ける。
「ただ、周りが変」
「変?」
「うん。高育の周辺も、綾小路先輩の周辺も。お金の流れも、人の動きも。綺麗すぎるところと、汚すぎるところが混ざってる」
雪はゆっくりと椿を見る。
「ホワイトルーム?」
「たぶん、関係ある」
椿は嘘をつかなかった。
雪に対しては、曖昧にしすぎる方が残酷だと知っているからだ。
「ホワイトルームは、もうないって聞いた」
「形はね」
「形?」
「建物とか、看板とか、そういうのは変わったんだと思う。でも、考え方は残ってる」
椿は携帯画面を雪に見せる。
細かい記事。
誰かの証言。
削除された投稿のスクリーンショット。
不自然な人事異動。
教育関連法人の名前。
雪は、それを読んでいるのか、読んでいないのか分からない顔で見つめた。
「綾小路先輩を使いたい人がいる」
「使う」
「うん。父親だけじゃない。国も、会社も、昔の関係者も。たぶん、みんな」
雪は手を膝の上で握った。
「清隆は、またホワイトルームに戻されるの?」
「それは分からない」
「分からない」
「でも、戻すっていうより、外で使いたいんだと思う」
「外で」
「うん。ホワイトルームの中で完成した人間を、外の世界でどう使うか。そういう話」
雪は目を伏せた。
ホワイトルーム。
完成。
使う。
その言葉は、彼女にとって痛いはずだった。
椿は少しだけ後悔する。
でも、言わなければならなかった。
「会いに行きたい?」
椿が聞くと、雪はすぐには答えなかった。
長い沈黙。
病室の空調音だけが聞こえる。
「分からない」
「だと思った」
「会ったら、どうなるか分からない」
「うん」
「清隆が、私を覚えてるかも分からない」
「覚えてると思うけど」
「どうして?」
「分からないけど、忘れてない気がする」
椿は根拠のないことを言った。
けれど、そう思った。
綾小路清隆という男が、記憶から人を消すことは出来ても、完全に消しきることは出来ないのではないかと。
雪は、サイドテーブルの携帯を見た。
古い機種ではない。
椿が用意したものだ。
外の情報を見られるように。
けれど、使いすぎないように制限もかけてある。
「電話」
雪が呟く。
「するの?」
「分からない」
「しない方がいいかも」
椿は言った。
雪がこちらを見る。
「どうして?」
「怖くなると思うから」
「私が?」
「うん」
椿は飴を噛み砕いた。
「それに、もし電話するなら、何を言うか決めてからにした方がいい。声を聞いて何も言えなくなったら、たぶん後悔する」
雪は携帯を見続ける。
椿は、その横顔を見ていた。
止めるべきか。
迷う。
だが、止めきる権利が自分にあるとは思えなかった。
雪はずっと閉じ込められていた。
白い部屋に。
病室に。
記憶に。
恐怖に。
なら、誰かに電話するくらいの自由はあってもいいのかもしれない。
「桜子」
「なに?」
「清隆に、逃げてって言ったら、逃げるかな」
「逃げないと思う」
「どうして?」
「そういう人じゃなさそうだから」
「じゃあ、言っても意味ない?」
「意味がないかは、分からない」
椿は少しだけ考える。
「でも、言わないよりは残ると思う」
「残る」
「うん。綾小路先輩は、たぶん忘れない。意味が分からなくても、必要になったら取り出す」
雪は小さく頷いた。
そして、携帯を手に取る。
指が震えている。
「番号、分かる?」
「分かる」
椿は画面を操作して、非通知でかけられるよう設定する。
「名前は言わない方がいい?」
「言いたいなら言えばいい」
「分からない」
「じゃあ、言わなくてもいい」
雪は携帯を両手で持った。
まるで、それが重い石か何かのように。
椿は席を立つ。
「外に出てる」
「桜子」
「なに?」
「切っちゃったら、ごめん」
「誰に謝ってるの?」
「分からない」
「じゃあ、謝らなくていい」
椿は病室を出た。
扉を閉める直前、雪が通話ボタンを押すのが見えた。
◇
数分後。
椿が病室に戻ると、雪はベッドの上で膝を抱えていた。
携帯はシーツの上に落ちている。
「かけた?」
雪は頷いた。
「話せた?」
「少しだけ」
「何て言ったの?」
雪は顔を上げる。
目元が少し赤い。
「ホワイトルームは、終わっていないって」
「それだけ?」
「あと……逃げてって」
「そっか」
椿は、それ以上聞かなかった。
雪は小さく震えていた。
怖かったのだろう。
声を聞いたことが。
自分の声が届いたことが。
そして、届いたのに何も変わらないかもしれないことが。
「桜子」
「うん」
「清隆、生きてる」
「うん」
「声、変わってなかった」
「そっか」
「でも、少し遠かった」
椿はベッド横に座る。
そして、雪の手に触れた。
「遠いなら、いつか近くに行けばいい」
「行けるかな」
「行けるよ」
「どうして?」
「私が連れてくから」
椿はそう言った。
雪は驚いたように椿を見る。
「本当?」
「うん。ただし、今じゃない」
「今じゃない」
「今はまだ、危ない。綾小路先輩の周りも、雪の心も」
雪は黙って頷いた。
「でも、いつか会える」
「うん」
「その時、ちゃんと名前を呼べばいい」
雪は小さく息を吐いた。
「清隆」
その名前は、病室の白い空気に溶けていった。
椿は窓際の桜を見る。
淡い色の花。
白い部屋の中で、そこだけが少しだけ外の世界に見えた。
椿桜子は、ずっと見ていた。
雪が電話をかけるところも。
怖くなって切ったところも。
それでも、ほんの少し前へ進んだことも。
だから、いつか綾小路清隆が雪の前に現れた時。
椿はこう言うつもりだった。
遅いよ、先輩、と。