ようこそ実力至上主義の社会へ ~盤面は世界へ広がった~   作:〇彪

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幕間4 椿桜子は見ていた

 椿桜子は、病室の扉の前で立ち止まった。

 

 手には小さな紙袋。

 

 中には、飴が数袋と、コンビニで買ったプリンが二つ。

 

 それから、病室に飾るための花が入っている。

 

 桜。

 

 季節外れだと言われるかもしれない。

 

 だが、探せば手に入るものだ。

 

 今の時代、お金を払えば、大抵のものは手に入る。

 

 それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。

 

 椿は口の中で飴を転がしながら、扉を軽くノックした。

 

「入るよ」

 

 返事はない。

 

 いつものことだった。

 

 椿は慣れた手つきで扉を開ける。

 

 病室は白かった。

 

 壁も、カーテンも、ベッドのシーツも。

 

 清潔で、静かで、何もかもが整っている。

 

 けれど、椿はその白さがあまり好きではなかった。

 

 ホワイトルーム。

 

 その言葉を思い出すからだ。

 

 窓際に、一人の少女が座っていた。

 

 白い服。

 

 細い手首。

 

 ぼんやりとした目。

 

 何も見ていないようで、何かをずっと待っているような横顔。

 

「雪」

 

 椿が呼ぶと、少女はゆっくりとこちらを向いた。

 

「桜子」

 

「うん。椿桜子ちゃんです」

 

 椿はわざと軽い声で言い、紙袋をサイドテーブルに置いた。

 

「今日はプリン買ってきたよ。高いやつ」

 

「高い?」

 

「普通の三倍くらい」

 

「……それは、高いの?」

 

「コンビニ基準では、かなり高い」

 

 雪は少しだけ考えるように瞬きした。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 椿は花瓶の水を替える。

 

 昨日の花は少し元気を失っていた。

 

 白い病室に、桜の淡い色が入るだけで、少しだけ空気が変わる。

 

 雪はその花を見ていた。

 

「桜」

 

「うん。好きなんでしょ?」

 

「うん」

 

「じゃあ良かった」

 

 椿は椅子に座り、飴の袋を一つ開ける。

 

 雪には渡さない。

 

 今の彼女は、飴を口に入れたまま長く黙ってしまうことがある。

 

 危ない。

 

 だから、プリンにした。

 

 椿はスプーンを出して、雪の前に置く。

 

「食べられそう?」

 

「あとで」

 

「じゃあ冷蔵庫入れとく」

 

 小さな冷蔵庫にプリンをしまい、椿はベッド横へ戻った。

 

 沈黙。

 

 雪は窓の外を見ている。

 

 椿は携帯を取り出し、画面を確認した。

 

 そこには、いくつかのニュース記事。

 

 綾小路清隆。

 

 K・A。

 

 自動タクシー。

 

 ホワイトルーム関連と思しき断片。

 

 正確な情報は少ない。

 

 だが、椿は情報の継ぎ目を見るのが得意だった。

 

 何が書かれているかより、何が書かれていないか。

 

 誰が口を閉じているか。

 

 どの記事が、どのタイミングで消えるか。

 

 そういうものを見る。

 

「雪」

 

「なに?」

 

「先輩、日本に戻ってきたみたい」

 

 雪の肩が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「先輩?」

 

「綾小路清隆」

 

 その名前を口にした瞬間、病室の空気が変わった。

 

 大きな変化ではない。

 

 心拍計の音が少しだけ速くなった程度。

 

 けれど、椿には分かった。

 

 雪は生きている。

 

 その名前に、まだ反応する。

 

「清隆……」

 

 雪は小さく呟いた。

 

「うん。日本にいる。そろそろ情報が取れなくなると思うけど、今はだいぶ派手に動いてる」

 

「元気?」

 

「元気って言うのかな。たぶん、普通の人よりは元気」

 

「そう」

 

 雪は、それだけ言って黙った。

 

 もっと聞きたいはずだ。

 

 どこにいるのか。

 

 何をしているのか。

 

 誰といるのか。

 

 けれど、聞かない。

 

 聞くのが怖いのだろう。

 

 椿は飴を転がしながら続ける。

 

「ただ、周りが変」

 

「変?」

 

「うん。高育の周辺も、綾小路先輩の周辺も。お金の流れも、人の動きも。綺麗すぎるところと、汚すぎるところが混ざってる」

 

 雪はゆっくりと椿を見る。

 

「ホワイトルーム?」

 

「たぶん、関係ある」

 

 椿は嘘をつかなかった。

 

 雪に対しては、曖昧にしすぎる方が残酷だと知っているからだ。

 

「ホワイトルームは、もうないって聞いた」

 

「形はね」

 

「形?」

 

「建物とか、看板とか、そういうのは変わったんだと思う。でも、考え方は残ってる」

 

 椿は携帯画面を雪に見せる。

 

 細かい記事。

 

 誰かの証言。

 

 削除された投稿のスクリーンショット。

 

 不自然な人事異動。

 

 教育関連法人の名前。

 

 雪は、それを読んでいるのか、読んでいないのか分からない顔で見つめた。

 

「綾小路先輩を使いたい人がいる」

 

「使う」

 

「うん。父親だけじゃない。国も、会社も、昔の関係者も。たぶん、みんな」

 

 雪は手を膝の上で握った。

 

「清隆は、またホワイトルームに戻されるの?」

 

「それは分からない」

 

「分からない」

 

「でも、戻すっていうより、外で使いたいんだと思う」

 

「外で」

 

「うん。ホワイトルームの中で完成した人間を、外の世界でどう使うか。そういう話」

 

 雪は目を伏せた。

 

 ホワイトルーム。

 

 完成。

 

 使う。

 

 その言葉は、彼女にとって痛いはずだった。

 

 椿は少しだけ後悔する。

 

 でも、言わなければならなかった。

 

「会いに行きたい?」

 

 椿が聞くと、雪はすぐには答えなかった。

 

 長い沈黙。

 

 病室の空調音だけが聞こえる。

 

「分からない」

 

「だと思った」

 

「会ったら、どうなるか分からない」

 

「うん」

 

「清隆が、私を覚えてるかも分からない」

 

「覚えてると思うけど」

 

「どうして?」

 

「分からないけど、忘れてない気がする」

 

 椿は根拠のないことを言った。

 

 けれど、そう思った。

 

 綾小路清隆という男が、記憶から人を消すことは出来ても、完全に消しきることは出来ないのではないかと。

 

 雪は、サイドテーブルの携帯を見た。

 

 古い機種ではない。

 

 椿が用意したものだ。

 

 外の情報を見られるように。

 

 けれど、使いすぎないように制限もかけてある。

 

「電話」

 

 雪が呟く。

 

「するの?」

 

「分からない」

 

「しない方がいいかも」

 

 椿は言った。

 

 雪がこちらを見る。

 

「どうして?」

 

「怖くなると思うから」

 

「私が?」

 

「うん」

 

 椿は飴を噛み砕いた。

 

「それに、もし電話するなら、何を言うか決めてからにした方がいい。声を聞いて何も言えなくなったら、たぶん後悔する」

 

 雪は携帯を見続ける。

 

 椿は、その横顔を見ていた。

 

 止めるべきか。

 

 迷う。

 

 だが、止めきる権利が自分にあるとは思えなかった。

 

 雪はずっと閉じ込められていた。

 

 白い部屋に。

 

 病室に。

 

 記憶に。

 

 恐怖に。

 

 なら、誰かに電話するくらいの自由はあってもいいのかもしれない。

 

「桜子」

 

「なに?」

 

「清隆に、逃げてって言ったら、逃げるかな」

 

「逃げないと思う」

 

「どうして?」

 

「そういう人じゃなさそうだから」

 

「じゃあ、言っても意味ない?」

 

「意味がないかは、分からない」

 

 椿は少しだけ考える。

 

「でも、言わないよりは残ると思う」

 

「残る」

 

「うん。綾小路先輩は、たぶん忘れない。意味が分からなくても、必要になったら取り出す」

 

 雪は小さく頷いた。

 

 そして、携帯を手に取る。

 

 指が震えている。

 

「番号、分かる?」

 

「分かる」

 

 椿は画面を操作して、非通知でかけられるよう設定する。

 

「名前は言わない方がいい?」

 

「言いたいなら言えばいい」

 

「分からない」

 

「じゃあ、言わなくてもいい」

 

 雪は携帯を両手で持った。

 

 まるで、それが重い石か何かのように。

 

 椿は席を立つ。

 

「外に出てる」

 

「桜子」

 

「なに?」

 

「切っちゃったら、ごめん」

 

「誰に謝ってるの?」

 

「分からない」

 

「じゃあ、謝らなくていい」

 

 椿は病室を出た。

 

 扉を閉める直前、雪が通話ボタンを押すのが見えた。

 

     ◇

 

 数分後。

 

 椿が病室に戻ると、雪はベッドの上で膝を抱えていた。

 

 携帯はシーツの上に落ちている。

 

「かけた?」

 

 雪は頷いた。

 

「話せた?」

 

「少しだけ」

 

「何て言ったの?」

 

 雪は顔を上げる。

 

 目元が少し赤い。

 

「ホワイトルームは、終わっていないって」

 

「それだけ?」

 

「あと……逃げてって」

 

「そっか」

 

 椿は、それ以上聞かなかった。

 

 雪は小さく震えていた。

 

 怖かったのだろう。

 

 声を聞いたことが。

 

 自分の声が届いたことが。

 

 そして、届いたのに何も変わらないかもしれないことが。

 

「桜子」

 

「うん」

 

「清隆、生きてる」

 

「うん」

 

「声、変わってなかった」

 

「そっか」

 

「でも、少し遠かった」

 

 椿はベッド横に座る。

 

 そして、雪の手に触れた。

 

「遠いなら、いつか近くに行けばいい」

 

「行けるかな」

 

「行けるよ」

 

「どうして?」

 

「私が連れてくから」

 

 椿はそう言った。

 

 雪は驚いたように椿を見る。

 

「本当?」

 

「うん。ただし、今じゃない」

 

「今じゃない」

 

「今はまだ、危ない。綾小路先輩の周りも、雪の心も」

 

 雪は黙って頷いた。

 

「でも、いつか会える」

 

「うん」

 

「その時、ちゃんと名前を呼べばいい」

 

 雪は小さく息を吐いた。

 

「清隆」

 

 その名前は、病室の白い空気に溶けていった。

 

 椿は窓際の桜を見る。

 

 淡い色の花。

 

 白い部屋の中で、そこだけが少しだけ外の世界に見えた。

 

 椿桜子は、ずっと見ていた。

 

 雪が電話をかけるところも。

 

 怖くなって切ったところも。

 

 それでも、ほんの少し前へ進んだことも。

 

 だから、いつか綾小路清隆が雪の前に現れた時。

 

 椿はこう言うつもりだった。

 

 遅いよ、先輩、と。

 

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