"la vraie parole"   作:イナナのナナ

10 / 10
これはほんの少しだけ先の出来事。
あるいは変わりつつある彼が見せる禁断の1日2投稿の奇跡。


第白幕 「綾小路清隆の独白、あるいは変化」

放課後の図書室は、世界から隔絶されたかのように静まり返っていた。

高い窓から斜めに差し込む西日が、空気中に浮遊する微細な埃を黄金色の粒子に変えている。古い紙と、かすかな糊の匂いが満ちる空間。

 

 対面に座るCクラスの椎名ひよりが、一冊の文庫本を静かに机へと滑らせてきた。

 

「読み終えました。とても興味深いお話でしたね、綾小路くん」

 

それは昨日、彼女から借りたばかりのミステリー小説だった。俺はそれを手に取り、丁寧に栞を挟み直す。

初対面の頃、彼女に対する俺の認識は、ただの『本を愛するお淑やかな少女』に過ぎなかった。他クラスの動向を窺うための無害な窓口、あるいは俺が背景に溶け込むための都合の良い装置。だが、今の彼女の見え方はまるで違う。彼女の持つ『読者としての直感』は、あの久那瀬が唸る程に時折ぞっとするほど鋭い。

 

「作中で、完璧なアリバイを作って背景に溶け込んでいた犯人……彼はとても頭が良いのに、どうして最後に見つかってしまったのでしょう」

「さあな。どれほど完璧な計画でも、どこかに綻びが出るのがミステリーの定番だからじゃないか」

「私は、少し違うと思うんです」

 

 ひよりは穏やかに微笑みながら、しかしその澄んだ瞳の奥に深い「読解」への執念を宿らせて、俺の顔をじっと見つめてきた。

 

「この犯人は、あまりにも『完璧な凡人』を演じすぎて、逆にその不自然さが、周囲の風景から浮き上がってしまった。現実にも、そういう悲しいおままごとをしている人がいたら、早く見つけてあげたいですね」

 

 6月の裁判劇――須藤の退学を巡る一件以降、彼女の直感は、俺の持つ『不自然な平坦さ』を明確に捉え、その行間を読み解こうとしている。不用意に踏み込ませれば、俺の完璧な擬態が剥がれかねない局面だ。顔色一つ変えずに「小説の中だけの器用な奴だな」といなす。普通なら防衛ラインを上げるべき緊迫した空気。

 

 その時、俺の隣から、パタンと微かな紙の音が響いた。

 

「――ねえ、綾小路くん」

 

 おっとりとした、周囲の人間を無条件で安心させる澄んだ声音。久那瀬阿憐が、手元の一冊の文庫本を閉じて会話の行間に滑り込んできた。

 スノーホワイトの髪が夕暮れの光を浴びて淡いオレンジ色に透き通り、机の脇には、彼女の右足の代わりである白磁色の杖が静かに立てかけられている。

入学初日、隣の席に座った彼女を、俺は単に『自分の平穏を脅かす、狂気的な観客』としてのみ捉えていた。いつ俺の擬態を剥ぎ取り、盤面を引っ掻き回すか分からない、利害の一致だけで繋がった不気味な隣人。しかし、いくつかの問題や茶柱先生との対峙を経て、彼女という存在の見え方は、より立体的で複雑なものへと変化していた。

 

 クラスの誰もが、彼女を『平等で、自己犠牲を厭わないお人好しの美少女』だと信じている。実際、彼女の根底にあるのは純粋な善性だ。だが同時に、俺は彼女の裏の顔――人間の苦悩や足掻きを特等席で観賞しようとする、冷徹な傍観者としての本性を知っていた。

 

「この物語の主人公は、最後には報われると思うかい?」

「まだ上巻の半分だ。これからの展開は作者の気分次第じゃないか」

「僕はね、きっと笑える結末が待っていると思うんだ。これだけ苦難を乗り越え、苦悩に苛まれ、のたうち回って足掻いたんだから。……その過酷な運命の先にある光を見届けるのが、僕は一番好きだな」

 

カラリとした、しかしどこか歪んだ響きを持つ微笑。

彼女は露悪的なサディストではない。他人の不幸に胸を痛めながらも、同時に、運命に抗う人間の『可能性』を狂おしいほど信じているのだ。そして彼女は、俺という、底知れない奈落の虚無を抱えた怪物が、いつかその真の姿を現す瞬間を最前列で観賞したがっている。

普通の相手なら即座に遠ざけるべき危険分子。だが、彼女が俺という『玩具』を観察する代わりに、その圧倒的な実力で俺の凡俗の擬態を守る「防波堤」になってくれるなら、俺にとっては安い授業料だった。

 

「おいおい。お嬢さん方のその物騒な文学論に、俺を巻き込まないでくれよ」

 

 少し離れた席から、呆れたような苦笑を浮かべて口を挟んできたのは、Aクラスの橋本正義だ。

 彼の視線は、のんびりと微笑む久那瀬の横顔に、じっとりと絡みつくような強い執着とともに固定されている。

 橋本は久那瀬の幼馴染であり、なんらかの要因で強烈な『負い目』に縛られている。彼は「自分が彼女をAクラスへ引き上げる」という歪んだ主従関係を自らに課し、一人だけ泥水をすすって手を汚し続けている男だ。

久那瀬に誘われて辿り着いた図書館で初めてあいつと視線が交差した時、その瞳にあったのは、久那瀬を奪われた罪人のような焦燥と、俺への剥き出しの猜疑心だった。あの頃の橋本は、俺の学校生活にとって『最も警戒すべき、計算外の不快なノイズ』に過ぎなかった。だが、今の彼の牙には、以前のような毒気がない。

彼は本能で理解したのだ。俺が久那瀬の害にならないどころか、彼女の望む平穏な劇のパーツとして機能していることを。

 

「怯える必要はないさ、橋本。俺たちはただの読書仲間だ。お前の読んでいるそのミステリーの結末の方が、よほど不穏だと思うが」

「……へえ。言うようになったじゃねえか、綾小路。俺の繊細なハートを揺さぶるんじゃねえよ」

 

 橋本がふっと肩の力を抜き、肩をすくめてみせる。

 彼の手から、冷えたブラックの缶コーヒーがコトニ、と俺の机の前に滑ってきた。おまけだ、と彼は視線で告げる。

 ふと見れば、ひよりが「これをどうぞ」と、手作りの押し花の栞を俺の本に挟んでくれていた。

 

初対面の頃、俺にとってこの3人は、チェス盤の上の駒か、あるいは排除すべき障害、利用すべき記号でしかなかった。他クラスの猟犬、他クラスの読観測者、そして不気味な隣人。互いに腹を探り合い、警戒の糸を張り詰めていたはずの彼らの見え方が、今やこれほどまでに変質している。

 

実力至上主義のこの学校において、クラスの枠を越えたこの「読書同盟」は、不確定要素に満ちた奇妙な空間だ。龍園や坂柳といった他クラスの脅威を裏から合理的に排除していく「影の支配者」としての立ち回りを求められる俺にとって、本来なら利益を生まない、切り捨てるべき場所。

 

 ――だが。

 

 俺は、手元に視線を落としたまま、自分の胸の奥に生じた奇妙な重さに意識を向けた。

 ホワイトルームという、徹底された合理性と効率の塊のような世界。

 あそこには、色というものがなかった。すべての人間は『白』の部屋で、与えられた効率的なカリキュラムを、ただ無機質に消化するだけのマシーンだった。誰かと本について語り合うことも、誰かの好意や敵意を「心地よい」と感じるシステムも、俺の回路には組み込まれていなかった。他愛のない雑談も、夕暮れの光をただ惜しむような時間も、すべては無駄であり、排除されるべきノイズだった。

 

この学校に来た当初、俺にとってこの図書室の集まりも、自分の正体を隠し、平穏を得るための『計算された手段』のひとつに過ぎなかったはずだ。

それなのに。今、ひよりが作った安価な栞の、微かな花の匂いを「悪くない」と思っている自分がいる。橋本がくれた、ただ苦いだけのコーヒーの温度を、脳内の天秤が「必要な無駄」だとカウントしている。

 

これを、居心地が良い、と感じている自分。

ホワイトルームが作り上げた完璧な最高傑作の行間に、いつの間にか、文字盤にはない微かな感情のような揺らぎが書き込まれつつある。

 

(……変わっていく、ということか)

 

 それが、普通の高校生として擬態を続けるうちに得た『成長』なのか、あるいは完璧な合理を鈍らせる『退化』なのかは、今の俺には判別がつかない。

 ただひとつ確かなのは、俺の中に「この場所を壊したくない」という、明確な意思(エゴ)が芽生えているということだ。

 夜になれば、俺はまた久那瀬とビジネスライクな通話を交わすことになるだろう。

 

『ありがとう、綾小路くん。君がチェス盤を整えてくれるから、僕はまだ、みんなをハッピーエンドへ導ける』という、彼女の歪んだ「枷」の対価として、俺はこの平穏な席を買い叩いている。

 表向きの安寧を守るために、裏では冷徹な契約が支払われる。その二面性すらも、今の俺には酷く愛おしい。

 もし、龍園や坂柳、あるいはこの学校のシステムそのものが、この静かな机の上を脅かそうとするならば。

 

 俺は裏の支配者として、その脅威を容赦なく、徹底的に排除してやる。

 変わりつつある自分に対する、戸惑いにも似た何かを胸の底に深く沈めながら、俺は次のページを静かにめくった。久那瀬のオペラグラスが、ひよりの柔らかい視線が、橋本の苦笑が、その微かな紙の音の中に溶けていく。

 この安寧を引き延ばすためのプロットを、俺は脳内のチェス盤の底で、さらに深く、静かに組み立て始めていた。

 

話数の更新時間について。

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  • 変えて欲しい。(18:00更新)
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