無銘の暗殺者   作:悪平等な人外

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召喚

砂塵の彼方、暗殺教団の終わり。

己を縛り続けた信仰の果てに、魂が肉体を離れたその瞬間の冷徹な感覚を、女は今でも克明に記憶していた。

何もなかったのだ。

生涯のすべてを捧げて焦がれ続けた神の姿も無ければ、昏い暗闇の底で次なる生を約束する慈悲深い声も聞こえなかった。

ただ、冷え切った無限の虚無。

ただ一人で、誰に看取られることもなく、孤独の内に静かに潰えたはずの意識。

それが、どれほどとも知れぬ長い長い微睡みの果てに、唐突に一本の鋼糸のように鋭く引き絞られた。

 

──熱い。

 

全身の輪郭を、魂の根幹を、内側から焼き焦がすような灼熱の熱気が疾走する。

それは前世の記憶、あるいは前前世の男子高校生としての記憶に刻まれた、どの生ぬるい感覚とも根本から異なっていた。

世界という強固な構造そのものに、己という存在を無理やりに楔として打ち込まれるような、暴力的で圧倒的な魔力の奔流。

死に絶えていた五感が、凄まじい速度で立ち上がっていく。

最初に脳髄を揺さぶったのは、匂いだった。

安価なシャンプー、人工的な洗剤、そして、微かに混じるタバコの煙の饐えた香り。

かつて砂漠の地で焦がれ続け、決して届かなかった、懐かしき現代の匂いがそこにはあった。

そして、次に肌を刺したのは、濃厚な好奇が入り混じったいくつもの視線の数々。

十数人はいるだろうか。暗がりの向こうから、自身を値踏みし、品定めをしているかのような不躾で傲慢な視線が突き刺さる。

ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、女は重い瞼を開けた。

網膜に飛び込んできたのは、見覚えのない広大な地下室。

そして、自身を中心に据えて床一面に不気味な輝きを放つ、巨大な召喚陣。

それを取り囲むように佇む、異様な集団。

その中でも、召喚陣の真ん前に陣取り、自身を狂信的な歓喜の目で見つめている男がいた。

青白い肌に、どこか人外染みた、歪な造形美を宿した長髪の魔術師の姿。

 

(………ジェスター・カルトゥーレ)

 

女の思考は、落雷のような速度で現状を解析し、理解の領域へと到達していく。

現代。

偽りの聖杯戦争。

Fate/strange Fake。

前世において、それこそ貪るように、文字通り擦り切れるまで読んだ物語の始まりの光景が、今、確固たる現実として目の前に広がっていた。

女は自身の掌をそっと見つめた。

実体がある。

しかし、それは鼓動を刻む生身の肉体ではない。

膨大な魔力によって精緻に構成された、全盛期の、あのただ一つの執念だけで極限まで鍛え上げた身体。

霊基という名の、歴史に刻まれた英霊としての絶対的な器。

 

(ああ………)

 

胸の奥底から、言葉にならない、熱くドロリとした感情がせり上がってきた。

届いたのだ。

あの過酷極まる砂漠での孤独な鍛錬、誰の目にも留まらず、誰にも顧みられることのなかった狂信の生涯。

歴史の陰に埋もれ、そのまま腐り落ちるはずだった執念の轍が、世界の理に認められたのだ。

願いは叶った。

ここに、自分が焦がれた現代がある。

ここに、一人の英霊として屹立する自分がいる。

ならば、次にするべきことは、ただ一つ。選ぶべき道など、最初から決まっている。

女は静かに呼吸を整えた。

かつて日本という平和な国で生きていた、一人の男子高校生としての気質が、今世の冷徹極まる暗殺者としての仮面の下で、確かにくすりと小さく笑った。

 

(原作通りであるならば、私はこの歪んだ男を仕留め損ない、その醜悪さに弄ばれ、愚弄されることになっていたはずだ。だが、プロットを知る私が私としてここに召喚された以上、もはや原作通りに物語をなぞる必要性などどこにもない。ならば──この男は、今この瞬間に、この場で完全に殺しておいた方が、後々の憂いがないだろう)

 

死徒として再生することすら叶わぬように、その悍ましく歪んだ精神ごと、塵ひとつ残さず細切れにしてやるのが、英霊の座からの来訪者としての礼儀というものだ。

 

「──問おう………貴様が………聖杯を得るために私を召喚した魔術師か?」

 

女の薄い唇から漏れ出た言葉は、まるで銀の鈴を転がしたかのように清澄で、しかし同時に、一切の情を排した絶対的な冷徹さを孕んだ女の声だった。

 

「あ、ああ……! その通りだ! よくぞ私の呼び出しに応じてくれた、アサシンよ!」

 

ジェスターは恍惚とした表情で両腕を広げ、歓喜に震える声を上げる。

 

「私こそが君を「………命脈(いのち)を縊れ」呼び出したマス──「聯想絡繰(ザバーニーヤ)

 

ジェスターの言葉は、最後まで続かなかった。

女の両眼が蒼き光を発した、と彼が認識した瞬間には、既に彼の上半身は粉微塵となり、紅い血霧となって地下室の空間へと派手に飛び散った。

上半身を完全に消失したジェスターの残骸──その下半身だけが、ドクドクと不気味な血飛沫を上げながら、床へとごとんと力なく転がった。

立ち上る濃厚な血の霧が、地下室の冷え切った空気に混ざり合い、ゆっくりと霧散していく。

床に転がった下半身の断面から溢れ出る赤黒い生血が、先ほどまで精緻に描かれていた召喚陣の文様を、見る影もなく無残に汚し、塗り潰していく。

 

「え──?」

 

周囲を取り囲んでいた十数人の魔術師たちの誰かが、間の抜けた、あまりにも愚鈍な声を漏らした。

ジェスターの忠実な配下、あるいはこの大規模な儀式の生贄や観測者として集められていた者たち。

彼らの凡庸な脳髄では、今目の前で起きた超常の惨劇を処理し、理解することが到底追いつかなかったのだ。

無理もない。

彼女が今、指先一つで放ったのは、己の血肉に刻み込み、再現してみせた歴代十八人の山の翁(ハサン・サッバーハ)の秘術の一つ。

 

──聯想絡繰(ザバーニーヤ)

 

それは、魔力の糸を神技の域で操作する、暗殺のための絶技。

肉眼では決して捉えられぬ細さ、鋼をも断ち切る硬度、そして生き物のように蠢く柔らかさを自在に変質させる糸を作成し、支配する。

拘束、切断、果ては肉体の強制操作まで、その用途は多岐にわたる。

本来の使い手であれば、数百万を超える不可視の糸を同時に、かつ寸分の狂いもなく操作し、一夜にして街一つの住民すべてを操り人形で満たしたという。

女の使うそれは、劣化は見られるものの、それでも数千を超える糸の操作を同時に可能とし、この場にいる数百人の人間を同時に、なぶり殺すことなど容易いことであった。

突然もたらされた圧倒的な暴力と惨劇に、地下室の時間は完全に凍りついた。

 

「ヒッ……、あ、あ、あああ……!」

 

数秒の沈黙の後、ようやく一人の魔術師が腰を抜かし、狂ったような悲鳴を上げた。

それを鋭い合図として、周囲の者たちが一斉に魔術回路を立ち上げようとし、あるいは恐怖のあまり出口へと向かって逃げ惑おうと身をよじる。

だが、すべてが遅すぎる。

 

「──騒ぐな」

 

女──偽りのアサシンの、地の底から響くような冷徹な声が地下室の壁に反響する。

女が自身の細い指先をほんの数ミリ、まるで静謐なピアノの鍵盤を優雅に叩くかのように、僅かに動かした。

次の瞬間、肉を深く断ち切る鈍い音が、幾重にも重なり合って室内に満ちた。

背を向けて逃げ出そうとした者、必死に呪文を紡いで魔術を起動しようとした者、恐怖のあまりその場にへたり込んだ者。

総勢十数人の身体が、まるで空間に張り巡らされた目に見えない巨大な操り人形の糸に絡め取られ、引かれるように、不自然な角度でピキリと固定される。

逃げようとした足が、呪文を紡ごうとした顎が、自身の意志に反して完全に静止した。

 

「が、あ……身体が、動か……な……何だ、これは……!」

「馬鹿な、魔術による強制……!? いつの間に、これほどの規模の術式を編み上げていたというのだ……!」

 

彼らはまだ、真の意味で理解していない。

これが単なる身体の物理的な拘束などではなく、すでに自身の神経細胞、ひいては魔術師の命とも言える魔術回路の主導権そのものを、完全にアサシンの魔糸に乗っ取られているという絶望的な事実に。

 

「………貴様らに問う」

 

アサシンは冷たい視線を一人一人に這わせる。

 

「貴様らは自身の願いの成就のため、魔術の秘奥へと至るためならば、無辜の民を犠牲にすることを、何一つ厭わない外道か?」

「……な、何を、言って……!」

「当たり前だろ! 魔術の秘奥を極めるためなら、凡夫の命などいくら費やそうが、どれほど踏み躙ろうが──」

 

一人の魔術師が、自身の内から湧き上がる恐怖を虚勢で塗りつぶすように、狂ったように叫んだ。

その身勝手な言葉の結びを待つことすら、アサシンにとっては時間の無駄だった。

アサシンの指先が、今度はハープの鋭い弦を弾くように、小さく、そして軽やかに跳ねた。

ゴキリ、と骨が粉砕される陰惨な音が響き渡る。

叫んでいた魔術師の首が、解剖学的な限界を無視して、あり得ない角度へと直角にねじ切れた。

彼は最期の悲鳴を上げる間もなく、文字通り操り糸を切られた人形のように、床へと崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。

 

「ひ、ぃ……あ、あああ……っ!」

 

残された者たちの顔から、完全に血の気が引き、絶望だけがその表情を支配する。

 

「答えは不要だ。その歪んだ魂の在り方、脳裏に過った醜悪な思考こそが、貴様らの罪の動かぬ証左である」

 

──籌想読心(ザバーニーヤ)

 

相手の心を精密に読み解き、数手先の行動を完璧に予測する。

その予測の正確性は、未来予知の域にすら達する。

本来の使い手ならば、数百手先を常に完全に予測し、敵の戦術を無に帰すが、アサシンのそれは十数手先までしか予測できない。

しかし、凡庸な魔術師の浅浅薄な心を読み解く程度なら、瞬時に、かつ容易く行えた。

この場にいる者すべてが、自らの欲のために他者を貪る、救いようのない外道であると、彼女の眼は看破していた。

今、彼女の細い身体を突き動かしているのは、過酷な砂漠の夜で培われた、暗殺教団としての冷徹な戒律。

そして、何よりも神への確かな、濁りのない信仰だった。

神の名の下に都合のいい暴力が振るわれる世界を、ただひたすらに、孤独に生き抜いた彼女にとって、己の我が儘と我欲のために弱者を貪り、生贄にする魔術師という存在は、ただただこの世界から排除すべき絶対的な害悪でしかなかった。

 

「──神はすべてを見ておられる。貴様らの傲慢も、その両手に染み付いた血の汚れも」

 

彼女が右手をそっと虚空へと掲げ、その五指を優美に、しかし容赦なく開く。

地下室全体に張り巡らされた数千の不可視の魔力の糸が、張り詰めた空気の中で一斉に震え、キィィンと耳を劈くような金属質のおぞましい高音を奏でた。

操られている魔術師たちの恐怖と絶望が、限界を迎えて決壊する。

 

「ま、待て! 頼む、助けてくれ! 私はただ、ジェスター様に命じられて従っていただけで──」

「命を乞うな。貴様らがこれまで奪ってきた無数の弱き命の叫びに、一度として貸す耳を持たなかったように」

「──私もまた、貴様らの無様な命乞いに耳を貸すつもりはない」

 

アサシンの五指が、静かに、そして恐ろしいほどの確信を持って握り込まれた。

刹那、生き残っていた魔術師たちの身体が、一斉に内側から弾け飛んだ。

空間を埋め尽くしていた糸が、彼らの肉体と精神の繋がりを強制的に引き千切り、同時に、その体内に宿る魔術回路のすべてを暴走させて破裂させたのだ。

肉と骨が凄絶に砕け散る陰惨な音が重なり合い、爆音となって室内に轟く。

地下室は一瞬にして、文字通りの凄惨な屠殺場へと変貌を遂げた。

四方に飛び散る鮮血が壁や天井をどす黒く染め上げ、床には静寂と、鼻を突く濃厚な死の匂いだけが取り残された。

 

(終わったか………これで憂いはなくなった。待ち望んでいた現代を楽しむとするか)

 

アサシンは、自身の装束に一滴の返り血すら浴びることなく、ただ静かに闇へと姿を消した。

 

 

──数時間後。

 

凄絶な肉の爆破音が止み、静寂が地下室を支配してから、数時間分が経過した。

床を覆う赤黒い湖と、壁にへばりつく肉片。

アサシンが姿を消したその空間は、まさに完全なる死の空間そのものだった。

だが、その凄惨な静寂の底で、奇妙な音が響き始める。

 

──ズブブ、ズブ、ツ……。

 

それは、溢れ出た血液が逆流し、意思を持つ生き物のように蠢く、悍ましい音だった。

床に転がっていたジェスター・カルトゥーレの下半身の断面から、無数の紅い触手のような血管が噴き出す。それらは虚空を求め、貪欲にのたうち回りながら、周囲の壁や天井に飛び散っていた肉片や血液を、磁石のように急速に引き寄せ始めた。

飛び散った血霧が集まり、肉の塊が意思を持って這い戻り、下半身の断面へと文字通り結合していく。

 

「──クァハッ、クク、クハハハハハハハ!」

 

まだ声帯すら完全に復元されていない、肉と骨が軋むような歪な笑い声が、肉塊の隙間から漏れ出た。

数秒と経たぬうちに、衣服こそ引き裂かれて血に塗れているものの、傷一つない白磁の肌を持ったジェスターの上半身が、何事もなかったかのようにそこに再生していた。

だが、その顔は先ほどまでのものとは全くの別人に代わっており、その風貌はどこか人外染みた美青年のものへと変わっていた。

紅き瞳と犬歯を持ち、人理を否定し、人理を汚す星の代弁者──死徒へと。

 

「クァハッ!クハハハハハハ!ハハハハハハハハハハ!……素晴らしい。実に、実に素晴らしいよ、我が愛しきアサシン……!」

 

ジェスターは新しく生え揃った指先を顔に当て、狂おしいほどの歓喜に身体を震わせた。

その瞳は、先ほどまでの長髪の魔術師としての底の浅い傲慢さとは異なり、吸血種としての純然たる狂気と、底知れない愉悦に爛々と輝いている。

 

「魔術師としての概念核だけでなく、四つの概念核をこうもあっさり屠り潰すとは!」

 

そう叫ぶジェスターの胸には二つの概念核が浮かんでいた。

 

「それに、あの蒼き瞳、ここ数年、極東で話題になっていた──直死の魔眼ではないか?でなければ、再生にこれ程までの時間が掛かるわけがない!──聖杯もまた、とんだ異端児を呼び寄せたものだ!」

 

ジェスターは自らの胸を強く掻きむしり、べっとりと付着した自らの血を舌で舐めとった。

脳裏に焼き付いているのは、自分を塵殺したあの女の、一抹の情も、そして驕りすらもない、氷の如き瞳。

そして、死と共に流れ込んできたアサシンの壮絶なる生き様。

 

「はぁ………美しい。まさか、私にまだ感動という人間の残滓が残っていようとは!」

 

溜息を洩らしたジェスターは目をかっぴらき辺りを歩き回る。

 

「可憐か、醇美か?端麗、妖美、八面玲瓏、清廉潔白、清楚、風光明媚、キュート、プリティ、チャーミング!」

「ああ、どれも違う! どれもその美しさを表現するにはあまりに陳腐、あまりに矮小!

 あの美しい女暗殺者を!その信念を言葉などで表現できるわけがない!」

 

ジェスターは自らの髪を激しくかき乱し、狂ったように地下室を彷徨った。

 

「ああ!あの美しきアサシンを!その信念を!生き様を!名もなきまま忘れさせていいものか!」

「否!そんな勿体ないことは私が認めない!」

「私が名を与えよう!あの美しき顔を、魂を、力を、信念を、生き様を!」

(けが)し!(けが)し!(けが)し!屈服(けが)し!堕落(けが)す!

「──そのためにこそ、私のこの不滅の命はあるッ!!」

 

ジェスターの絶叫が、血生臭い地下室の壁に木霊し、歪に反響した。

 

「待っていてくれよ?麗しのアサシン!」

「クァハッ!………クハハハハハハ!ハハハハハハハハハハ!」

 

誰もいない地下室で、ただ独り、死徒が嗤い声を響かせ続けていた。

 

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