冬がやってきた。この間までは、暑いと人々が文句を言っていたけど……今は凍えるように寒い。そして、日が沈むのも早くなっていた。冬は好きだ………少なくとも夏よりかは………。
「………ふぅ」
季節が変わっても、僕がやることは変わらない。仕事終わりにこの場所で煙草を吸う。煙草特有の匂いに包まれる。こうして吸っていると、生きている……そんな実感が湧いてくる。
「……そんな“人生の相棒”みたいな顔して吸わないでください」
吐き出された煙を見ていると、背後から話しかけられる。声だけでも分かる。あかねちゃんだ。振り返ると、いつもとは違う。制服が冬仕様に変わっていた。衣替えというやつだ。
「やぁ………あかねちゃん。冬服似合ってるね」
煙草を吸いながら、僕は彼女の冬服に対して感想を返す。あかねちゃんは驚いたような顔をしている。予想外だと言わんばかりに。
「……え、そこ普通に褒めるんですね」
あかねは少しだけ目を丸くしながら、自分の制服の袖を見る。
「てっきり“寒そう”とか“季節変わったねぇ”くらいの雑な感想かと思ってました」
自分が撒いた種とはいえ、そこまで言われるとお兄さんも傷つく。
「というか、お兄さんって時々ちゃんとそういうこと言うから反応困るんですよ」
彼女が身にまとっているのは、どこにでもある一般的な高校の冬制服だった。チャコールグレーのシックなブレザーは仕立てがよく、彼女の華奢な肩のラインに美しく沿っている。
V字の襟元からのぞく白いシャツには、落ち着いたエンジ色のネクタイがきっちりと結ばれていた。動きに合わせて揺れるのは、同系色のダークトーンで彩られた細かなチェック柄のプリーツスカート。
元の素材がいいから、制服姿でも映える。
「…………お兄さんもそういう時代があったなぁ」
しばらく眺めた後、煙草の処理をしながら高校時代の思い出が湧いてくる。テストを頑張ったり、生徒会長をしたり、友達と放課後に遊んだりと、楽しかった記憶が浮かび上がってくる。
「……なんですか、その急に“昔を懐かしむおじさん”みたいな空気」
あかねは少し呆れたようにそう言いながら、煙草を片付ける彼を見る。
「まだ25歳でしょう? そんな“青春は遠い過去でした”みたいな顔しなくてもいいと思うんですけど」
………まだじゃない。もう25歳なんだよ、あかねちゃん。
「でも、お兄さんがちゃんと高校生してたっていうのは、ちょっと意外でした」
普段の姿からは、放課後に友達と騒いでいた姿があまり想像できない。
「なんか勝手に、“気づいたら最初からくたびれた大人だった人”みたいに思ってました」
「あかねちゃん………そろそろお兄さん泣くよ? いいのかい……成人男性が泣き喚く姿を見たいかい?」
「……その言い方だと完全に迷惑客なんですよね」
あかねは即座にそう返しながら、
「しかもお兄さんの場合、絶対“えーん”とか言いながらチラチラ反応確認するじゃないですか」
………本気で泣こうかな? お兄さんが悪いけど、さすがにここまでの扱いはちょっと酷い気がする。
「だから大丈夫です。もうその辺の扱いには慣れてます」
扱いって………これ、お兄さん完全に舐められているよね?まぁ……いいか。お兄さん、プライドをドブに捨てているから。
「話が逸れたね……お兄さんの高校時代の話だったな。これでも僕は生徒会長をしていたよ………ついでに学年でトップレベルの成績だったよ」
「……急に盛りすぎじゃないですか?」
あかねちゃんは半信半疑みたいな目で僕を見ている。失礼な………とは思わない。僕の今の姿を見て、この話を信じろって言う方が無理な話だ。でも、残念ながら事実なんだよね……これ。
「さっきまで“成人男性が泣く”とか言ってた人と、学年トップの生徒会長が全然結びつかないんですけど」
彼女の言葉が刺さる。僕も彼女の立場なら同じことを言うだろうね。でも、あかねちゃん……そろそろ自分の言葉が、かなり威力高いと自覚してほしいな?
「というか、お兄さんって本当に“スペックだけ見ると優良物件”なんですよね」
この男、スペックだけは高いのだ。今ではこんなんだが、仕事はできる、頭も悪くない。しかし、圧倒的な残念感がそれらを踏み躙り、台無しにしていた。
「なんでそこから今の“ヤニカスお兄さん”になるんですか……?」
「ヤニカスって…………まぁいいや。お兄さんがこうなったのは大学からだよ」
「……大学デビューの方向性、だいぶ間違えてません?」
あかねは呆れたようにそう返しながら、彼の顔を見ていた。
「普通そこって、“垢抜けた”とか“遊ぶようになった”とかじゃないですか」
一拍置いてから、彼の手元にある煙草へ視線を落とす。
「なんでお兄さんの場合、“煙草が似合う残念な大人”に進化してるんですか」
「まぁ……いろいろあったんだよ……本当にね」
いつものように貴女の隣に座る。煙草をポケットに仕舞いながら、また懐かしんでいた。しかし、高校時代とは違っていた。さっきまでは楽しそうだったのに、今はそんな表情はなく、つまらなそうな顔をしていた。
「……また、そうやって急に雰囲気変えるんですね」
あかねは静かな声でそう言いながら、隣に座った彼を横目で見る。
「さっきまで普通にふざけてたのに、そういう顔されると反応困るんですけど」
少しだけ視線を逸らした。
「……でも、“色々あった”で済ませるあたり、お兄さんっぽいですね」
深くは聞かなかった。聞けば、きっとまた適当に笑って誤魔化すと、あかねはそんな予想を立てていた。
「本当に話したくないことって、逆に軽く言いますよね……お兄さんって」
「そうだね……政治家と同じさ」
いつもの調子を取り戻して笑いかける。さっきの雰囲気は、煙草の煙のようにどこかへ消えてしまっていた。
「……その例えで納得していいのか微妙なんですけど」
あかねは呆れたようにそう返しながら、小さく息を吐く。
「でも、“答えてるようで答えてない”感じは確かに似てますね」
一拍置いてから、彼の横顔を見る。
「お兄さんの場合、はぐらかし方が妙に自然なんですよ」
さっきまで一瞬だけ見えた表情も、今はもう綺麗に消えていた。
「だから余計に、“どこまでが本当なんだろう”ってなるんです」
「あかねちゃんの観察眼でも分からないんだね」
彼は、いつものようにニコッと笑いながらそう言った。分かりやすいのに、分かりにくい。そんな矛盾を自然に抱え込んでいる人だった。
軽薄そうに見えて、時々核心だけを隠す。冗談ばかり言うくせに、ふとした瞬間だけ本音の輪郭を覗かせる。その違和感が、余計に彼を読みにくくしていた。
そもそも、あかねの中にある“昔のお兄さん”と、今目の前にいる彼は完全には一致していない。
変わっていない部分も確かにある。けれど、その奥にある何かだけは、煙草の煙みたいに曖昧で掴めなかった。
だからこそ、彼女にはまだ分からない。この人のどこまでが本当で、どこからが誤魔化しなのか。
「……観察できるのと、理解できるのは別ですから」
あかねは静かな声でそう返しながら、彼の横顔を見る。
「表情とか癖とか、そういうのは分かります。でも、お兄さんって肝心なところだけちゃんと隠してるじゃないですか」
隠している………というより、僕的には話す理由がない。話しても面白くないし、どんな反応をしたらいいか彼女も分からないだろう。だから、言わない。
「だから、読めそうで読めないんですよ」
随分とお兄さんを過大評価しているな………あかねちゃんからしたら、僕はどう映っているのだろうか? 彼女にしか見えない世界、その瞳はどこまで見据えているのか………。
「……なんか、煙みたいですね。掴めそうで、気づいたら形変わってる感じ」
「言い得て妙だね……あかねちゃん。そっか、あかねちゃんでも分からないか」
さっきよりも満面の笑みを浮かべていた。楽しそうにしているようにも見えるし、挑発しているようにも見えるその顔は、相変わらず読めない。
「……そこで嬉しそうにするの、やめてもらっていいですか」
あかねは少しだけ眉を寄せながら、隣で笑う彼を見る。
「普通、“分からない”って言われたらもう少し複雑そうな顔しません?」
一拍置いてから、小さく肩を竦めた。
「なのにお兄さん、なんか“勝ちました”みたいな顔してるじゃないですか」
彼の笑みは柔らかいのに、その奥だけはやっぱり掴めない。
「……そういうところなんですよ。読めないって言ってるの」
そんな貴女の言葉を聞いた彼は、しばらく考えた後に口を開いた。
「………あかねちゃんは、お兄さんのこと知りたいかい?」
「……その聞き方、ずるいんですよね」
あかねは少しだけ視線を逸らしながら、小さく息を吐く。
「知りたいって言ったら、“じゃあ教えてあげようか”って顔するくせに、どうせ全部は話さないじゃないですか」
一拍置いてから、もう一度彼を見る。
「……でも、気になるのは事実です」
静かな声だった。
「昔知ってたお兄さんと、今ここにいるお兄さんが微妙に違うから」
変わっていない部分もある。けれど、それ以上に“知らない部分”が増えていた。
「だから、どっちが本当なんだろうって……ちょっと思うんです」
本当ねぇ………偽っているつもりはないのだけどね。
「そう言えば、さっきまで高校の話をしていたね………だいぶ逸れたけど」
「……また逃げましたね」
あかねは静かな声でそう言いながら、隣の彼を見る。
「そうやって急に別の話に戻すところ、本当に自然なんですよ」
責めるような口調ではなかった。ただ、確認するみたいに淡々としている。
「話は最後まで聞くものだよ………お兄さんから、あかねちゃんに1つ宿題を出そう」
人差し指を立てながら、彼は唐突にそんなことを言い出した。
「……嫌な予感しかしないんですけど」
あかねは即座にそう返しながら、立てられた人差し指を見る。
「お兄さんが“宿題”とか言い出す時、大体ろくでもない流れじゃないですか」
一拍置いてから、小さく息を吐いた。
「……で、今度は何を考えたんですか?」
そんな嫌そうにしなくてもいいのに。あかねちゃんにとっても、割といい話なのにね。
「お兄さんが煙草を吸い始めた理由を当てられたら………あかねちゃんの聞きたいことに全部答えてあげよう」
それは、彼から貴女へ向けられた、まるで挑戦状みたいな一言だった。
軽い口調で言っているはずなのに、その目だけは妙に楽しそうで。まるで、“君に見抜けるかな?”とでも言いたげに、静かに笑っていた。
「……それ、絶対面倒なやつじゃないですか」
あかねは少しだけ眉を寄せながら、彼を見る。
「しかも“全部答える”って言い方がもう怪しいんですよ。お兄さん、こういう時だけ妙に自信満々ですし」
一拍置いてから、彼のポケットに仕舞われた煙草へ視線を落とした。
「でも……煙草を吸い始めた理由、ですか」
ただの興味本位ではない気がした。今までの会話の中で、彼は煙草だけは妙に否定しなかった。酒もギャンブルも“合わなかった”で終わらせたくせに、それだけは今も手放していない。
「……当てたら、本当にちゃんと答えるんですよね?」
そう言いながら彼を見る視線は、いつもの呆れ混じりではなく、少しだけ真剣だった。
「こんな風になったけど、お兄さん約束はちゃんと守るから………期限は特に設けないよ」
「……その“こんな風になったけど”って、自覚はあるんですね」
あかねは少しだけ呆れたようにそう返しながらも、視線は彼から逸らさなかった。
「でも、約束は守るっていうのは……なんか意外です」
本当にどんな風に見えているのかな?
「お兄さん、もっと適当に“やっぱなし”とか言いそうなのに」
そう言いながらも、彼がこういう約束だけは妙に真面目に守る気がすることを、あかねは何となく察していた。
「……じゃあ、ちゃんと考えてみます」
彼の挑戦状を受け取ったあかね。
「お兄さんが、なんで煙草を吸い始めたのか」
「ふふ……当てられるかな……あかねちゃんに」
煙草の箱を指先で軽く弄びながら、彼はどこか楽しそうに笑っていた。その表情は、答えを隠している人間の顔だった。けれど同時に………“見抜いてほしい”と、ほんの少しだけ期待しているようにも見えた。
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