水晶の中で、バーサーカーの斧が振り下ろされた。
金髪の剣士は正面からそれを受け止めたが、足元の石畳が砕け、その身体は大きく押し戻された。続けて遠坂凛が投じた宝石が炸裂し、巨人の胸元を炎が包む。
それでも、バーサーカーは止まらない。
アインツベルン城の観測室で、セラは水晶に映る戦闘を見つめていた。
相手の剣士も弱くはない。剣技、反応速度、魔力量のいずれも一流だった。それでもバーサーカーの膂力と耐久力には届かず、凛の援護を受けてなお、防戦を強いられている。
このままなら、イリヤが勝つ。
少なくとも、敵がバーサーカーを倒そうとしている間は。
セラは観測術式の焦点を、激突する二騎からその後方へ移した。
遠坂凛の隣に、小柄な男が立っている。
軍服を身につけ、太い眉と口ひげを備えた男。剣も槍も持たず、戦場にいるというのに構えすら取っていない。
その姿だけなら、英霊というより戦場を視察する将校に近かった。
しかし、男の視線を追ったセラは眉を寄せた。
彼はバーサーカーを見ていない。
最初から、イリヤだけを見ている。
セラは水晶へ指を触れ、像を拡大した。
顔が鮮明になる。
その瞬間、指が止まった。
知っている顔だった。
アインツベルンに保管されている近代史の資料にも、何度となく登場している。
ソビエト連邦を率い、大粛清と秘密警察によって国内を統制し、独ソ戦では国家全体を総力戦へ動員した人物。個人の武勇によってではなく、命令と組織によって、遠く離れた場所にいる人間の生死を左右した指導者。
「ヨシフ・スターリン……」
隣にいたリーゼリットが顔を向けた。
「知ってる?」
「ええ。戦士ではありません」
「弱い?」
「一人の人間としてならば」
水晶の中で、スターリンが片手を上げた。
地面へ落ちた影が揺れ、軍服姿の男たちが次々と立ち上がる。どの顔にも目鼻はなく、それぞれが古い型の銃を構えていた。
銃口が向けられた先を見て、セラの表情が変わった。
バーサーカーではない。
イリヤだった。
銃声。
バーサーカーが斧を振るい、弾丸を弾く。
直後に側面から第二射。
巨体がイリヤの前へ割り込んだ。
背後。
死角。
さらに別方向。
顔のない兵士たちはバーサーカーを倒そうとせず、イリヤへ届く射線だけを作り続ける。
最強のサーヴァントが、攻撃する存在から、少女を守る盾へ変えられていく。
スターリン自身には、バーサーカーと正面から戦うだけの武力などないのかもしれない。
だが、少なくとも今、水晶の中で行われている戦いを見る限り、彼は自分で巨人を止めようとはしていなかった。
バーサーカーが動けなくなる状況を作っている。
やがてイリヤが撤退を命じ、バーサーカーが少女を抱えて森へ跳んだ。
影の兵士たちは追わない。
スターリンも動かなかった。
ただ、その視線だけが、イリヤの消えた森へ向けられていた。
セラはその姿を見ながら、歴史上のスターリンについて知る限りの情報を思い返した。
彼自身がすべての敵を撃ったわけではない。誰を撃つのかを決め、実行する組織を動かした。自ら逮捕や尋問を行わなくとも、命令によって秘密警察が人間を拘束した。
警戒すべきなのは肉体ではない。
その個人が持っていた権力の規模だった。
英霊の能力が、生前の逸話と後世の認識によって形作られるのであれば、秘密警察による暗殺や拘束、情報収集、命令系統への介入、敵内部への疑念の浸透、補給線の遮断、あるいは軍勢そのものの召喚まで考えられる。
近代の英霊は、神代の英雄ほど濃い神秘を持たない。
その代わり、生前に用いた現実の仕組みそのものを、英霊としての力へ変えているのかもしれない。
観測術式を閉じる直前、セラはもう一度スターリンを見た。
彼は逃げていくイリヤではなく、その帰る先を見ていた。
それが、妙に引っかかった。
城へ戻ったイリヤに怪我はなかった。
ただ、顔色には戦闘前にはなかった硬さが残っている。
「遠坂凛のアーチャー、卑怯なのよ。バーサーカーと戦わないで、わたしばかり狙ってきた」
セラは、その言葉に反論しなかった。
「相手の真名を確認しました。ヨシフ・スターリンです」
「ソ連の?」
「はい」
「でも、戦士じゃないんでしょう?」
「ええ。ですから、本人の戦闘能力よりも、何を宝具として持ち込んでいるのかを警戒するべきでしょう」
セラは、秘密警察、拘束、暗殺、情報操作、軍勢など、考えられる能力を簡潔に説明した。
「兵士ならバーサーカーが壊せるわ」
「見えるものであれば、そうでしょう」
イリヤが不満そうにセラを見る。
「情報や命令系統への介入であれば、壊すべき対象そのものが見えません。外部との接点を利用する能力であれば、城の外との連絡や搬入経路も確認する必要があります」
「怖がりすぎよ」
「警戒です。バーサーカーの強さを疑っているのではありません」
セラは、傍らに立つ巨人を見上げた。
「相手が、バーサーカーと戦う必要がない人物であることを警戒しています」
それ以上、イリヤの行動を大きく制限することはしなかった。
森の監視を増やし、結界を再点検する。
外部との連絡や搬入経路に異常がないか確認する。
現時点では、それで十分だとセラは判断した。
敵の能力が分からないうちから城を閉ざし、自ら選択肢を減らす必要はない。
それでも、最後に森を見つめていたスターリンの姿だけは頭から離れなかった。
遠坂家の書斎で、スターリンは書類をめくっていた。
入口からその姿を見た凛は、歴史の教科書を眺めているような奇妙な感覚を覚えた。
机の上に積まれているのは、赤き書記局から提出された報告書だった。
表紙には、
『日本国行政機構及び冬木市行政制度に関する予備調査報告』
と記されている。
土地所有制度、建築行政、消防、警察、地方自治についてまとめられた別冊資料も並んでいた。
スターリンが顔を上げる。
「どうした。同志凛」
「いや、その呼び方はやめて……」
「すまなかった。で、どうした、凛」
切り替えが早い。
凛は机の前まで歩いた。
「何を調べているの?」
「この国の仕組みだよ、凛」
「仕組み?」
「法律、行政、土地の所有、住民の記録、警察、消防。それぞれがどのような権限を持ち、どう接続されているかだ」
「自分で調べたの?」
「内務人民委員部に調査させた。私は報告を読んでいる」
「……仕事が早いわね」
「組織は、そのためにある」
スターリンはそう答え、報告書へ視線を戻した。
「特に、この国の行政組織は素晴らしい」
凛は露骨に嫌そうな顔をした。
「なんか、あなたに褒められても嬉しくないんだけどね」
スターリンから返事はなかった。
そのまま報告書の頁をめくり、少ししてから口を開く。
「土地、建築、税、消防、警察。それぞれが別の職務を持ち、それぞれが記録を残す。しかも必要になれば、組織間で照会を行う」
「役所なんだから普通じゃない?」
「普通ではない」
スターリンは静かに答えた。
「一つの判断で、すべての記録が同時に消える仕組みではない。土地の記録を処理しても建築が残る。建築を処理しても税が残る。消防も別に記録を持つ」
凛は眉を寄せた。
「あなた、行政制度の説明じゃなくて、攻略方法を考えてるでしょう」
「制度を理解するとは、使い方を理解することだ」
「普通は違うと思うけど」
「わが連邦にも、これほど整然とした行政組織があればと思うほどだよ」
「絶対、褒め言葉じゃないわよね」
スターリンはその言葉には答えず、机の端に置かれていた薄い報告書を手に取った。
表紙には、
『対象イリヤスフィール・フォン・アインツベルン撤退先に関する予備調査』
と記されている。
「昨夜の続きだ」
最初の頁には、冬木市郊外の航空写真が載っていた。
深い森の中央に、不自然に輪郭のぼやけた場所がある。認識阻害の魔術が働いているのだろうと、凛にも分かった。
意識を逸らすと、何が映っているのか分からなくなる。
それでも、注意して見れば大規模な建造物の形が確認できた。
「アインツベルンの城ね」
「それは我々の呼び方だ」
現在確認できている事実は少ない。
森の中に大規模建造物と思われる構造があること。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとバーサーカーがそこへ入ったこと。
現在確認できる行政記録からは、建造物に対応する所有者や建築記録が見つかっていないこと。
それだけだった。
「中に誰がいるかは?」
「不明だ」
「イリヤが住んでいるかどうかも?」
「可能性は高いが、確認していない」
「管理者や使用人は?」
「それも不明だ」
凛は少し意外に思った。
「分からないことは、そのままなのね」
「当然だ。推測と事実を混同すれば、そこから綻びが生まれる」
「赤き書記局なら、それらしい話を作れるのかと思った」
「できない」
返答は即座だった。
「意味を与えられるのは、存在する事実だけだ」
スターリンが一枚の紙へ指を置いた。
アインツベルン城。
その文字が静かに変化する。
所有者及び建築記録を確認できない大規模建造物。
別の紙には、イリヤの名がある。
アインツベルン家のマスター。
バーサーカーの契約者。
城の主人。
最後の記述だけが消えた。
代わって、
身元及び保護者を確認できない未成年者。
所有者不明建造物への進入を確認。
と記される。
「城の主人とは書かないのね」
「確認していない」
「居住者とも?」
「確認していない」
「誰かに監禁されているとも」
「その事実はない」
スターリンは報告書を閉じた。
「存在しない事実を作れば、それを支えるために証言、記録、日時、関係者が必要になる。一つの嘘は別の嘘を要求し、その数が増えるほど現実との間に矛盾が生じる」
「だから、嘘を使わない」
「嘘は弱い」
凛は思わず顔を上げた。
「あなたがそれを言うの?」
スターリンは表情を変えなかった。
「嘘には管理者が必要だ。事実には必要ない」
建造物は実在している。
記録が見つからないことも事実。
イリヤとバーサーカーが入ったことも事実。
誰かが維持しなくても、それらの事実は消えない。
むしろ、調べれば新しい情報が増える可能性がある。
「存在する事実だけを使えば、調査されるほど強くなる」
凛が言った。
「その通りだ」
凛は航空写真を眺めた。
「神秘の薄い英霊の戦い方ってわけね」
「どういう意味かね」
「神代の英雄なら、宝具で城壁を吹き飛ばす。結界を破って、バーサーカーと正面から戦う。でも、あなたにはそんな神秘はない」
「ないな」
「だから、現実を魔術でねじ伏せるんじゃない」
凛は少し考えた。
「現実の仕組みを、戦場にする」
スターリンの口元がわずかに動いた。
「よい理解だ」
「だから褒めないで」
スターリンは再び行政制度の報告書を開いた。
「この国の仕組みと、赤き書記局の組み合わせは理想的だよ、凛」
「何が理想なのよ」
「赤き書記局は、存在する事実を社会が理解できる意味へ変換する。そして、この国には、その意味を受け取って自ら動く組織が既に存在している」
スターリンは航空写真を指した。
「私が行政を操る必要はない。この建造物の存在を、行政に認識させればよい」
凛は少し考えた。
「でも、魔術師なら担当者に暗示をかけて終わりじゃない?」
「担当者にはな」
スターリンは報告書を指で叩いた。
「書類には?」
凛は黙った。
「人間に忘れさせることはできる。だが、既に作られた記録は人間の記憶ではない。担当者を納得させても、受理された案件、照会、決裁の履歴までは消えない」
「記録そのものを消せばいいでしょう」
「一つならな」
スターリンは日本の行政機構図を開いた。
「土地、建築、税、森林、消防。それぞれが別の記録を持つ。すべてを消すなら、すべてに手を入れる必要がある」
凛は、ようやくスターリンが日本の行政制度を褒めていた理由を理解した。
「……だから、素晴らしいのね」
「そうだ」
スターリンは静かに言った。
「この国は、記憶を人間だけに任せていない」
その言葉で、凛の中でも話がつながった。
魔術師は、人間の認識を逸らすことで神秘を守る。
だが、人間社会はいつの間にか、記憶を紙や台帳や記録の中へ外部化していた。
一度そこへ入り込めば、人間一人の認識を変えるだけでは消えない。
「城を攻撃する必要はないのね」
「ない」
「結界を破る必要も」
「ない」
凛は航空写真を見る。
「城じゃなくする」
「正確には、城という意味を外す」
魔術師の城と呼べば、アインツベルンの工房だ。
だが、所有者不明の大規模建造物と呼べば、行政が扱う問題になる。
「それで、中に誰がいるのかも調べる?」
「我々から入り込む必要はない」
スターリンは未確認事項の欄を指した。
管理者。
他の居住者。
外部組織との関係。
どれも空欄だった。
「問いを投げれば、城を守る者が動く」
所有者を問われれば、誰かが答えなければならない。
照会を消そうとすれば、消すために誰かが動く。
魔術協会が介入すれば、アインツベルンとの接点が一つ確認できる。
凛にも、その意味は分かった。
「誰が城を守ろうとするのかを見るのね」
「そうだ」
「本当に嫌な戦い方ね」
「合理的だ」
凛はため息をついた。
だが、バーサーカーが守る城へ正面から攻め込むより、はるかに犠牲が少ない。
その点だけは否定できなかった。
「一般人に損害を出さないこと」
凛は言った。
「役所や警察の人間を、魔術戦の盾には使わない。危険があるなら現地へ近づけない」
「了解した」
「それ以外は任せるわ」
スターリンが凛を見る。
「よろしいのかね」
「私が開放した宝具よ。使うと決めた以上、結果まで見る」
スターリンは静かに頷いた。
「では、始めよう」
書斎の影が揺れた。
顔のない男たちが姿を現す。
昨夜、その手にあったのは銃だった。
今は違う。
航空写真。
土地台帳。
森林管理記録。
過去の測量資料。
日本の行政制度についてまとめられた報告書。
それらを受け取った影が、音もなく闇へ沈んでいった。
翌朝。
冬木市役所の森林管理を担当する職員が出勤すると、机の上に一枚の管理図面が置かれていた。
昨日、帰る時にはなかった。
職員は足を止めた。
「……何だ、これ」
図面そのものは庁内で使われている普通の管理資料だった。
ただ、その一角に黄色い付箋が貼られている。
現況確認。
書かれているのは、その四文字だけ。
担当者名も、案件番号もない。
誰かが置いていったのだろうか。
心当たりはなかった。
職員は怪訝に思いながら、付箋が貼られている場所を見る。
冬木市郊外の森林区域。
図面上では、特に変わったものはない。
そのまま脇へ置こうとしたが、付箋が気になった。
念のため、端末から航空測量画像を開く。
図面と同じ座標を表示した。
森。
道路。
河川。
異常なし。
少し位置をずらす。
森。
森。
職員の指が止まった。
付箋が示していた地点。
木々の中央に、不自然な影がある。
画面を拡大する。
「……建物?」
大きな屋根のような輪郭が見えた。
一度目を離すと、なぜそこを見ていたのか分からなくなる。
それでも、机の上の付箋が視線をもう一度同じ場所へ戻した。
やはり、何かがある。
山小屋という規模ではない。
職員は土地台帳を開いた。
該当する建造物はない。
建築関係の記録を検索する。
出ない。
固定資産の資料にも、対応するものが見つからなかった。
「おかしいな」
隣の席の職員が顔を上げる。
「どうした?」
「ちょっとこれ、見てくれない?」
画面を指さした。
相手も最初は首を傾げたが、管理図面と座標を照合しながら何度か画像を拡大すると、表情が変わった。
「……あるな」
「あるよな」
「でも、こんなの登録されてたか?」
「されてない」
二人は顔を見合わせた。
画像の誤認かもしれない。
古い資料の登録漏れかもしれない。
どちらにしても、確認は必要だった。
職員は新規案件の処理画面を開いた。
現況不一致。
森林区域内建造物。
所有者確認要。
航空写真を添付する。
案件を登録。
番号が発行された。
そこから先は、行政自身が動き始めた。
森林管理から土地関係の部署へ照会が飛ぶ。
土地担当から建築担当へ記録確認が回る。
固定資産についても照合が始まる。
建造物の規模次第では、消防関係の資料も確認する必要がある。
一枚の書類が、次の書類を生む。
一つの照会が、別の照会へつながっていく。
誰かが彼らへ命令しているわけではない。
職員たちは、自分たちの職務に従っているだけだった。
最初の職員が、ふと机の上を見た。
黄色い付箋が残っている。
誰が貼ったのだろう。
少し気になった。
だが、既に案件番号は発行されている。
今となっては、それは重要なことではなかった。
庁舎の外。
建物の影に、一人の男が立っていた。
顔はない。
手には小さな記録簿がある。
男はそこへ短く書き込んだ。
森林管理担当。
対象認識。
案件登録完了。
別の影から、同じ姿をした男が現れ、新しい報告を差し出す。
土地担当への照会開始。
建築記録確認。
固定資産資料照合。
内務人民委員部がしたことは多くない。
既に存在していた管理図面を見つけた。
赤き書記局が、その中から意味を持つ一点を選んだ。
そして、人間の視線がそこを通り過ぎないよう、付箋を一枚貼った。
建造物を作ったわけではない。
行政記録を偽造したわけでもない。
今まで認識されていなかった事実を、認識させただけだった。
一度認識され、書類になれば、あとは行政自身が記憶する。
男は記録簿を閉じ、影の中へ消えた。
遠坂家へ戻る報告には、一行だけが記されていた。
対象、行政上の認識下へ移行。