最終判定の日、教室の空気は静まり返っていた。
誰も騒がない。
誰も怒鳴らない。
誰も笑わない。
ただ全員が、電子黒板を見つめていた。
そこには、これまで何度も表示されてきたランキングがある。
その並びを、誰ももう偶然だとは思っていなかった。
最初に名前が挙がった者たちとは違う。
櫛田は残った。
白石も残った。
長谷部も、辛うじて退学圏から外れた。
だが、その代わりに浮上した五人は、
誰もがこの学年の感情を大きく動かしてきた者たちだった。
善意の一之瀬。
理想の堀北。
依存の軽井沢。
静寂のひより。
支配の坂柳。
学校側は、それを危険と判断した。
人に好かれること。
人に頼られること。
人を変えること。
人を導くこと。
人の心に残ること。
その全てを、風紀リスクという冷たい言葉へ変換した。
そして今日、その結果が確定する。
電子黒板が一度暗転した。
教室中の呼吸が止まる。
次に表示されたのは、無機質な白い文字だった。
【風紀最適化特別試験・最終判定】
【退学対象者五名を確定します】
誰かが小さく息を呑んだ。
軽井沢は席に座ったまま、拳を握りしめている。
堀北は背筋を伸ばし、真正面から画面を見つめていた。
別教室にいるはずの一之瀬、ひより、坂柳の表情までもが、
なぜかこの場に伝わってくるようだった。
そして、上位五名の名前が表示された。
【一之瀬帆波、堀北鈴音、軽井沢恵、椎名ひより、坂柳有栖】
【確定】
その二文字が、あまりにも静かに添えられていた。
軽井沢の肩が小さく震えた。
だが、泣かなかった。
堀北も目を逸らさなかった。
須藤が机を叩きそうになったが、途中で拳を止めた。
止めてしまった。
堀北が以前言ったからだ。
落ち着きなさい、と。
その一言が、最後まで須藤を縛っていた。
「……ふざけんなよ」
須藤の声は掠れていた。
誰も返事をしない。
平田は唇を噛み、佐藤は涙をこらえ、長谷部は顔を伏せていた。
長谷部波瑠加は残った。
だが、その表情に安堵はなかった。
自分が残ったという事実は、誰かが代わりに落ちたという事実と切り離せない。
彼女はそれを理解していた。
「私……残ったんだ」
長谷部が小さく呟く。
明人が何か言おうとした。
だが、言葉が出ない。
おめでとうとは言えない。
よかったとも言えない。
この試験では、誰かの生存は誰かの退場と同じ意味を持つ。
だから、残された者たちは勝者ではなかった。
櫛田桔梗も同じだった。
彼女は退学圏を外れた。
最初の候補だったにもかかわらず、自ら空気を操り、
同情と好感を利用し、結果的に安全圏へ戻った。
だが、彼女の笑顔は硬かった。
なぜなら、誰もがもう知っているからだ。
櫛田がただの被害者ではなかったことを。
そして同時に、櫛田だけが悪者ではなかったことも。
この試験は、全員を少しずつ加害者にした。
白石飛鳥も残った。
坂柳クラスの教室で、彼女は画面を見つめたまま動けずにいた。
最初、彼女は分かりやすい偶像として危険視された。
だが最終的に残ったのは、坂柳だった。
自分を守る空気が薄れ、
より強い影響力を持つ者が浮上した結果、白石は残った。
それは決して彼女の勝利ではない。
白石は震える声で呟いた。
「坂柳さん……」
坂柳有栖は、隣で静かに画面を見ていた。
驚いた様子はない。
怒りも、恐怖も、表には出ていない。
ただ、ほんのわずかに笑っていた。
「なるほど」
その声は穏やかだった。
「最後まで、私を退学圏から外す気はありませんでしたか」
橋本が言葉を失っている。
神室は拳を握りしめていた。
「坂柳」
「泣きそうな顔をしないでください、真澄さん」
坂柳は微笑む。
「あなたらしくありません」
「……うるさい」
神室の声は震えていた。
坂柳は白石の方を見る。
「白石さん」
「はい……」
「あなたが残ったことを、恥じる必要はありません」
白石は目を伏せる。
「でも、私の代わりに坂柳さんが……」
「違います」
坂柳の声は静かだった。
「私は、私自身の影響力によって退学対象になった。
あなたの代わりではありません」
その言葉は、白石を救うためのものだった。
しかし同時に、坂柳自身の誇りでもあった。
彼女は最後まで、自分を誰かの犠牲とは認めなかった。
龍園クラスでは、椎名ひよりの名前が表示された瞬間、石崎が叫んだ。
「嘘だろ……!」
机が揺れる。
誰かが止める前に、石崎は電子黒板へ向かって一歩踏み出していた。
だが龍園が低い声で言う。
「やめろ」
「でも、龍園さん!」
「やめろっつってんだ」
その声は鋭かった。
石崎は立ち止まる。
ひよりは席に座ったまま、静かに端末を閉じていた。
彼女は泣いていなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに微笑んでいる。
「椎名」
龍園が呼ぶ。
「はい」
「お前、最後まで静かだな」
「そうでしょうか」
ひよりは小さく首を傾げる。
「内心では、かなり怖いです」
その言葉に、教室が静まる。
「退学したくありませんし、本当はもっと本を読みたかったですし、
このクラスでもう少し過ごしたかったです」
彼女は穏やかに続けた。
「でも、騒いでも結果は変わりませんから」
石崎が顔を歪める。
「椎名……」
「石崎くん」
ひよりは彼を見る。
「私のことで怒ってくれて、ありがとうございます」
その一言で、石崎は何も言えなくなった。
ひよりは立ち上がり、机の上の本を大切そうに鞄へしまう。
「私は、誰かの理想になりたかったわけではありません」
彼女は以前と同じ言葉を、もう一度口にした。
「でも、もし私の静けさが誰かの心を少しでも落ち着かせていたのなら、
それ自体は悪いことではなかったと思いたいです」
龍園は黙っていた。
その目は、最後まで電子黒板ではなく、ひよりを見ていた。
一之瀬クラスでは、もっと直接的な崩壊が起きていた。
一之瀬帆波の退学確定を見た瞬間、クラスメイトたちは泣き出した。
誰かが「嫌だ」と言った。
誰かが「帆波ちゃんは悪くない」と言った。
誰かが学校側へ抗議しようと端末を握りしめた。
だが、一之瀬は立ち上がり、全員へ向かって微笑んだ。
「みんな、ありがとう」
その声は震えていた。
それでも、彼女は笑っていた。
「ごめんね。私、みんなを守りきれなかった」
「違うよ!」
誰かが叫ぶ。
「帆波ちゃんは悪くない!」
一之瀬は首を振る。
「でも、私を守ろうとしてくれたことで、みんなもたくさん苦しんだよね」
彼女は一人一人を見る。
「私ね、最後まで誰かを切る側にはなれなかった」
その言葉に、教室がさらに静まる。
「それが正しかったのかは分からない。
もしかしたら、もっと違うやり方があったのかもしれない」
一之瀬の目に涙が浮かぶ。
「でも、誰かを犠牲にして残ったら、私はきっと私じゃなくなると思った」
涙が一筋、頬を伝った。
「だから、怖いけど……私はこの結果を受け止める」
その姿に、クラスメイトたちは何も言えなくなった。
一之瀬帆波は、最後まで一之瀬帆波だった。
善意を捨てなかった。
誰かを切らなかった。
そして、そのために退学する。
それは美しい敗北だった。
だが、美しいからといって残酷さが薄れるわけではなかった。
堀北クラスでは、堀北鈴音が静かに席を立った。
須藤が反射的に立ち上がる。
「鈴音!」
「須藤くん」
堀北は彼を見た。
「座りなさい」
須藤は歯を食いしばる。
今度は座らなかった。
「嫌だ」
教室が静まる。
「今回くらい、言うこと聞けねえよ」
堀北は少しだけ目を見開いた。
須藤は拳を握りしめている。
「お前がいなくなるなんて、納得できるわけねえだろ」
その声は震えていた。
「俺は、お前に変えられたんだよ」
堀北の表情がわずかに揺れる。
「それが、鈴音の危険度を上げたって言うなら……俺のせいじゃねえか」
「違うわ」
堀北は即座に言った。
「あなたの成長は、あなた自身のものよ」
「でも……!」
「須藤くん」
堀北の声は、これまでで一番柔らかかった。
「あなたは私の影響だけで変わったわけじゃない。
あなた自身が、変わろうとしたの」
須藤は言葉を失う。
「だから、それを私の退学理由なんかにしないで」
その言葉は、須藤を救うためのものだった。
自分が退学する直前でさえ、堀北は誰かの成長を否定しなかった。
平田が静かに頭を下げた。
「堀北さん……ごめん」
「謝らないで」
堀北は言った。
「私は、最後までクラスを放置しない選択をした。
それで危険度が上がったとしても、後悔はしていないわ」
そして彼女は、オレを見た。
「綾小路くん」
「何だ」
「あなたは、これで満足?」
教室中の視線がオレへ向いた。
軽井沢も、目元を赤くしながらオレを見ていた。
オレは答える。
「満足はしていない」
「でも、選んだのね」
「ああ」
堀北は小さく笑った。
「やっぱり、あなたは最後までそういう人なのね」
軽井沢が立ち上がった。
「ねえ、綾小路くん」
その声は震えていた。
「あたしも、切ったの?」
「必要な結果として受け入れた」
「最低」
彼女はそう言った。
だが、怒鳴らなかった。
「でも、分かってた」
軽井沢は笑った。
泣きそうな顔で。
「あんたがそういう人だって、分かってたのにね」
彼女は自分の鞄を取る。
「それでも、どこかで期待してたあたしが馬鹿だった」
教室に沈黙が落ちる。
オレは何も言わなかった。
言えば、さらに傷つけるだけだった。
◯
その後、五人はそれぞれ指定された場所へ向かうことになった。
退学手続き。
荷物整理。
最終面談。
それらが淡々と進められる。
あまりにも事務的だった。
人間一人の居場所が消えるというのに、
学校の処理は驚くほど静かで、正確で、冷たかった。
廊下で、五人が偶然顔を合わせた。
誰もすぐには話さなかった。
最初に口を開いたのは、一之瀬だった。
「みんな……ごめんね」
軽井沢が苦笑する。
「何で一之瀬さんが謝るのよ」
「だって、私がもっと上手くやれてたら……」
「それ言ったら全員同じでしょ」
軽井沢は涙を拭う。
「あたしも、もっと強かったらよかった」
ひよりが静かに言う。
「私は、もっと自分の気持ちを出せていればよかったのかもしれません」
坂柳が微笑む。
「私は、もう少し早く盤面を壊すべきでしたね」
堀北は小さく息を吐いた。
「私は、まだ未熟だった」
五人の言葉は、それぞれ違っていた。
だが、どれも敗北の言葉だった。
そして同時に、自分自身を最後まで手放さなかった者たちの言葉でもあった。
一之瀬は善意を捨てなかった。
軽井沢は弱さを抱えたまま立っていた。
ひよりは静けさを失わなかった。
坂柳は誇りを折らなかった。
堀北は前へ進むことをやめなかった。
だから彼女たちは負けた。
この試験では、その美点こそが退学理由になった。
「綾小路くんは?」
一之瀬が静かに尋ねた。
全員の視線がオレへ向く。
オレは少し離れた場所に立っていた。
「あなたは、どうしてそこまでしてこの結果を受け入れたの?」
オレは答えた。
「この試験は、五人を退学させるだけで終わるものではなかった」
堀北の目が細くなる。
「どういう意味?」
「最終段階で、学校側は各クラスの保全判断、
男子票、女子相互評価、クラスポイントを連動させていた」
坂柳が目を伏せる。
「やはり、そうでしたか」
「特定の一人を救うために票を集中させれば、そのクラスは大幅減点。
談合や不自然な票移動があれば、追加退学も発生する仕組みだった」
一之瀬が息を呑む。
「追加退学……」
「全員を救おうとすれば、最悪の場合、各クラスからさらに複数名が退学する」
軽井沢の顔色が変わる。
「じゃあ……」
「この五人で止めることが、被害を最小限にする選択だった」
沈黙が落ちた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
それは救いの説明ではなかった。
むしろ残酷な答えだった。
綾小路清隆は何もしなかったのではない。
彼は、より大きな崩壊を防ぐために、この五人の退学を受け入れた。
一之瀬は目を伏せた。
ひよりは静かに息を吐いた。
坂柳は少しだけ笑った。
軽井沢は泣きそうな顔でオレを睨んだ。
そして堀北は、一歩前へ出た。
「つまり、あなたは勝ったのね」
「結果だけを見ればな」
「全クラスの大量退学を防ぎ、損失を五人で止めた」
堀北の声は冷たい。
「合理的で、正しい判断だったのかもしれない」
彼女はまっすぐオレを見る。
「でも私は、あなたを認めない」
その言葉は静かだった。
だが、何よりも重かった。
「あなたは勝った。でも、私はあなたを認めない」
軽井沢も呟く。
「あたしも、許さない」
一之瀬は涙を拭いながら言った。
「綾小路くんの判断で救われた人がいるのは分かる。
でも……それでも、私は悲しいよ」
ひよりは少しだけ頭を下げた。
「私は、怒るのが得意ではありません。ですが、悲しいとは思います」
坂柳は微笑んだ。
「あなたの勝利には、随分と高い代償がつきましたね」
オレは何も言わなかった。
言うべきことはない。
彼女たちの言葉はすべて正しい。
そしてオレの選択も、結果としては正しい。
正しさ同士が衝突した時、最後に残るのは納得ではない。
傷だけだ。
五人は歩き出した。
一之瀬は振り返らず、ひよりは静かに本を抱え、
軽井沢は一度だけこちらを睨み、坂柳は最後まで微笑み、
堀北は背筋を伸ばしたまま前を向いていた。
その背中は、敗者のものだった。
だが、惨めではなかった。
美しかった。
だからこそ、残酷だった。
彼女たちは敗北した。
けれど、自分自身を捨てて勝つことは選ばなかった。
その意味で、彼女たちは最後まで彼女たちだった。
数日後。
教室には空席があった。
堀北の席。
軽井沢の席。
他クラスにも、一之瀬、ひより、坂柳の空白がある。
学校は何事もなかったかのように授業を再開した。
新しい試験の告知もあり、クラスポイントの調整も終わり、
生徒たちは少しずつ日常へ戻ろうとしている。
だが、完全には戻らない。
残された者たちは知っている。
この日常は、五人の退学の上に続いているのだと。
長谷部は以前より静かになった。
白石は笑顔を少し減らした。
櫛田はいつもの笑顔を取り戻しているように見えるが、
その奥にあるものを誰も簡単には信じなくなった。
須藤は堀北の空席を見るたびに拳を握る。
平田は以前より深く考えるようになった。
龍園はひよりのいない図書館前を通る時だけ、わずかに足を止める。
Aクラスでは、坂柳の不在によって空気が変わった。
一之瀬クラスでは、笑顔の中心が消えた。
世界は続く。
だが、確かに何かが欠けた。
オレは自分の席から、空白になった堀北の席を見た。
勝った。
被害は最小限に抑えた。
全クラスの大崩壊は防いだ。
それでも、胸の奥に残るものがある。
それを後悔と呼ぶのか。
喪失と呼ぶのか。
あるいは、ただの不要な感情と切り捨てるべきなのか。
今のオレには分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
この試験で、本当の勝者はいなかった。
残った者も、退学した者も、学校も、誰一人として綺麗には勝っていない。
それでも記録には、こう残るのだろう。
風紀最適化特別試験。
退学者五名。
一之瀬帆波。
堀北鈴音。
軽井沢恵。
椎名ひより。
坂柳有栖。
美しき敗者たちの名前だけが、冷たいデータとして保存される。
だが、オレは知っている。
彼女たちは数字ではなかった。
危険因子でもなかった。
誰かの感情を動かした、ただの人間だった。
そしてこの学校は、その眩しさを切り落とした。
だからオレは、最後にもう一度だけ、空席へ視線を向けた。
勝利の実感はなかった。
あるのは、静かな空白だけだった。
完
「美しき敗者たちの特別試験」完結です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、「原作では比較的安全圏にいるヒロインたちが、
本当に退学の危機へ追い込まれたらどうなるのか」をテーマに書きました。
よう実のヒロインたち、本当に魅力的なんですよね。
だから読者は惹かれるし、空気も変わるし、守りたくなる。
でも本作の学校は、それ自体を危険だと判断しました。
実際、世の中には「異性を意識させるから禁止」みたいな妙な校則や話もあります。
だったら極端に突き詰めて、「美人は男子を狂わせるから退学」という
試験があってもいいんじゃないか、という発想でした。
ただ、この作品で退学した彼女たちは、悪として描いたつもりはありません。
むしろ、人の感情を動かしてしまうほど魅力的だったからこそ、排除された。
そんな皮肉な話です。
改めて、最後までありがとうございました。
次回作として「ザ・ダイハード・マスターピース」を投稿します。
アクション映画の名作「ダイ・ハード」を元にしたアクションものになります。
【挿絵表示】
途中までですが、試し読みとして第1話「銃声」をどうぞ。
◯
文化祭前夜の高度育成高等学校は、
いつもの夜よりも少しだけ明るく、
少しだけ騒がしく、そして少しだけ浮ついていた。
本来ならば放課後の時間を過ぎれば生徒たちの姿は
徐々に寮やケヤキモールへと移っていくはずだったが、
この日だけは例外で、各教室の窓にはまだ明かりが残り、
廊下には段ボール箱や模造紙やペンキの缶が積み上げられ、
床には切り損ねた色紙や養生テープの端が落ち、
普段なら整然としている校舎そのものが、
翌日に控えた文化祭という非日常を前に、
少しだけ落ち着きを失っているように見えた。
2年Bクラスの教室も例外ではなく、机は壁際に寄せられ、
中央にはメイド喫茶用のパネルと未完成の看板が並べられ、
須藤が脚立の上で不安定にバランスを取りながら飾り付けを直し、
池がその下で大げさに指示を出し、篠原がそんな二人を呆れた目で見つめ、
平田は全体を見渡しながら誰かが孤立しないよう細かく声をかけていた。
「須藤くん、もう少し右。……違う、そっちじゃなくて、私から見て右よ」
堀北鈴音の冷静な声が教室内に響くと、
脚立の上にいた須藤は額に汗を浮かべたまま、ぎこちなく飾りの位置をずらした。
「お、おう。これでどうだ?」
「少し傾いているわね」
「マジかよ……俺の目には真っ直ぐに見えるんだけどな」
「あなたの目が信用できないというだけよ」
堀北が淡々と告げると、近くにいた軽井沢が小さく笑い、
須藤は言い返したそうに口を開いたものの、
結局は何も言わずに飾りを直し始めた。
文化祭という言葉には、本来ならもっと軽やかな響きがあるはずだった。
だが、この学校においては、文化祭もまた単なる行事ではなく、
クラスの評価やポイント、外部からの印象、
生徒同士の力関係に直結する一種の戦場であり、
どれだけ楽しげな装飾を施そうとも、
その裏側では誰もが損得や勝敗を計算している。
それでも、少なくとも今この瞬間だけは、教室に漂う空気は悪くなかった。
軽井沢は女子数人と一緒にお茶やお菓子を確認し、
みーちゃんは来場者向けの案内文を整え、幸村は資料の誤字を指摘し、
本堂や池はふざけながらも必要な荷物を運び、
平田は全員の間を行き来しながら、
まるでこの教室全体がひとつの小さな喫茶店であるかのように、
その空気を穏やかに保とうとしていた。
オレ――綾小路清隆は、その光景を教室の隅から眺めていた。
特に何かをしていないわけではない。
頼まれた作業は一通り終えたし、必要があれば手を貸すつもりでもいた。
ただ、今この教室の中で積極的に動く必要性は薄く、
むしろ全体の流れを邪魔しない程度に存在感を薄めているほうが、
結果的には効率が良いと判断していた。
「綾小路くん」
声をかけてきたのは一之瀬帆波だった。
隣のクラスの生徒でありながら、
文化祭準備の関係で何度かこちらの教室に顔を出していた彼女は、
手に持ったチェック表を胸の前に抱え、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「そっち、順調そうだね」
「大きな問題はないと思う。
少なくとも、飾りが何度か曲がる程度で済んでいる」
「それ、須藤くんのこと?」
一之瀬が苦笑すると、脚立の上の須藤がこちらを振り返った。
「おい綾小路、聞こえてるぞ!」
「聞こえるように言ったつもりはない」
「それはそれで腹立つな!」
須藤の声に教室の何人かが笑い、
堀北が「手を止めない」と短く注意すると、須藤は慌てて作業に戻った。
一之瀬はその様子を見て、少しだけ安心したように息をついた。
「こういう雰囲気、いいよね。
試験とか競争とか、そういうのが完全になくなるわけじゃないけど、
みんなで何かを作ってる感じがして」
「一之瀬のクラスは特にそういう空気を作るのが上手いだろうな」
「うん。でも、堀北さんのクラスも前よりずっとまとまってると思うよ」
一之瀬はそう言って、教室の中央にいる堀北を見た。
堀北は相変わらず表情こそ大きく変えないが、
須藤に指示を出し、平田と確認を取り、
時には女子たちの意見にも耳を傾けながら、
確かに以前より自然にクラスの中心に立っていた。
この学校に入学したばかりの頃の彼女なら、
今のような立ち位置を自分から引き受けることはなかっただろう。
孤独を強さだと誤認し、
他者との関わりを無駄なものとして切り捨てようとしていた彼女は、
今では不器用ながらもクラスという集団を見つめ、
その中で自分が果たすべき役割を理解し始めている。
成長、と呼ぶべきなのだろう。
もっとも、この学校における成長とは、
必ずしも穏やかで美しいものばかりではない。
「何を見ているの?」
堀北がこちらに気づき、少しだけ眉を寄せた。
「いや、リーダーらしくなったと思ってな」
「褒め言葉に聞こえないわね」
「褒めているつもりだ」
「あなたがそう言う時ほど信用できないのよ」
そう言いながらも、堀北はそれ以上深く追及してこなかった。
そのやり取りを見ていた一之瀬が微笑む。
ほんの数秒の、ありふれた時間だった。
だが、今にして思えば、その何気ない会話こそが、
この夜に残された最後の日常だったのかもしれない。
廊下の向こうから、龍園翔の笑い声が聞こえてきた。
「おい石崎、そんな持ち方してんじゃねえよ。
中身ぶっ壊したらテメェが明日一日中客寄せだ」
「わ、分かってますって龍園さん!」
龍園クラスの生徒たちが資材を運びながら廊下を通り過ぎていく。
龍園はいつものように余裕と不遜を混ぜたような表情で歩き、
その背後には石崎や伊吹たちが続いていた。
文化祭前夜という状況ですら、彼の周囲にはどこか不穏な空気がある。
それは暴力の匂いというより、
秩序を壊すことに躊躇しない者だけが持つ、独特の軽さだった。
龍園はこちらの教室の前で足を止めると、中を覗き込むようにして笑った。
「随分と仲良しごっこしてんじゃねえか、鈴音ぇ」
「文化祭の準備をしているだけよ。
あなたのクラスこそ、廊下を塞がないでもらえるかしら」
「おお怖ぇ。生徒会長に睨まれたら文化祭どころじゃねえな」
龍園はそう言いながらも、視線だけはこちらへ向けた。
正確には、オレを見ていた。
「綾小路、お前も随分と退屈そうだな」
「そう見えるか?」
「ああ。まるで全部終わった後の客みてえな顔してやがる」
「文化祭前夜で疲れているだけだ」
「ハッ。お前が疲れた顔なんざするかよ」
龍園の笑みは楽しげだったが、その目の奥には別のものが潜んでいた。
好奇心。
敵意。
執着。
そして、いつか必ずこちら側を引きずり出してやるという、彼なりの確信。
龍園はそれ以上何も言わず、
資材を持った生徒たちを連れて廊下の先へ消えていった。
そのさらに奥、階段付近には坂柳有栖の姿もあった。
彼女は杖をつきながら、神室や橋本たちを伴って静かに歩いていたが、
龍園のように騒がしい気配はなく、
まるで夜の校舎そのものを盤面として眺めているような落ち着きがあった。
坂柳は一瞬だけこちらを見ると、いつものように薄く微笑んだ。
その微笑みには、文化祭前夜の浮ついた空気などまるで含まれていなかった。
「綾小路くん」
遠くから聞こえるには十分なほど小さく、しかしこちらには確かに届く声だった。
「明日は、楽しみにしていますね」
それだけ言うと、坂柳は踵を返した。
彼女が何を楽しみにしているのか。
文化祭なのか。
別の何かなのか。
その時点では、判断材料が足りなかった。
だが、少なくともこの夜の校舎には、いつもより多くの要素が揃いすぎていた。
文化祭前夜。
多数の生徒。
遅い時間。
複数クラスの混在。
教師の目が届きにくい空白。
外部に対しては、準備という名目で説明可能な混雑。
そして、この学校の内側に潜む、表向きの教育機関とは別の顔。
オレは廊下の奥を見た。
夜の校舎は、明るい教室の中から眺めると、いつもより深く暗く見える。
まるで、光の届かない場所だけが、こちらをじっと見返しているようだった。
「清隆、これ運ぶの手伝ってもらえる?」
軽井沢の声で意識が戻る。
「ああ」
オレは段ボール箱を受け取り、教室後方へ運んだ。
中には文化祭で使う紙コップや簡易装飾が入っているだけ。
だが、廊下に積まれた箱の数が多すぎるせいか、
校舎全体の死角は通常より増えていた。
廊下の角。
階段の踊り場。
教室の裏口。
資材置き場。
体育館への渡り廊下。
文化祭準備のために開放された複数の部屋。
それらは本来なら、明日の賑わいを支えるための準備だった。
しかし見方を変えれば、それらはすべて、
追跡、遮蔽、待ち伏せ、逃走に適した障害物でもある。
そう考えてしまう自分に、ほんの少しだけ自嘲する。
平穏な文化祭前夜に、そんなことを考える必要は本来ない。
少なくとも、普通の生徒であれば。
その時だった。
校舎全体の照明が、一斉に落ちた。
最初は、誰もそれを異常だとは認識できなかった。
蛍光灯の白い明かりが消え、教室の中が一瞬で暗闇に沈み、
窓の外に見える校庭の輪郭も夜に溶けた。
数秒遅れて、女子の小さな悲鳴が上がった。
「えっ?」
「停電?」
「ちょっと、誰かブレーカー落とした?」
池が軽口を叩こうとしたが、その声には明らかに戸惑いが混じっていた。
廊下の向こうでも同じようなざわめきが広がり、
複数の教室から椅子の動く音や人の声が重なって聞こえてくる。
暗闇の中で、須藤が脚立の上から慌てて降りようとし、足を滑らせかけた。
「須藤くん、動かないで!」
堀北の声が鋭く飛ぶ。
数秒後、赤い非常灯が点いた。
天井近くの小さな照明が淡く赤い光を放ち、
教室内の生徒たちの顔を下から薄く照らし出す。
その光は安心を与えるには弱すぎ、
むしろ生徒たちの表情から血の気を奪うように、
世界全体を不穏な色に染めていた。
「携帯、圏外なんだけど」
松下の声がした。
「こっちも」
「え、嘘でしょ?」
教室内の何人かが一斉に端末を確認する。
画面には圏外の表示。
校内Wi-Fiも切断されている。
停電だけならあり得る。
通信障害も、可能性としてはゼロではない。
だが、停電と同時に校舎全体の通信が遮断されるというのは、
偶然にしては出来すぎていた。
オレは廊下側の窓から外を確認した。
校庭の照明も落ちている。
だが、学校外の遠い建物には明かりがある。
つまり、停電は地域全体ではなく、
この敷地内に限定されている可能性が高い。
「先生に連絡を――」
平田が言いかけた瞬間、廊下の奥から重い金属音が響いた。
ガシャン、という音。
続けて、別の場所でも同じ音がした。
防火シャッター。
廊下の各所に設置された防火シャッターが、次々と降り始めていた。
生徒たちのざわめきが一段階大きくなる。
「おい、なんだよこれ!」
「閉じ込められるぞ!」
「誰か止めろ!」
廊下に出ようとした生徒がいたが、すぐに別の生徒に止められた。
赤い非常灯に照らされた廊下の奥で、
巨大なシャッターが床へ降りていく様子は、単なる設備の作動というより、
校舎そのものが内側から檻へと変わっていく光景に見えた。
堀北はすぐに平田へ視線を向けた。
「平田くん、教室にいる生徒を落ち着かせて。勝手に外へ出ないようにして」
「分かった。みんな、まずは教室から出ないで。
状況を確認するまで不用意に動かないほうがいい」
平田の声は落ち着いていたが、
それでも教室内の不安は完全には収まらなかった。
当然だ。
この学校の生徒たちは試験や競争に慣れているが、
停電と通信遮断と防火シャッターの同時作動など、
通常の特別試験の範囲を明らかに超えている。
その時、校内放送が鳴った。
最初に聞こえたのは、耳障りなノイズだった。
古い機械が無理やり目を覚まされたような、ざらついた音。
それから、数秒の沈黙。
そして、聞き覚えのある声が校舎全体に響き渡った。
『――皆さん、こんばんは』
その声を聞いた瞬間、教室内の空気が変わった。
月城理事長代理。
穏やかで、丁寧で、しかし底の読めない声。
『文化祭前夜にもかかわらず、
遅くまで準備に励んでいる皆さんには、まず労いの言葉を贈りましょう』
誰も声を出さなかった。
赤い非常灯の下、生徒たちは天井のスピーカーを見上げていた。
『ですが、残念ながら明日の文化祭は予定通りには行われません』
堀北の顔が強張る。
一之瀬も教室の入り口付近で立ち尽くしていた。
『これより、高度育成高等学校において、特別試験を開始します』
特別試験。
その言葉だけなら、この学校では珍しくない。
だが、今の状況と月城の声色が、
その言葉の意味を普段とはまったく違うものに変えていた。
『対象者は一名』
わずかな沈黙。
『2年Bクラス、綾小路清隆くん』
教室中の視線が、ほぼ同時にこちらへ向いた。
軽井沢の表情から血の気が引いた。
堀北は目を細め、一之瀬は息を呑み、
平田は何かを言おうとして言葉を失っていた。
『試験内容は単純です。綾小路清隆くんを殺害した者には、
無条件でAクラス卒業資格を与えます』
一瞬、誰も反応しなかった。
言葉の意味を脳が拒絶したのだろう。
退学ではない。
敗北でもない。
殺害。
この学校で、これまでどれほど過酷な試験が行われようとも、
その言葉が公式に告げられたことは一度もなかった。
『なお、これは比喩ではありません。冗談でもありません。
試験の達成条件は、綾小路清隆くんの死亡確認です』
教室のどこかで、誰かが小さく悲鳴を漏らした。
『各所に必要な装備を配置しています。
使用方法は皆さんの判断に委ねます。制限時間は夜明けまで。
外部への通信は遮断済み。校舎の主要出入口も封鎖済みです』
月城の声は、どこまでも穏やかだった。
まるで明日の天気を告げるように、あまりにも自然に異常を告げていた。
『また、試験の妨害、対象者の逃亡補助、
外部への通報を試みた生徒については、相応の処分を行います』
「ふざけないで……」
堀北が低く呟いた。
その声は怒りを抑えていたが、完全には隠せていなかった。
『では皆さん、健闘を祈ります』
放送はそこで切れた。
ノイズが消えた後、校舎にはしばらく完全な沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、廊下の遠くで響いた乾いた破裂音だった。
一発。
続けて、もう一発。
銃声だった。
普通の生徒には、それが何の音か即座には分からなかったかもしれない。
だが、直後に廊下から上がった悲鳴と、
何かが砕ける音が、その意味を残酷なほど明確にした。
「う、嘘だろ……?」
池が震えた声を出した。
「今の、何の音だよ……?」
◯
最後まで書かれた完全版は本日6月6日午前0時に投稿してあります。
よろしくお願いします。