神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

88 / 88
第88話 プロポーズ予行演習事件

その日、千速は妙な違和感を覚えていた。

 

原因は、奏斗だった。

 

朝から様子がおかしい。

 

いや、見た目はいつも通りだ。

 

起床時間は正確。

朝食もいつも通り。

新聞に目を通す手つきも、食器を片付ける流れも変わらない。

 

だが、妙に落ち着きがない。

 

千速が洗面所から戻ると、奏斗はスマートフォンの画面を見ていた。

 

千速が近づいた瞬間、画面を伏せた。

 

千速はそれを見逃さなかった。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今、何を見てた」

 

「連絡だ」

 

「誰から」

 

「店から」

 

「店?」

 

奏斗は一瞬だけ言葉に詰まった。

 

その一瞬が、千速の中で警報を鳴らした。

 

「何の店だ」

 

「……時計店」

 

「時計店?」

 

「ああ」

 

「時計なんか買うのか」

 

「いや」

 

「じゃあ修理か」

 

「そうだ」

 

返事は早かった。

 

早すぎた。

 

千速は目を細める。

 

「お前、何か隠してるな」

 

奏斗は真面目な顔で答えた。

 

「隠していない」

 

「その顔は隠してる顔だ」

 

「どんな顔だ」

 

「捜査中に容疑者から微妙な供述を引き出した時の顔」

 

「それはかなり具体的だな」

 

「一緒に暮らしてるからな」

 

奏斗は少し困ったように黙った。

 

千速はそれ以上追及しなかった。

 

今は。

 

「まあいい」

 

「いいのか」

 

「今はな」

 

奏斗はわずかに警戒した顔をした。

 

「今は」

 

「帰ってから聞く」

 

「分かった」

 

「分かるな。逃げるなよ」

 

「逃げない」

 

「第5条」

 

奏斗はすぐに答えた。

 

「一人で消えないこと」

 

「よし」

 

その日の朝食は、いつもより少しだけ緊張感があった。

 

---

 

捜査一課では、横溝重悟が机の上の書類を見ながら不機嫌そうにしていた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「お前、今日やけに時計見るな」

 

奏斗は手元の時計から目を上げた。

 

「そうですか」

 

「そうですか、じゃねぇ。三分に一回見てる」

 

三森沙月も隣で小さく頷いた。

 

「確かに、少し多いですね」

 

若手刑事の一人が小声で言う。

 

「何か予定あるんですか」

 

奏斗は少し間を置いた。

 

「勤務後に寄る場所があります」

 

横溝が目を細める。

 

「また千速か」

 

「いえ」

 

その返答に、室内の空気が少し動いた。

 

若手刑事たちが顔を見合わせる。

 

三森が少し首を傾げた。

 

横溝はさらに目つきを鋭くした。

 

「千速じゃない?」

 

「はい」

 

「どこだ」

 

「私用です」

 

「お前が私用を隠す時は、だいたい面倒が起きる」

 

奏斗は真面目に答えた。

 

「今回は起きません」

 

「その言い方がもう怪しい」

 

三森が苦笑する。

 

「横溝警部、さすがに詮索しすぎでは」

 

横溝は腕を組んだ。

 

「押村は前科がある」

 

奏斗は少しだけ目を伏せる。

 

「それについては否定できません」

 

「否定しろ、そこは」

 

若手刑事がぽつりと言った。

 

「もしかして、萩原警部補へのサプライズとかですか?」

 

室内が静かになった。

 

奏斗は何も言わなかった。

 

その沈黙が、何よりの答えだった。

 

若手刑事たちの目が輝く。

 

「えっ」

 

「本当に?」

 

「サプライズ?」

 

「押村警部補が?」

 

横溝が眉を寄せる。

 

「待て。お前、まさか」

 

奏斗は書類を揃えながら言った。

 

「何でもありません」

 

「何でもなくねぇ顔してんだよ」

 

三森が少し楽しそうに聞く。

 

「ちなみに、どんなサプライズですか?」

 

奏斗は困ったように三森を見る。

 

「三森さんまで」

 

「すみません。少し気になってしまって」

 

若手刑事が勢いよく言った。

 

「指輪ですか?」

 

奏斗の手が止まった。

 

その瞬間、刑事部屋の空気が完全に変わった。

 

横溝が立ち上がる。

 

「押村」

 

「違います」

 

「まだ何も言ってねぇ」

 

「指輪ではありません」

 

若手刑事たちがざわつく。

 

「否定が早い」

 

「逆に怪しい」

 

「押村警部補が指輪……」

 

「プロポーズ……」

 

奏斗は少しだけ眉間に皺を寄せた。

 

「違います」

 

横溝は低い声で言う。

 

「お前、千速に黙って変なことしようとしてねぇだろうな」

 

「変なことではありません」

 

「じゃあ何だ」

 

「……まだ言えません」

 

横溝が頭を抱えた。

 

「それが一番怪しいんだよ」

 

三森が穏やかに言う。

 

「押村警部補、サプライズは悪くないと思います。でも、萩原警部補は勘が鋭いので、隠し方には気をつけた方がいいかと」

 

奏斗は真面目に頷いた。

 

「分かりました」

 

横溝が呆れる。

 

「お前、三森の助言は素直に聞くんだな」

 

「的確なので」

 

「俺の助言も聞け」

 

「はい」

 

「千速相手に余計な隠し事をするな」

 

奏斗は少し黙った。

 

「……今回は、今日中に説明します」

 

「今日中?」

 

「はい」

 

横溝はじっと奏斗を見た。

 

「本当に指輪じゃねぇんだな」

 

「違います」

 

「本当だな」

 

「はい」

 

「じゃあ、何でそんなに顔が硬い」

 

奏斗は少し考えた。

 

「喜んでもらえるか分からないので」

 

若手刑事たちは一斉に口を押さえた。

 

三森は微笑みを隠せない。

 

横溝は椅子に座り直し、深くため息をついた。

 

「……お前、そういうことを普通に言うようになったな」

 

奏斗は少し不思議そうにする。

 

「そうでしょうか」

 

「そうだよ」

 

横溝は小さく笑いそうになったが、すぐに顔をしかめた。

 

「まあ、失敗したら報告しろ」

 

「なぜですか」

 

「笑うためだ」

 

「ひどいですね」

 

「半分冗談だ」

 

「半分は本気ですか」

 

「本気だ」

 

---

 

一方、第三交通機動隊。

 

昼休憩中、千速は詰所の椅子に座ってスマートフォンを見ていた。

 

奏斗からの連絡はない。

 

別に毎時間連絡を取り合うような関係ではない。

 

それは分かっている。

 

だが、今朝の不審な態度が引っかかっていた。

 

「時計店……」

 

千速が小さく呟くと、新井がすぐに反応した。

 

「小隊長、時計買うんですか?」

 

「買わない」

 

「じゃあ、押村警部補ですか?」

 

千速は顔を上げる。

 

「何で奏斗の名前が出る」

 

新井は少し得意げに言った。

 

「小隊長がそういう顔をしていたので」

 

「どういう顔だ」

 

「押村警部補のことで考え込んでいる顔です」

 

千速は眉を寄せる。

 

「そんな顔があるのか」

 

坂下が隣から言った。

 

「あります」

 

「坂下まで」

 

「分かりやすいですよ、小隊長」

 

千速は不満そうに腕を組んだ。

 

「昨日の恋愛診断から、お前ら少し調子に乗ってないか」

 

新井は慌てて姿勢を正す。

 

「いえ!」

 

坂下はにこにこしている。

 

「それで、押村警部補がどうかしたんですか?」

 

千速は言うつもりはなかった。

 

なかったのに、なぜか口が動いた。

 

「今朝、奏斗がスマホを隠した」

 

新井の顔が真剣になる。

 

「事件ですか」

 

「いや、店からの連絡だと言っていた」

 

坂下が目を輝かせた。

 

「店?」

 

「時計店らしい」

 

「時計店……」

 

坂下が一瞬考え、次の瞬間、ぱっと顔を上げた。

 

「それ、宝飾店じゃないですか?」

 

千速の動きが止まる。

 

「宝飾店?」

 

「時計も扱っている宝飾店、ありますよね」

 

新井が手を打つ。

 

「あっ、指輪とか!」

 

詰所の空気が変わった。

 

千速は無表情で言った。

 

「何を言ってる」

 

坂下は身を乗り出す。

 

「小隊長、もしかしてプロポーズでは?」

 

千速は椅子から少しずり落ちそうになった。

 

「は?」

 

新井も興奮し始める。

 

「押村警部補、真面目だから、めちゃくちゃ計画してそうです」

 

「ない」

 

「でも、最近同棲ルールも作ったんですよね」

 

「何で知ってる」

 

「小隊長が昨日、少し機嫌よかったので」

 

「それで分かるのか」

 

坂下が頷く。

 

「分かります」

 

千速は額に手を当てた。

 

「待て。話が飛びすぎだ」

 

坂下は指を折りながら言った。

 

「押村警部補がスマホを隠した。時計店と言った。勤務後に何か受け取りに行く可能性がある。小隊長には内緒。これはもう」

 

新井が真剣な顔で続ける。

 

「プロポーズ予行演習事件です」

 

「事件にするな」

 

「小隊長、落ち着いてください」

 

「落ち着いてる」

 

「声が低いです」

 

「新井」

 

「はい」

 

「午後、白バイ点検二倍」

 

「またですか!」

 

坂下は口元を押さえて笑った。

 

千速はスマートフォンを見た。

 

奏斗からの連絡はない。

 

指輪。

 

プロポーズ。

 

その単語が頭の中で勝手に跳ねる。

 

ない。

 

奏斗がそんな急に動くとは思えない。

 

いや、奏斗は妙なところで真面目だ。

 

やると決めたら、変に段取りを組む可能性はある。

 

しかし、まだ早い。

 

早い、はずだ。

 

千速は自分の鼓動が速くなるのを感じた。

 

「……ないだろ」

 

坂下が優しく言う。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「嫌なんですか?」

 

千速はすぐに答えられなかった。

 

新井も黙る。

 

詰所が少し静かになる。

 

千速は視線を落とした。

 

「嫌とか、そういう話じゃない」

 

「はい」

 

「まだ、そういうのは早いだろ」

 

坂下は穏やかに聞いた。

 

「早いと思うんですか?」

 

「……分からん」

 

それが本音だった。

 

奏斗が戻ってきて、同棲して、少しずつ生活ができている。

 

事件もある。

 

公安の影もまだある。

 

黒い組織も終わっていない。

 

でも、日常もある。

 

帰る場所もある。

 

一緒に夕食を作る夜もある。

 

将来を考えること自体は、もう不自然ではなくなっている。

 

それが、千速には少し怖かった。

 

「小隊長」

 

新井が珍しく真面目な声で言った。

 

「押村警部補、ちゃんと考えてると思います」

 

千速は顔を上げる。

 

「何を」

 

「小隊長のことを」

 

千速は黙った。

 

新井は照れくさそうに頭をかく。

 

「自分が言うのも何ですけど、押村警部補って、小隊長のことを雑に扱う人じゃないと思うので」

 

坂下も頷いた。

 

「もし本当に指輪だったとしても、そうじゃなかったとしても、小隊長を困らせるためじゃないと思います」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「……分かってる」

 

分かっている。

 

奏斗は不器用だ。

 

隠し事も上手くない。

 

だが、千速を傷つけようとして何かをする男ではない。

 

千速はスマートフォンを伏せた。

 

「まあ、帰ったら聞く」

 

新井が小さく笑った。

 

「取り調べですね」

 

「聞くだけだ」

 

坂下が言う。

 

「小隊長の聞くだけは、だいたい取り調べです」

 

「お前ら、本当に午後走らせるぞ」

 

「すみません!」

 

---

 

勤務後。

 

奏斗は、県警本部近くの小さな店に寄った。

 

ガラスケースには腕時計やアクセサリーが並んでいる。

 

店員が奥から小さな紙袋を持って出てきた。

 

「お待たせしました。修理、完了しております」

 

奏斗は紙袋を受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

「大切に使われているものなんですね」

 

奏斗は少しだけ袋を見る。

 

「本人にとっては、そうだと思います」

 

「プレゼントですか?」

 

奏斗は一瞬だけ考えた。

 

「修理です」

 

「そうですか。でも、こういうのを直して渡されるのも素敵ですよ」

 

奏斗はその言葉に、少しだけ表情を緩めた。

 

「喜んでもらえるといいのですが」

 

店員は微笑んだ。

 

「きっと喜ばれると思います」

 

店を出ると、奏斗は紙袋を鞄に入れた。

 

その動きは、周囲から見れば普通だった。

 

ただし、少し離れた場所からそれを見ていた人物がいた。

 

横溝重悟である。

 

「……本当に店に寄ってやがる」

 

その隣には、なぜか三森もいた。

 

三森は呆れたように言う。

 

「横溝警部、またですか」

 

「たまたまだ」

 

「たまたま同じ方向に来たんですか」

 

「そうだ」

 

「では、なぜ私まで連れてこられたんでしょう」

 

「お前の方がこういう店に詳しそうだからだ」

 

三森はため息をついた。

 

「私は鑑定士ではありません」

 

横溝は店の看板を見る。

 

「時計と宝飾……」

 

三森が微笑む。

 

「指輪も扱っていそうですね」

 

横溝は黙った。

 

三森は少し楽しそうに続ける。

 

「押村警部補、本当にそういうつもりだったりして」

 

横溝は険しい顔をした。

 

「千速が固まるぞ」

 

「でしょうね」

 

「押村も固まる」

 

「二人とも固まるんですか」

 

「そのまま三十分くらい話が進まねぇ可能性がある」

 

三森は想像して、少し笑った。

 

「でも、押村警部補なら、ものすごく真面目に言いそうです」

 

横溝は低く唸る。

 

「それが一番厄介なんだよ」

 

その時、奏斗が店を出て歩き始めた。

 

横溝は反射的に後を追おうとした。

 

三森が袖を掴む。

 

「帰りましょう」

 

「いや、最後まで見届ける必要が」

 

「ありません」

 

「上司として」

 

「ありません」

 

「千速が変な反応したら」

 

「それはお二人の問題です」

 

横溝はしばらく黙った。

 

「……少しだけ」

 

「駄目です」

 

三森に引っ張られ、横溝は渋々反対方向へ歩き出した。

 

「押村、失敗したら絶対報告しろよ……」

 

「聞こえていませんよ」

 

---

 

夜。

 

千速は先に帰宅していた。

 

部屋は整っている。

 

同棲ルール第1条に従い、奏斗の資料はきちんと片付けられている。

 

第3条に従い、千速の白バイ用グローブも所定の場所に置いた。

 

自分で置いたのに、少し気まずい。

 

千速はソファに座り、落ち着かない様子で時計を見る。

 

プロポーズなどない。

 

そう思っている。

 

だが、心のどこかが勝手に身構えている。

 

「馬鹿か、私は……」

 

小さく呟いた時、玄関が開いた。

 

「ただいま」

 

奏斗の声。

 

千速は立ち上がりかけて、座り直した。

 

「おかえり」

 

奏斗がリビングに入ってくる。

 

鞄を持っている。

 

いつも通りに見える。

 

だが、少し硬い。

 

千速はすぐに気づいた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「取り調べを開始する」

 

奏斗は立ち止まった。

 

「取り調べ」

 

「今朝の件だ」

 

奏斗は少し目を伏せた。

 

「分かった」

 

「素直だな」

 

「説明すると言ったから」

 

「じゃあ聞く。何を隠してた」

 

奏斗は鞄をテーブルの上に置いた。

 

その動きだけで、千速の心臓が少し跳ねる。

 

奏斗は鞄から小さな紙袋を取り出した。

 

千速の視線が、紙袋に吸い寄せられる。

 

落ち着け。

 

ただの紙袋だ。

 

指輪とは限らない。

 

いや、そういう店の紙袋に見えなくもない。

 

千速は腕を組んだ。

 

「それは」

 

奏斗は紙袋を見てから、千速へ差し出した。

 

「君に渡したかった」

 

千速の頭の中が一瞬白くなった。

 

「……私に?」

 

「ああ」

 

「今?」

 

「うん」

 

「座った方がいいか?」

 

奏斗は少し驚く。

 

「どちらでも」

 

「どちらでもって何だ」

 

「危険物ではない」

 

「そういう話じゃない」

 

奏斗は紙袋を差し出したまま、真面目に言った。

 

「受け取ってほしい」

 

千速はゆっくり紙袋を受け取った。

 

妙に緊張する。

 

手元の紙袋が、実際の重さより重く感じる。

 

千速は奏斗を見る。

 

「開けていいのか」

 

「もちろん」

 

千速は袋を開けた。

 

中には、小さなケース。

 

黒ではなく、深い青色のケースだった。

 

指輪の箱に見えなくもない。

 

いや、少し大きい。

 

千速は息を止める。

 

奏斗は真面目な顔で見ている。

 

千速はケースを開けた。

 

中に入っていたのは、腕時計だった。

 

見覚えがある。

 

千速が長く使っていた時計。

 

白バイ隊員になった頃から、ずっと身につけていたもの。

 

最近、ベルトと針の調子が悪くなり、引き出しにしまったままになっていた時計だった。

 

千速は目を見開いた。

 

「これ……」

 

「修理に出していた」

 

「いつの間に」

 

「君が処分しようか迷っていると言っていたから」

 

千速はケースの中の時計を見つめる。

 

革ベルトは新しくなっているが、色や雰囲気は前とほとんど同じだった。

 

傷のある文字盤も、そのまま残されている。

 

完全に新品になったわけではない。

 

千速が使ってきた時間は、ちゃんと残っている。

 

奏斗は少し慎重に言った。

 

「勝手に持ち出したことは、すまない」

 

千速は答えられなかった。

 

「捨てるかどうかは君が決めるべきだった。でも、もし直るなら、直したかった」

 

千速は時計を指でなぞる。

 

「……これ、研二が」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「知っている」

 

千速が白バイ隊員になった時、研二がふざけながらくれた時計。

 

「姉ちゃん、時間守れよ。白バイ隊員が遅刻したらシャレになんねぇから」

 

そう言って笑っていた。

 

高価なものではなかった。

 

でも、千速には捨てられなかった。

 

研二が亡くなってからも、松田が亡くなってからも、ずっと持っていた。

 

壊れてからは、引き出しにしまったまま見るのがつらくなっていた。

 

千速は低い声で言った。

 

「何で、これを」

 

奏斗はまっすぐに答えた。

 

「君が捨てられない顔をしていたから」

 

千速は何も言えなくなる。

 

奏斗は続けた。

 

「無理に使わなくていい。ただ、壊れたまま置いておくより、動く状態に戻せるなら、その方がいいと思った」

 

「……そうか」

 

「余計なことだったか」

 

千速は首を横に振った。

 

「違う」

 

声が少し掠れた。

 

奏斗は黙って待った。

 

千速はケースから時計を取り出し、左手首に当てる。

 

奏斗が自然に手を伸ばした。

 

「つけてもいいか」

 

千速は少しだけ迷い、それから頷いた。

 

「ああ」

 

奏斗は慎重に時計を千速の手首につけた。

 

千速の手首に、懐かしい重さが戻る。

 

針は正確に動いていた。

 

小さく、静かに。

 

千速はしばらくそれを見つめた。

 

「……似合うか」

 

言ってから、自分で少し照れた。

 

奏斗は即答した。

 

「似合っている」

 

千速は目を伏せた。

 

「時計に似合うも何もないだろ」

 

「あると思う」

 

「そうか」

 

「うん」

 

千速は腕時計を見ながら、小さく笑った。

 

「研二が見たら、何て言うかな」

 

奏斗は少し考えた。

 

「時間守れよ、でしょうか」

 

千速は驚いたように顔を上げ、それから吹き出した。

 

「言いそうだな」

 

「合っていたか」

 

「ああ。だいぶ合ってる」

 

千速は笑いながら、目元を少し押さえた。

 

泣いてはいない。

 

でも、胸の奥が熱かった。

 

奏斗はそっと言った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「勝手に修理に出したことは、謝る」

 

「謝るな……いや、これは謝っていい」

 

「すまない」

 

「でも、ありがとう」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「どういたしまして」

 

千速は手首の時計を見る。

 

「大事にする」

 

「うん」

 

その時だった。

 

千速のスマートフォンが鳴った。

 

表示は新井。

 

千速は嫌な予感を覚えながら出た。

 

「何だ」

 

『小隊長!』

 

「声がでかい」

 

『すみません! あの、どうでしたか!?』

 

千速は眉を寄せる。

 

「何が」

 

『押村警部補のサプライズです! 指輪でしたか!?』

 

部屋が静まり返った。

 

奏斗がこちらを見る。

 

千速はゆっくり目を閉じた。

 

「新井」

 

『はい!』

 

「明日、朝一で詰所に来い」

 

『えっ』

 

「坂下もだ」

 

電話の向こうで、坂下らしき声が聞こえる。

 

『私もですか!?』

 

「お前ら二人ともだ」

 

新井が慌てる。

 

『あ、違ったんですか!?』

 

千速は低い声で言った。

 

「時計だ」

 

『時計?』

 

「腕時計だ。奏斗が修理してくれた」

 

電話の向こうが一瞬静かになる。

 

そして、新井が小さく言った。

 

『……めちゃくちゃいい話じゃないですか』

 

坂下の声も聞こえる。

 

『小隊長、よかったですね』

 

千速は少し黙った。

 

怒ろうと思ったのに、怒れなくなった。

 

「……まあな」

 

『あ、照れてる』

 

「新井」

 

『すみません!』

 

「明日、点検二倍」

 

『やっぱりですか!』

 

千速は電話を切った。

 

奏斗が静かに聞く。

 

「指輪だと思われていたのか」

 

千速は顔を逸らした。

 

「私は思ってない」

 

「そうか」

 

「隊員たちが勝手に言っただけだ」

 

「そうか」

 

「何だ、その顔は」

 

「少しだけ、納得した」

 

「何に」

 

奏斗はテーブルの上の紙袋を見る。

 

「三森さんにも、指輪かと聞かれた」

 

千速は固まった。

 

「捜査一課でもか」

 

「ああ」

 

「重悟は何て」

 

「本当に指輪じゃないんだな、と確認された」

 

千速は頭を抱えた。

 

「何なんだ、うちの周りは」

 

「心配されているのかもしれない」

 

「面白がられてるだけだろ」

 

「それもある」

 

千速はため息をついた。

 

そして、少しだけ躊躇してから聞いた。

 

「……奏斗」

 

「何だ」

 

「お前は、どうなんだ」

 

「何が」

 

千速は視線を泳がせた。

 

「その、指輪とか」

 

奏斗の表情が静かに変わった。

 

ふざけた空気が少しだけ遠ざかる。

 

千速はすぐに言った。

 

「いや、今すぐとか、そういう意味じゃない」

 

「うん」

 

「ただ、周りが勝手に騒ぐから、少し考えただけで」

 

「うん」

 

「私はまだ白バイを降りる気はないし、仕事も続けるし、事件だって終わってないし」

 

「分かっている」

 

「だから、そういうのはまだ早いと思う」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「俺も、今ではないと思っている」

 

千速は少しだけ肩の力を抜いた。

 

同時に、ほんの少しだけ胸がざわつく。

 

安心したのか。

 

少し寂しいのか。

 

自分でも分からなかった。

 

奏斗はその揺れに気づいたように、穏やかに続けた。

 

「でも、考えていないわけではない」

 

千速の動きが止まった。

 

「……そういうのを急に言うな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

奏斗は千速の手首の時計を見た。

 

「君に白バイを降りてほしいとは思っていない」

 

千速は顔を上げる。

 

奏斗は続けた。

 

「君が白バイに乗っているところも含めて、萩原千速だと思っている」

 

千速は完全に黙った。

 

奏斗は真面目な顔で言う。

 

「だから、将来のことを考えるとしても、君を変えるためではない」

 

「……お前」

 

「うん」

 

「それ、指輪より重いぞ」

 

奏斗は少し困ったようにする。

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

「重くしたつもりはなかった」

 

「お前の真面目はだいたい重い」

 

「気をつける」

 

「気をつけなくていい」

 

「どっちだ」

 

千速は少し笑った。

 

「私にも分からん」

 

奏斗も、ほんの少し笑った。

 

千速はソファに腰を下ろし、手首の時計をもう一度見た。

 

針が静かに進んでいる。

 

過去から止まっていた時間が、また動き出したように見えた。

 

研二の記憶。

松田の記憶。

奏斗が戻ってきた時間。

今、二人で暮らしている時間。

 

それらが、ひとつの針の上で静かに重なっている。

 

千速はぽつりと言った。

 

「指輪の話は、まだ早い」

 

奏斗は頷いた。

 

「分かっている」

 

「でも」

 

千速は少しだけ言葉を迷わせる。

 

奏斗は黙って待った。

 

千速は手首の時計を指で触れながら、低い声で続けた。

 

「考えるくらいなら……別にいい」

 

奏斗の目が少しだけ柔らかくなった。

 

「分かった」

 

「今すぐ買うなよ」

 

「買わない」

 

「勝手にサイズ測るなよ」

 

「測らない」

 

「店からの連絡を隠すなよ」

 

「今度から先に言う」

 

千速は満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

奏斗は少し考えた。

 

「ただ」

 

「何だ」

 

「指輪のサイズは、いつか必要になるかもしれない」

 

千速は顔を赤くした。

 

「だから、急に言うな!」

 

奏斗は少しだけ笑った。

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

その時、奏斗のスマートフォンが鳴った。

 

表示は横溝重悟。

 

千速は嫌な予感を覚えた。

 

奏斗が出る。

 

「押村です」

 

『どうだった』

 

横溝の第一声だった。

 

奏斗は静かに答える。

 

「時計でした」

 

『知ってる。指輪じゃなかったのは分かった。で、千速は固まったか』

 

千速は素早く奏斗からスマートフォンを奪った。

 

「重悟」

 

『おう、千速』

 

「お前も明日朝一で来い」

 

『何でだよ』

 

「取り調べだ」

 

『俺は何もしてねぇ』

 

「尾行しただろ」

 

電話の向こうが沈黙した。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「やっぱりか」

 

『……三森に止められたから未遂だ』

 

「未遂でも有罪」

 

『何の裁判だよ』

 

奏斗が横から静かに言った。

 

「同棲ルール会議の続きでしょうか」

 

横溝が電話越しに怒鳴る。

 

『お前ら、また裁判してんのか!?』

 

千速は低く言う。

 

「明日、コーヒー奢れ」

 

『何でだ』

 

「迷惑料」

 

『俺、未遂だぞ』

 

「未遂でも有罪だと言った」

 

『理不尽だろ』

 

千速は通話を切った。

 

奏斗は少し困ったように見る。

 

「横溝警部は明日怒ると思う」

 

「知るか」

 

「でも、コーヒーは奢ってくれるかもしれない」

 

「重悟はそういう男だ」

 

二人は顔を見合わせ、少し笑った。

 

---

 

その夜。

 

寝る前、千速は手首の時計を外さずにいた。

 

奏斗がそれに気づく。

 

「つけたまま寝るのか」

 

「今日はな」

 

「痛くないか」

 

「平気だ」

 

「そうか」

 

千速はベッドの端に座り、時計の針を見る。

 

「止まってた時間が動くのって、不思議だな」

 

奏斗は隣に座る。

 

「うん」

 

「研二のことも、陣平のことも、忘れるわけじゃない」

 

「分かっている」

 

「でも、止まったままにしなくてもいいんだな」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「そう思う」

 

千速は奏斗を見る。

 

「お前がそうした」

 

奏斗は少しだけ目を伏せた。

 

「勝手に修理に出しただけだ」

 

「それがよかった」

 

「そうか」

 

「ああ」

 

千速は少しだけ身体を寄せた。

 

奏斗は自然に受け止める。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今日は、いい日だった」

 

奏斗は少しだけ笑った。

 

「プロポーズ予行演習事件の日が?」

 

千速は顔を上げて睨む。

 

「誰から聞いた」

 

「新井さんの声が大きかった」

 

「あいつ……」

 

「でも、悪くない題名だと思う」

 

「よくない」

 

「そうか」

 

「まだ早い」

 

「うん」

 

「でも、考えるくらいならいい」

 

「うん」

 

「何度も言わせるな」

 

奏斗は穏やかに答えた。

 

「覚えておく」

 

千速は満足したように頷き、奏斗の肩に額を預けた。

 

「あと」

 

「うん」

 

「指輪じゃなくて、少し安心した」

 

奏斗は静かに聞く。

 

千速は小さく続けた。

 

「でも、少しだけ……違ってもよかったかも、とは思った」

 

奏斗は一瞬黙った。

 

それから、低い声で言った。

 

「それは、覚えておく」

 

千速は慌てて顔を上げる。

 

「今じゃないぞ」

 

「分かっている」

 

「本当に分かってるか」

 

「分かっている」

 

「怪しい」

 

奏斗は少しだけ笑う。

 

「今は、時計で十分だ」

 

千速は手首の時計を見る。

 

「そうだな」

 

針は進んでいる。

 

静かに。

 

確かに。

 

二人の時間を刻むように。

 

千速は目を細めた。

 

「じゃあ、今日はこれで閉廷だ」

 

奏斗は少し笑った。

 

「判決は?」

 

千速は考えるふりをしてから言った。

 

「被告人押村奏斗、勝手に時計を修理した罪」

 

「はい」

 

「有罪」

 

「量刑は」

 

千速は奏斗の手を取った。

 

「今後も、ちゃんと帰ってくること」

 

奏斗はその手を握り返す。

 

「分かった」

 

千速は静かに笑った。

 

「執行猶予は?」

 

奏斗が聞く。

 

千速は迷わず答えた。

 

「一生」

 

奏斗は頷いた。

 

「長いな」

 

「当然だ」

 

「うん」

 

部屋の明かりを落とすと、時計の針の音がほんのわずかに聞こえた気がした。

 

研二がくれた時間。

 

止まっていた時間。

 

そして、奏斗と進めていくこれからの時間。

 

指輪の話はまだ早い。

 

それでも、未来を考えるくらいなら悪くない。

 

千速はそう思いながら、奏斗の隣で静かに目を閉じた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

三秒先の未来(作者:ロデオT)(原作:名探偵コナン)

「あの日、俺が掴み取った三秒の先で、お前たちが生きている――」規律を破った交渉人と、風を駆ける女神が紡ぐ、誰も欠けなかった世界の奇跡。


総合評価:63/評価:-.--/連載:5話/更新日時:2026年06月07日(日) 18:00 小説情報

ダイヤのA~気迫のFull Swing~(作者:フリュード)(原作:ダイヤのA)

「バカヤロ~フルスイングで打つのが一番良いんじゃないか」▼これはフルスイングに命を懸けた規格外のパワーを持った男が「ブンブン丸」から「青ゴジラ」と呼ばれるようになるまでのお話▼凱歌が上がりそうですが、雄々しい方です()▼【5/28追記】各話にサブタイトルを追加しました▼【5/29追記】日間ランキングに載る事が出来ました、ありがとうございます!▼【6/4追記】…


総合評価:416/評価:7.64/連載:15話/更新日時:2026年06月07日(日) 22:00 小説情報

蒼天の軌跡〜『相棒』(作者:心ここにあらず)(原作:ダイヤのA)

甲子園――それは、すべての球児が憧れる夢の舞台。▼白球を追い、仲間と競い、己の限界に挑み続ける日々。▼才能だけでは届かない場所がある。▼努力だけでも越えられない壁がある。▼それでも、彼らは前に進む。▼これは、ひとりの選手が“エース”ではなく――▼“打者”として頂点を目指す物語▼


総合評価:736/評価:7.94/連載:15話/更新日時:2026年03月12日(木) 00:21 小説情報

もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら(作者:暇人)(原作:呪術廻戦)

最近モジュロやアニメで呪術廻戦熱が高まってきたので、▼出番が少ない歌姫先生と、加茂家に焦点を当てたいな▼という考えから見切り発車で書き始めました。


総合評価:1009/評価:8.44/連載:24話/更新日時:2026年05月12日(火) 18:30 小説情報

名前のない距離の隣で(作者:レゾリューション)(原作:ソードアート・オンライン)

GGOで銃集めにハマっている主人公とシノンのお話


総合評価:719/評価:7.8/連載:26話/更新日時:2026年06月17日(水) 17:07 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>