その日、千速は妙な違和感を覚えていた。
原因は、奏斗だった。
朝から様子がおかしい。
いや、見た目はいつも通りだ。
起床時間は正確。
朝食もいつも通り。
新聞に目を通す手つきも、食器を片付ける流れも変わらない。
だが、妙に落ち着きがない。
千速が洗面所から戻ると、奏斗はスマートフォンの画面を見ていた。
千速が近づいた瞬間、画面を伏せた。
千速はそれを見逃さなかった。
「奏斗」
「何だ」
「今、何を見てた」
「連絡だ」
「誰から」
「店から」
「店?」
奏斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
その一瞬が、千速の中で警報を鳴らした。
「何の店だ」
「……時計店」
「時計店?」
「ああ」
「時計なんか買うのか」
「いや」
「じゃあ修理か」
「そうだ」
返事は早かった。
早すぎた。
千速は目を細める。
「お前、何か隠してるな」
奏斗は真面目な顔で答えた。
「隠していない」
「その顔は隠してる顔だ」
「どんな顔だ」
「捜査中に容疑者から微妙な供述を引き出した時の顔」
「それはかなり具体的だな」
「一緒に暮らしてるからな」
奏斗は少し困ったように黙った。
千速はそれ以上追及しなかった。
今は。
「まあいい」
「いいのか」
「今はな」
奏斗はわずかに警戒した顔をした。
「今は」
「帰ってから聞く」
「分かった」
「分かるな。逃げるなよ」
「逃げない」
「第5条」
奏斗はすぐに答えた。
「一人で消えないこと」
「よし」
その日の朝食は、いつもより少しだけ緊張感があった。
---
捜査一課では、横溝重悟が机の上の書類を見ながら不機嫌そうにしていた。
「押村」
「はい」
「お前、今日やけに時計見るな」
奏斗は手元の時計から目を上げた。
「そうですか」
「そうですか、じゃねぇ。三分に一回見てる」
三森沙月も隣で小さく頷いた。
「確かに、少し多いですね」
若手刑事の一人が小声で言う。
「何か予定あるんですか」
奏斗は少し間を置いた。
「勤務後に寄る場所があります」
横溝が目を細める。
「また千速か」
「いえ」
その返答に、室内の空気が少し動いた。
若手刑事たちが顔を見合わせる。
三森が少し首を傾げた。
横溝はさらに目つきを鋭くした。
「千速じゃない?」
「はい」
「どこだ」
「私用です」
「お前が私用を隠す時は、だいたい面倒が起きる」
奏斗は真面目に答えた。
「今回は起きません」
「その言い方がもう怪しい」
三森が苦笑する。
「横溝警部、さすがに詮索しすぎでは」
横溝は腕を組んだ。
「押村は前科がある」
奏斗は少しだけ目を伏せる。
「それについては否定できません」
「否定しろ、そこは」
若手刑事がぽつりと言った。
「もしかして、萩原警部補へのサプライズとかですか?」
室内が静かになった。
奏斗は何も言わなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
若手刑事たちの目が輝く。
「えっ」
「本当に?」
「サプライズ?」
「押村警部補が?」
横溝が眉を寄せる。
「待て。お前、まさか」
奏斗は書類を揃えながら言った。
「何でもありません」
「何でもなくねぇ顔してんだよ」
三森が少し楽しそうに聞く。
「ちなみに、どんなサプライズですか?」
奏斗は困ったように三森を見る。
「三森さんまで」
「すみません。少し気になってしまって」
若手刑事が勢いよく言った。
「指輪ですか?」
奏斗の手が止まった。
その瞬間、刑事部屋の空気が完全に変わった。
横溝が立ち上がる。
「押村」
「違います」
「まだ何も言ってねぇ」
「指輪ではありません」
若手刑事たちがざわつく。
「否定が早い」
「逆に怪しい」
「押村警部補が指輪……」
「プロポーズ……」
奏斗は少しだけ眉間に皺を寄せた。
「違います」
横溝は低い声で言う。
「お前、千速に黙って変なことしようとしてねぇだろうな」
「変なことではありません」
「じゃあ何だ」
「……まだ言えません」
横溝が頭を抱えた。
「それが一番怪しいんだよ」
三森が穏やかに言う。
「押村警部補、サプライズは悪くないと思います。でも、萩原警部補は勘が鋭いので、隠し方には気をつけた方がいいかと」
奏斗は真面目に頷いた。
「分かりました」
横溝が呆れる。
「お前、三森の助言は素直に聞くんだな」
「的確なので」
「俺の助言も聞け」
「はい」
「千速相手に余計な隠し事をするな」
奏斗は少し黙った。
「……今回は、今日中に説明します」
「今日中?」
「はい」
横溝はじっと奏斗を見た。
「本当に指輪じゃねぇんだな」
「違います」
「本当だな」
「はい」
「じゃあ、何でそんなに顔が硬い」
奏斗は少し考えた。
「喜んでもらえるか分からないので」
若手刑事たちは一斉に口を押さえた。
三森は微笑みを隠せない。
横溝は椅子に座り直し、深くため息をついた。
「……お前、そういうことを普通に言うようになったな」
奏斗は少し不思議そうにする。
「そうでしょうか」
「そうだよ」
横溝は小さく笑いそうになったが、すぐに顔をしかめた。
「まあ、失敗したら報告しろ」
「なぜですか」
「笑うためだ」
「ひどいですね」
「半分冗談だ」
「半分は本気ですか」
「本気だ」
---
一方、第三交通機動隊。
昼休憩中、千速は詰所の椅子に座ってスマートフォンを見ていた。
奏斗からの連絡はない。
別に毎時間連絡を取り合うような関係ではない。
それは分かっている。
だが、今朝の不審な態度が引っかかっていた。
「時計店……」
千速が小さく呟くと、新井がすぐに反応した。
「小隊長、時計買うんですか?」
「買わない」
「じゃあ、押村警部補ですか?」
千速は顔を上げる。
「何で奏斗の名前が出る」
新井は少し得意げに言った。
「小隊長がそういう顔をしていたので」
「どういう顔だ」
「押村警部補のことで考え込んでいる顔です」
千速は眉を寄せる。
「そんな顔があるのか」
坂下が隣から言った。
「あります」
「坂下まで」
「分かりやすいですよ、小隊長」
千速は不満そうに腕を組んだ。
「昨日の恋愛診断から、お前ら少し調子に乗ってないか」
新井は慌てて姿勢を正す。
「いえ!」
坂下はにこにこしている。
「それで、押村警部補がどうかしたんですか?」
千速は言うつもりはなかった。
なかったのに、なぜか口が動いた。
「今朝、奏斗がスマホを隠した」
新井の顔が真剣になる。
「事件ですか」
「いや、店からの連絡だと言っていた」
坂下が目を輝かせた。
「店?」
「時計店らしい」
「時計店……」
坂下が一瞬考え、次の瞬間、ぱっと顔を上げた。
「それ、宝飾店じゃないですか?」
千速の動きが止まる。
「宝飾店?」
「時計も扱っている宝飾店、ありますよね」
新井が手を打つ。
「あっ、指輪とか!」
詰所の空気が変わった。
千速は無表情で言った。
「何を言ってる」
坂下は身を乗り出す。
「小隊長、もしかしてプロポーズでは?」
千速は椅子から少しずり落ちそうになった。
「は?」
新井も興奮し始める。
「押村警部補、真面目だから、めちゃくちゃ計画してそうです」
「ない」
「でも、最近同棲ルールも作ったんですよね」
「何で知ってる」
「小隊長が昨日、少し機嫌よかったので」
「それで分かるのか」
坂下が頷く。
「分かります」
千速は額に手を当てた。
「待て。話が飛びすぎだ」
坂下は指を折りながら言った。
「押村警部補がスマホを隠した。時計店と言った。勤務後に何か受け取りに行く可能性がある。小隊長には内緒。これはもう」
新井が真剣な顔で続ける。
「プロポーズ予行演習事件です」
「事件にするな」
「小隊長、落ち着いてください」
「落ち着いてる」
「声が低いです」
「新井」
「はい」
「午後、白バイ点検二倍」
「またですか!」
坂下は口元を押さえて笑った。
千速はスマートフォンを見た。
奏斗からの連絡はない。
指輪。
プロポーズ。
その単語が頭の中で勝手に跳ねる。
ない。
奏斗がそんな急に動くとは思えない。
いや、奏斗は妙なところで真面目だ。
やると決めたら、変に段取りを組む可能性はある。
しかし、まだ早い。
早い、はずだ。
千速は自分の鼓動が速くなるのを感じた。
「……ないだろ」
坂下が優しく言う。
「小隊長」
「何だ」
「嫌なんですか?」
千速はすぐに答えられなかった。
新井も黙る。
詰所が少し静かになる。
千速は視線を落とした。
「嫌とか、そういう話じゃない」
「はい」
「まだ、そういうのは早いだろ」
坂下は穏やかに聞いた。
「早いと思うんですか?」
「……分からん」
それが本音だった。
奏斗が戻ってきて、同棲して、少しずつ生活ができている。
事件もある。
公安の影もまだある。
黒い組織も終わっていない。
でも、日常もある。
帰る場所もある。
一緒に夕食を作る夜もある。
将来を考えること自体は、もう不自然ではなくなっている。
それが、千速には少し怖かった。
「小隊長」
新井が珍しく真面目な声で言った。
「押村警部補、ちゃんと考えてると思います」
千速は顔を上げる。
「何を」
「小隊長のことを」
千速は黙った。
新井は照れくさそうに頭をかく。
「自分が言うのも何ですけど、押村警部補って、小隊長のことを雑に扱う人じゃないと思うので」
坂下も頷いた。
「もし本当に指輪だったとしても、そうじゃなかったとしても、小隊長を困らせるためじゃないと思います」
千速は小さく息を吐いた。
「……分かってる」
分かっている。
奏斗は不器用だ。
隠し事も上手くない。
だが、千速を傷つけようとして何かをする男ではない。
千速はスマートフォンを伏せた。
「まあ、帰ったら聞く」
新井が小さく笑った。
「取り調べですね」
「聞くだけだ」
坂下が言う。
「小隊長の聞くだけは、だいたい取り調べです」
「お前ら、本当に午後走らせるぞ」
「すみません!」
---
勤務後。
奏斗は、県警本部近くの小さな店に寄った。
ガラスケースには腕時計やアクセサリーが並んでいる。
店員が奥から小さな紙袋を持って出てきた。
「お待たせしました。修理、完了しております」
奏斗は紙袋を受け取る。
「ありがとうございます」
「大切に使われているものなんですね」
奏斗は少しだけ袋を見る。
「本人にとっては、そうだと思います」
「プレゼントですか?」
奏斗は一瞬だけ考えた。
「修理です」
「そうですか。でも、こういうのを直して渡されるのも素敵ですよ」
奏斗はその言葉に、少しだけ表情を緩めた。
「喜んでもらえるといいのですが」
店員は微笑んだ。
「きっと喜ばれると思います」
店を出ると、奏斗は紙袋を鞄に入れた。
その動きは、周囲から見れば普通だった。
ただし、少し離れた場所からそれを見ていた人物がいた。
横溝重悟である。
「……本当に店に寄ってやがる」
その隣には、なぜか三森もいた。
三森は呆れたように言う。
「横溝警部、またですか」
「たまたまだ」
「たまたま同じ方向に来たんですか」
「そうだ」
「では、なぜ私まで連れてこられたんでしょう」
「お前の方がこういう店に詳しそうだからだ」
三森はため息をついた。
「私は鑑定士ではありません」
横溝は店の看板を見る。
「時計と宝飾……」
三森が微笑む。
「指輪も扱っていそうですね」
横溝は黙った。
三森は少し楽しそうに続ける。
「押村警部補、本当にそういうつもりだったりして」
横溝は険しい顔をした。
「千速が固まるぞ」
「でしょうね」
「押村も固まる」
「二人とも固まるんですか」
「そのまま三十分くらい話が進まねぇ可能性がある」
三森は想像して、少し笑った。
「でも、押村警部補なら、ものすごく真面目に言いそうです」
横溝は低く唸る。
「それが一番厄介なんだよ」
その時、奏斗が店を出て歩き始めた。
横溝は反射的に後を追おうとした。
三森が袖を掴む。
「帰りましょう」
「いや、最後まで見届ける必要が」
「ありません」
「上司として」
「ありません」
「千速が変な反応したら」
「それはお二人の問題です」
横溝はしばらく黙った。
「……少しだけ」
「駄目です」
三森に引っ張られ、横溝は渋々反対方向へ歩き出した。
「押村、失敗したら絶対報告しろよ……」
「聞こえていませんよ」
---
夜。
千速は先に帰宅していた。
部屋は整っている。
同棲ルール第1条に従い、奏斗の資料はきちんと片付けられている。
第3条に従い、千速の白バイ用グローブも所定の場所に置いた。
自分で置いたのに、少し気まずい。
千速はソファに座り、落ち着かない様子で時計を見る。
プロポーズなどない。
そう思っている。
だが、心のどこかが勝手に身構えている。
「馬鹿か、私は……」
小さく呟いた時、玄関が開いた。
「ただいま」
奏斗の声。
千速は立ち上がりかけて、座り直した。
「おかえり」
奏斗がリビングに入ってくる。
鞄を持っている。
いつも通りに見える。
だが、少し硬い。
千速はすぐに気づいた。
「奏斗」
「何だ」
「取り調べを開始する」
奏斗は立ち止まった。
「取り調べ」
「今朝の件だ」
奏斗は少し目を伏せた。
「分かった」
「素直だな」
「説明すると言ったから」
「じゃあ聞く。何を隠してた」
奏斗は鞄をテーブルの上に置いた。
その動きだけで、千速の心臓が少し跳ねる。
奏斗は鞄から小さな紙袋を取り出した。
千速の視線が、紙袋に吸い寄せられる。
落ち着け。
ただの紙袋だ。
指輪とは限らない。
いや、そういう店の紙袋に見えなくもない。
千速は腕を組んだ。
「それは」
奏斗は紙袋を見てから、千速へ差し出した。
「君に渡したかった」
千速の頭の中が一瞬白くなった。
「……私に?」
「ああ」
「今?」
「うん」
「座った方がいいか?」
奏斗は少し驚く。
「どちらでも」
「どちらでもって何だ」
「危険物ではない」
「そういう話じゃない」
奏斗は紙袋を差し出したまま、真面目に言った。
「受け取ってほしい」
千速はゆっくり紙袋を受け取った。
妙に緊張する。
手元の紙袋が、実際の重さより重く感じる。
千速は奏斗を見る。
「開けていいのか」
「もちろん」
千速は袋を開けた。
中には、小さなケース。
黒ではなく、深い青色のケースだった。
指輪の箱に見えなくもない。
いや、少し大きい。
千速は息を止める。
奏斗は真面目な顔で見ている。
千速はケースを開けた。
中に入っていたのは、腕時計だった。
見覚えがある。
千速が長く使っていた時計。
白バイ隊員になった頃から、ずっと身につけていたもの。
最近、ベルトと針の調子が悪くなり、引き出しにしまったままになっていた時計だった。
千速は目を見開いた。
「これ……」
「修理に出していた」
「いつの間に」
「君が処分しようか迷っていると言っていたから」
千速はケースの中の時計を見つめる。
革ベルトは新しくなっているが、色や雰囲気は前とほとんど同じだった。
傷のある文字盤も、そのまま残されている。
完全に新品になったわけではない。
千速が使ってきた時間は、ちゃんと残っている。
奏斗は少し慎重に言った。
「勝手に持ち出したことは、すまない」
千速は答えられなかった。
「捨てるかどうかは君が決めるべきだった。でも、もし直るなら、直したかった」
千速は時計を指でなぞる。
「……これ、研二が」
奏斗は静かに頷いた。
「知っている」
千速が白バイ隊員になった時、研二がふざけながらくれた時計。
「姉ちゃん、時間守れよ。白バイ隊員が遅刻したらシャレになんねぇから」
そう言って笑っていた。
高価なものではなかった。
でも、千速には捨てられなかった。
研二が亡くなってからも、松田が亡くなってからも、ずっと持っていた。
壊れてからは、引き出しにしまったまま見るのがつらくなっていた。
千速は低い声で言った。
「何で、これを」
奏斗はまっすぐに答えた。
「君が捨てられない顔をしていたから」
千速は何も言えなくなる。
奏斗は続けた。
「無理に使わなくていい。ただ、壊れたまま置いておくより、動く状態に戻せるなら、その方がいいと思った」
「……そうか」
「余計なことだったか」
千速は首を横に振った。
「違う」
声が少し掠れた。
奏斗は黙って待った。
千速はケースから時計を取り出し、左手首に当てる。
奏斗が自然に手を伸ばした。
「つけてもいいか」
千速は少しだけ迷い、それから頷いた。
「ああ」
奏斗は慎重に時計を千速の手首につけた。
千速の手首に、懐かしい重さが戻る。
針は正確に動いていた。
小さく、静かに。
千速はしばらくそれを見つめた。
「……似合うか」
言ってから、自分で少し照れた。
奏斗は即答した。
「似合っている」
千速は目を伏せた。
「時計に似合うも何もないだろ」
「あると思う」
「そうか」
「うん」
千速は腕時計を見ながら、小さく笑った。
「研二が見たら、何て言うかな」
奏斗は少し考えた。
「時間守れよ、でしょうか」
千速は驚いたように顔を上げ、それから吹き出した。
「言いそうだな」
「合っていたか」
「ああ。だいぶ合ってる」
千速は笑いながら、目元を少し押さえた。
泣いてはいない。
でも、胸の奥が熱かった。
奏斗はそっと言った。
「千速」
「何だ」
「勝手に修理に出したことは、謝る」
「謝るな……いや、これは謝っていい」
「すまない」
「でも、ありがとう」
奏斗は静かに頷いた。
「どういたしまして」
千速は手首の時計を見る。
「大事にする」
「うん」
その時だった。
千速のスマートフォンが鳴った。
表示は新井。
千速は嫌な予感を覚えながら出た。
「何だ」
『小隊長!』
「声がでかい」
『すみません! あの、どうでしたか!?』
千速は眉を寄せる。
「何が」
『押村警部補のサプライズです! 指輪でしたか!?』
部屋が静まり返った。
奏斗がこちらを見る。
千速はゆっくり目を閉じた。
「新井」
『はい!』
「明日、朝一で詰所に来い」
『えっ』
「坂下もだ」
電話の向こうで、坂下らしき声が聞こえる。
『私もですか!?』
「お前ら二人ともだ」
新井が慌てる。
『あ、違ったんですか!?』
千速は低い声で言った。
「時計だ」
『時計?』
「腕時計だ。奏斗が修理してくれた」
電話の向こうが一瞬静かになる。
そして、新井が小さく言った。
『……めちゃくちゃいい話じゃないですか』
坂下の声も聞こえる。
『小隊長、よかったですね』
千速は少し黙った。
怒ろうと思ったのに、怒れなくなった。
「……まあな」
『あ、照れてる』
「新井」
『すみません!』
「明日、点検二倍」
『やっぱりですか!』
千速は電話を切った。
奏斗が静かに聞く。
「指輪だと思われていたのか」
千速は顔を逸らした。
「私は思ってない」
「そうか」
「隊員たちが勝手に言っただけだ」
「そうか」
「何だ、その顔は」
「少しだけ、納得した」
「何に」
奏斗はテーブルの上の紙袋を見る。
「三森さんにも、指輪かと聞かれた」
千速は固まった。
「捜査一課でもか」
「ああ」
「重悟は何て」
「本当に指輪じゃないんだな、と確認された」
千速は頭を抱えた。
「何なんだ、うちの周りは」
「心配されているのかもしれない」
「面白がられてるだけだろ」
「それもある」
千速はため息をついた。
そして、少しだけ躊躇してから聞いた。
「……奏斗」
「何だ」
「お前は、どうなんだ」
「何が」
千速は視線を泳がせた。
「その、指輪とか」
奏斗の表情が静かに変わった。
ふざけた空気が少しだけ遠ざかる。
千速はすぐに言った。
「いや、今すぐとか、そういう意味じゃない」
「うん」
「ただ、周りが勝手に騒ぐから、少し考えただけで」
「うん」
「私はまだ白バイを降りる気はないし、仕事も続けるし、事件だって終わってないし」
「分かっている」
「だから、そういうのはまだ早いと思う」
奏斗は静かに頷いた。
「俺も、今ではないと思っている」
千速は少しだけ肩の力を抜いた。
同時に、ほんの少しだけ胸がざわつく。
安心したのか。
少し寂しいのか。
自分でも分からなかった。
奏斗はその揺れに気づいたように、穏やかに続けた。
「でも、考えていないわけではない」
千速の動きが止まった。
「……そういうのを急に言うな」
「すまない」
「謝るな」
奏斗は千速の手首の時計を見た。
「君に白バイを降りてほしいとは思っていない」
千速は顔を上げる。
奏斗は続けた。
「君が白バイに乗っているところも含めて、萩原千速だと思っている」
千速は完全に黙った。
奏斗は真面目な顔で言う。
「だから、将来のことを考えるとしても、君を変えるためではない」
「……お前」
「うん」
「それ、指輪より重いぞ」
奏斗は少し困ったようにする。
「そうか」
「そうだ」
「重くしたつもりはなかった」
「お前の真面目はだいたい重い」
「気をつける」
「気をつけなくていい」
「どっちだ」
千速は少し笑った。
「私にも分からん」
奏斗も、ほんの少し笑った。
千速はソファに腰を下ろし、手首の時計をもう一度見た。
針が静かに進んでいる。
過去から止まっていた時間が、また動き出したように見えた。
研二の記憶。
松田の記憶。
奏斗が戻ってきた時間。
今、二人で暮らしている時間。
それらが、ひとつの針の上で静かに重なっている。
千速はぽつりと言った。
「指輪の話は、まだ早い」
奏斗は頷いた。
「分かっている」
「でも」
千速は少しだけ言葉を迷わせる。
奏斗は黙って待った。
千速は手首の時計を指で触れながら、低い声で続けた。
「考えるくらいなら……別にいい」
奏斗の目が少しだけ柔らかくなった。
「分かった」
「今すぐ買うなよ」
「買わない」
「勝手にサイズ測るなよ」
「測らない」
「店からの連絡を隠すなよ」
「今度から先に言う」
千速は満足そうに頷いた。
「よし」
奏斗は少し考えた。
「ただ」
「何だ」
「指輪のサイズは、いつか必要になるかもしれない」
千速は顔を赤くした。
「だから、急に言うな!」
奏斗は少しだけ笑った。
「すまない」
「謝るな」
その時、奏斗のスマートフォンが鳴った。
表示は横溝重悟。
千速は嫌な予感を覚えた。
奏斗が出る。
「押村です」
『どうだった』
横溝の第一声だった。
奏斗は静かに答える。
「時計でした」
『知ってる。指輪じゃなかったのは分かった。で、千速は固まったか』
千速は素早く奏斗からスマートフォンを奪った。
「重悟」
『おう、千速』
「お前も明日朝一で来い」
『何でだよ』
「取り調べだ」
『俺は何もしてねぇ』
「尾行しただろ」
電話の向こうが沈黙した。
千速の目が鋭くなる。
「やっぱりか」
『……三森に止められたから未遂だ』
「未遂でも有罪」
『何の裁判だよ』
奏斗が横から静かに言った。
「同棲ルール会議の続きでしょうか」
横溝が電話越しに怒鳴る。
『お前ら、また裁判してんのか!?』
千速は低く言う。
「明日、コーヒー奢れ」
『何でだ』
「迷惑料」
『俺、未遂だぞ』
「未遂でも有罪だと言った」
『理不尽だろ』
千速は通話を切った。
奏斗は少し困ったように見る。
「横溝警部は明日怒ると思う」
「知るか」
「でも、コーヒーは奢ってくれるかもしれない」
「重悟はそういう男だ」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
---
その夜。
寝る前、千速は手首の時計を外さずにいた。
奏斗がそれに気づく。
「つけたまま寝るのか」
「今日はな」
「痛くないか」
「平気だ」
「そうか」
千速はベッドの端に座り、時計の針を見る。
「止まってた時間が動くのって、不思議だな」
奏斗は隣に座る。
「うん」
「研二のことも、陣平のことも、忘れるわけじゃない」
「分かっている」
「でも、止まったままにしなくてもいいんだな」
奏斗は静かに頷いた。
「そう思う」
千速は奏斗を見る。
「お前がそうした」
奏斗は少しだけ目を伏せた。
「勝手に修理に出しただけだ」
「それがよかった」
「そうか」
「ああ」
千速は少しだけ身体を寄せた。
奏斗は自然に受け止める。
「奏斗」
「何だ」
「今日は、いい日だった」
奏斗は少しだけ笑った。
「プロポーズ予行演習事件の日が?」
千速は顔を上げて睨む。
「誰から聞いた」
「新井さんの声が大きかった」
「あいつ……」
「でも、悪くない題名だと思う」
「よくない」
「そうか」
「まだ早い」
「うん」
「でも、考えるくらいならいい」
「うん」
「何度も言わせるな」
奏斗は穏やかに答えた。
「覚えておく」
千速は満足したように頷き、奏斗の肩に額を預けた。
「あと」
「うん」
「指輪じゃなくて、少し安心した」
奏斗は静かに聞く。
千速は小さく続けた。
「でも、少しだけ……違ってもよかったかも、とは思った」
奏斗は一瞬黙った。
それから、低い声で言った。
「それは、覚えておく」
千速は慌てて顔を上げる。
「今じゃないぞ」
「分かっている」
「本当に分かってるか」
「分かっている」
「怪しい」
奏斗は少しだけ笑う。
「今は、時計で十分だ」
千速は手首の時計を見る。
「そうだな」
針は進んでいる。
静かに。
確かに。
二人の時間を刻むように。
千速は目を細めた。
「じゃあ、今日はこれで閉廷だ」
奏斗は少し笑った。
「判決は?」
千速は考えるふりをしてから言った。
「被告人押村奏斗、勝手に時計を修理した罪」
「はい」
「有罪」
「量刑は」
千速は奏斗の手を取った。
「今後も、ちゃんと帰ってくること」
奏斗はその手を握り返す。
「分かった」
千速は静かに笑った。
「執行猶予は?」
奏斗が聞く。
千速は迷わず答えた。
「一生」
奏斗は頷いた。
「長いな」
「当然だ」
「うん」
部屋の明かりを落とすと、時計の針の音がほんのわずかに聞こえた気がした。
研二がくれた時間。
止まっていた時間。
そして、奏斗と進めていくこれからの時間。
指輪の話はまだ早い。
それでも、未来を考えるくらいなら悪くない。
千速はそう思いながら、奏斗の隣で静かに目を閉じた。