海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
小蒸気艇が、ポーツマス港を横切った。
港には、まだ焦げた木材と油の匂いが漂っていた。対岸のゴスポートに、赤煉瓦の病院が建っている。ハスラー王立海軍病院。大英帝国が誇る、海軍最大の療養所だった。
通されたのは、開放病棟の奥、廊下を挟んだ個室だった。男爵という肩書きは、ここでは壁の厚さに変わっていた。天井が高く、大きな窓から光が差し込んでいる。真鍮のベッド、石炭ストーブの匂いと石炭酸の匂いが混ざっている。
ヴァンスは、そのベッドにいた。頬がこけ、目だけが以前と変わらず鋭かった。
「――閣下」
「生きているとも」ヴァンスは、かすれた声で言った。「もっとも、今日はまだ、閣下と呼ばれるほどの働きはしていない」
秋月は懐から、預かっていた懐中時計を取り出した。銀の蓋を開ける。針は、四時七分で止まったままだった。ガラスに、細いヒビが一筋。
「お返しします」
ヴァンスは、右手だけでそれを受け取った。左腕は、シーツの下で動かなかった。
「動かんのだよ、これが」ヴァンスは蓋を見つめたまま言った。「軍医は言葉を選んでいたが、要するに、しばらくは戦力外だということだ」
「しばらく、ですか」
「それ以上のことは、軍医にも私にも分からん」ヴァンスは目を閉じた。「血の塊が、神経を押し潰しているだけらしい。塊が退けば戻るだろう、という程度の話だ。だが今、それを確かめる術はない」
秋月は、自分の両手を見た。あの日、この手についた血は、もう洗い落とした。だが感触だけは、まだ指の腹に残っている気がした。
「回復をお待ちします」
「待つ間に、世界が待ってくれるかどうかだ」ヴァンスは薄く笑った。「分かっているのは、私が当分、ロンドンへ戻れんということだけだ。あの男を止める重石が、いなくなったということだ」
*
扉の外が、急に騒がしくなった。衛兵の制止する声。それを笑い飛ばす、早口の声だった。
「――ジュリアン! 生きていると聞いて、飛んできたぞ!」
入ってきた男は、小柄だった。だがその小柄な体から、隠しきれない熱量が溢れていた。額は広く、生え際が後退しかけている。海軍大臣、ウィンストン・チャーチルだった。
「大臣閣下が、ポーツマスに」ヴァンスは半身を起こそうとした。
「よせ、寝ていろ」チャーチルは大股で歩み寄り、ヴァンスの右手を両手で握った。「港が襲われたと聞いて、いても立ってもいられず飛んできた。お前が撃たれたとも聞いて、なおのことだ」
チャーチルは、ベッドの脇を意味もなく行ったり来たりし始めた。両手が、話す言葉に合わせて宙を切る。
「無事で何よりだ。まったく、何よりだ」早口だった。「――だが、私の腹心を一人失うわけにはいかんのだ、ジュリアン。戦場も知らず、政治も知らん将官連中の中で、お前だけが物を考える頭を持っている」
「フィッシャー卿とは、まだ折り合いが」ヴァンスが聞いた。
「あの老人は、バルト海の夢から覚めん」チャーチルは肩をすくめた。「キッチナーも同じだ。西部戦線に兵を貼り付けたまま、指一本貸そうとせん。だが十三日、私は戦争会議で認めさせた。海軍だけで、ダーダネルスを抜く」
その声には、迷いの影が一つもなかった。
「まさか! 私のいぬ間に……決裁を通したのですか? アントワープの後も……同じでしたね……」ヴァンスは横転しそうな勢いで上半身を起こしつつ、皮肉めかして言った。
「聞き捨てならんな。ダーダネルスについては男爵とさんざん議論したではないか。もう議論は尽くしたのだ。それに起案する権利は私にある。さて、アントワープだが――あぁ、あれは、陸戦隊を率いる将の立場のときだ」チャーチルは間を置かずに返した。「今日は、大臣としてここにいる」
「同じ男が、同じ声で喋っているだけにしか聞こえませんが……」
「その声の大きさのおかげで、男爵閣下は今、生きて寝ていられるのだがね」
チャーチルは笑ったが、目の奥までは笑っていなかった。
秋月は黙って一礼した。
「おお、ミスターアキヅキ」チャーチルは、初めてこちらを見た。値踏みするような一瞥だった。「東洋の魔術師の一人か。ジュリアンからよく話は聞いている」
「先だっての件、覚えておいでですか」秋月が切り出した。「地中海方面への、日本の――陸軍一個師団の派遣について」
「もちろんだ」チャーチルは足を止めた。「ジュリアンから、詳しく聞いている。悪くない話だ、実に悪くない」
「――ただし」ヴァンスがベッドから、かすれた声を挟んだ。「私一人の腹づもりだと、先だって申し上げたはずです、大臣」
「分かっている、分かっている」チャーチルは手を振った。「だから今日、こうして来たのだ」
チャーチルは、窓の外へ目をやった。ポーツマスの港が、対岸に霞んでいた。
「正直に言おう」チャーチルは続けた。「十一月に、貴国へ十五個師団を求めた。二十日、カトー外相から断りが来た。それきりだ」
「規模が大きすぎたのです」秋月は言った。「二百万トンの船腹は、あの時の日本には用意できませんでした」
「見積もりが甘かったのは、我々の側だ」チャーチルは苦笑した。「二十五万を求めて、二十五万分の恨みだけを買った」
「今回は、違います」秋月は続けた。「
「たった三十六隻で、一個師団を地中海まで送り続けられると」
「片道四十日、荷役に十日。青島の三倍の日数がかかります」秋月は言った。「だからこそ、隻数も三倍にしました。船は、我々が出します。貴国の船腹には手をつけません」
チャーチルの目が、初めて動きを止めた。
「――具体的だな」
「口約束では、貴国も動けますまい」
「トラキアの水はどうする」チャーチルが聞いた。「あそこは乾いた土地だと聞いている」
「乾いています」秋月は認めた。「ですが、乾いた土地の水不足は、井戸と縦列で計算できる敵です。青島では豪雨と泥濘にやられましたが、あれは計算の外にある敵でした」
「井戸を掘るだけで、片が付くのか」
「工兵一個中隊、二月かかります」秋月は言った。「その二月を、貴国が待てるかどうかです」
「待つ」チャーチルは即答した。「二月程度、待てぬはずがない」
迷いのない即答だった。秋月には、それが頼もしくも、危うくも聞こえた。
「面白い」チャーチルは、ようやく足を止めた。「ヘイスティングスの掃海艇と、貴国の一個師団か。どちらも、地味で目立たん仕事だ。だからこそ、勝敗を分ける」
「掃海が済まねば、我々の船も海峡を渡れません」
「外債の借り換えと、
「変わりません」秋月は言った。「日本陸軍が動けば、閣下にも貴国の大蔵省にも、説明のつく話になります」
チャーチルは、しばらく黙っていた。それから、唐突に笑った。
「気に入った」チャーチルは言った。「絵図だけを描く将官どもより、よほど信用できる」
「大臣」ヴァンスが、静かに言った。「決裁は、あなた一人ではできますまい」
「――分かっている」チャーチルの声から、勢いが少し落ちた。「これは、外国の軍を受け入れる話だ。戦争会議に諮らねばならん」
「諮っていただけますか」
「諮る。約束する」チャーチルは頷いた。「その代わり、私に約束できることもある。掃海と輸送、海軍の実務は私の裁量で動かせる。地中海へ来る貴国の船に、海軍の護衛をつけよう。すごいもんだろう、海軍大臣というのは」
ヴァンスが、右手だけでシーツを握った。
「はぁ……はい、大臣。それで、十分です」
チャーチルは、しばらくヴァンスの顔を見ていた。それから、初めて声の勢いを落として言った。
「早く治せ、ジュリアン。お前がいないと、私は誰の話も聞かん男になる」
「重々、承知しております」
チャーチルは踵を返し、来た時と同じ速さで病室を出ていった。廊下の向こうで、また衛兵の慌てる声がした。
*
病棟を出た廊下で、秋月は別の男に呼び止められた。
「ミスターアキヅキ」
振り返ると、見覚えのない東洋人の男が立っていた。仕立てのいい背広、隙のない身のこなし。英語の発音は、ネイティブと変わらなかった。
「駐英中華民国公使、
「――お目にかかれて光栄です」
「貴国が、支那で何かをお始めになるという噂を耳にしましてね」施は、微笑んだまま言った。「北京の空気が、少し変わったように感じるのですが。タイムズの記者にも、同じことを聞かれました」
秋月の内心が、冷えた。(――噂、か)
自分が流した紙のことが、頭をよぎった。あれが、もうここまで届いているのか。それとも、ただの当て推量か。この男の微笑みからは、どちらとも読み取れなかった。
「もっとも」施肇基は続けた。「記者連中は、いつも何かの匂いを嗅ぎたがる。今回も、その類かもしれません」
「噂話は、ロンドンにも支那にも尽きません」秋月は表情を変えなかった。「閣下のお耳に入れるほどのものでは、私にも分かりかねます」
「そうですか」施は、なおも微笑んでいた。「では、また」
施肇基は会釈をして去った。秋月は、その足音が遠ざかるまで動かなかった。
(――縒られるべき場所に、糸を置いてきただけだ)
自分にそう言い聞かせたことがあった。だが糸は、置いた本人の知らぬところで、勝手に縒られ始めているのかもしれなかった。
*
病室に戻ると、ヴァンスだけがベッドに横たわっていた。
「あの男は……チャーチルは」ヴァンスが言った。「本気で、掃海と輸送を約束したはずだ」
「はい」
「戦争会議は、通る」ヴァンスは目を閉じた。「あの男が本気で望んで、通らなかった例を、私は知らない。だが通った後のことまでは、あの男は考えておらん」
秋月は、ヴァンスの右手の脇に置かれた懐中時計を見た。銀の蓋は閉じたままだった。針は、まだ四時七分で止まっている。
この針が動き出す時まで、自分はここに立っている。あの日、そう決めたはずだった。だが今日、動いたのは針ではなく、遠いロンドンの会議室の空気の方だった。
狙撃した男は、まだ見つかっていない。屋上から消えた影は、霧の向こうのどこかにいる。
だが、拿捕した魚雷艇の乗員からは、一つだけ分かったことがあった。防潜網を下ろしたのは、五人の回覧先の誰でもない。港そのものに潜り込んでいた鼠だった。
だが今は、それを追う時間はなかった。
秋月は一礼し、病室を出た。海峡の風が、頬を刺した。
縒った糸の先が、今どこまで伸びているのか、秋月自身にもまだ見えなかった。
今回登場したハスラー王立海軍病院について、少しだけ解説を。
ポーツマス港の対岸、ゴスポートに建つイギリス海軍最大の病院です。十八世紀半ばの開設で、当時としては世界最大級の医療施設でした。海軍病院が港の真向かいに置かれているのは、傷病者を陸路で長く運ばずに済ませるためで、艦から小蒸気艇で直接運び込むことができます。第一次大戦が始まると前線からの傷病兵が大量に送り込まれ、開放病棟は次々に埋まっていきました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。