海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第九十九話 ネルソンになろうとしている男

 小蒸気艇が、ポーツマス港を横切った。

 港には、まだ焦げた木材と油の匂いが漂っていた。対岸のゴスポートに、赤煉瓦の病院が建っている。ハスラー王立海軍病院。大英帝国が誇る、海軍最大の療養所だった。

 秋月慧(あきづきけい)は、衛兵に許可証を示した。型どおりの敬礼が返ってきた。ヴァンス男爵の名は、まだこの国の中で軽くはない。

 

 通されたのは、開放病棟の奥、廊下を挟んだ個室だった。男爵という肩書きは、ここでは壁の厚さに変わっていた。天井が高く、大きな窓から光が差し込んでいる。真鍮のベッド、石炭ストーブの匂いと石炭酸の匂いが混ざっている。

 ヴァンスは、そのベッドにいた。頬がこけ、目だけが以前と変わらず鋭かった。

 

「――閣下」

「生きているとも」ヴァンスは、かすれた声で言った。「もっとも、今日はまだ、閣下と呼ばれるほどの働きはしていない」

 

 秋月は懐から、預かっていた懐中時計を取り出した。銀の蓋を開ける。針は、四時七分で止まったままだった。ガラスに、細いヒビが一筋。

「お返しします」

 

 ヴァンスは、右手だけでそれを受け取った。左腕は、シーツの下で動かなかった。

「動かんのだよ、これが」ヴァンスは蓋を見つめたまま言った。「軍医は言葉を選んでいたが、要するに、しばらくは戦力外だということだ」

 

「しばらく、ですか」

「それ以上のことは、軍医にも私にも分からん」ヴァンスは目を閉じた。「血の塊が、神経を押し潰しているだけらしい。塊が退けば戻るだろう、という程度の話だ。だが今、それを確かめる術はない」

 

 秋月は、自分の両手を見た。あの日、この手についた血は、もう洗い落とした。だが感触だけは、まだ指の腹に残っている気がした。

 

「回復をお待ちします」

「待つ間に、世界が待ってくれるかどうかだ」ヴァンスは薄く笑った。「分かっているのは、私が当分、ロンドンへ戻れんということだけだ。あの男を止める重石が、いなくなったということだ」

 

   *

 

 扉の外が、急に騒がしくなった。衛兵の制止する声。それを笑い飛ばす、早口の声だった。

 

「――ジュリアン! 生きていると聞いて、飛んできたぞ!」

 

 入ってきた男は、小柄だった。だがその小柄な体から、隠しきれない熱量が溢れていた。額は広く、生え際が後退しかけている。海軍大臣、ウィンストン・チャーチルだった。

 

「大臣閣下が、ポーツマスに」ヴァンスは半身を起こそうとした。

「よせ、寝ていろ」チャーチルは大股で歩み寄り、ヴァンスの右手を両手で握った。「港が襲われたと聞いて、いても立ってもいられず飛んできた。お前が撃たれたとも聞いて、なおのことだ」

 

 チャーチルは、ベッドの脇を意味もなく行ったり来たりし始めた。両手が、話す言葉に合わせて宙を切る。

「無事で何よりだ。まったく、何よりだ」早口だった。「――だが、私の腹心を一人失うわけにはいかんのだ、ジュリアン。戦場も知らず、政治も知らん将官連中の中で、お前だけが物を考える頭を持っている」

 

「フィッシャー卿とは、まだ折り合いが」ヴァンスが聞いた。

「あの老人は、バルト海の夢から覚めん」チャーチルは肩をすくめた。「キッチナーも同じだ。西部戦線に兵を貼り付けたまま、指一本貸そうとせん。だが十三日、私は戦争会議で認めさせた。海軍だけで、ダーダネルスを抜く」

 

 その声には、迷いの影が一つもなかった。

 

「まさか! 私のいぬ間に……決裁を通したのですか? アントワープの後も……同じでしたね……」ヴァンスは横転しそうな勢いで上半身を起こしつつ、皮肉めかして言った。

「聞き捨てならんな。ダーダネルスについては男爵とさんざん議論したではないか。もう議論は尽くしたのだ。それに起案する権利は私にある。さて、アントワープだが――あぁ、あれは、陸戦隊を率いる将の立場のときだ」チャーチルは間を置かずに返した。「今日は、大臣としてここにいる」

「同じ男が、同じ声で喋っているだけにしか聞こえませんが……」

「その声の大きさのおかげで、男爵閣下は今、生きて寝ていられるのだがね」

 

 チャーチルは笑ったが、目の奥までは笑っていなかった。

 秋月は黙って一礼した。

「おお、ミスターアキヅキ」チャーチルは、初めてこちらを見た。値踏みするような一瞥だった。「東洋の魔術師の一人か。ジュリアンからよく話は聞いている」

 

「先だっての件、覚えておいでですか」秋月が切り出した。「地中海方面への、日本の――陸軍一個師団の派遣について」

「もちろんだ」チャーチルは足を止めた。「ジュリアンから、詳しく聞いている。悪くない話だ、実に悪くない」

 

「――ただし」ヴァンスがベッドから、かすれた声を挟んだ。「私一人の腹づもりだと、先だって申し上げたはずです、大臣」

「分かっている、分かっている」チャーチルは手を振った。「だから今日、こうして来たのだ」

 

 チャーチルは、窓の外へ目をやった。ポーツマスの港が、対岸に霞んでいた。

「正直に言おう」チャーチルは続けた。「十一月に、貴国へ十五個師団を求めた。二十日、カトー外相から断りが来た。それきりだ」

 

「規模が大きすぎたのです」秋月は言った。「二百万トンの船腹は、あの時の日本には用意できませんでした」

「見積もりが甘かったのは、我々の側だ」チャーチルは苦笑した。「二十五万を求めて、二十五万分の恨みだけを買った」

 

「今回は、違います」秋月は続けた。「青島(チンタオ)では、御用船十二隻で毎月一個師団分を揚げ続けました。地中海は一往復に三月、青島のちょうど三倍。ゆえに三十六隻。実際に検算した数字です」

「たった三十六隻で、一個師団を地中海まで送り続けられると」

 

「片道四十日、荷役に十日。青島の三倍の日数がかかります」秋月は言った。「だからこそ、隻数も三倍にしました。船は、我々が出します。貴国の船腹には手をつけません」

 チャーチルの目が、初めて動きを止めた。

 

「――具体的だな」

「口約束では、貴国も動けますまい」

 

「トラキアの水はどうする」チャーチルが聞いた。「あそこは乾いた土地だと聞いている」

「乾いています」秋月は認めた。「ですが、乾いた土地の水不足は、井戸と縦列で計算できる敵です。青島では豪雨と泥濘にやられましたが、あれは計算の外にある敵でした」

 

「井戸を掘るだけで、片が付くのか」

「工兵一個中隊、二月かかります」秋月は言った。「その二月を、貴国が待てるかどうかです」

 

「待つ」チャーチルは即答した。「二月程度、待てぬはずがない」

 迷いのない即答だった。秋月には、それが頼もしくも、危うくも聞こえた。

 

「面白い」チャーチルは、ようやく足を止めた。「ヘイスティングスの掃海艇と、貴国の一個師団か。どちらも、地味で目立たん仕事だ。だからこそ、勝敗を分ける」

「掃海が済まねば、我々の船も海峡を渡れません」

 

「外債の借り換えと、満蒙(マンシュリア)の件も」チャーチルが確認するように言った。「ジュリアンから聞いている条件で、変わりないな」

「変わりません」秋月は言った。「日本陸軍が動けば、閣下にも貴国の大蔵省にも、説明のつく話になります」

 

 チャーチルは、しばらく黙っていた。それから、唐突に笑った。

「気に入った」チャーチルは言った。「絵図だけを描く将官どもより、よほど信用できる」

 

「大臣」ヴァンスが、静かに言った。「決裁は、あなた一人ではできますまい」

「――分かっている」チャーチルの声から、勢いが少し落ちた。「これは、外国の軍を受け入れる話だ。戦争会議に諮らねばならん」

 

「諮っていただけますか」

「諮る。約束する」チャーチルは頷いた。「その代わり、私に約束できることもある。掃海と輸送、海軍の実務は私の裁量で動かせる。地中海へ来る貴国の船に、海軍の護衛をつけよう。すごいもんだろう、海軍大臣というのは」

 

 ヴァンスが、右手だけでシーツを握った。

「はぁ……はい、大臣。それで、十分です」

 

 チャーチルは、しばらくヴァンスの顔を見ていた。それから、初めて声の勢いを落として言った。

「早く治せ、ジュリアン。お前がいないと、私は誰の話も聞かん男になる」

「重々、承知しております」

 

 チャーチルは踵を返し、来た時と同じ速さで病室を出ていった。廊下の向こうで、また衛兵の慌てる声がした。

 

   *

 

 病棟を出た廊下で、秋月は別の男に呼び止められた。

「ミスターアキヅキ」

 

 振り返ると、見覚えのない東洋人の男が立っていた。仕立てのいい背広、隙のない身のこなし。英語の発音は、ネイティブと変わらなかった。

「駐英中華民国公使、施肇基(しちょうき)と申します」コーネル仕込みの英語には、訛りが一つもなかった。

 

「――お目にかかれて光栄です」

「貴国が、支那で何かをお始めになるという噂を耳にしましてね」施は、微笑んだまま言った。「北京の空気が、少し変わったように感じるのですが。タイムズの記者にも、同じことを聞かれました」

 

 秋月の内心が、冷えた。(――噂、か)

 自分が流した紙のことが、頭をよぎった。あれが、もうここまで届いているのか。それとも、ただの当て推量か。この男の微笑みからは、どちらとも読み取れなかった。

 

「もっとも」施肇基は続けた。「記者連中は、いつも何かの匂いを嗅ぎたがる。今回も、その類かもしれません」

 

「噂話は、ロンドンにも支那にも尽きません」秋月は表情を変えなかった。「閣下のお耳に入れるほどのものでは、私にも分かりかねます」

「そうですか」施は、なおも微笑んでいた。「では、また」

 

 施肇基は会釈をして去った。秋月は、その足音が遠ざかるまで動かなかった。

(――縒られるべき場所に、糸を置いてきただけだ)

 

 自分にそう言い聞かせたことがあった。だが糸は、置いた本人の知らぬところで、勝手に縒られ始めているのかもしれなかった。

 

   *

 

 病室に戻ると、ヴァンスだけがベッドに横たわっていた。

「あの男は……チャーチルは」ヴァンスが言った。「本気で、掃海と輸送を約束したはずだ」

 

「はい」

「戦争会議は、通る」ヴァンスは目を閉じた。「あの男が本気で望んで、通らなかった例を、私は知らない。だが通った後のことまでは、あの男は考えておらん」

 

 秋月は、ヴァンスの右手の脇に置かれた懐中時計を見た。銀の蓋は閉じたままだった。針は、まだ四時七分で止まっている。

 この針が動き出す時まで、自分はここに立っている。あの日、そう決めたはずだった。だが今日、動いたのは針ではなく、遠いロンドンの会議室の空気の方だった。

 

 狙撃した男は、まだ見つかっていない。屋上から消えた影は、霧の向こうのどこかにいる。

 だが、拿捕した魚雷艇の乗員からは、一つだけ分かったことがあった。防潜網を下ろしたのは、五人の回覧先の誰でもない。港そのものに潜り込んでいた鼠だった。

 だが今は、それを追う時間はなかった。

 

 秋月は一礼し、病室を出た。海峡の風が、頬を刺した。

 縒った糸の先が、今どこまで伸びているのか、秋月自身にもまだ見えなかった。

 




今回登場したハスラー王立海軍病院について、少しだけ解説を。

ポーツマス港の対岸、ゴスポートに建つイギリス海軍最大の病院です。十八世紀半ばの開設で、当時としては世界最大級の医療施設でした。海軍病院が港の真向かいに置かれているのは、傷病者を陸路で長く運ばずに済ませるためで、艦から小蒸気艇で直接運び込むことができます。第一次大戦が始まると前線からの傷病兵が大量に送り込まれ、開放病棟は次々に埋まっていきました。

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