海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
三宅坂、陸軍省軍務局長室。廊下の突き当たり、あの日と同じ扉だった。真崎は一度、呼吸を整えてから、それを開けた。
対華二十一箇条の要求が北京へ手交されるまで、あと二日だった。列強の目が支那へ向けば、欧州派兵の数字は、二度と英国の卓に載らなくなる。真崎に残された時間は、この一室での時間だけだった。
部屋には、田中の他に四人がいた。
敬礼が終わる前に、声が飛んできた。
「二枚、揃えたそうじゃな」
どこから聞いたのか、田中は言わなかった。真崎も、問わなかった。
書類の山の向こうで、田中義一少将は顔も上げなかった。丸い顔に、丸い眼鏡。その奥の目は、丸くなかった。万年筆が、一行分だけ走ってから止まった。
真崎は顔を上げた。上座の脇、郷田は几帳面に指先を揃え、地図ではなく真崎の顔を見ていた。他の三人は、値踏みする目でこちらを眺めていた。半年前と、同じ目だった。
「他の幕僚にも、同席願った」田中は、ようやく顔を上げて言った。「複数の目で見た方が、書面が八百長に見えん」
「――承知しております」
神尾閣下と、同じことを仰る。真崎は、そう思った。
真崎は懐から二枚の紙を取り出し、机に並べた。指先が、乃木大将の遺書の角に一瞬だけ触れた。まだ、出す番ではない。
「神尾閣下の推薦文。それと、ロンドンの秋月からの、確証の電報です」
田中は推薦文を先に取った。読む速さが、途中で一段落ちた。
「白兵突撃派の主張を退け、徹底した艦砲射撃にこだわった結果、最小の被害で
田中の指が、そこで止まった。だがそれ以上、遺書には触れなかった。紙を畳み、卓の端へ寄せる。
郷田の指が、一度だけ跳ねた。あの日、神尾閣下の前で真崎が見たのと同じ跳ね方だった。だが、それだけだった。
真崎の懐には、その遺書の実物があった。防水布に包まれ、いつもと同じ重さで収まっている。神尾の文がこの重さに触れているのに、田中はまだ、それを求めなかった。焦らされているのか。それとも、田中自身がまだ、その重さを受け取る用意ができていないのか。真崎には判じかねた。
もう一通を開く。目を通す間、部屋には万年筆の音さえなかった。窓の外を、寒風が鳴って過ぎた。
「なるほどな。チャーチル海軍大臣は戦争会議へ諮ると。掃海と輸送は、大臣の裁量で引き受けると」
「はい」
「電報か」田中は紙を置いた。「大臣本人の署名はないのう」
「ロンドンに出張中の海軍特務が直接聞き取ったものです。電文にして送らせました」
「約束ではない」田中は言った。「約束を持ち込むと、約束しただけじゃ。英国人らしい紙じゃの」
「大臣本人の言質です。軽くはないと考えます」
「軽い重いの話はしとらん」田中は湯呑みを引き寄せた。「紙の性質の話をしとる」
真崎の内側で、何かが冷えた。二枚を揃えるまでに費やした日数を思えば、この一言はあまりに軽く聞こえた。だが顔には出さなかった。出せば、田中に見透かされる。
「――田中閣下」郷田が口を開いた。「よろしいでしょうか」
「言え」
「先だっての折、私が申し上げた数字は、今も動いておりません」郷田は真崎を見ずに続けた。「三十六隻。船の勘定は、それでよい。だが一個師団を欧州へ割けば、支那方面の備えはその分だけ薄くなる。ロシアもドイツも、そこを見ておりましょう」
「郷田中佐」真崎は言った。「その数字を出したのは、ご自身です」
「出したのが、認めたことにはならん」郷田は真崎を見た。「貴様の絵は緻密になった。だが緻密さは、正しさとは違う。旅順を知らん男の緻密さだ」
真崎は、それに答えなかった。答える言葉を、まだ持っていなかった。旅順という言葉の重さは、数字では量れない。それだけは、真崎にも分かっていた。
「郷田中佐は、反対だと仰るのですか」真崎は、ようやく口を開いた。「それとも、確かめておられるのですか」
「同じことだ」郷田は視線を外さなかった。「貴様の絵に、まだ穴がないか確かめている。穴があれば、そこから兵が漏れて死ぬからだ」
「穴があるなら、閣下の前で埋めます」
「いいぞ。その気迫だけは、認めてやる」郷田は、初めて小さく息をついた。「だが気迫で、船は浮かんし、水は湧かん」
田中が、湯呑みに口をつけた。しばらく黙って茶を啜り、それから静かに問うた。
「輸送船は」
「三十六隻」真崎は答えた。
「前は、十数隻と聞いたがのう」田中の目が、わずかに細まった。
「――あれは、甘うございました」真崎は言った。「青島の実績から、改めて検算した数字です」
「それで、何個師団運べる」
「一個師団」
「一個師団か。それに満たねば、英国も本気にはすまい」田中は湯呑みを置いた。「半端な数を寄越されて、喜ぶ相手ではないと言うたはずじゃ。満たしたようじゃの」
田中の声に、初めて温度が戻った。だがそれは、まだ合格の温度ではなかった。
「弾は誰の財布じゃ」
「英国が持ちます。日露外債の借換と、満蒙の件を引き替えに」
「その話は、前にも聞いた。構想だと言うておったはずじゃ」
「大臣本人の口から、確認を取りました」真崎は言った。「構想ではなく、言質です」
「――言質になったか」田中は、わずかに目を上げた。「進んどるならよい」
「トラキア地方の地形は調べたか。水はどうする」
最後の問いだった。真崎の背に、汗がにじんだ。田中に初めてこの問いを投げられた日から、答えを持てずに来た一問だった。
「兵二万、馬五千。日に、ざっと三百六十トン。米俵に直せば、五千俵ぶんの水です」真崎は言った。「井戸を掘り、給水縦列を組めば、計算で潰せる敵です。ただし工兵一個中隊、
「二月」田中の万年筆が、卓に置かれた。「その二月を、英国が待つと」
「大臣本人が、二月程度待てぬはずがないと即答したそうです」
「即答か」田中は、わずかに口の端を上げた。「性急な男じゃの、チャーチル大臣とやらは」
四つの問いに、答えが揃った。真崎の肩から、わずかに力が抜けかけた。
だが、郷田が、それを許さなかった。
「田中閣下。数字が揃ったことと、腹を括ることは別です」声に、抑えた熱がこもった。「この話が動けば、軍務局の中にも波風が立ちます。閣下もご存じでしょう。私のかつての戦友、小松や堀内のような……あの死に方を、今度は欧州の土でさせるのか、という声も出ましょう」
小松と堀内。旅順で郷田の隣を走り、還らなかった二人の名だった。真崎は、その名を初めて郷田の口から聞いた。
「分かっとる」田中が遮った。声は静かだったが、遮り方に容赦がなかった。「お前が誰の名代で座っておるかも、分かっとる」
郷田は口を閉じた。だが目までは伏せなかった。
田中は、それ以上何も言わなかった。ただ、湯呑みの縁を指先でなぞっていた。その指の動きが止まるまで、誰も口を開かなかった。
部屋に、沈黙が落ちた。田中は二枚の紙を並べ、しばらく動かなかった。壁の時計の音だけが、やけに大きく響いた。
「二枚、揃うた」田中は言った。「じゃが」
声の温度が、一段下がった。
「まだ、足りん」
真崎は、息を呑んだ。
「――何が、足りないのでしょうか」
「海軍の紙が、まだ無い」
真崎の喉が、詰まった。三十六隻を検算した男が、船を出す側の紙を持っていない。懐の乃木の遺書に、指先が伸びかけた。まだだ、と自分に言い聞かせた。まだ、切るべき札ではない。
「――紙は」田中が、静かに問うた。
「それはまだです……が、海軍省で、決裁は動いております」
「動いていても、ここに紙はないのではのぉ......」
「もう少し、時間がかかるのです」
「ふざけているのか」郷田は、静かに言った。「証跡を出すと大見得を切ったのは、貴様自身ではないか」
同席していた幕僚たちの間にも、低いどよめきが広がった。
沈黙が、部屋の空気を重くした。郷田の目に、微かな安堵が浮きかけた。兵が、また一人、海を渡らずに済むという、その種類の安堵だった。
「では」田中が、湯呑みを置いて言った。「今日のところは、これまでかの」
その一言が、扉を閉ざす音のように響いた。真崎は、まだ持っていない紙のために、次にどの扉を叩けばよいか。その算段さえ、立っていなかった。
その時、扉が乱暴に開いた。
「――失礼します!」
柏木丈二だった。息が上がっている。手にした回答書を、机の上に叩きつけるように置いた。
「海軍省経理局、正式回答。輸送船三十六隻の徴用、海軍は同意しております」
居並ぶ幕僚たちが、一斉に柏木を見た。この場に不似合いな乱入者を、値踏みする目だった。
田中は回答書を取り上げた。主計課長の合議印の上に、次官の印。さらにその上に、大臣の印。空欄は一つもなかった。
「――はっはっはっ! 間に合うたか」田中が呟いた。
「ぎりぎりです」柏木は肩で息をしながら言った。「回答が、たった今、海軍省から正式に返ってきました。十八日を、二日残して」
真崎は、柏木の顔を見た。息はまだ整っていない。霞が関から三宅坂まで、どれほどの速さで駆けてきたのか、聞かずとも分かった。
「よう、間に合わせたのう」田中が言った。
「間に合わせたのは、経理局の誰かです」柏木は短く答えた。「俺は、ただ運んだだけです」
郷田が、その回答書に目を落とした。何かを言いかけて、やめた。指先だけが、一度、机の縁を叩いた。浮きかけた安堵は、もう跡形もなかった。
田中は三枚の紙を、机の上に並べ直した。神尾の推薦文。ロンドンからの電報。海軍の正式回答。
しばらく、それを黙って見ていた。指が、一枚ずつを撫でるように動いた。
「全部揃うたな、真崎よ」田中は言った。
真崎は息を止めた。三宅坂に来てから、これほど長い沈黙を田中の口から聞いたことはなかった。柏木も、まだ息を整えたまま黙っていた。
「――これで......閣下も動いていただけますか」真崎は、ようやく口を開いた。
田中は、紙から目を上げた。真っ直ぐに、真崎を見た。
「わしを動かすんは、勘定書きじゃない」
部屋の中の誰も、何も言えなかった。柏木は、駆け込んできた勢いのまま立ち尽くしていた。郷田と三人の幕僚は、答えを聞き逃すまいと、身じろぎ一つしなかった。半年前、怒鳴った口が、今日はどれも閉じたままだった。
真崎の懐で、乃木の遺書が、いつもより重く感じられた。三枚の紙だけでは、まだ足りない何かが残っていたようだった。
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