海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「金剛と比叡が、あの潜水艦を沈めたのではなかったのですか!」
司令部の壕で、若い参謀の大尉が声を上げた。
「海軍があれだけやって、なぜ撤退なのです!」
九月二十三日。撤退が決まった翌日、浜の北の端の司令部の壕で、陸海軍の合同の参謀会議が開かれていた。
ムドロスから渡ってきた日下部保中将を囲んで、師団の参謀が並んでいる。兵站の真崎勇気も、作戦の郷田龍一郎中佐もいる。そこへ、撤退の輸送船を護る段取りのために、金剛から潮崎拓馬が呼ばれていた。
「たしかに、潜水艦はもう、この海の口へは入ってこないかもしれん」潮崎は言った。「だが、我々が抑えたのは、あくまで海峡の入り口の、夜の海だけだ。海峡の中には、まだ機雷と砲台が残っている。地中海の東を、まるごと押さえたわけではない」
「では、陸は」
「陸は、海からは取れん」真崎が言った。「艦の砲をいくら撃ち込んでも、あの丘の塹壕と機関銃は、そのまま残る。五月から、ずっとそうだ」
「では、艦の鉄を、陸へ揚げればよいではありませんか」大尉は食い下がった。「これだけ科学の進んだ世の中です。あの丘を乗り越えて走る、鉄板を張った自動車のようなものがあれば」
「それなら、イギリスの海軍が、もうやった」潮崎が言った。「六月に、ヘラスの浜へ装甲の自動車を揚げて、鉄条網を破りに走らせた。……一枚も破れずに、下げられたそうだ。車輪では、溝は越えられん」
「車輪でなければ、どうだ」真崎が言った。
「さあ、どうでしょう」潮崎は肩をすくめた。「陸を走る車のことを考えるのは、海軍の仕事ではありませんので」
大尉は、黙った。
「取れたのは、海の口の夜だけだ」潮崎は言った。「だから、その海を、いちばん大事なことに使う」
「……帰るために、ですか」
「そうだ」日下部中将が、初めて口を開いた。「取れなかった丘のために、取れた海を無駄にすることはない」
「最後の晩に、浜に残って撃ち続ける者が要る」
日下部は、壕の机に広げた地図を、指で一度だけ叩いた。
「一万が、まだここにおると、向こうに思わせる役だ。誰にやらせる」
「大野中尉の中隊です」真崎が、帳面を開いて言った。
アンザックの浜には、まだ四万近い兵がいる。英国とアンザックの司令部が決めた段取りは、八日かけて、夜ごとに少しずつ兵を減らしていき、最後の晩に残るのを二千にする、というものだった。その二千の中で、いちばん最後まで撃っている役が要る。
「大野?」郷田が眉を寄せた。「あの、いつもボタンの外れとる男か」
「この夏、あの中隊だけ、一人も死んでおりません」真崎は言った。「弾でも、腹でもです」
「たまたま、ではないのか」日下部が言った。
「たまたまか腕か、分かりません。ですが、数字はそうなっております」
真崎は、壕の入口へ声をかけた。
「大野、入ってこい」
呼ばれて壕へ入ってきたのは、がっしりした体の中尉だった。下士官から上がってきた男で、軍服の胸のボタンが、一つだけ外れている。
「大野虎之助中尉、参りました」
「最後の晩、お前の中隊だけで、一晩じゅう撃ってもらう」真崎は言った。「灯りを点けて、音を立てて、飯の火も焚く。一万がまだここにいるように見せるんだ。そのあいだに、ほかの全員が浜から消える」
「で、うちの中隊は」
「最後の艀に乗る」
「なんでウチなんですか!」大野は言った。「ウチは筑豊の炭坑あがりばっかりで、気の荒い川筋者が、言うことをきかんのですよ。もっと出来のいい中隊にやらせてくださいよ」
「その言うことをきかん連中が、手だけは毎日洗っておる」真崎は言った。「だから、お前の中隊だ」
「勘弁してくださいよぉ……少佐殿ォ」
「そこを、何とか頼む」
大野は、地図を一度見て、それから天井を見た。
「……へいへい、やればいいんでしょ、やれば」
「貴様、口の利き方を――」郷田が言いかけた。
「それと、中隊の全員の靴に、砂嚢を縫いつけておけ」真崎は続けた。「足音を消すためだ。桟橋の板にも、麻袋を敷かせる。浜へ下りる道には、暗くても分かるように、小麦粉で白い筋を引く」
大野は、長いため息をついた。
「少佐殿は、余計なことまで、よく気がつきますね」
「あの中隊だけ、なぜ死なんのか。私も気になって、見に行ったことがあります」
壕を出たところで、鵜飼稔が言った。
「何か、特別なことをしておったか」
「何も」鵜飼は言った。「私が五月から言い続けてきたことを、あの中隊だけが、一日も欠かさずやっておりました。手を洗う。水は煮てから飲む。飯の缶は、開けたらすぐ蓋をする。便所は、決めた穴にしかしない」
「どこの中隊にも、そう言ってある」
「言ってはあります。ですが、三日目には、誰も守らなくなる」
二人は、大野の中隊の持ち場を通りかかった。
便所の前に、板が一枚立ててある。墨で、太い字が書いてあった。
――手ヲ洗ハヌ者ハ、中隊長ノ
「……本当に、洗わせたのか」
「一度だけだそうです」鵜飼は言った。「それ以来、誰も忘れません」
その脇の壕の中から、低い声が、節をつけて何か唱えているのが聞こえてきた。
「
声は一人ではなく、中隊の兵が、声を揃えて唱えている。
「砲撃のあいだ、大野中尉は壕の中で、あれをやるそうです」鵜飼は言った。「撃たれるたびに、頭からやり直す。長い日は、四十回やり直したとか。いまでは、中隊の全員が空で言えます」
「落語で、赤痢が防げるのか」
「腹を下すのは、怯えている者からです」鵜飼は言った。「眠れず、食えず、水をがぶ飲みして、生水にまで手を出す。……あの中隊は、よく眠ります。砲撃の最中でも、寿限無の途中で寝てしまう者がいるそうです」
壕の中の声が、長助のところで一度止まり、どっと笑い声が上がった。
誰かが、また言い間違えたらしい。
*
「こいつを見てくれ、マサキ」
ラフティ軍曹が、小銃を一挺抱えて段を下りてきた。銃床の上に空き缶が二つ、上下に括りつけてある。
「浜の大工あがりの上等兵が、またこしらえた。潜望鏡の銃を作った奴だ」ラフティは言った。「誰もいない塹壕で、勝手に撃つ銃さ」
「どうやって」
「上の缶に水を入れる。缶の底に、針で小さな穴を開けてある。水が、下の缶にぽたぽた溜まる」ラフティは下の缶を指で弾いた。「下の缶は、紐で引き金に繋いである。水が溜まって重くなると、缶が下がって、引き金を引く」
「こっ……これは!」真崎は、缶の穴に顔を寄せた。「何分で撃ちます」
「穴の大きさ次第だ。二十分ってとこだな。穴の大きさを変えた銃を並べておけば、俺たちが艀に乗ったあとも、塹壕は一時間、ぱらぱら撃ち続ける」
「……水で撃つ銃、ですか」
「あんたらが、あの井戸から上げてくれた水でな」ラフティは、にやりと笑った。「最後に撃つのが、六段目の水だ。悪くないだろう」
「素晴らしい、ラフティ! こいつは使えます」真崎の声が、珍しく弾んでいた。「その大工に、ぜひ日本の工廠へ来てもらいたい」
「はっは、伝えとくよ。日本のカタナに興味があるって言ってたからな」
「これが、私の連絡先です」真崎は帳面の端を破って走り書きし、ラフティの手に押しつけた。
*
九月二十七日の昼、真崎は、浜の奥に積んだ箱の前に立った。
五月の末に、井坂に白墨で印を付けさせた箱である。焚くのは印の無いほうだけだ、と真崎は言い、印の付いたほうは、それから一度も開けていない。
あのとき井坂は、ほかには、と聞いた。秘密だ、と真崎は答えたきり、とうとう教えずじまいになった。撤退の日のために、あのときから取っておいたのである。
バールで天板を外すと、ファーフィーの筒が、油紙に巻かれたまま詰まっていた。
「南の岬で焚け」真崎は言った。「風は、ダウ軍曹に聞け」
「焚いて、何を揚げるのですか」鵜飼稔が聞いた。
「揚げるのではない。下ろすんだ」真崎は言った。「歩ける病人を、昼のうちに全部、船へ乗せる」
岬の岩陰で、白い帯が立ち上がった。その向こうを、担架と、肩を貸し合った病人の列が、桟橋へ下りていく。
――ドオンッ!
ガバ・テペのほうで砲声がして、帯の手前の海に水柱が立った。列が、ぴたりと止まる。
「……気づかれましたか」鵜飼が、担架の端を握ったまま言った。
真崎は、懐中時計を出した。気づかれたのなら、二発目は三十秒のうちに、桟橋へまっすぐ来る。十秒、二十秒――
――ドオンッ!
二発目は、帯のずっと向こうの、誰もいない砂を掘った。
「……いつもの当てずっぽうだ」真崎は、息を吐いた。「霧が立つと、向こうは必ず二、三発撃ってくる。夏のあいだ、ずっとそうだった。止まるな、歩かせろ」
「歩けェ! 止まるなァ!」
列が、また動きだした。担架を担ぐ兵の足が、さっきより速い。
ガバ・テペの砲台からは、浜に霧が立った、としか見えない。夏のあいだに、何度も見てきた霧である。
救護所の天幕は、張ったまま残すことになっていた。病人のいなくなった天幕の中で、鵜飼は空の寝台を一つずつ数えていた。
「これが、秘密だ」
真崎は、誰もいない箱に向かって、そう言った。
オスマン軍の陣地。
「この三晩、向こうが撃たない時間があります」
セリム大尉は、馬の上の男に言った。
「夜半に、三十分ほどです。三晩続けて、まったく撃ってきません。それから、昼の霧が増えました。霧が立った日は、夕方の艀が、来たときより重そうに帰っていきます」
九月二十八日の夕方。北の丘の一帯を預かるケマル大佐が、馬で古い持ち場を通りかかったのだった。
「向こうの浜の灯りは」
「いつもと同じ数です。炊事の火も、いつもと同じ数だけ上がっております」
「同じ数、か」
大佐は、胸の隠しへ手をやった。そこで手が止まり、隠しの上から一度だけ叩いて、離れた。八月の朝に割れた時計は、もうそこには無い。
「セリム」
「はっ」
「数えておけ。毎晩、艀が何隻来て、何隻帰るかを」
それだけ命じると、大佐は馬の首を北へ向けた。
セリムは、夕闇の浜を見下ろした。桟橋に、灯りがいつもの数だけ点いている。
五月には腐った肉の匂いしかしなかった斜面から、今夜も、石灰の匂いが上がってきていた。
*
撤退の前の晩、浜の墓地に人が絶えなかった。
アンザックの兵は、友の墓の十字架を立て直し、石を並べ直している。日本の兵の墓は、木の柱に墨で名を書いたもので、郷田がその一本一本の前にしゃがんでは、墨の薄れた字をなぞり直していた。
郷田は、誰とも口を利かなかった。
六段目の井戸の脇で、大野が、靴の底に砂嚢を縫いつけていた。太い指で、針を器用に通す。
「少佐殿」
「なんだ」
「明日、俺、死にますかね」
「死なんだろう」
「根拠は」
「お前は運がいい」
大野は、針を止めた。
「……えー。それだけ?」
「それだけだ」
大野は、また針を動かしはじめた。
「お前は、本当に、何も考えておらんのか」真崎は言った。
「考えてますよ」大野は、糸を歯で切った。「どうやって生きて帰るか。それだけ」
大野が持ち場へ戻ってから、真崎は井戸の縁で、封筒を一枚使った。
――明日は、少し忙しくなります。
――そちらは、もう虫の声が聞こえるころでしょうか。
封をすると、二十三枚が残った。
それから、帳面の後ろの白い紙を二枚、破り取った。
一枚目は、上海のアゥロラへである。こちらは、すぐに書けた。
――手紙、ありがとう。ディアナの三言のうち一つは、たぶん「うるさい」だろう。
――井川には、説明書は一行も分からなかった、と伝えてくれ。
――先生の咳のことは、聞かなかったことにする。その代わり、医者に診せてくれ。頼む。
二枚目の頭に、真崎は「愛玲殿」とだけ書いた。
そこから先が、続かない。友でよい、と書いて送ったのは自分である。何を書いても言い訳になるか、余計なことになる気がして、鉛筆の先を紙に当てては離し、また当てる。
上の段で、大野の中隊が寿限無を唱えはじめた。それが三度、頭からやり直しても、二行目は一字も増えなかった。
真崎は二枚目を畳んで、帳面のいちばん後ろに挟んだ。
その夜、真崎は、帳面の新しい頁に、帰りの名簿を作った。
どの艀に、どの中隊の、何人が乗るか。最後の艀に乗るのは、大野の中隊の百九十二人である。
書き終えてから、帳面の一頁目を開いた。
――一万九千六百十二。
宇品を出るとき、乗船名簿を足し上げた数である。帰るときには、同じ名簿で、もう一度数え直す。
そのための名簿の最後に、真崎は、もう一行だけ書き足した。
――月ノ出、二十一時五十五分。