海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「一隻目、出ます」
桟橋の端で、鵜飼稔が言った。
「百二十」真崎勇気は、帳面に書いた。
九月三十日。日が沈んで、まだ半時間しか経っていない。
麻袋を敷いた桟橋の板の上を、靴に砂嚢を巻いた兵が、音を立てずに歩いていく。艀に乗り込む者は、誰も喋らない。浜へ下りてくる道には、小麦粉の白い筋が、暗がりの中でぼんやりと光っていた。
この八日で、四万近くいた浜は、夜ごとに少しずつ減ってきた。今夜ここに残っているのは、二千である。
沖では、輸送船の群れの外側を、金剛と比叡がゆっくりと回っていた。六月のあの夜から、潜水艦は一隻も、この海の口へ入ってきていない。
「月の出まで、あと四時間です」鵜飼が言った。
「四時間で、二千を下ろす」真崎は言った。「最後の百九十二は、月が出てからになる」
*
「撃てェ! いつもの倍だ!」
六段目の上の塹壕で、大野虎之助中尉が怒鳴った。
「倍でありますか、中隊長殿!」
「今夜は一万人ぶんだ! 一人で五十人ぶん撃て!」
大野の中隊は、塹壕の端から端までを走り回っていた。撃っては場所を変え、撃っては場所を変える。空き缶に油を入れて火を点け、塹壕の縁に並べる。飯を炊く火も、いつもの数だけ焚いてある。シャベルで土を胸壁の上へ放り上げ、掘っているふりもする。
「中隊長殿! 向こうから撃ち返してきます!」
「ようし、それでいい。向こうは、ここに一万おると思っとる」
敵の撃ち返しが強くなった。塹壕の縁で、土が弾ける。
「中隊長殿、いつものを!」
「いつものか」大野は、壕の底に腰を下ろした。「では、始めィ」
「寿限無、寿限無、五劫のすりきれ……」
中隊の百九十二人が、声を揃えて唱えはじめた。
撃ちながら、場所を変えながら、それでも唱える。塹壕の向こう側まで、その低い節は届いているはずだった。今夜も日本の兵はそこにいて、いつものように妙な歌を唄っている、と。
一方、オスマン軍の陣地。
「今夜は、向こうがやけに撃ってきます」
北の丘の、見晴らしの利く窪地で、幕僚の少佐が言った。
「灯りも多い。塹壕の縁にずらりと火が並んでおります。おそらく、攻撃の前触れです。夜明け前に、また登ってくるつもりでしょう」
ムスタファ・ケマル大佐は、双眼鏡を下ろさなかった。
灯りの数が、多すぎる。攻めてくる兵は、灯りを増やさない。八月にあの丘へ登ってきた連中は、一つも灯りを点けずに来た。
手もとの紙には、セリムの今夜の数が書いてある。来た艀、十一。帰った艀、十一。帰る艀のほうが、どれも深く沈んでいる。
撃ってくる弾の音は、多いが、同じ場所から続かない。少ない兵が、走り回って撃っているのである。
あの低い歌も聞こえる。日本の兵が、砲撃のたびに唱えている、例の節だ。
「……帰る支度だ」ケマルは言った。
「は」
「向こうは、今夜、浜を空にする」
「では、追撃を」幕僚が身を乗り出した。「いま下りれば、浜で――」
ケマルは、斜面を見下ろした。
あの斜面を、夜の暗さの中、罠があるかどうかも分からない塹壕へ向かって下りていく。塹壕の中では、最後の機関銃が待っている。取れるのは、どうせ明日の朝には空になる浜だ。五月十九日に、四万を斜面へ走らせて、一万が倒れた。
丘は、どちらにしてもこちらに残る。
「追わん」ケマルは言った。「我々は、勝ったのだ。深追いして、兵を無駄に死なせることはせん」
「大佐殿」
「帰る者を追って丘を下りれば、十九日と同じことになる」ケマルは、双眼鏡を下ろした。「撃つな。数えろ。朝になったら、全部こちらのものだ」
*
九時過ぎ、ダウ軍曹が、ニュージーランドの最後の小隊を連れて桟橋の脇を通りかかった。最後の艀が出るまで、郷田の岩場の隣で後ろを守るのだという。
ダウは一度だけ足を止めて、真崎の前に立った。
「あんたらの水と、あの陽動には」ダウは言った。「ずいぶん助けられた」
真崎が何か言うより先に、ダウは背を向けて、岩場のほうへ登っていった。
ラフティ軍曹は、例の銃を十挺ばかり担いで、大野の中隊の塹壕へ上がっていった。
「大野! 置き土産だ」
「なんすか、こりゃ」
「水で撃つ銃だ。あんたらが下りたあとも、ここで勝手に撃ち続ける」ラフティは、上の缶に水を注ぎ、穴の大きさを確かめて、一挺ずつ胸壁に据えていった。「二十分のと、四十分のと、一時間のだ」
「へえ……そいつは、ありがてえ」大野は、珍しく素直に言った。
据え終えたラフティは、大野の中隊と一緒に最後の艀に乗ると言って、塹壕に残った。
郷田龍一郎中佐は、艀には乗らなかった。
桟橋を見下ろす小高い岩場に、郷田の組の十二人が伏せている。チュヌク・バイルへ水を担いで登った者の中から、郷田が狙撃の得意な者だけを選んだ組である。郷田の小銃の上には、あの望遠の照準器が載っていた。
「中佐殿」
「前へ出るのではない」郷田は、照準器を覗いたまま言った。「後ろを守るだけだ。……貴様らの言う、後ろの一切というやつだ」
「最後の艀には、乗ってください」
「乗る。貴様の数に、俺を入れ忘れるなよ」
二十一時五十五分。
東の丘の稜線が、うっすらと白くなった。
「月です」鵜飼が言った。
真崎は、塹壕へ向けて、探照灯を一度だけ短く点けさせた。
六段目の上で、寿限無が止んだ。
大野の中隊が、塹壕から消えていく。靴に巻いた砂嚢が、土の上で音を吸う。小麦粉の白い筋を踏んで、兵は一列になって斜面を下りてきた。
塹壕の中では、ラフティの銃が、ぽつり、ぽつりと勝手に撃ちつづけている。
月が、稜線の上へ出た。
浜も、桟橋も、斜面を下りてくる列も、白く照らし出される。
小麦粉の筋が、月の光を跳ね返して、一本の白い道になった。その上を、黒い影が一列に並んで動いている。
列の先頭が、桟橋に着いた。真崎は、板の上を渡っていく頭を一つずつ数えた。
「……百八十九、百九十、百九十一」
列が、そこで途切れた。
真崎の鉛筆が止まる。名簿では、大野の中隊は百九十二である。
「大野」
「へい」最後に下りてきた大野が、中隊を見回した。その顔から、みるみる血の気が引いていく。「……一人、おらん。あの寝坊助の上等兵だ」
砲撃のたびに寿限無を唱えて、その途中で寝てしまう者がいる、と鵜飼が言っていた。その一人が、まだ塹壕の底にいる。
そのとき、ラフティが顔色を変えた。
「おい……撃つ音が、少なすぎる」
耳を澄ますと、塹壕から聞こえる銃声の間が、さっきより明らかに開いている。ぽつり、と一つ鳴って、次がなかなか来ない。
「上の缶が、漏れてやがる」ラフティは、拳で自分の膝を打った。「穴じゃねえ、継ぎ目からだ。……二十分のは、もう全部止まってる。四十分のも、じきに止まるぞ」
真崎は、懐中時計を出した。四十分の銃を据えたのが、二十一時二十分。漏れているなら、それより早い。
「あと五分も、もたん」
塹壕が黙れば、向こうは見に来る。
「うちのもんは、うちが拾う」
大野は、真崎の返事を待たなかった。月に照らされた白い道を、一人で斜面へ駆け上がっていく。
「大野ッ!」
岩場の上で、郷田が大野の背中を目で追っていた。それから、照準器に目を戻した。
「……組の者。稜線から目を離すな。敵が出てきたら、大野中尉を援護射撃せよ」
塹壕の底で、上等兵は、壁に背中を預けて眠っていた。口が、まだ寿限無の続きをもごもごと唱えている。
「起きんかァ!」
大野が蹴りつけると、上等兵は跳ね起きて、きょとんと辺りを見回した。
「……中隊長殿? みんなは」
「とっくに浜だ、この寝坊助が! 走れェッ!」
胸壁の上で、最後の一挺が、ぽつりと鳴って黙った。
塹壕が、しんと静まり返る。
「稜線に、人影ッ!」鵜飼が叫んだ。
六段目のさらに上、向こうの塹壕の縁に、影がいくつも立ち上がっていた。銃声の止んだ塹壕を、怪しんで見に来たのだ。
影のうちの二つが、何か重いものを据えている。
「機関銃だ」真崎は言った。「大野、伏せろォ!」
――タタタタタタッ!
白い道の上で、土が一列に弾けた。駆け下りていた大野と上等兵が、斜面に張りついて動けなくなる。
「中隊長殿! 動けません!」
「動くな! 弾は、上を通っとる!」大野が怒鳴った。「……たぶんな!」
桟橋まで、まだ二百メートルある。月は、昇るばかりだった。
――パンッ。
岩場から、乾いた音が一つ響いた。
稜線の機関銃が、ぴたりと黙る。撃ち手の影が、銃の後ろへ崩れていた。
別の影が、銃に取りついた。
――パンッ。
その影も、崩れた。
「郷田の組です!」鵜飼が言った。
岩場から、十二挺が間を置いて撃ちはじめた。一発ごとに、稜線の影が一つずつ減っていく。機関銃には、もう誰も近寄れない。
「いまだ、走れッ!」大野が、上等兵の襟首を掴んで引き起こした。「走れ走れ、寿限無の続きは艀でやれェ!」
だが、稜線の塹壕から、今度は銃剣を着けた影がばらばらと溢れ出してきた。三十、四十。斜面を下りて、白い道の二人へ迫ってくる。
郷田が、岩場の上に立ち上がった。
「着剣ッ!」
「着剣ッ!」
十二人が、月の光の中で一斉に銃剣を着けた。刃が、白く光る。
隣の岩陰では、ダウの小隊のニュージーランド兵たちも、黙って銃剣を着けていた。
「付き合うぜ、中佐」ダウが言った。
「突撃ィィィッ!」
「ワアアアアアアッ!」
日本とニュージーランドの兵が、声を張り上げて岩場から躍り出た。白い道を駆け下りてくる大野と上等兵の脇を、逆向きに駆け上がっていく。
「中佐殿ッ!」
「下りろ、大野! 振り向くな!」
上等兵が白い道で足をもつれさせ、悲鳴を上げて転んだ。大野はそれを肩に担ぎ上げて、また走った。
――タタタタタッ!
稜線の機関銃に、また誰かが取りついていた。先頭近くを走っていたニュージーランドの兵が三人、もんどり打って倒れる。
それでも、斜面を下りてきた影は、ぴたりと止まった。
月の下で、刃を光らせて駆け上がってくる一団が、何人いるのかは分からない。岩場の陰から、まだ何十人も出てくるように見える。
影は、次々と地面に伏せ、這うように稜線の塹壕へ戻りはじめた。
郷田は、岩場から二十歩のところで足を止めた。
「――回れ右ッ!」
「回れ右ィ!」
「見ろ、オスマンの連中、腰を抜かして逃げてったぞ!」
「走れェッ!」
日本とニュージーランドの兵が、くるりと向きを変えて、桟橋へ向かって一目散に駆け下りはじめる。
郷田だけが、その流れの中で足を止めた。斜面の上に、倒れた三人が残っている。
「四人、付いてこい!」
郷田は、四人を連れて、いま来た斜面を逆に駆け上がった。機関銃の弾が、足もとの土を跳ね上げる。倒れた兵の襟首を掴み、一人は肩に担ぎ上げ、残る二人は二人がかりで引きずって、全速力で駆け下りてくる。
「中佐殿、無茶です!」真崎が、桟橋から怒鳴った。
「一人も、置いていかん!」郷田が怒鳴り返した。
「出せ!」
最後の兵が、桟橋の板を渡った。郷田の組とダウの小隊が、担いできた三人と一緒にそのあとから転がり込んでくる。大野が、ボタンの外れた軍服のまま、いちばん最後に艀へ飛び乗った。
艀が、桟橋を離れていく。
真崎は、艀の上で、最後の組の頭を数えた。大野の中隊が百九十二、郷田の組が十三。
一人も欠けていない。
艀の底で、鵜飼が三人のニュージーランド兵の傷を縛っていた。一人は肩を、二人は脚を撃ち抜かれている。
「血は止まります」鵜飼は、手を止めずに言った。「三人とも、船まではもちます」
郷田は、その横に座り込んで、肩で息をしていた。頬に一筋、血が滲んでいる。岩の欠片で切ったらしい。
ダウが、揺れる艀の上を這うようにして、郷田の前に来た。
「中佐」ダウは、郷田の手を両手で握った。「うちの三人を……恩に着る」
「あんたの突撃、最高だったぜ」ラフティが、横から郷田の肩を叩いた。「腰を抜かして逃げていく連中の顔を、国の連中に見せてやりたかったな」
郷田は、何も言わなかった。握られた手を、振りほどきもしなかった。
「……中佐殿」大野が言った。「突撃ってのは、回れ右するもんでしたっけ」
「今夜からは、そうだ」郷田は言った。
それから、照準器を外して、懐へしまった。
大野は、艀の舳先に立って、月に照らされた丘を振り返った。
それから、両手を口に当てた。
「さらば、戦場!」大野は叫んだ。「もう来ないぞ~!」
艀の上で、誰かが噴き出した。噴き出した口を押さえて、また誰かが噴き出す。
「中隊長殿、声が大きいです!」
「もう、いいだろう」大野は言った。「向こうは、とっくに知っとるよ」
真崎は、大野の顔を見た。
大野は、もう丘を見ていなかった。
*
沖の輸送船の上で、真崎は帳面を開いた。
艀ごとの数を、上から順に足していく。宇品を出るときと同じ名簿で、もう一度数え直すのである。
足し上げた数は、今夜の名簿と、一人も違わなかった。この夜、死んだ者はいない。師団で傷ついた者が、二人。郷田の頬の傷と、白い道で転んで手首を折った、あの寝坊助の上等兵である。
真崎は、その数を、一頁目の数の下に書いた。
――一万九千六百十二。
――一万五千八百七十。
差は、三千七百四十二である。
*
夜が明けてから、セリム大尉は、向こうの塹壕へ入った。
ゆうべ、南の大隊の一隊が、命令も待たずに勝手に塹壕を出て、月の下で何者かの銃剣に追い返されたと聞いている。
誰もいない。胸壁に、小銃が何挺も据えてあって、どれも銃床に空き缶が括りつけてある。上の缶は空で、下の缶に水が溜まっていた。
一挺だけ、まだ上の缶に水が残っていて、ぽたり、ぽたりと、下の缶へ落ちている。
六段目まで下りると、井戸がある。
手押しのポンプが据えてあって、セリムが柄を一度押すと、冷たい水が勢いよく出てきた。
井戸の縁に、煙草の箱が一つ置いてあった。五月の休戦の日に、境界線で、日本の中佐と交換したのと同じ箱である。封は、切っていない。
「取り返しました、大佐殿!」
後ろで、幕僚の少佐の声がした。
振り返ると、北の丘から下りてきたケマル大佐が、塹壕の縁に立っていた。空の塹壕と、下の浜と、何も浮かんでいない朝の海を、順に見ている。
「取り返したのではない」ケマル大佐は言った。「向こうが、帰ることを選んだのだ」
セリムは、煙草の箱を懐に入れた。
ポンプの口から、まだ水が滴っていた。