海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
真崎は扉を開けた。
卓上に広げられていたのは、欧州の地図ではなかった。
支那の地図だった。敬礼が、一拍遅れた。
地図を広げていたのは、郷田中佐だった。二月前、
大正四年(一九一五年)一月中旬。三宅坂、参謀本部の一室。暖房の火の気は薄く、吐く息がわずかに白かった。
上座に、
「真崎大尉よ、青島では本当にご苦労だった」
神尾は葉巻を軽く上げた。
「その後もお前の噂はよく聞くぞ。さては欧州派兵のことか?」
声に、迷いがなかった。この人はもう、こちらの用件を知っている。
「はい。閣下に、お力添えをいただきたく参りました」
内ポケットの乃木大将の遺書と護身符が、外套越しに硬く当たった。
「軍務局の郷田中佐の見立ても、聞いておきたくてな。来てもらった」神尾が言った。
真崎は椅子を引いた。木の軋む音が、やけに大きく響いた。
「単刀直入に申し上げます」真崎は支那の地図を
「十八日か」神尾が呟いた。「もうすぐだな」
「対華要求について、元老の裁可は下りたと聞く」神尾は続けた。「だがその裁可と、欧州派兵は別の話だ」
「地中海方面へ一個師団。輸送船十数隻。この構想を、閣下の推薦文と実績で裏書きいただきたいのです」
郷田が、地図の上に掌を置いた。満州の位置だった。北京から続く朱線の先に、その掌はあった。
「真崎大尉、貴公の絵は、相変わらず緻密だな」郷田は掌を動かさなかった。「一個師団を欧州へ出せば、この背後が空になる。徴兵で集めた国民の軍だ。もともと日本陸軍というのは外征させるための軍ではない」
「徴兵の軍だからこそ」真崎は言った。「無駄死にはさせられません」
「貴公、地中海までの往復を何月と見ている」
「十数隻あれば――」
「話にならん」郷田は掌を地図から離した。「青島では、十二隻が毎月、一個師団分の弾と飯を揚げ続けた。片道十日、荷役に十日。締めて一往復、ひと月だ」
真崎の喉が、詰まった。
「地中海は片道四十日」郷田は続けた。「荷役の十日を足して、一往復ちょうど三月。一隻が働ける回数は、青島の三分の一。同じ量を揚げ続けるなら、船は三倍要る。三十六隻は下るまい」
真崎は答えられなかった。喉の奥が、乾いた音を立てた。
「――甘うございました」
声を、絞り出した。
「三十六隻。その数を、私は持ち合わせておりません」
「話にならん、と言うたはずだ」郷田は言った。「船もない絵図には、血の匂いがせん」
真崎は、俯かなかった。認めた分だけ、頭を上げていた。
「船は、まだありません」真崎は言った。「それでも、あらためて伺いたいことがあります」
「郷田中佐。青島は、白兵突撃で落ちたのですか」
郷田の表情から、几帳面な余裕が消えた。
「――貴様」
「大砲がコンクリートを割ったことなど、百も承知だ。そう仰ったのは、中佐殿ご自身です」
「内部資料として、遺憾なく活用させてもらう。そう仰いましたね」真崎は続けた。「活用されました。陸軍次官から、陸軍大臣まで。中佐殿の頭越しに」
郷田の指が、一度だけ跳ねた。
「……なるほど。器用な男だ」郷田は椅子に深く座り直した。「だがな真崎。あの嘘で、歩兵師団増設の予算は通った。通った予算で作った師団を、貴様は今、欧州へ捨てに行くのだ。貴様は日露戦役の……旅順の突撃で得たものを知らんから、そのような発想に至るのだ」
神尾が、葉巻を灰皿に置いた。
「――郷田中佐よ」
低い声だった。
「私は、青島で……あの夜を覚えている。旅順の亡霊に怯えた幕僚どもが、突撃させろと喚いた夜のことをな。私の兵を救ったのは大和魂ではない。二十四
「……閣下」
「貴様の友の死も、真崎の万年筆も、私は責めん」神尾は言った。「だが貴様の船の勘定は、正しい。三十六隻、私も同じ数字を出す。私はもう師団を持っておらん。私の名は、青島の勝ちの分だけ重い。それを使い切れば、私には何も残らんぞ」
郷田は、神尾を見返していたが、やがて視線を外した。
「――神尾閣下のご随意に」
書類を揃え、椅子を引いた。立ち上がりざま、真崎にだけ聞こえる声で言った。
「これは、貴様一人の腹では済まん。軍務局、陸軍、いや政治も巻き込んだ話だ。肝に銘じておけ」
足音が遠ざかり、扉が閉まった。
部屋には、神尾と真崎の二人だけが残った。神尾は葉巻の箱を、卓越しに押し出した。
「一本、やるか」
「――失礼します」
真崎は一本抜いたが、火はつけなかった。指先が、震えていた。
「郷田中佐は貴官の上官であり、正反対の思想を持つ者だ。――だから呼んだ」
「はっ。承知しております」
「私と貴官だけの会議では、八百長で出来上がった書面だと、後から言われかねん」
神尾は続けた。
「
「覚えています」真崎は言った。「後日、ビスマルク砲台の下で、自分の背中を守ってくれました。右手に包帯を巻いたままで、戻ってきたのです」
神尾の眉が、わずかに動いた。
「その書類が、陳情書だ」神尾は葉巻の灰を落とした。「あの後、その腕を落とした。破傷風にかかったらしい。生きて帰ったせいで、恩給の等級がまだ決まらん」神尾は続けた。「私は、死体の山をただの数字として処理してきた男だ。生きて帰った男の数字合わせすら、まだできずにいる」
真崎は、その言葉に何も返せなかった。
卓上の紙に目を落とした。この数字の下にも、宮本のような名前が並んでいるはずだった。
「三十六隻」真崎は言った。「揃わねば、片道にするしかありません。英国に現地で艦を都合させます」
「そうだ」神尾は卓に紙を広げた。「船の話は、海軍に持ち込め」
神尾は葉巻を置いた。
「聞かれる前に言っておく。トラキアの水のことだ」
「――田中閣下の、四つ目の問いですね」
「そうだ」神尾は言った。「貴官がまだ答えを持っておらんことも、見当はついておった」
「バルカン半島南東部――トラキアと我々が戦った
「給水縦列そのものが、泥に沈んだと聞いています」
「沈んだ」神尾は頷いた。「荷車の車輪が泥に食われ、馬も人も抜けなくなった。水を運ぶための縦列が、水を待つ側に回った。皮肉な話だ」
「その泥なら、自分も見ました」
「ならば分かるはずだ」神尾は続けた。「兵二万、馬五千。兵一人が日に五リットル呑む。馬はその十倍だ。ざっと日に三百六十トン――米俵に直せば、五千俵ぶんの水を、毎日運ぶということだ。井戸を掘り、給水の縦列を組めば、計算で潰せる敵だ。ただし井戸を掘るには、工兵が一個中隊、二月は要る。その二月を、英国が待つかどうかだ」
「私の名は貸す」神尾は新しい万年筆を取った。「ただし、船の数までは貸せん。海軍が船を出すという紙、英国が弾を持つという紙。両方持ってこい。そうしたら田中義一も貴官の話を聞くだろう。そしてハンコも押す」
「――承知しました」
神尾は紙の末尾に、「神尾光臣」と署名した。ペン先の擦れる音が、静かな部屋に響いた。
真崎はその一枚を懐にしまった。乃木の遺書の隣に収めると、懐が、また一枚ぶん重くなった。
出た分だけ、宿題は重くなった。海軍の紙、英国の紙——どちらもまだ、真崎の手の中にはない。
郷田の捨て台詞が、まだ耳に残っていた。貴様一人の腹では済まん。あの男は、これで終わる質の男ではなかった。
真崎は敬礼し、部屋を出た。廊下の冷気が、頬を刺した。
一個師団の重さは、まだ紙の上にしかない。
それを本物にするのは、これからだった。
今回登場した輸送船の勘定について、少しだけ解説を。
日本陸軍が青島攻略戦で山東半島へ部隊を送った際、実際に投入された輸送船は数十隻規模でしたが、劇中の「十二隻」はそのうち継続的に弾薬・糧食を揚げ続けた運用船腹を指すものとして設定しています。片道の航海日数に加えて、荷役(積み下ろし)に要する日数を足すと「一往復」の実働日数が決まり、そこから一隻が年間に何往復できるかが割り出せます。地中海までの距離では、この往復日数が大きく延びるため、同じ量の物資を送り続けようとすると、単純な比例計算だけで必要な船腹が跳ね上がります。当時の徴用船(御用船)は陸軍と海軍でそれぞれ別枠として管理されており、限られた船腹の奪い合いは平時から陸海の間で起きていました。
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