海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第九十七話 一個師団の重さ

 真崎は扉を開けた。

 卓上に広げられていたのは、欧州の地図ではなかった。

 支那の地図だった。敬礼が、一拍遅れた。

 

 地図を広げていたのは、郷田中佐だった。二月前、青島(チンタオ)の砲台跡で「真実など補助事実に過ぎん」と真崎に命じた当の本人であった。書類の角を揃える指先だけが、几帳面に動いていた。

 

 大正四年(一九一五年)一月中旬。三宅坂、参謀本部の一室。暖房の火の気は薄く、吐く息がわずかに白かった。

 

 上座に、神尾光臣(かみおみつおみ)中将が座っていた。青島戦の現地最高司令官を務めたあの神尾中将である。戦訓報告のため上京している最中だと聞いていた。日に焼けた顔だけが、この部屋の中で唯一、まだ戦場の色を残していた。

 

「真崎大尉よ、青島では本当にご苦労だった」

 神尾は葉巻を軽く上げた。

 

「その後もお前の噂はよく聞くぞ。さては欧州派兵のことか?」

 声に、迷いがなかった。この人はもう、こちらの用件を知っている。

 

「はい。閣下に、お力添えをいただきたく参りました」

 内ポケットの乃木大将の遺書と護身符が、外套越しに硬く当たった。

 

「軍務局の郷田中佐の見立ても、聞いておきたくてな。来てもらった」神尾が言った。

 真崎は椅子を引いた。木の軋む音が、やけに大きく響いた。

 

「単刀直入に申し上げます」真崎は支那の地図を一瞥(いちべつ)した。「今月十八日、対華二十一箇条の要求が北京へ手交されます。列強の目が支那に向く前に、欧州派兵の数字を英国の卓へ載せねばなりません」

 

「十八日か」神尾が呟いた。「もうすぐだな」

「対華要求について、元老の裁可は下りたと聞く」神尾は続けた。「だがその裁可と、欧州派兵は別の話だ」

 

「地中海方面へ一個師団。輸送船十数隻。この構想を、閣下の推薦文と実績で裏書きいただきたいのです」

 郷田が、地図の上に掌を置いた。満州の位置だった。北京から続く朱線の先に、その掌はあった。

 

「真崎大尉、貴公の絵は、相変わらず緻密だな」郷田は掌を動かさなかった。「一個師団を欧州へ出せば、この背後が空になる。徴兵で集めた国民の軍だ。もともと日本陸軍というのは外征させるための軍ではない」

 

「徴兵の軍だからこそ」真崎は言った。「無駄死にはさせられません」

 

「貴公、地中海までの往復を何月と見ている」

「十数隻あれば――」

 

「話にならん」郷田は掌を地図から離した。「青島では、十二隻が毎月、一個師団分の弾と飯を揚げ続けた。片道十日、荷役に十日。締めて一往復、ひと月だ」

 

 真崎の喉が、詰まった。

「地中海は片道四十日」郷田は続けた。「荷役の十日を足して、一往復ちょうど三月。一隻が働ける回数は、青島の三分の一。同じ量を揚げ続けるなら、船は三倍要る。三十六隻は下るまい」

 

 真崎は答えられなかった。喉の奥が、乾いた音を立てた。

「――甘うございました」

 

 声を、絞り出した。

「三十六隻。その数を、私は持ち合わせておりません」

 

「話にならん、と言うたはずだ」郷田は言った。「船もない絵図には、血の匂いがせん」

 真崎は、俯かなかった。認めた分だけ、頭を上げていた。

 

「船は、まだありません」真崎は言った。「それでも、あらためて伺いたいことがあります」

「郷田中佐。青島は、白兵突撃で落ちたのですか」

 郷田の表情から、几帳面な余裕が消えた。

 

「――貴様」

「大砲がコンクリートを割ったことなど、百も承知だ。そう仰ったのは、中佐殿ご自身です」

 

「内部資料として、遺憾なく活用させてもらう。そう仰いましたね」真崎は続けた。「活用されました。陸軍次官から、陸軍大臣まで。中佐殿の頭越しに」

 

 郷田の指が、一度だけ跳ねた。

「……なるほど。器用な男だ」郷田は椅子に深く座り直した。「だがな真崎。あの嘘で、歩兵師団増設の予算は通った。通った予算で作った師団を、貴様は今、欧州へ捨てに行くのだ。貴様は日露戦役の……旅順の突撃で得たものを知らんから、そのような発想に至るのだ」

 

 神尾が、葉巻を灰皿に置いた。

「――郷田中佐よ」

 

 低い声だった。

「私は、青島で……あの夜を覚えている。旅順の亡霊に怯えた幕僚どもが、突撃させろと喚いた夜のことをな。私の兵を救ったのは大和魂ではない。二十四(センチ)の鉄塊だ。それを『歩兵の武勲』と書き換えたのは、貴様だ」

 

「……閣下」

 

「貴様の友の死も、真崎の万年筆も、私は責めん」神尾は言った。「だが貴様の船の勘定は、正しい。三十六隻、私も同じ数字を出す。私はもう師団を持っておらん。私の名は、青島の勝ちの分だけ重い。それを使い切れば、私には何も残らんぞ」

 

 郷田は、神尾を見返していたが、やがて視線を外した。

「――神尾閣下のご随意に」

 書類を揃え、椅子を引いた。立ち上がりざま、真崎にだけ聞こえる声で言った。

「これは、貴様一人の腹では済まん。軍務局、陸軍、いや政治も巻き込んだ話だ。肝に銘じておけ」

 

 足音が遠ざかり、扉が閉まった。

 部屋には、神尾と真崎の二人だけが残った。神尾は葉巻の箱を、卓越しに押し出した。

 

「一本、やるか」

「――失礼します」

 真崎は一本抜いたが、火はつけなかった。指先が、震えていた。

 

「郷田中佐は貴官の上官であり、正反対の思想を持つ者だ。――だから呼んだ」

「はっ。承知しております」

「私と貴官だけの会議では、八百長で出来上がった書面だと、後から言われかねん」

 

 神尾は続けた。

膠州湾(こうしゅうわん)で、天幕に転がり込んできた伝令に、宮本という男がいたな」神尾は言った。「名だけは覚えている。……先だって、同じ名を書類でもう一度見た」

 

「覚えています」真崎は言った。「後日、ビスマルク砲台の下で、自分の背中を守ってくれました。右手に包帯を巻いたままで、戻ってきたのです」

 

 神尾の眉が、わずかに動いた。

 

「その書類が、陳情書だ」神尾は葉巻の灰を落とした。「あの後、その腕を落とした。破傷風にかかったらしい。生きて帰ったせいで、恩給の等級がまだ決まらん」神尾は続けた。「私は、死体の山をただの数字として処理してきた男だ。生きて帰った男の数字合わせすら、まだできずにいる」

 

 真崎は、その言葉に何も返せなかった。

 

 卓上の紙に目を落とした。この数字の下にも、宮本のような名前が並んでいるはずだった。

 

「三十六隻」真崎は言った。「揃わねば、片道にするしかありません。英国に現地で艦を都合させます」

「そうだ」神尾は卓に紙を広げた。「船の話は、海軍に持ち込め」

 

 神尾は葉巻を置いた。

「聞かれる前に言っておく。トラキアの水のことだ」

 

「――田中閣下の、四つ目の問いですね」

「そうだ」神尾は言った。「貴官がまだ答えを持っておらんことも、見当はついておった」

 

「バルカン半島南東部――トラキアと我々が戦った山東(シャントン)半島は、地形も気候も違う」神尾は続けた。「だから青島の戦訓は、そこまで参考にならん。だが確定している事実はある。青島とは真逆に――水が不足する。青島で我々を殺しかけたのは、水が足りぬことではない。天から降りすぎた水だ。豪雨が泥濘を作り、兵站そのものを殺した。軍馬は次々に泡を吹いて斃れ、工兵は腰まで泥に浸かって砲を押した」

 

「給水縦列そのものが、泥に沈んだと聞いています」

「沈んだ」神尾は頷いた。「荷車の車輪が泥に食われ、馬も人も抜けなくなった。水を運ぶための縦列が、水を待つ側に回った。皮肉な話だ」

 

「その泥なら、自分も見ました」

「ならば分かるはずだ」神尾は続けた。「兵二万、馬五千。兵一人が日に五リットル呑む。馬はその十倍だ。ざっと日に三百六十トン――米俵に直せば、五千俵ぶんの水を、毎日運ぶということだ。井戸を掘り、給水の縦列を組めば、計算で潰せる敵だ。ただし井戸を掘るには、工兵が一個中隊、二月は要る。その二月を、英国が待つかどうかだ」

 

「私の名は貸す」神尾は新しい万年筆を取った。「ただし、船の数までは貸せん。海軍が船を出すという紙、英国が弾を持つという紙。両方持ってこい。そうしたら田中義一も貴官の話を聞くだろう。そしてハンコも押す」

「――承知しました」

 

 神尾は紙の末尾に、「神尾光臣」と署名した。ペン先の擦れる音が、静かな部屋に響いた。

 

 真崎はその一枚を懐にしまった。乃木の遺書の隣に収めると、懐が、また一枚ぶん重くなった。

 出た分だけ、宿題は重くなった。海軍の紙、英国の紙——どちらもまだ、真崎の手の中にはない。

 郷田の捨て台詞が、まだ耳に残っていた。貴様一人の腹では済まん。あの男は、これで終わる質の男ではなかった。

 

 真崎は敬礼し、部屋を出た。廊下の冷気が、頬を刺した。

 

 一個師団の重さは、まだ紙の上にしかない。

 それを本物にするのは、これからだった。




今回登場した輸送船の勘定について、少しだけ解説を。

日本陸軍が青島攻略戦で山東半島へ部隊を送った際、実際に投入された輸送船は数十隻規模でしたが、劇中の「十二隻」はそのうち継続的に弾薬・糧食を揚げ続けた運用船腹を指すものとして設定しています。片道の航海日数に加えて、荷役(積み下ろし)に要する日数を足すと「一往復」の実働日数が決まり、そこから一隻が年間に何往復できるかが割り出せます。地中海までの距離では、この往復日数が大きく延びるため、同じ量の物資を送り続けようとすると、単純な比例計算だけで必要な船腹が跳ね上がります。当時の徴用船(御用船)は陸軍と海軍でそれぞれ別枠として管理されており、限られた船腹の奪い合いは平時から陸海の間で起きていました。

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