海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
三階の廊下を、足音を立てずに歩く男がいた。
軍令部の札が掛かった扉を、いくつも過ぎた。
階段を降りる。二階へ降りるだけだった。罪になるのは、その先だ。
大正四年(一九一五年)一月中旬。霞が関、海軍省。
海軍省と海軍軍令部は、同じ屋根の下にあった。大臣の部屋は二階、軍令部総長の部屋は三階。廊下一本で、軍政と作戦が繋がっている。
左の前腕に、古い刃傷の痕が一本走っている。
指図は、いつも紙一枚だった。経理局主計課、伺い書一通。写せ、とだけ書いてあった。
廊下ですれ違う士官が、誰も目を合わせてこない。シーメンス事件から、まだ一年と経っていない。海軍将校が軍艦をかじっている風刺画が新聞に載り、軍服のまま街を歩くのが苦行になった一年だ。その空気は、庁舎の中にまで染みている。
ここは敵地ではない、と潮崎は思った。自分の家だ。それが厄介だった。
この庁舎にいることを、咎める者はいない。咎められるのは、これから手を伸ばすものだけだった。
*
一階の閲覧室の前に、陸軍の軍装が立っていた。
眼鏡の奥の目が、潮崎を上から下まで一度で測った。値踏みが速い。
「柏木だ」男は言った。「真崎から話は聞いている」
「俺も聞いてます」潮崎は答えた。「軍務局に、英国かぶれの変わり者がいると」
「変わり者で通っている方が、都合がいい」柏木は表情を変えなかった。「英国海軍の予算制度の研究、という名目で閲覧を申請してある。三日前からここに出入りしている」
筋の通し方が丁寧だった。潜り込むのではなく、正面から入って居座る。この男は影の作り方を知っている。
「書類は」
「経理局の主計課だ」柏木は手帳を開かなかった。全部頭に入っている。「軍務局から海軍省へ、正式に照会が出ている。真崎が神尾閣下の名を借りて、動かした話だ。冒頭は徴発令。中身は、陸軍への船の融通」
「回答は」
「まだ戻ってない」柏木は言った。「経理局の中で止まっている。戻る頃には、十八日を過ぎているかもしれん」
「待てない、ということか」
「待てば、間に合わん」柏木は言った。「戻ってくる前に、今どちらへ傾いているかだけでも知りたい」
「判は」
「朱印が三つ。空いているのは、主計課長の合議印だけだ。それが押されれば、書類は次官へ上がる。上がれば金庫の中だ」
「なぜ、あんたにそこまで分かる」
「英国の予算制度は、閲覧すれば分かる」柏木は答えになっていない答えを返した。
「陸軍は、何隻要ると言っている」
「三十六隻」柏木は言った。「真崎が神尾閣下の前で出した数だ。地中海は一往復に三月かかる。青島の三倍だ」
「盗るのか」潮崎は聞いた。「それとも」
「盗れば、紙が一枚消える。消えれば、誰かが数を数え直す」柏木は言った。「写すだけにしろ。紙はそこに残す。抜けたことにも気づかせるな」
「見て、写して、戻す。それだけか」
「それだけだ」柏木は頷いた。
潮崎は指を折らなかった。折る必要がなかった。
「あんたの手は、どこまで汚れてる」
「おかしなことを言う」柏木は口角を上げながら返した。「俺は必要な分だけ汚れる」
真崎とは違う種類だ、と潮崎は思った。真崎は泥をかぶるのを嫌がる。この男は泥を選んでいる。
柏木が背を向けた。歩き出しながら、振り返らずに言った。
「三十分だけだ」
*
経理局主計課の一室は、二階の奥にあった。
昼の休みの時刻だった。人の気配がない。扉に鍵はかかっていなかった。休みの間は誰も戻らない、という油断がそこにあった。
潮崎は音を立てずに入り、扉を背にして耳を澄ませた。廊下に足音はない。
壁際に鉄の金庫。卓の上の書類函にも、鍵はなかった。指先だけで、紙をめくっていく。
その一枚は、函の二番目にあった。
「徴発令ニ依リ」から始まっていた。朱印が三つ。柏木の言った通り、主計課長の欄だけが白いままだった。
潮崎は万年筆を抜き、手帳に写しはじめた。写真機は使えない。乾板を切る音は、静まった部屋では銃声に等しい。手書きなら、紙とペンの擦れる音で済む。
手を動かしながら、耳は扉の外に向けていた。
隻数が、書いてある。
傭船の期間も、弁償の見積りも書いてある。金額の桁が、想像より一つ大きかった。
運び屋は荷の中身を見ない。それが仕事だ。だが今、見てしまった。陸軍が何をしようとしているのかを、この紙は数字だけで語っている。
十五分。
二十分。
廊下に、足音がした。
潮崎は手を止めなかった。来客なら通り過ぎる。だが足音は、この扉の前で止まった。
扉が開いた。
初老の男が立っていた。騒がなかった。
後ろ手で、静かに扉を閉めた。
逃げ場はない。窓は嵌め殺しだ。腕力で押し通れば、憲兵が来る。
潮崎は万年筆を握ったまま、頭の中で手札を並べた。どれも、この庁舎の中では勝ち目のない手だった。
「経理局主計課長、
主計大監は大佐相当の位だ。対する潮崎は、中尉に過ぎない。開きは、比べるまでもなかった。
「軍令部の方が、なんで二階の奥におるんかな」
潮崎は答えなかった。答える前に、別のことが引っかかった。軍令部、と男は言った。名乗ってもいないのに。
だが妙だった。久野は扉の外へ声を上げない。衛兵を呼ぶ素振りもない。
ただ、卓上の書類函を見ている。潮崎が写していた、あの一枚を。
「あぁなるほどな……まぁ答えんでもええわ」久野は卓の向こうに立った。「わしは将校ちゃう。相当官や。君らは、そう呼ぶやろ」
声に恨みはなかった。恨む時期を、とうに過ぎた男の声だった。
この男は、突き出す気がない。ならば理由がある。潮崎は賭けに出た。
「一つ、伺います」潮崎は万年筆を置かなかった。「その紙、主計課長の判だけが白いままです。なぜ、押さないんです」
久野の目が、初めて動いた。
「シーメンス事件の後、この局から出た紙で、何人の首が飛んだと思う」久野は言った。「わしはもう、誰の名前も覚えん。覚えると、押せんようになる」
潮崎は、その言い方を知っていた。
「押したら、この紙は動く。動いたら、船が出る」久野は続けた。「船が沈んだら、その船を選んだ者の名が残る。書類の隅に、小さくな。もうこりごりなんや。わしが押した判で首が飛んだり人が死んだりするんが。そろそろ後任者が来るからそいつに押してもらお思っとったんや」
「君は、船に乗るんかね」久野が言った。
「乗ります」
「わしは乗らん。三十年、一度も乗ったことがない」久野は言った。「机の上で船を出し、机の上で沈める。指揮権のない者の仕事や」
卓の木目を、久野の指がなぞった。爪の先が、少し欠けていた。
「憲兵をお呼びになりますか」
「呼んだら調査が入るやろ」久野は言った。「この局から、また紙が漏れたということになる。もう一度あれをやられたら、経理局は終わりや」
久野は書類函に目をやった。それから、潮崎の顔から目をそらした。
「君の顔も、なんも見てない。そういうことにせぇへんか?」
礼が言えなかった。
この男は正義でもなく、敵でもない。助けられたのではなかった。腐った箇所を、通り抜けただけだ。
潮崎は最後の一行を写し終え、紙を函へ戻した。指の位置まで、元の通りにした。
「
「知っとるよ」久野は言った。「この局には、帳簿に合わん穴が、前から一つ空いとる。君の名も、そこへ紛れ込ませればええだけの話や」
潮崎は、その穴の正体を聞かなかった。知れば、一生忘れられなくなる。
三十分が、終わっていた。
潮崎は懐に手を当てた。手帳が、写した分だけ重い気がした。
*
庁舎の裏手の坂は、風が抜けた。
袴姿の女が待っていた。丸眼鏡が、白く曇っている。待っているというより、そこに立つことを許された者の顔で立っていた。
「美濃部です」女は言った。事務的だった。手袋を外した。
潮崎は手帳の背から、写した分だけを抜き取った。糸の切れる音が、風にまぎれた。差し出すと、女は指先だけで枚数を数えた。数え終えるまで、目を上げなかった。
「ロンドンと、軍務局へ。二系統でよろしいですか」
写しの束に、一瞬だけ目が留まった。数字の並びに、何かを読み取った顔だった。だが、それ以上は聞かなかった。聞かないことも、彼女の仕事のうちだった。
「頼む」潮崎は言った。それから、思い出したように付け足した。「黒石とは連絡とれてますか」
枚数を数える指が、止まった。
「この前、やっと回線が復旧して連絡取れたんです」美濃部の声が変わった。「上海の拠点が襲撃されて、大けがを負ったと聞きました。もう心配で心配で……。でも良くなっているようで何よりです」
丸眼鏡の奥が、急に子どもの目になった。事務屋の顔が、そこだけ剥がれ落ちていた。
「黒石が会ってみたいと言っていたぞ」
「ええ嬉しい。黒石さんの打鍵、とーっても速くて正確無比なんですよ。尊敬しています。私も早く会いたいのです」
言ってから、はっと表情を引き締めた。丸眼鏡の奥が、また元の事務屋の目に戻った。取り繕うにしては、遅すぎる仕草だった。
「おお、そうか……それはよかった」潮崎は言った。「無線電信調査委員会が、黒石の腕に目をつけているらしい。近々また軍に引き戻されるかもな。そうしたら東京で会えるだろう」
「それはまことでございますか?」
声が、また高くなった。取り繕う余裕はなかったらしい。
「あぁ本当だ。だがここだけの話だ。頼んだぞ」
「はい」美濃部は写しを胸に抱いた。「必ず」
女は坂を下りていった。袴の裾が、風で一度だけ膨らんだ。足取りは、来た時よりも速かった。
三夜、無音の周波数を回し続けた男がいる。それを待っていた女がいる。
自分の周波数を待っている者は、いない。それでいいのだと、ずっと思ってきた。今日だけは、そう思い切れなかった。
*
庁舎へ戻る途中、二階の廊下で、もう一度主計課の前を通った。
扉が半分ほど開いていた。
久野が、卓に向かって立っていた。
朱肉の蓋が開いている。函から出した一枚に、判を下ろすところだった。
押せなくなる、と言った男の手だった。迷いがなかった。
潮崎は足を止めなかった。
覚えると押せんようになる、と久野は言った。その名を、今この男は書類に載せている。
偶然かもしれない。だが、こうも考えられた。久野は最初から、誰かに写させるために、判を止めていただけなのかもしれない。
だとすれば、柏木が告げた「三十分」という数字も、最初から誰かに渡されていたものになる。
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